ソユーズ運用リスト2 Soyuz missions 1975-1979
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※時刻は日本時間/24時間表記を使用している。
※運用期間は、その宇宙船が飛行していた時間である(クルーのそれとは必ずしも一致しない)。
ソユーズ20号
1975年11月17日に打ち上げられた無人のソユーズ宇宙船であり、サリュート4号にドッキングした。軌道上で約90日間を過ごし、1976年2月16日に帰還した。改良が加えられた装置の作動チェックなどが行われた。
ソユーズ21号
打上時刻:1976年7月6日21時08分45秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1976年8月25日03時32分17秒
帰還地点:コクチェタフ市の南東198キロ
運用期間:49日6時間23分32秒
クルー:ボリス・ボリノフ(船長)
ビタリー・ゾロボフ(フライトエンジニア)
概要:
1976年6月22日、3機目の軍用ステーション・アルマズが「サリュート5号」として打ち上げられた。ソユーズ21号はこのサリュートに乗り込むクルーを送るべく、打ち上げられた。すべては順調で、軌道上では軍用ミッションに加え、各種科学実験が実施された。これには水槽の中で魚をふ化させる実験も含まれたが、これは史上初のもの。また、電気炉での結晶生成実験なども行われた。他、工学的実験として、軌道上での燃料輸送システムのテストが実施されたが、これは後のプログレス無人貨物宇宙船の開発を念頭においてのものだった。
興味深いのは、彼らのフライト開始がシベリアにおける軍事訓練の開始とほぼ一致していることであり、軌道上からの軍部隊行動の観察・調査能力の検証が行われたのではないかと見る向きもある。加えて興味深いのは、地上とのテレビ中継も行われたこと。子供たちとの交信なども行われたりしたが、全く秘密のベールに包まれていたそれまでのアルマズとは大きな違いである。
このミッションの終わりは突然やってきた。8月24日、何の前触れもなく、ミッションの終了が発表され、しかもその12時間後に彼らは帰還したのである。通常のソユーズ帰還と比べてきわめて慌ただしいものであり、モスクワ放送のアナウンサーですら驚いたと伝えられている。何らかのトラブルが発生したことは間違いなかった。
8月17日の時点で、エアに何らかの汚染が始まっていることが認められていたと言われている。当初、ゾロボフの気分が優れないという格好でそれは現れた。初めは軌道上における長期滞在が引き起こした心身症の類いではないかと考えられたりしたが、しかしやがてボリノフの方にも似た症状が現れ始めた。両者の間にコミュニケーションのトラブルがあったのではないかと見る向きもあったようだが、実際は、燃料系からリークした有毒ガスのためであった。具体的にどの部分からリークしたのかはわからなかったようだが、恐らく症状から、それが最も確からしいと判断されたのだろう。彼らには帰還命令が出された。
ただ、彼らは帰還ミッションでもトラブルに見舞われた。ソユーズに乗り込み、ハッチを閉じ、いざサリュートを離れようという時、ドッキングが解除しなかったのである。症状から鑑みてラッチが引っかかっている可能性が高く、地上管制部からは対処法が連絡されようとしたが、途中で交信可能域を出てしまった。彼らは地球を一周する約90分を待ち続け、交信が再開すると対処法の続きを受け取り、それに従って無事離脱することができた。ただこのような想定外の離脱となったため、大気圏突入と着陸も想定外の場所にならざるを得ず、しかも現地は強風だったため姿勢が安定せず、そのため逆噴射ロケットの効果も薄くなり、激しいランディングに見舞われたという。
ソユーズ22号
打上時刻:1976年9月15日18時48分30秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-TM
帰還時刻:1976年9月23日16時40分47秒
帰還地点:ツェリノグラード市の北西148キロ
運用期間:7日21時間52分17秒
クルー:ワレリ・ビコフスキー(船長)
ウラジミール・アクショーノフ(フライトエンジニア)
概要:
