男の友情

1966年1月。ソ連の宇宙開発を主導していたコロリョフの死は、現場を大混乱に陥れた。彼の存在は、あまりにも大き過ぎた…ライバルであったグルシュコが彼の死をどう感じたかはわからないが、そう急に、彼の力で収拾できるものではなかった。

しばらくの混乱の後、第一設計局の長として、長年コロリョフと行動を共にしてきたバシーリ・ミーシン(Vasili Pavlovich Mishin)が任命された。彼はコロリョフがドイツに視察に赴いた際(開発史(4)参照)からの盟友で、コロリョフの主席補佐を務めてきた。技術者としての力も強く、R−7ロケットを作り上げたのは、実質彼だとまで言われる。

当時、ソ連の宇宙開発は行き詰まりを見せていた。1965年のウォスホート2号の飛行が危機一髪だらけであったことから、同型の宇宙船への信頼性が揺らぎ、その後の計画が疑問視されていた。ミーシンの初仕事は、それらを正式にキャンセルすることだった。後のウォスホート飛行では、人工重力の実験や、女性だけのクルー、ジャーナリストのみを乗せた飛行などが企画されていたが、それらは全て幻に終わった。

そもそもミーシンには、ウォスホートに気を取られず、新型宇宙船「ソユーズ」の開発を急ぐべきだという考えがあった。なぜなら勿論、米国の追い上げが凄まじかったからである。米国は2人乗りの新型宇宙船「ジェミニ」を立て続けに打ち上げ、近接飛行(ランデブー)や船外活動(宇宙遊泳)を難なくやってのけた。ソ連政府及び現場は、確実に焦りを感じていた。


ソユーズは、それまでのボストークやボスホートと違い、クルーの意志で自由に飛行高度や姿勢を制御することができる。それはランデブーや船どうしのドッキングには不可欠な能力で、その後の宇宙開発のためには避けて通れないものだった。

開発開始から5年ほど経った1966年、テスト飛行にこぎ着けようとしていた。シナリオとして、「まず無人のソユーズを2機たて続けに打ち上げ、周回軌道上でドッキング、その後切り離し、双方の帰還カプセルを無事に帰還させる。その後、有人で飛行を行い、クルーの一部が乗り移る」というものが設定された。

ここで、ソユーズに関してごく簡単にまとめておこう。写真は最初期のソユーズの外観である。全体は3つのパートよりなり、先端(左端)の球形部を「軌道モジュール」、後方の翼のように広がった太陽電池が固定されている部分を「推進モジュール」、そして両者間の、ヤカンの取っ手と注ぎ口を外したような形の部分を「帰還モジュール」という。

クルーは通常この帰還モジュールに乗り込み、周回軌道上での各種実験などを軌道モジュールで行う。太陽電池は、打ち上げ時は折りたたまれており、軌道上で展開する。地上へ帰還するのは帰還モジュールだけで、その他は廃棄される。

なお、このソユーズは改良型のR−7ロケットの先端にセットされ、軌道上へ打ち上げられる。この姿は、多少の細部の変化はあるが、現在も変わっていない。ある意味“完成された形”だが、当時は様々な面で“完成された”にはほど遠かった。「クルーの制御による運動能力がある」とはいえ、高度に自動化されており、ドッキングなど、キーとなる行動は自動化が基本だった。

だが“高度に自動化”というと聞こえがよいが、裏を返すと、クルーを信頼していないということだ。これはそれまでのソ連の有人機でもそうであった。「人間は間違いを犯す」という信念が根強かったため、重要なコントロールは全て地上からの信号で行うように設計させていた(勿論、非常時用にマニュアルモードは設置されていたが)。それ故システムにも問題が多かった。当時の、突貫の、しかもソ連の技術である。未熟な部分が多すぎ、不安定さはかなり残っていた。ちなみに米国は逆で、ジェミニ宇宙船ではクルーにかなりの自由度が与えられていた。

