運命のいたずら(上)

長期宇宙滞在を目論み、また、初の宇宙ステーションまでの間を埋めるため、“目立つもの”として飛行を続けるソユーズ9号(前号参照)。飛行開始から7日目には、搭乗していたアンドリアン・ニコライエフ飛行士(写真)の妻で、自身、史上初の女性飛行士であるワレンティナ・テレシコワが、娘と共に管制部を訪れ、夫らを励ました。17日目にはそれまで米国が保持していた滞在記録・17日を破ったが、飛行士らに疲労が目立ち始めていたのも事実だった。

(因みに、ニコライエフには1962年、ボストーク3号で4日間飛行という経験があり、それを加味しての選抜。1963年、テレシコワと結婚、“スペースカップル”の誕生と持て囃されるが、82年離婚。2004年7月3日、スポーツ大会での審判中、心臓発作で死去・74歳)


6月19日、ソユーズ9号は帰還の途に就いた。地上では前日から準備に入っており、全ての作業は滞りなく行われていた。

ニコライエフは逆噴射エンジンが作動したことを報告した。彼らが乗ったカプセルは無事切り離され、地上を目指した。大気圏突入も問題なく、レーダーがカプセルを捉えた。所定の高度でパラシュートが展開し、待機していた2機のヘリコプターはその姿を確認、追跡を開始した。

着地の直前、カプセルの底に装着された逆噴射エンジンが閃光と共に点火、着地の衝撃を和らげた。これはウォスホート1号の飛行以来、今日まで採られているやり方である(開発史2参照)。パラシュートは宙を舞うようにヒラヒラと地表に覆い被さった。現場には係員が駆けつけ、カプセルの周囲を取り囲んだ。

係員らはハッチを開け、中の2人と対面した。だが、彼らの状態はよくなかった…むしろ、最悪だった!全身を襲う痛みで立つことができず、腕を引かれて引きずり出される他なかったのだ。

これは、明らかに無重力が原因であった。「無重力の影響は、大したことないだろう」ミーシンらは当初、その影響を軽んじていた。しかし、筋力の低下は予想以上で、一人では動けない程になっていたのだ。彼らは飛行機に乗せられ、モスクワを目指した。

容態は、機上でも思わしくなかった。モスクワへ到着すると、肩を担がれ、タラップを降りる二人。ニコライエフは、居並ぶ国家委員会のメンバーに、ミッションの完了を報告した。

「議長同志!ソユーズ9号のフライトを無事、完遂しました。更なる命令をお与え下さい!」

「更なる命令を〜」というのは、形式的な意味合いもあるのだろうが、多分、“情けない姿”で現れた男の意地もあったのかも知れない。彼らは直後、病院へと搬送された。

帰還から4日経った23日も、容態に変化はなく、「重力が3ないし4倍に感じられる」と症状を訴えた。100近い脈と8度に迫る熱…弱りに弱った全身の筋肉が、なお、重力に適応できていないのだった。自重の3倍の重みを全身で受け、動けない苦しみは、我々の想像を凌駕する。25日夜にはテレシコワまで寝込んでしまったが、飛行士らの容態には、少しずつだが、回復の兆しがあった。

27日、今後の飛行では、期間が20ないし25日を越えないよう、関係者から提言があった。結局、ニコライエフらが恒例の歓迎レセプションに臨んだのは、翌月の7月3日であった。


ところで。ミーシンらがチェロメイから取り上げた宇宙ステーションの建造(開発史12参照)も進んでいた。

次の図は、地球の周囲を飛行するステーションの想像図である。手前で、太陽電池パネルを4枚、大きく翼のように広げている機体がステーションで、向こう側からソユーズ宇宙船が近づき、ドッキングしようとしている。ステーションは、ソユーズとドッキングする部分が前部。その形状から、太陽電池や船体の一部にはソユーズのものが流用されているのがよくわかる。また前部には、船外へ出るためのエアロックなども付加されている。

完成時のサイズは全長13メートル、最大直径4.15メートルで、太陽電池を広げたときの両幅は約10メートルに達する。この、総重量18トンの巨体が、高度約200kmを飛行するのだ。

