ソユーズ運用リスト1 Soyuz missions 1967-1975


ソユーズはロシアが1967年より現在まで運用を続けている宇宙船である。ここでは過去に行われた有人飛行の概要をまとめておく。

※時刻は日本時間/24時間表記を使用している。
※運用期間は、その宇宙船が飛行していた時間である(クルーのそれとは必ずしも一致しない)。

ソユーズ1号

打上時刻:1967年4月23日09時35分
   形式:7K-OK
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
帰還時刻:1967年4月24日午後0時22分
帰還地点:オルスク市の東65キロ(墜落)
運用期間:1日2時間47分52秒
  クルー:ウラジミール・コマロフ(船長)

概要:
新型宇宙船として期待されているソユーズの輝かしき有人初飛行であったが、欠陥だらけであった。この前に3機のテストが行われたが、1機は射点で爆発、残る2機は打ち上げられたものの制御に失敗。しかしこの年がロシア革命50周年であり、しかもメーデーが迫っていたこともあり、政府上層部の圧力が強かったとされ、結局、コマロフを乗せて打ち上げられたのだった。

打ち上げと周回軌道投入は順調だったが、2枚の太陽電池パネルのうち1枚が展開しないなどの不具合が発生、正常な飛行ができないことが判明した。

そもそもソユーズ1号打ち上げ直後、3人(ワレリ・ビコフスキー、エフゲニー・フルノフ、アレクセイ・エリセイエフ)を乗せた2号が打ち上げられ、軌道上でドッキングし、後者の2人が1号に乗り移るという計画があった。この打ち上げは一旦中止されたが、しかし、レスキューミッションとして急遽打ち上げられることが決まったという。それは、閉じたままの1号の太陽電池を船外活動で展開するというものであった。

しかし1号の飛行はもはや限界で、コマロフは地球を16周したところで帰還オペレーションを実行しようとしたが失敗。姿勢制御が困難で逆噴射が難しかったのは明らかで、17周目でも失敗したが、18周目では成功。宇宙船の分離と帰還モジュールの大気圏突入までは成功し、交信も確立したが、パラシュートの展開がうまくいかず、地上に激突した。2号クルーが早朝受けた第一報が、コマロフの死であった。
詳細はこちらへ http://spacesite.biz/ussrspace6.htm


ソユーズ2号
無人ソユーズ。詳細は3号参照


ソユーズ3号

打上時刻:1968年10月26日17時34分18秒
   形式:7K-OK
    射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
帰還時刻:1968年10月30日午後4時25分03秒
帰還地点:カラガンダ市近郊
運用期間:3日22時間5分45秒
  クルー:ゲオルギー・ベレゴボイ(船長)

概要:
ソユーズ1号事故後、ソ連は無人のソユーズをコスモス186、188、212、213、238として67年末から68年夏にかけてテストを行い、68年10月25日にソユーズ2号を無人で打ち上げた。この翌日に打ち上げられたのがソユーズ3号であり、最初の有人ソユーズ飛行。ソ連のテレビではソユーズ3号の上昇場面と共にその打ち上げが報じられ、合わせて、2号が先に打ち上げられたことも報じられた。

両ソユーズのドッキングが目論まれており、ベレゴボイのソユーズは始め自動操縦、後にマニュアルでアプローチしたが、距離感を失った上、宇宙船を上下逆さまにしたままで接近するなどトラブルに見舞われ、結局達成されなかった。詳しくはこちらへ http://spacesite.biz/ussrspace11.htm


ソユーズ4号

打上時刻:1969年1月17日16時30分00秒
   形式:7K-OK
    射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
帰還時刻:1969年1月17日午後3時50分47秒
帰還地点:カラガンダ市の北西40キロ
運用期間:2日23時間20分47秒
  クルー:ウラジミール・シャタロフ(船長)

概要:5号と合わせて記載


ソユーズ5号

打上時刻:1969年1月15日16時04分57秒
   形式:7K-OK
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
帰還時刻:1969年1月18日午後4時59分12秒
帰還地点:クスタニ市の南西200キロ
運用期間:3日54分15秒
  クルー:ボリス・ボリノフ(船長)
       アレクセイ・エリセイエフ(フライトエンジニア)
       エフゲニー・フルノフ(リサーチエンジニア)