また、平行して、最初に乗り込むクルーの選択も進んでいた。1966年秋までに、記念すべきソユーズ1号の搭乗員としてウラジミール・コマロフ、そのバックアップ(予備クルー)としてユーリ・ガガーリンが決定された。ガガーリンとは勿論、人類初の宇宙飛行を行った彼だ。また、続けて打ち上げられる2号には3人の飛行士とそのバックアップ要員達が選別された。

ちなみに飛行士達の訓練の責任者、まあいうなら監督は、ニコライ・カマーニンという男だった(写真)。コロリョフやグルシュコ、ミーシンといった文民エンジニア達と異なり、彼はソ連邦空軍に所属する軍人。というのも、飛行士達は基本的に空軍所属の軍人であり、彼らの管理は軍が行うという政府の方針だったからだ。「宇宙開発はあくまで軍部主導」がここにも色濃くでている。

しかしこれはまた、カマーニンに強いストレスを強いることでもあった。彼の仕事は飛行士を訓練すること、そして、コロリョフと喧嘩をすることだった。コロリョフの非軍事的な要求と、自身の軍内での立場との狭間に常にたたされていた。

そんな彼の、ある意味唯一の不満のはけ口は、日記だった。彼はマメな男だったようで、自分が見聞きしたことを、事つぶさに書き留めている。この日記は今日『カマーニン・ダイアリー』と呼ばれ、ソ連宇宙開発史研究家の間では確度の高い、極めて重要な資料と見なされている。


1966年11月25日、2機の無人機によるドッキング計画が委員会で承認され、同28日、マネキンを乗せた1機目が打ち上げられた。公式にはコスモス133号と命名されたが勿論、ソユーズである。「…我々は今や、この4年間待ち望んでいたことに向かい合おうとしている。今日、そして明日、宇宙計画に未来をもたらす打ち上げに立ち会うのだ…」カマーニンは日記にこう記している

しかし、打ち上げ早々、トラブルが発生した。周回軌道に達した直後、姿勢を制御するための小型ロケットエンジンが異常燃焼を始めたのだ。これは15分も続き、本来使うべきだった燃料の殆どが底をついてしまった。もはや、2機のドッキングという精密な誘導はできない。この段階で後続機の打ち上げは中止され、コスモス133の帰還モジュールを無事に取り戻すことに力が注がれることになった。

だが、悪いことは続く。姿勢制御に別の小型エンジンを併用しようとしたが、それが指示した方向と逆に宇宙船を向けてしまうことが判明したのだ。笑うに笑えない欠陥とは、このことである。

漂流を続けるコスモス133であったが、どうにか軌道を制御し、帰還モジュールを大気圏に突入させることに成功した。しかりそれもつかの間、ソ連領を飛び越え、中国に着地するコースを辿っていることが判明。やむなく、内蔵されていた爆薬に信号が送られた。

12月14日、残されていたもう1機が発射台に立った。勿論、欠陥を修正してのことだったが、R−7エンジンに点火した直後、まだ発射台から浮き上がる間もなく、エンジンが急停止した。大量の水が自動的にぶっかけられ、発射台は水浸しとなってしまった。

火は完全に消えている…技術者達がゾロゾロと近寄り、何が起こったのか調べようとした矢先、突如、先端の緊急脱出ロケットが起動、轟音と共にソユーズを切り離し、飛び去ってしまった。この脱出ロケットは、R−7ロケットの上昇中に異常が発生した場合、ソユーズを切り離し、クルーごと離れた場所へ避難させるためのものだ。しかも、脱出ロケットの炎がR−7本体に燃え移っていた。本来あり得ないはずのことが起きてしまったのだ!