1970年2月には建造が始まり、約1年後1971年の2月1日、ステーションは半完成の状態でバイコヌール宇宙基地へ搬入された。昼夜交代制で、休むことなく続けられる最終仕上げ。ミーシンらはそのステーションに当初「ザーリャ」(ロシア語で“暁”の意)と命名していたが、打ち上げ直前(同年4月)になって、それが当時、中国が極秘に開発を続けていた人工衛星(有人宇宙船)と同じ名前であったことが判明、混乱を防ぐため却下され、代わりに「サリュート」と名付けられた。この名には、71年がガガーリン初飛行10周年にあたり、それを祝し、敬意(サリュート)を払う意味合いが込められていた。

(余談だが、中国が企てていた衛星が、実は有人宇宙船だったことが明らかになったのは、2002年であった)


ミーシンはまた、この宇宙ステーションを絡めた、中長期における非軍事的宇宙開発の“最終ゴール”も明らかにせんとした。暫しの議論の結果、次のことが提案された。

・宇宙における天体調査計画
・地球周回軌道上における望遠鏡の建造
・将来のステーションに、1メートルの望遠鏡を設置
・30ないし40メートルの電波望遠鏡の構築
・3メートルの反射鏡を備えた宇宙望遠鏡の建造

…などである。中にはサリュートとは無関係に近いものも含まれたが、まとめて、その後の非軍事的宇宙開発の展望という形で披露されたものである。これらの多くはその後、コツコツとではあるが、実現されてきた。ただ、大型の反射鏡を備えた本格的な宇宙望遠鏡を実現したのは米国で、NASAの「ハッブル宇宙望遠鏡」がそれである。

平行してクルーの選考も進められたが、しかしそれは、すんなりとは進まなかった。ミーシンの提案に、カマーニンが反発していたのだったが、この構図はいつものことだった。

ミーシンは当初、自分の部下で技術者のフェオクチストフをクルーに加えることを考えていたが、カマーニンは反対した。当時、フェオクチストフは2人目の妻と別れた直後であったため、心理的安定性に疑問符が付く、というのが理由だった。また、ミーシンは、ソユーズ5号で危機一髪の帰還を果たしたボリノフ(開発史11参照)を加えていたが、それもカマーニンは却下した。ボリノフがユダヤ系ロシア人だったから、と言われている。

このように、納得いく理由もあれば、単なる屁理屈ともとれる言い訳が続くのだった。

(※ただ、ロシアでユダヤ人(含・ユダヤ系)が迫害を受けてきたのはよく知られている。カマーニンの主張も、偏見が許された当時は当然であったと解することもできる)

結局2人は5月13日、次のようなプランで合意した。クルーは3人で、上位の組から優先される。

(1) ショーニン、イェリセイエフ、ルカビシニコフ
(2) レオーノフ、クバソフ、コローディン
(3) シャタロフ、ボルコフ、パチャーエフ
(4) ドブロボルスキー、セバスチャノフ、ボロノフ

このうち、レオーノフは人類初の宇宙遊泳を行い(開発史3)、イェリセイエフとシャタロフは既に2度の飛行を経験したベテランで(開発史12)、ショーニンとクバソフはソユーズ6号、ボルコフは7号で飛行している(開発史12)。

ところが。やっと定まった人選だったが、なおもそのまますんなりと事は運ばなかった。サリュート打ち上げを間近に控えた71年2月、トップ候補の1人、ショーニンに訓練のサボり癖があることが判明。おきまりのごとくカマーニンは激怒、レオーノフがかばったものの、クルーから外されてしまった(その後ショーニンが飛行士に選ばれることはなかった)。また、他にも入れ替えがあり(この辺は複雑なので省略)、結局、ソユーズ10号にシャタロフ、イェリセイエフ、ルカビシニコフ、続く11号にレオーノフ、クバソフ、コローディンと決まった。2月12日のことだった。

彼らのトレーニングは翌3月までには終了し、同16日、最終テストを受けた結果は完璧で、申し分がなかった。19日に開かれた、計画を遂行・管理する国家委員会のミーティングで、打ち上げが4月15日〜18日の間と正式に決まった。また、飛行士達は20日にバイコヌール宇宙基地に入り、打ち上げの準備に入った。

ちなみに、サリュート本体及び、飛行士達を運ぶソユーズ宇宙船の建造だが…やはり、順調とは言い難かった。特にソユーズは今なお、ドッキングの際に必要な自動誘導装置が完全でなかった。テストの結果、4つ作られた装置のうち、3つが不良で、最後の1つも満足行く精度が確保できなかった。