概要:
ソユーズ4号と5号はドッキングと乗員移乗を目的に、立て続けに打ち上げられた。最初に打ち上げられた4号にはシャタロフが一人で、続く5号にはボリノフと、元々“2号”で飛び1号とドッキングするはずだったエリセイエフとフルノフが搭乗した。軌道上では4号がアクティブ側で、5号に100メートルまで自動接近した後、ソフトドッキング、その数分後にハードドッキングを達成した。一連の行動は4号に搭載されていたテレビカメラで撮影された。ちなみに両者の合計重量は13トン弱で、これはアポロCSMよりも軽い。

ドッキングの後、5号から二人が4号へと乗り移ったが、これは宇宙服を着て船外を伝って乗り換えるというものだった。ドッキング装置がトンネル貫通していなかったためである。始めにエリセイエフが、続いてフルノフが4号へと乗り移った。両者が軌道モジュールへ乗り移る様がテレビカメラで撮影されていたが、画質がすごく悪かったという。両者の船外活動は37分で終了した。なお、船外活動の様子を写す写真が殆ど出てこない。スチールカメラでも撮影されたとされるが、誤ってカメラを流してしまったという話もある。ドッキング時間は4時間33分49秒であった。

ソユーズ4号は3人を乗せ、トラブルもなく地上へ帰還したが、ボリノフ1人を乗せた5号は危うく大事故になるところだった。分離するはずの帰還モジュールと機械モジュールが分離せず、“頭”から大気圏突入を始めたのであった。ハッチのシールドが破れる前に両モジュールが分離、本来の突入姿勢になったことで、惨事を免れた。着陸地点は予定よりも600キロも離れた場所で、しかも着地が想定外の衝撃だったため重傷を負っていたが、極寒の地に降りたため暖を求めて近くの集落まで歩いた。詳しくはこちらへ
http://spacesite.biz/ussrspace11.htm


ソユーズ6号

打上時刻:1969年10月11日20時10分00秒
   形式:7K-OK
    射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
帰還時刻:1969年10月16日18時52分47秒
帰還地点:カラガンダ市の北西179キロ
運用期間:4日22時間42分47秒
  クルー:ゲオルギー・ショーニン(船長)
       ワレリ・クバソフ(フライトエンジニア)

概要:8号と合わせて掲載


ソユーズ7号

打上時刻:1969年10月12日19時44分42秒
   形式:7K-OK
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
帰還時刻:1969年10月17日18時25分05秒
帰還地点:カラガンダ市の北西154キロ
運用期間:4日22時間40分23秒
  クルー:アナトリー・フィリップチェンコ(船長)
       ウラジスラフ・ボルコフ(フライトエンジニア)
       ビクトル・ゴルバチコ(リサーチエンジニア)

概要:8号と合わせて掲載


ソユーズ8号

打上時刻:1969年10月13日19時19分09秒
   形式:7K-OK
    射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
帰還時刻:1969年10月18日18時09分58秒
帰還地点:カラガンダ市の北144キロ
運用期間:4日22時間50分49秒
  クルー:ウラジミール・シャタロフ(船長)
       アレクセイ・エリセイエフ(フライトエンジニア)

概要:
ソユーズ6号は7,8号と3機連続の先頭に打ち上げられたためセットと見なされるが、本来、ミッションとしてはソロ活動である。主たる目的は無重力空間での溶接であり、「ブルカン」(Vulcan)と呼ばれる専用装置で3種類(電子ビーム、プラズマアークおよび溶接棒)の溶接実験を行った。しかし減圧していた軌道モジュール内でアークが外へ飛び、モジュールの壁に穴を開ける寸前だったという。クルーは実験中気付かなかったが、作業が終わり軌道モジュールへ入ったところでこの事態に気付き、慌てたという。資料は無事に回収され、持ち帰られた。分析の結果、地上での溶接に遜色ない質だったとされる。

ソユーズ7号の打ち上げは、世間を「6号とドッキングするのだろう」と思わせた。勿論これは誤りで、そもそも6号にはドッキング装置は装着されていなかったのだが、こう思わせた理由としては、7号のミッションが「6号との操船技術の検証」と発表されていたことにある。さらにソユーズ8号が打ち上げられ、3機のソユーズが編隊飛行に入ったことに、世間は驚かされた。