(写真は現代のソユーズTMA打ち上げロケットで、ソユーズ本体は白い部分に入っている。先端に装着されようとしているのが緊急脱出ロケット(エスケープタワー)で、非常の際はこれが起動し、白い部分全体を持ち上げて飛び去る。【photo:Energia】)

我先に誰もが走った。非常用の退避壕を目がけて、皆それは一目散だったという。ロケットは炎に包まれ、爆発は間もなくだった。

ちょうどその時、発射台から約700m程離れたところの建物に、カマーニンはいた。脱出ロケットの音を聞いたとき、2階にいた彼は外へ飛び出した。今度は3階に上がり、窓の外に顔を向けた時、ロケット上段が炎に包まれているのを見て、部屋にいる全員に対し廊下にすぐ出るように指示した。

直後、ロケットは大爆発を起こした。発射台もろとも吹き飛ばしてしまったが、犠牲者が1人で押さえられたのが救いだったかもしれない。カマーニンはこう記録している。

「…私が振り返ると、ロケットは大爆発を起こした。2、3秒ほどたってだろうか、衝撃波が窓ガラスを吹き飛ばした。後で部屋に入ると、破片は反対側の壁にまで突き刺さっていた。最後に部屋を出たのは、私だった。あと数秒遅かったら、私はガラスの破片で串刺しになっていただろう…」

更なるテスト機を飛ばすことになった。それはコスモス140と名付けられたが、発射台の変更等に伴う作業の遅延から大幅に遅れることになった。1967年2月7日、それは打ち上げられたが、もう、細々したトラブルが相変わらず多く、ここでは記さない。帰還モジュールはどうにか大気圏突入を果たし、パラシュートで着地したが、そこは中央アジアの内陸湖であるアラル海だった。しかも、沈んでしまったのだ!本来、気密が保たれているはずなのに。どこかに穴が開いており、浸水したのは間違いなかった。

引き上げて(引き上げ自体も難航したが)調査したところ、やはり穴が開いていた。耐熱シールドの固定に欠陥があり、そこがやられていたのだ。もしマネキンでなく人間が乗っていたら、確実に死んでいるところだった。

2月16日、コスモス140の結果も含めて、有人飛行への協議が行われた。更なるテスト飛行が必要ということは誰にもわかっていたが、しかし、「穴の件は改修できるし、それ以外はクルーが乗っていたらうまく回避できるものばかりだ」という結論が引き出されてしまった。カマーニンは「45日ほどあれば、飛行士の訓練は全うできる」とまで発言している。

そもそも彼は、全自動化に反対だった。その気持ちもわからなくない。飛行士を育成する監督は彼だ。その彼らを信用しない、というのと同じだからだ。

こうして、「次回は有人で」ということになってしまった。この件について、2002年4月、当時の技術者でウォスホート1号に搭乗した(開発史2参照)コンスタンティン・フェオクチトフ氏は新聞社の取材に対しこう語っている。

「あの時反対したのは1人だけだった。しかし、我々は急いでいた。4月に打ち上げ、5月のメーデーに花を添えることができるからだ…」

旧ソ連は労働者の日であるメーデーを盛大に祝っていた。しかもこの1967年という年は、ロシア革命50周年にあたる年でもあった…コマロフらの訓練が、開始された。


ウラジミール・コマロフは1927年3月16日、モスクワで生まれた。15歳で飛行機を操縦したといい、大学で航空学を専攻して後、空軍に入隊した。当初、戦闘機のテストパイロットとして訓練を受けていたが、やがて宇宙飛行士チームに配属され、ガガーリンらと共に過ごすことになった。

しかし、彼にはなかなか飛行のチャンスが巡ってこなかった。候補にはあがってもバックアップで、彼自身の初飛行となる予定だったボストーク7号は、計画そのものが打ち切られてしまった。ただ、その直後のウォスホート1号に搭乗する3人クルーの1人となり、船長に選ばれている(開発史2参照)。

コマロフ(写真右)とガガーリン(左)は、特に気があう、親友同士であった。この若き宇宙飛行士達はお互い気遣い、尊敬しあっていた。共に妻帯者で、家族ぐるみのつき合いをしていた。

カマーニンの日記には、有人打ち上げ決定の前後の、各飛行士達の発言や心情は綴られていないとされている。ただ、それまでのテスト飛行の結果が、飛行士達に多大な不安を与えていたのは、想像に難くない。