しかも、テストで不良と判定されるところを、飛行士達に見られてしまった…「志気が下がるのでは」と心配する関係者もいたという。勿論、日程がずれたものの、最終的には克服できた…いや、しなければならなかったのだが。


旧ソ連の宇宙開発の特徴だが、大きな進展があるときは、メディアを利用して、“意味深な発言”をすることが多かった。3月14日、モスクワの経済紙のインタビューに対してミーシンは、「地球周回軌道を飛行する、恒久的な宇宙実験室の建造を見込んだ、長期滞在型の新型宇宙船を準備している」と発表した。勿論、「開発主任・ミーシン」の名は伏せた上で、である(この辺、かつてのコロリョフの処遇と同じである)。西側の関係者が勿論、あれこれ憶測したのは言うまでもない。

しかし、世界がその答えを知るまで、そう時間はかからなかった。

約1ヶ月後の4月19日、モスクワ時間午前4時40分、バイコヌール宇宙基地・第81番発射台より、史上初の宇宙ステーション「サリュート1号」が、プロトンロケットの先端に装着されて打ち上げられた。噴き出す火炎、大地を引き裂く轟音…早朝の静寂を打ち破り、飛ぶ鳥落とす衝撃波と、天と地を貫く一本の航跡。プロトンは現代でも使われている、重量級の荷物を打ち上げる強力ブースターで、R−7と並び、ロシアを代表するロケットである。

23日、3人が搭乗したソユーズ宇宙船が打ち上げられ、ソユーズ10号と発表された。そもそもサリュート打ち上げの翌日に予定されていたが、設備に不備があり、延期になっていたのだった。

「他の追随は許さない!」

この連続発射は、そう主張しているように思えてならない。アポロに月を奪取され、行き場を失ったソ連の、「赤いプライド」を賭け、渾身の力を込めたミッション。シャタロフ43歳、イェリセイエフ36歳及びルカビシニコフ38歳…このうちルカビシニコフはルーキーだ。シャタロフとイェリセイエフは、2年の内に3度も宇宙を飛ぶという記録まで作ってしまった。何も知らない人から見たら、羨ましい。3人は全身に加速Gを感じつつ、祖国の活路を見出すべく、一路、サリュートを目指した。

24日、ソユーズは、先に地球を周回していたサリュートを追った。ソユーズの制御系に異常があり、シャタロフが手動で宇宙船を操ることになったが、さすがベテラン、それは完璧だった。サリュートから16キロのところで、自動誘導装置をオンにした。地上テストではなかなか言うことをきかなかったシステムだが、完璧に作動し、両船は200mの距離まで近づいた。

シャタロフは、ソユーズをゆっくりとサリュートへ近づけた。ドッキングの最後は、手動で行われる…彼は、ドッキングしたことを地上管制部へ連絡した。それは、「ソフトドッキング」と呼ばれる、緩やかな結合だった。彼は更にエンジンを吹かし、完璧な「ハードドッキング」を行おうとした。

「インジケーターが点灯しない。ハードドッキングになっていないようだ」

10分かそこらの後、シャタロフはそう連絡してきた。管制部で両船の信号をチェックしたところ、確かに、両者の間にはなお9センチの隙間があることが判明した。そのままでは、乗り移りは不可能…シャタロフはソユーズのエンジンを更に吹かし、“押し込もう”としたが、うまくいかなかった。

地球を4周したところで、地上管制部は、一端サリュートから離れ、もう一度ドッキングをやり直すように指示した。だが、悪いことは続く…今度は、ソユーズがサリュートから“抜けなく”なってしまったのだ!

事態は最悪を迎えようとしていた。がっちりドッキングしない上に、離れることもできない…3人は完全に、宇宙空間にトラップされてしまった。どうするか?