7号と8号はドッキングする予定であったが、自動誘導装置の不調のため、490メートル弱まで接近したところで断念。ドッキングを予定していたこと、それが失敗だったことはもちろん公にされなかったので、世間には結局“不可解な”編隊飛行という印象を与えたのみで終わった。ちなみに両者が接近している間、6号は1.6キロの距離にあった。3機からはお互いの写真を撮ったと伝えられるが、そのようなものは公表されていない。詳しくはこちらへ http://spacesite.biz/ussrspace12.htm


ソユーズ9号

打上時刻:1970年6月2日04時00分00秒
   形式:7K-OK
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
帰還時刻:1970年6月19日20時58分55秒
帰還地点:カラガンダ市の西75キロ
運用期間:17日16時間58分55秒
  クルー:アンドリアン・ニコライエフ(船長)
       ビタリー・セバスチャノフ(フライトエンジニア)

概要:
ロシア宇宙開発史上、初めてと言える長期宇宙滞在ミッション。宇宙長期滞在が身体に与える影響を調査することを主目的とする。合わせて、軌道モジュールの小窓より気象や地上観測なども行われたが、窓の外側がエンジンの噴気で汚れてしまい、それが少々悔やまれたようである。また、カノープスとベガを捉えるタイプの新型ナビのテストも行われた。約17日半を超える飛行時間は、当時の滞在記録レコード(米・ジェミニ7号による16日を超えた)。

医師団からは、筋力の低下などを抑えるため、体を動かすプログラムが与えられていたが、任務が多くそれらを後回しがちになった。ついには管制部から叱られたりもしたが、予定のメニューをこなすことはできなかった。

地上に帰還した際、両者とも自分の力で体を動かすことができないばかりか、物凄い息苦しさと発熱に襲われた。明らかに筋力の低下によるもので、それを防止するエクササイズの重要性が高く認識されることとなった。動けない彼らのため、帰還式典などは後日送りとなった。

ニコライエフは自分の置かれた状態を鑑み、人間の宇宙長期滞在の可能性について非常に悲観的だったという。しかし実のところ、彼の具合の悪さは、運動不足に加え、狭い船内に長期押し込められていたこと、宇宙船に加えられていたスピンなどが関係していたのであった。詳しくはこちらhttp://spacesite.biz/ussrspace12.htm


ソユーズ10号

打上時刻:1971年4月24日08時54分06秒
   形式:7K-OKS
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
帰還時刻:1971年4月26日08時40分00秒
帰還地点:カラガンダ市の北西120キロ
運用期間:1日23時間45分54秒
  クルー:ウラジミール・シャタロフ(船長)
       アレクセイ・エリセイエフ(フライトエンジニア)
       ニコライ・ルカビシニコフ(テストエンジニア)

概要:
71年4月19日、ソ連は最初の軌道科学ステーション「サリュート1号」を打ち上げた。ちなみにサリュートはもともと「ザリャー」(夜明け)と名付けられる予定であったが、中国が同じ意味の言葉を冠した衛星を打ち上げることがわかり、急遽サリュートへ変更された。サリュートとは敬礼の意で、ガガーリン飛行10周年に敬意を表してのもの。変更が急だったため、側面に描かれたザリャーの文字を書き換えることができなかった。

もともと22日に打ち上げられる予定であったが、打ち上げ1分前にアンビリカルタワーのひとつが外れないというトラブルが発生、延期されたのであった。

24日、ソユーズ10号はサリュート1号にドッキングした。それはソフトドッキングで、さらにエンジンを吹かしてハードドックをすることになっていたが、不具合が発生、押し込むことができなくなった。彼らはやむなくサリュートを離れようとしたが、今度は抜けなくなってしまった。軌道モジュールを切り離して帰還することはできたが、そうすると1つしかないドッキングポートが使えなくなる、すなわちその後のサリュートが使用不能になる。彼らは再度、離脱を試みたが、今度は無事に離れることができ、約5時間半並走飛行を行い、サリュートの写真撮影などを行った。