1975年のアポロ・ソユーズテストプロジェクト(ASTP)では、2機のバックアップソユーズが用意された。1つはソユーズ19号打ち上げ時、第31番射点に立っていたそれである。これはフル装備で立っていたのだが、ソユーズは燃料を搭載したら75日以内に打ち上げなければならないという規定があったため、未使用のそれは分解され、帰還モジュールはメンテを受けた後保管へ、また軌道モジュールと機械モジュールは帰還モジュールのモックアップと結合され、エネルギア博物館行きとなった。ところがあと1つは燃料も詰めない新品であったため単独ミッションで使用されることになり、それがソユーズ22号となったのである。ドッキングモジュールの部分にはカールツァイス製マルチスペクトルカメラ「MKF-6」が装着されるなど、観測活動が主のものとなった。あわせて、いくつかの科学実験も実施されることになった。
ソユーズ22号は軌道傾斜角64.5度という、通常のソユーズのそれ(51度)と比べるとかなり大きい傾斜角で軌道に投入された。この特異な軌道に対して一部の西側観測筋は、当時NATOがノルウェーで行う大規模な軍事演習を監視するのが目的ではないかと推測した。一方、搭載されているMKF-6カメラの性能(同時に6フレーム(可視光4と赤外域2)で撮影可能)からして、軍事演習の監視は地球観測ミッションの一部ではないかと見る向きもあった。この軌道傾斜角の場合、陸域とくに東ドイツを広範囲にカバーできたこと、ソ連はこのミッションを「ソ連および東ドイツ経済に関わる地質学的観測の実験である」と発表したことも、この憶測の背景にある。
このミッションで最初に撮影されたのは、当時建設中だったバイカル・アムール鉄道(いわゆる第2シベリア鉄道)であり、続いてシベリア、オホーツク海が撮影されたという。こうして各地の撮影が続けられ、最終日に東ドイツの集中撮影が行われた。これにはAn-22航空機も参加し、同型のカメラで同時に撮影を行い、比較分析が行われた。クルーは期間中、30の地域の計2400フレームを撮影した。近地点付近で撮影された画像の解像度は28メートルだったという。それらはソ連領の開発において非常に重要な地質学的データをもたらした。
なお、科学目的のソユーズ単独長期飛行はこれが最後となった。
ソユーズ23号
打上時刻:1976年10月15日02時39分18秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1976年10月17日02時45分53秒
帰還地点:テンギツ湖(ツェリノグラード市の南西194キロ)
運用期間:2日0時間6分35秒
クルー:ヤチェスラフ・ズードフ(船長)
ワレリ・ロズデストベンスキー(フライトエンジニア)
概要:
このミッションは打ち上げの前から人々を不安にさせる出来事が続いた。宇宙飛行士を乗せたバスが、射点へ向かう途中に故障した。ロケットの離陸直後、強風で機体が大きく傾き、あわやアボートロケットが起動するところだった。この結果、予定よりやや低い軌道へ投入された。
不運は続く。サリュート5号への接近中、あと100メートルのところで誘導レーダー系が故障。彼らはマニュアル“ドッキング”の訓練は受けていたがマニュアル“アプローチ”の訓練は受けていなかった。両者ともルーキーであり経験が殆どないため、帰還命令が下された。ソユーズには太陽電池が装着されておらず、バッテリー温存のため、最小限のシステム以外は電源を切られた。
翌日、帰還の途につき、大気圏突入とパラシュート展開は問題なく行われたが、降下地点付近が吹雪のため風に120キロ以上も流され、氷の浮くテンギツ湖に着水した。無人のソユーズテスト機が湖に落ちたことはあったが、人を乗せたソユーズが着水したのは初めての出来事であった。
そこは霧が立ちこめる、−20℃を下る場所だった。帰還モジュールは気密性が保たれていたが低温には弱く、クルーは薄手の船内宇宙服を脱ぎ、暖かいジャケットを着込んだ。ビーコン灯は霧のため回収部隊からは見えにくく、発見されたのは偶然だったという。回収は翌日になったが、吹雪と氷で困難を極めた。最初は回収部隊とコンタクトがとれていたが、やがて(通信系の凍結などにより)それも途絶え、誰もがクルーは凍死したと思っていたという。
作業開始から9時間後、帰還モジュールは陸揚げされた。クルーは無事で、誰もが泣いて喜んだという。