「ドッキング装置をサリュートにくっつけたまま宇宙船を切り離し、帰還カプセルで地上に帰る」それしか他なかった。だがそれは、サリュートの廃棄をも意味する。サリュートにはドッキングポートが1つしかなく、それにドッキング装置が刺さったままになるのだ。例えるなら、鍵穴に棒を突っ込み、へし折るのに近い。しかも、船内に残された酸素の量は、僅かだった…もう、時間がなかった。

周回5周目に入るところで、シャタロフは再びエンジンを吹かし、引き抜こうとした。すると…幸運にも、両者は離れた!「これで、クルーもサリュートも、失われずに済んだ…」誰もが安堵した瞬間だったに違いない。シャタロフらはその後、サリュートの全景や、ドッキングポートの近影を撮った。

約3週ないし1ヶ月の滞在を目論んでいた3人は、僅か2日で地球に帰還した。帰還の際、空調の不備でエアが汚染され、ルカビシニコフの意識がもうろうとなる程だったが、無事だった。「ドッキングは予定されていなかった」関係者は記者会見で、相変わらずウソを突き通す他なかった…(写真・帰還直後の10号)。

彼らが撮影した写真をもとに、ドッキング失敗の原因が調査され、結論が5月中旬までに出そろった。装置の耐久力に問題があったこと、サリュートの方には何の異常も生じていないことなどである。一方ミーシンは、次のソユーズ11号ではクルーを2人に減らし、空いたスペースに宇宙服を積み込むことを提案した。ドッキングの前に1人が船外へ出て、ドッキング装置のチェックなどを行うことを主張したのである。

だが、その案に反対したのは、カマーニンだった。「飛行士は船外活動の訓練を受けていないし、今からでは間に合わない」と言う。この反対は確かに、理にかなっている…そもそも船外活動は予定外であった。

「そんなこと(船外活動)を今さら言うなよ」

カマーニンはそう思ったに違いない。結局、この提案は却下された。

また、11号のクルーも正式決定された。レオーノフ、クバソフ、コローディンの3名で、バックアップクルーはドブロボルスキー、ボルコフ並びにパチャーエフである。

ところが、打ち上げ直前の6月3日、クバソフの右肺に異常があることが判明、飛行計画に暗雲が立ちこめた。彼はクルーから外れることが決まったが、規則では、一人でも外れる事態が生じた際は、クルー全員を入れ替えるということになっていたため、レオーノフやコローディンらも11号へ乗ることができなくなってしまった。

これは、大騒動を引き起こしてしまった。入れ替えが決定された際、レオーノフは完全に我を忘れて憤り、クバソフはショックに打ちひしがれ、やや遅れて到着したコローディンは、知らせを聞くと落ち込み、ウォッカをがぶつきながら「自分は宇宙を飛ぶことは無いのではないか」と呻いていたといわれる。レオーノフは国家委員会に、クバソフだけを入れ替えるように懇願し、カマーニンも彼の意見を支持したが、ミーシンは丸ごと入れ替えに傾いていた。

打ち上げ2日前の6月4日、最終ミーティングが開かれたが、結局、決定が覆ることはなかった。その夜、説明に赴いたミーシンはコローディンから罵声を浴びた…

「歴史は絶対に、オマエを許さないだろう!」

だが、この決定が、レオーノフやコローディンらの命を救うことになろうとは、その時、彼らは知るよしもなかった…。

☆前号からの主な登場人物☆

ミーシン …
コロリョフ死去の後、開発現場を受け継いだ男。優秀な技術者であったが、コロリョフほどの政治力はなかった。在任中はミッションの失敗が多く、ソ連宇宙開発の限界を一人で背負ったスケープゴート。後に解任という形で現場を追放される。


コロリョフ…
「ソ連宇宙開発の父」と言われる偉才。その卓越した指導力はスプートニクやボストークの打ち上げを成功に導いたが、反面、ライバルも多かった。1966年、手術中に死去。


チェロメイ…
元々、巡航ミサイルの設計主任だったが、ロケット分野に乗り遅れまいと、途中参入。当時の指導者フルシチョフの息子がチェロメイの部下だったため、そのコネを大いに利用。しかし、フルシチョフ失脚でその力を失い、翻弄されることになる。


カマーニン…
飛行士達を訓練、養成する総監督。在任中、彼の世話にならなかった飛行士は誰一人いない。空軍の上級将校という立場で、コロリョフら非軍部の要求と軍部の要求の狭間で、常に苦悩していた。彼の日記『カマーニン・ダイアリー』は、一部誤記があるものの、内部からソ連宇宙開発を捉えた資料として特級の価値がある。



【Reference】 どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
“Soyuz” by Rex D. Hall & David J. Shayler, Springer Praxis, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Disasters and Accident in Manned Spaceflight” by David J. Shayler, Springer Praxis, 2000