なお、帰還の途中、帰還モジュール内に有毒ガスが拡散し、ルカビシニコフが気を失うという事態が発生したが、それ以上深刻な事態になることはなかった。詳しくはこちらへ http://spacesite.biz/ussrspace13.htm


ソユーズ11号

打上時刻:1971年6月6日16時55分09秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-OKS
帰還時刻:1971年6月30日11時16分52秒
帰還地点:ジェズカズガン市の東200キロ
運用期間:23日18時間21分43秒
  クルー:ゲオルギー・ドブロボルスキー(船長)
       ウラジスラフ・ボルコフ(フライトエンジニア)
       ビクトル・パチャーエフ(テストエンジニア)

概要:
先に打ち上げられたサリュート1号にハードドッキングし、史上初の宇宙ステーション活動を行った。クルーは元々、アレクセイ・レオーノフ、ワレリ・クバソフ、ピョートル・コローディンの3名であったが、打ち上げ1週間前、クバソフの肺に問題が見つかり、全員がバックアップクルーに置き換えられたのであった。

打ち上げとドッキングの成功、長期滞在開始が発表されると、西側メディアは「6週間の“宇宙ホテル”滞在開始」などと報じたが、ソ連は25〜30日間のミッションを予定。ソユーズ9号の記録を更新したところで、23日間で終了した。ソ連はサリュート+ソユーズが20メートルを超え、活動面積は100平方メートルに達すると報じたが、重量はアポロ宇宙船(CSM+LM)よりも軽かった。

軌道上では天体観測や気象観測を始め、各種生物学的実験なども行われ、成果を出した。ソ連国内テレビでは連日、クルーからのレポートが行われ、国民の関心は非常に高まっていた。表面上はこのようにうまくっているように見えたミッションだったが、しかし、クルーの間ではトラブルが絶えなかった。

6月30日、ソユーズ11号に戻った彼らはハッチを閉じ、帰還の途についた。ただ一点、大気圏突入時のブラックアウト後に交信が回復しないことを除いて、すべて順調。帰還モジュールは予定地点に着陸、ミッションは成功裏に終わるかと思われたが、回収部隊がハッチを開けると全員死んでいた。これはまもなく世界へ向けて報じられたが、日本では夕刊にギリギリ間に合ったものの、大見出しと事実を一言伝えたのみだった。

当初は「長期宇宙滞在による無重力環境から、急激な重力負荷に変化したことに体が耐えられずに絶命したのではないか」という説がでたが、まもなく窒息であったことが判明。その後の分析により、気密漏れが原因であると断定された。サリュート1号は後日、誘導落下された。詳しくはこちらへ
http://spacesite.biz/ussrspace14.htm


ソユーズ12号

打上時刻:1973年9月27日21時18分16秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:29日20時33分48秒
帰還地点:カラガンダ市の南西396キロ
運用期間:1日23時間15分32秒
  クルー:ワシリー・ラザレフ(船長)
       オレグ・マカロフ(フライトエンジニア)

概要:
ソユーズ11号事故を受け、改良したソユーズ宇宙船(7K-T)による初飛行は、2年ぶりのものであった。この間米国はアポロ計画を終わらせ、スカイラブ計画に入っていた。

それまでのソユーズと大きく異なるのは、船内でも宇宙服を着用するという安全策を施したことだった。そのための装置が追加されたため、乗員は2名に制限。また、サリュートとの往復に特化したため(いわばソユーズタクシー)、単独飛行は2日ほどでよく、すなわち電源はバッテリー駆動で十分なため、太陽電池パネルが外された。72年の6月にはコスモス496の名称でテスト飛行が行われ、この年の7月にはサリュート2号が打ち上げられたが、このサリュートは失敗。73年4月に再度サリュート2号が打ち上げられたがうまくいかず、翌月、サリュート3号になるはずのステーションが打ち上げられたが、これも失敗した。つまり、ソユーズ12号が打ち上げられた時点ではまだサリュートは軌道上になかった。

ソユーズ12号が打ち上げられた際、ソ連は「飛行期間は2日間である」と明言したが、これは(早期期間を)失敗ミッションと勘違いされないための策であった。飛行中は地上の撮影や、モルニア1号通信衛星を介した地上管制部との交信テストなどが行われた。この成功は、ソユーズ宇宙船の復活を意味するものとなった。