ちなみに彼らはガスマスクを持ってサリュートに向かったが、使う場面はなかった。詳しくはこちらへ http://spacesite.biz/ussrspace16.htm
ソユーズ24号
打上時刻:1977年2月8日01時11分
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-TA
帰還時刻:1977年2月25日18時38分
帰還地点:アルカリク市の北東36キロ
運用期間:17日17時間25分58秒
クルー:ビクトル・ゴルバチコ(船長)
ユーリ・グラヅコフ(フライトエンジニア)
概要:
サリュート5号へ飛んだ最後の滞在クルーであり、最後の純粋な軍用ミッションであった。打ち上げの翌日、サリュートへアプローチを開始、しかし80メートルのところで誘導システム「Igla」が故障。ゴルバチコはマニュアルで操船、夜の域を飛行中にサリュートへドッキングした。ちなみにこれは、軌道モジュールの先端にある投光機でサリュートを照らしながら行うというものだった。
彼らはソユーズで一眠りし、ガスマスクを装着してサリュートへ入ったが、船内に有毒ガスはなかった。予定されていた軍事ミッションをこなし、あわせて複数の科学・工学実験をおこなった。たとえばハンダ付けや電気炉による結晶生成、菌類や魚卵の孵化観察などである。また、ソユーズ21号の時に行われた結果を基に、地球観測なども実施された。個性的なのは、エアの交換実験である。これはサリュートの端から船内のエアを抜きつつ、ソユーズの軌道モジュールに備えられたボトルからエアを供給するというものであった。
帰還は予定通り行われたが、着陸場所は非常に気温が低く、クルーはモジュールの外に出ることができなかった。これとソユーズ23号の経験を踏まえ、耐寒具の改良が提唱、実施された。
サリュート5号は77年8月、誘導落下された。
ソユーズ25号
打上時刻:1977年10月9日11時40分35秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1977年10月11日12時25分20秒
帰還地点:ツェリノグラード市の北西184キロ
運用期間:2日0時間44分45秒
クルー:ウラジミール・コバレノク(船長)
ワレリ・リューミン(フライトエンジニア)
概要:
この年の9月29日、ソ連はスプートニク20周年記念の一環として、サリュート6号を打ち上げた。この10日後に打ち上げられたのが、ソユーズ25号である。サリュート6号は同4号に似ているが、ドッキングポートを2つ備えるなど補給宇宙船の運用を視野に入れ、長期滞在期間を飛躍的に伸ばすべく開発された宇宙ステーションであった。コバレノクとリューミンは90日以上の滞在期間を目標としてサリュートに向かった。
飛行は順調であったが、しかし、ドッキングでトラブルが起きた。一旦ソフトドッキングし、エンジンを吹かしてハードドッキングをする予定が、ハードドッキングができなかった。彼らは更に3度試みたがいずれもうまくいかず、管制部に対し「4度試みたがうまくいかなかった」と報告した。
管制部では原因を検討し、クルーは5度目の試行を行ったがやはりうまくいかなかった。ソユーズは2日分のバッテリーしか搭載していないこと、そして、サリュートのもう1つのドッキングポートへ移動して試みるにはもはや燃料が足らないことにより、帰還が決定された。ソ連はすでにスプートニク20周年記念とひっかけてサリュート6号を大々的に宣伝しており、この失敗は大きな痛手だった。失敗の原因については「操船のミスだった」、「ドッキング機構が不調だった」などの憶測が流れた。
ここまでのソ連宇宙開発史において、13回のドッキング試行で8回の失敗を記録した。また、ルーキーのみのクルーで判断が甘かったとされる部分があったのだろうか、今後の飛行では最低一人は経験者を乗せることが決定された(バックアップクルーもオールルーキーだったのだが、彼らは解かれ、それぞれベテランと組み合わされた)。これが破られるのは、ソ連崩壊後の1994年である。
ソユーズ26号
打上時刻:1977年12月10日10時18分40秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1978年1月16日20時24分58秒