3月25日、打ち上げに関する会合が開かれた。政府関係者を交えてのそれは、単なる形式的なものであった。懸念や不安を表明する場ではもはやなかった。

「我々は、完璧にミッションを遂行する自身に満ちています…」

カマーニンはそう報告したが、それは義務的なものだった。

印象的なのは、彼の『日記』 4月15日付けに記された心情である。

「個人的には、今回の打ち上げに確固とした自信を持つことができない。これから先、準備が滞りなく行われるかどうかということである。かといって、打ち上げに反対すべき理由も見つけられない。これまでの打ち上げ全てにおいて我々は、成功への確信が持てていた。しかし今回は、そのような自信がない…。」

「これが意味するところは、有人宇宙開発を遂行するにおける強い信条と、そして、コロリョフのエナジーが不在であるということだ。ミーシンはコロリョフに遠く及ばないだけでなく、任務を無駄にし、エラーを重ね、人々に惨めさを味わせるだけなのだ…」

赤裸々な独白が意味するところ…それは、立場が違い、喧嘩もしたが、結局彼もまた、コロリョフに甘えている部分が多かったということだろう。日記にぶちまけられた隠しきれない不安とミーシンに対する憤りがそれを際だたせている。

機体は完璧ではない。現場は誰もが、不安で一杯だった。

もし、コロリョフが生きていたら…党に直談判し、更なるテストを要求していた、かもしれない…しかし、その人はもういない。

しかも飛行士達の訓練は、実際は、完璧にはほど遠かった。全行程の半分も消化していなかったという話もある。この状況にガガーリンが「彼は疲れている。飛行できる状態ではないから、休暇をやってくれないか」と詰め寄ったとも言われている。

しかし、コマロフが飛べないのなら、バックアップのガガーリンが飛ぶことになるのは間違いなかった…ガガーリンは、自分を犠牲にしてコマロフを守ろうとしたのだろうか?(写真:訓練中のコマロフ(右)。左はガガーリン)

4月22日、設計局長ミーシンは、関係者を集め、打ち上げの前祝いを行った。それは慣例のものだったが、式が終わってだいぶ後、飛行士達を集め、彼は語った。

「たぶん、ソユーズ2号の打ち上げは中止される。センサーも太陽電池も完全ではない…」

続けて、カマーニンがコマロフに告げた。

「最大の目標は、無事に帰ってくることだ。ドッキングと搭乗員の乗り移りはその次でいい。いや、そんなものはどうでもいい。ソユーズ1号だけで、まだ203ヶ所の欠陥がある…」

コマロフは沈黙し、顔をこわばらせ、明らかに鬱めいた表情になってしまった。だが打ち上げ当日の翌23日、発射場までの車中、歌い、ジョークを飛ばしていたという…。


1967年4月23日、コマロフを乗せたソユーズ1号が打ち上げられた。飛行は順調で、9分後無事に周回軌道に達した。なお、発射から25分後、彼の妻に無事打ち上げられたことが連絡された。しかし彼女は、今日が飛行の日だとは、彼からは事前に聞いていなかったという…無言のまま旅立った彼の心中を推し量ることはできない。

軌道に達した直後、地上管制部は、ソユーズの左の太陽電池パネルが展開していないことに気づいた。また、通信系統にも異常があり、コマロフとの交信はソ連領上空を飛行している間しか確立しないことが判明した。

更に、姿勢制御のセンサーや、小型エンジンも不完全であることがわかった。つまり、懸念されていた殆どが、再び繰り返されたのだ。しかもマネキンでなく、人間が乗っている!こうなることはわかっていたのに…

特に、太陽電池が展開しないのは痛かった。電力が充分に賄えないため、内蔵されているバッテリーへの充電が満足に行えない。ソユーズは約90分で地球を1周していたが、そのうち半分は太陽の光が当たらない側を飛行している。つまりこの間は、殆ど何の操作も行えないことになるのだ。

コマロフは何とか、宇宙船の姿勢を保とうと必死だった。宇宙空間で上下左右に回転する機体。彼は、閉じたままの電池パネルを展開しようと、カプセルの壁に体当たりしたとも伝えられる。また、頻繁に座席を移動し、全体の重心を移すことで機体を安定化させようとした。