ソユーズ13号

打上時刻:1973年12月18日20時55分00秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1973年12月26日17時50分35秒
帰還地点:カラガンダ市の南西198キロ
運用期間:7日20時間55分35秒
  クルー:ピョートル・クリムク(船長)
       ワレンティン・レベデフ(フライトエンジニア)

概要:
軌道モジュールの先端に(ドッキング機構の代わりに)、望遠鏡「オリオン2」を搭載した、初の本格科学ミッションソユーズ。また、タンパク質実験機「オアシス2」も搭載されていてが、これはオリオンと併せてそもそもサリュートに載せられるものだった。また、これは現在のツープ管制部(コロリョフ市)から管制が行われた初のミッションであった。

正規クルーはそもそもレフ・ボロビョフおよびワレリ・ヤツドフスキー、バックアップクルーがピョートル・クリムクおよびビタリー・セバスチャノフであったが、セバスチャノフがレベデフに変更された(セバスチャノフの健康問題のため)。ところが打ち上げの数日前になり、正規クルーの相性に問題があることが判明、バックアップが飛ぶことになったのであった。この決定に正規クルーの2人は憤り、しばしば愚痴をこぼしたため、クルー選考側に悪印象を与えることになったとされる(この2人が飛ぶことはこの後もなかった)。

ちなみにこのミッション期間中、米スカイラブ4号でも活動が行われており、軌道上で米露が同時に宇宙滞在をしていた最初の機会となった。


ソユーズ14号

打上時刻:1974年7月4日06時51分08秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1974年7月19日21時21分36秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東140キロ
運用期間:15日17時間30分28秒
  クルー:パベル・ポポビッチ(船長)
       ユーリ・アチューキン(フライトエンジニア)

概要:
74年6月24日、サリュート3号が打ち上げられたが、これは軍用に開発された軌道ステーション「アルマズ」。ちなみに先に打ち上げられて失敗したサリュート2号もアルマズ。世界にはサリュートの名で出し敢えて科学ステーションであることをカモフラージュしたが、通信に使われる周波数が軍用であることから科学でないことがばれた。

軌道上での彼らの活動は医学的実験や観察に加え、かなりの部分が軍事的活動(偵察など)に当てられたといわれているが、詳細は不明。伝えられるところによると、仕事に8時間、そして運動等に8時間、そして睡眠といった具合に8時間区切りで活動が厳しく管理されていたともいわれている。

ソ連初の宇宙ステーション成功ミッションであったのに、軍用故にその行動が殆ど公表されなかったのは惜しい。


ソユーズ15号

打上時刻:1974年8月27日04時58分05秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1974年8月29日05時10分16秒
帰還地点:ツェリノグラード市の南西48キロ
運用期間:2日0時間12分11秒
  クルー:ゲンナジー・サラファノフ(船長)
       レフ・デミン(フライトエンジニア)

概要:
14号クルーに引き続き、サリュート3号滞在クルーとして打ち上げられた。軌道投入そしてアプローチは順調であったが、最終段階において自動誘導システムの不調で速度が速すぎ、ドッキングができなかった(本来ドッキングするべき時刻に、ソユーズとサリュートの距離は112キロも離れてしまっていた)。クルーの報告によると、エンジンを逆噴射する格好で吹いてしまい、その結果増速してしまったという。残存燃料とバッテリーの関係でもはやドッキングは不可能となり、やむなく帰還することになった。緊急的帰還であったので、夜間着陸となった。

これは自動誘導システム「Igla」の不調が原因であったことが後で判明したが、責任はクルーに押しつけられた(実際、この後両者が再度宇宙を飛ぶことはなかった)。翌年、アポロ・ソユーズテストプログラム(ASTP)が控えていることもあり、ソ連はこの15号ミッションを「有人による無人補給船のテスト飛行である」と主張、夜間着陸を「予定されていた着陸だった」とまで述べた。

1999年になって、詳細が明らかになった。Iglaシステムに不具合が生じ、サリュートに350メートルまで接近した際、Iglaは「距離20キロ」と誤認、エンジンの吹かし方を誤ったのであった。クルーの経験不足がこれに対処できず、結果それは彼らのミスとして処理されてしまったという。