帰還地点:ツェリノグラード市の西264キロ
運用期間:96日10時間0分7秒
クルー:打上時 ユーリ・ロマネンコ(船長)
ゲオルギー・グレチコ(フライトエンジニア)
帰還時 ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
オレグ・マカロフ(フライトエンジニア)
概要:
もともとオールルーキー(ユーリ・ロマネンコ&アレクサンダー・イワンチェンコフ)のクルーが予定されていたが、25号の件により分けられ、ロマネンコはソユーズ17号で飛行経験があるグレチコと組まされた。グレチコはコロリョフ時代からのエンジニアで、サリュート開発にも関わっており、25号のドッキング失敗を技術的に評価できるものと期待されていた。ソユーズ26号は25号がドック失敗したポートとは別のそれにドッキングした。
12月19日、グレチコによって船外活動が行われたが、これは9年ぶりの船外活動であった。また彼は船外活動用宇宙服「オルラン」を着用した初めての飛行士である。彼は約20分の活動で件のドッキングポートを調査したが、なんの問題もないことが判明した(ソユーズ側の機構に欠陥があったことが後に判明)。また、彼に続きロマネンコも船外に出て宇宙遊泳を体験した。
2人の関係は常に良好だった、というわけではなかった。彼らは6週間の長期ミッションに放り込まれたわけで、特に新人船長は、年配でベテランの部下を持ち難しかったようである。ロマネンコは期間中、かなりの部分を歯痛と共にした。「申告すればミッションを打ち切られると思い、最後まで隠していた」と、後に語っている。あごの周りにハンカチを巻き付け、アスピリンを飲みながら痛みをこらえたという。
軌道上で年を越し、1978年1月11日にソユーズ27号を迎えた。27号にはジャニベコフとマカロフが乗っており、約5日の滞在の後、ロマネンコらが乗ってきた26号に乗って地上に帰った。
なお、1月20日には無人貨物宇宙船「プログレス1号」が到着した。プログレスは食料や水、燃料、生活物資などを補給する船であり、この打ち上げとステーション到着成功はロシア宇宙開発史では大きな出来事である。
ちなみに、後年、グレチコは「船外活動時、ロマネンコのワイヤーが固定不十分で外れ、彼は空間に漂った。私が彼をつかまえて引き戻したのだ」と語った。これは大きな関心を持って取り上げられたが、まもなくグレチコが「ジョークだよジョーク」と否定した。
ロマネンコとグレチコはソユーズ28号到着後、27号に搭乗して帰還した。
ソユーズ27号
打上時刻:1978年1月10日21時26分00秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1978年3月16日20時18分47秒
帰還地点:ツェリノグラード市の西307キロ
運用期間:64日22時間52分47秒
クルー:打上時 ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
オレグ・マカロフ(フライトエンジニア)
帰還時 ユーリ・ロマネンコ(船長)
ゲオルギー・グレチコ(フライトエンジニア)
概要:
サリュート6号がバイコヌール上空を通過して17分後、ソユーズ27号が2人の飛行士を乗せて打ち上げられた。グレチコによるドッキングポートの調査で使用可能と判断されたそれにドッキングするのだが、ドッキングの前に27号から再度の目視と異常無しの確認が行われた。
ドッキングの模様はライブで地上に伝送され、ブレジネフ書記長もそれを見ていた。ハッチが開くと両クルーは抱き合って喜んだ。軌道上でのもてなしにはビスケットやジュースの他、ウォッカも振る舞われた。
4人が軌道上のステーションに滞在することになった。ただしジャニベコフとマカロフの任務はドッキングポートの確認と、新しい宇宙船(=彼らが乗ってきた船)の提供であり、滞在は数日というショートステイだった。彼らは食料や水の他、長期滞在クルーに家族からの手紙を届けるなど、精神的な影響を強く与えた。ジャニベコフは電気技師であり、サリュート電気系のチェックを行い、また、大掃除を手伝ったりした。