一方、管制部は、後続のソユーズ2号の打ち上げ中止を求めた。しかし国家委員会の答えは「ニエット」(露語でNO)だった。委員会は打ち上げ準備を続けるよう、また、1号を早く正常に戻すよう、要求した。周回7周目から13周目にかけて、完全に交信可能領域から外れるため、管制部はコマロフに一眠りするように指示した。しかし、彼は多分一睡もしなかっただろう。

彼は、考えられること全てを試した。管制部も全力を尽くした。だが、機体が安定しない、言うことをきかない。電池パネルも展開しない。国家委員会はここへきてやっと、2号の打ち上げキャンセルと、1号の帰還を決定した。全てが、彼の救出へと動き始めた。

丸1日が経過しようとしていた。誰も、一睡もしていなかった。15周目に入る頃、コマロフに指示を出したのは、あのガガーリンだった。その後、彼がコマロフと交信することになった。コマロフがどう感じたかはわからないが、親友の声は大きな支えになったに違いない。数時間後に巡ってくる、19周目が、帰還する最後のチャンスだった。もう、バッテリーが持たなかった。


コマロフの、最後の闘いが始まった。誇り高きジェットファイターの相手は、イカれたボロ船と、迫りくる濃厚な大気だった。彼は、逆噴射エンジンを制御した。全てはマニュアルで行われた。帰還モジュールは無事切り離され、大気圏へ再突入した。この間、通信は途絶える。管制部は、固唾を飲んで見守った。

暫く後、通信が再び回復したとき、彼の声は冷静沈着だったという。一瞬であれ、管制部は喝采したに違いない。ガガーリンの笑顔が思い浮かぶ。最大の難関である大気圏突入をやり遂げたのだ。ただ、通信可能領域からやがて外れたため、着地間際の様子はわからない。皆、最後の期待をかけた。「ひょっとしたら、着地は成功したんじゃないか?」救助ヘリが現場へ急行した。

しかし、その望みは儚いものとなった。「機体は炎上している。救急隊を要請する」現場からそんな連絡が伝えられた。やがて、燃え上がる機体は消し止められ、捜索が始まった。1時間かそこらの後、コマロフの体の一部と思われるものが発見された。また、離れた所に、パラシュートが散らばっていた。後の調査で、パラシュートは出たものの、もつれたため開かなかったことが判明した。

コマロフの死は、多くの、いわゆる「都市伝説」(架空の物語)を生んだ。「最後の叫びがアメリカの機関に傍受された」とか、「俺は殺された」と交信していたとか、そんな類である。しかしそれらは、当時の状況から判断して否定されている。だがここに、興味深い証言がある。90年代の終わり頃、かつてガガーリンに近い立場にあったという元KGB要員が証言したものなのだが…

「…飛行の1ヶ月前、コマロフは私と私の妻を食事に招待した。彼はその席上、「今度の飛行では私は生還できないと思う。しかしここで私が降りれば、代役のガガーリンが飛行しなければならない。彼は、守らねばならない」と語った。数日後(そのKGB要員は)一通の封筒を受け取った。それは、飛行を差し止めるよう、ガガーリンが飛行士達に募った署名で、ブレジネフ書記長宛だった。結局飛行は行われ、コマロフは死んだ訳だが、ガガーリンは大いに悲しみ、書記長に直に抗議に行くと言い残して立ち去った…」

というものだが、真偽はわからない。ガガーリンとブレジネフが会ったかさえ、誰も知らないと言われる。「面会した彼は、グラスの水をブレジネフの顔にかけた」という話もあるが…これこそフェイクだろう。水ではなく、シャンパンという話もあるほどだ。

ただ、ソユーズは欠陥だらけだったこと、コマロフは死んだこと、彼とガガーリンの間には堅い友情があったことだけは確かである。

【Reference】 どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
Encyclopedia Astronautica  http://www.astronautix.com/
New revealtions about Gagarin's death” http://users.libero.it/luca.space/WHATIF.HTM 
Soyuz” by Rex D. Hall & David J. Shayler, Springer Praxis, 2003
Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
「月を目指した二人の科学者」 的川泰宣 著 中公新書(1566), 2000