ちなみにサリュート3号には新たなクルーが向かう構想があったが、この時点でソユーズ宇宙船の在庫がなかったため、その話は流れた。サリュート3号も同4号の軌道投入成功と入れ替えに、75年1月、誘導落下された。


ソユーズ16号

打上時刻:1974年12月2日18時40分00秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-TM
帰還時刻:1974年12月8日17時3分35秒
帰還地点:ジェズカズガン市の北30キロ
運用期間:5日22時間23分35秒
  クルー:アナトリー・フィリップチェンコ(船長)
       ニコライ・ルカビシニコフ(フライトエンジニア)

概要:
3年に渡る米ソの協議の結果、両者の宇宙船(ソユーズとアポロ)が軌道上でドッキング(ASTP)することが正式決定された。それは1975年7月にセットされ、ソ連はこのために特製のソユーズを用意したが、それが7K-TMタイプである(ただし特製とはいってもマイナーチェンジではあるが)。無人のテスト機をコスモス638と同672の名称で飛ばし、これに続いて飛行士が乗り込んで打ち上げられたのがソユーズ16号であった。これは何の予告もなく突然の発表で世界に報じられたため、米国も驚いたといわれる。

投入軌道は当初、ASTPで予定されているそれよりも高い軌道であったが、徐々に高度を下げていった。これは誘導システムのテストを兼ねていたという。ドッキング装置にはアポロで使用されているものが装着されていたが、その動作確認が行われ、また、キャビンの酸素・窒素混合比をアポロ仕様に調整するなどのテストが行われた。

予定されていた試験はすべて完璧に実行され、好結果が得られた。先に失敗していたサリュートやソユーズ15号で生じていた米国側の懸念を払拭するには充分であった。


ソユーズ17号

打上時刻:1975年1月12日06時43分37秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1975年2月9日20時03分22秒
帰還地点:ツェリノグラード市の北東110キロ
運用期間:29日13時間19分45秒
  クルー:アレクセイ・グバレフ(船長)
       ゲオルギー・グレチェコ(フライトエンジニア)

概要:
ソ連は74年12月26日にサリュート4号を打ち上げ、軌道投入に成功した。ソユーズ17号はこのサリュートに最初に滞在するクルーを打ち上げたのである。両名はルーキーであった。面白いことに、ドッキングしてハッチを開けると、目の前に、「足を拭いて入れ」というメモが貼ってあったという。

サリュート4号には7つの天体観測、8つの医学そして少なくとも6つの工学的実験器具が備えられていたという。クルーの日常はとても忙しく、グレチェコの移動距離は通算4.8キロに達したとされている。飛行期間である29日13時間19分45秒は当時のソ連宇宙飛行記録。


ソユーズ18-1

打上時刻:1975年4月5日20時04分54秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1975年4月5日20時26分21秒
帰還地点:アルタイ山脈 ゴルノ−アルタイスクの南西の山腹(緊急帰還)
運用期間:21分27秒
  クルー:ワシリー・ラザーレフ(船長)
       オレグ・マカロフ(フライトエンジニア)

概要:
サリュート4号第2次滞在クルーとして打ち上げられ、目的は3ヶ月に達する宇宙滞在であった。打ち上げ準備そしてリフトオフは予定通りであったが、第2段コアブースターが分離せず、軌道に達することができなかった。ソユーズ宇宙船は高度192キロで分離し、地上へ帰還した。ただそれは緊急帰還であり、彼らが受けたGは20Gを超えるものだったという。またコースから考えて、中国領へ着陸する可能性も懸念されたが、それは回避された。着陸地点は雪深く斜面の急な山腹で、パラシュートが木に引っかかって止まるまでに150メートルほど転げ落ちたとされる。

帰還モジュールから出たクルーは、中国領に着陸してしまった場合に備え、所持していた軍事関連の機密文書を焼いた。ほどなく回収部隊と無線が通じ、自分たちがソ連領に着陸したことを知ったという。救助は翌日、ヘリでつり上げられる格好で行われ、モジュールの回収はさらに後日行われた。弾道飛行としては史上最長、ソ連の有人飛行史では最短の宇宙飛行となった。なお、着陸地点はモンゴルだったという異説もあるが真偽は定かでない。

当時、ASTPが目前に迫っていたこともあり、ソ連にしては珍しく、この失敗は直ちに米国へと伝えられた。その際、打ち上げロケットが(ASTPで使用されるものに対し)古いタイプであったと説明された。詳しくはこちらへ
http://spacesite.biz/ussrspace16.htm


ソユーズ18号

打上時刻:1975年5月24日23時58分10秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1975年7月26日23時18分18秒
帰還地点:アルカリク市の北東54キロ
運用期間:62日23時間20分08秒
  クルー:ピョートル・クリムク(船長)
       ビタリー・セバスチャノフ(フライトエンジニア)

概要:
ソユーズ18-1の失敗飛行から間を開けず、ソ連は再度宇宙船を打ち上げ、成功、公式のソユーズ18号ミッションとなった。クルーは18-1のバックアップであった者たち。彼らは各種実験などで多忙だったが、中でも時間を費やされたのは6月8日から11日にかけて行われた地上撮影であった。この間2000ショットを超える撮影が行われ、資源などの分布が事細かにわかったとセバスチャノフは語っている。

不調だったサリュート4号の宇宙線検出器が修理され、また、太陽望遠鏡で600ショットを超える太陽撮影が実行された。

7月3日、ASTPミッション期間中も滞在を継続することが発表された。すなわち2つの宇宙飛行ミッションを同時に行うことになったため、混乱を避ける一環として、ソユーズ18号の管制部をクリミアに移し、ASTPをカリーニングラード(現・コロリョフ市)のツープで行うことになった。クリミアはソユーズ11号の管制まで使われていた施設である。ASTPのソユーズ19号が打ち上げられると、サリュートクルーは彼らと短時間ではあったが交信した。米ソ併せて7人の飛行士が軌道上にいたのは、1969年のソユーズ6〜8号以来。

サリュートの内部は7月までに痛みが進み、長期滞在は難しくなっていた。彼らは60日を超える滞在を終え、7月26日に帰還。その模様はテレビで放映され、ASTPの一環で情報公開を行っていることがアピールされた。彼らは自らの力でモジュールから出て、体力がそう衰えていないことをアピールしたが、実際は、重力に適応するまで1週間近くかかったと伝えられている。彼らは同室に収容されベッドの上で経過観察が行われたが、あるときクリムクが目を覚ますと、隣のセバスチャノフは(無重力状態で寝ている人間のように)両手を宙に投げ出して眠っていたと語っている(ジョーク?)。


ソユーズ19号

打上時刻:1975年7月15日21時20分
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-TM
帰還時刻:1975年7月21日19時50分
帰還地点:アルカリク市の北東86キロ
運用期間:5日22時間30分51秒
  クルー:アレクセイ・レオーノフ(船長)
       ワレリ・クバソフ(フライトエンジニア)

概要:
冷戦下において、米ソ・スーパーパワーどうしが軌道上でドッキングするという歴史的「アポロ・ソユーズ・テスト・プロジェクト」(ASTP)ミッションに臨んだ、ソ連側の宇宙船である。第1番射点から30キロ離れた第31番射点には予備のソユーズが燃料満載で立って備えるという念の入れようであり、打ち上げはライブで中継された。その7時間半後、米国のアポロ18号がトーマス・スタッフォード、バンス・ブランド、ドナルド・スレイトンを乗せて打ち上げられた。

両者がドッキングしたのは17日01時19分09秒で、ハッチを開け、レオーノフとスタッフォードが握手をしたのはオランダ上空であった。クルーらは互いの宇宙船を訪問し、米フォード大統領そしてソ連ブレジネフ書記長にテレビ中継を通じて表敬挨拶を行った。また、ブランドがソユーズからロシア語で、テレビの前のソ連国民にロシア語で挨拶も行った。レオーノフはアポロ側で5時間43分、クバソフは4時間47分を過ごした。ソユーズ19号の帰還もライブで中継され、歴史的ミッションに幕を閉じた。

7月25日、アポロ18号が地球に帰還し、米国は有人宇宙飛行にしばしの別れを告げた。ちなみに、米国がスペースシャトルで宇宙飛行を再開して以後にシャトルとサリュートをドッキングさせる構想もあった。しかし1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻で両国間は再度冷え切り、幻と消えたのであった。

次へ