ステーションに2機の宇宙船が連結した状態での居住は初めてのことで、構造的問題がないかのチェックも行われた。運動器具としてトレッドミルが持ち込まれていたが、ある一定の早さで走ると振動が増幅することなどが判明したが、総合的に2機結合に問題は無しと判断された。
なお、グレチコの軌道滞在中、父が亡くなった。ジャニベコフとマカロフはこのことを聞かされており、ロマネンコに伝えたが、彼はグレチコに伝えなかった。心理的配慮のことだった。
ジャニベコフとマカロフは26号で帰還した。飛行期間は5日22時間58分58秒。
ソユーズ28号
打上時刻:1978年3月3日00時28分
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1978年3月10日22時44分
帰還地点:ツェリノグラード市の西307キロ
運用期間:7日22時間16分
クルー:アレクセイ・グバレフ(船長)
ウラジミール・レメク(科学搭乗員)
概要:
ソ連は1976年、東側諸国の人間を飛行士として搭乗させる「インターコスモスミッション」の始動を決定していた。そのプログラムに基づき、最初に宇宙に向かった非ソ連(そして非米国)人がチェコスロバキアのレメクである。ちなみに同時期、米国はスペースシャトル計画で西側陣営の人間を乗せると表明している。
ミッションは非常に政治的なものであり両国首脳からの祝辞などが読み上げられたが、科学実験なども行われ、たとえばクロレラの観察などが行われた。
インターコスモスには東側陣営の結束の固さを、ソ連への忠誠を再認識させる目的もあったが、冷戦が終わり始めた88年、「インターコスモスには意味がなかった」とソ連政府自身が認めたのは皮肉な話である。“ゲストクルー”のために飛行のチャンスを奪われ、一度も飛ぶことのなかったロシア人飛行士は9人に上るとされる。
ちなみに、地上に帰還したレメクの手が妙に赤みがかっていた。医師団には「何かに触れようとする度にソ連飛行士からひっぱたたかれたからだ」とジョークを語っている。
ソユーズ29号
打上時刻:1978年6月15日05時16分45秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1978年9月3日20時40分34秒
帰還地点:ツェリノグラード市の西307キロ
運用期間:79日15時間23分49秒
クルー:打上時 ウラジミール・コワリョーノフ(船長)
アレクサンドル・イワンチェンコフ(フライトエンジニア)
帰還時 ワレリ・ビコフスキー(船長)
ジークムント・イェーン(科学搭乗員)
概要:
ロマネンコとグレチコが3月16日、それまでの記録を更新する96日の長期滞在を終えて以後、あるじのいなかったサリュート6号に、3ヶ月ぶりに飛行士がやってきた。コワリョーノフとイワンチェンコフを乗せたソユーズ29号は滞りなくサリュートへドッキングし、入るやいなや彼らはロマネンコとグレチコが残した歓迎の手紙を見つけて喜んだ。それもつかの間、彼らは不調だった換気装置の修理やエアロックのメンテナンスを行い、新たな工学的・科学的実験に取りかかった。
彼らもまた地球観測に力を入れ、それまで使われてきたMKF-6mカメラに加え、新たに持ち込んだKT-140カメラを試した。彼らが撮影したショットは18000フレームを超える。また、7月上旬に到着したプログレス2貨物船で新型の電気炉「Kristall」が運び込まれ、半導体作成実験が行われた。
彼らは滞在期間中、多忙を極めた。6月29日にはソユーズ30号を迎え、それにはインターコスモス飛行士としてポーランド人のゲストが乗っていた。7月9日にはプログレス2号貨物船が到着し、25日間係留。7月29日には2時間以上の船外活動を行った。この活動では船外に設置されていた資料が回収されたりしたが、全ての任務が終わるとコワリョーノフは船外活動の延長を申し出た。彼らの息抜きであったが許可され、眼下に広がる地球を眺めながら、つかの間の休息を楽しんだ。
8月8日、滞在期間は171日に達し、米国がスカイラブミッションで打ち立てた記録のトータルを超えた。8月10日にはプログレス3号が到着、物資の補給を行ったが、この中にはコワリョーノフのギターも入っていた。プログレス3号は12日間係留された後切り離されたが、その後続いて8月28日にはソユーズ31号が到着、それには東ドイツのインターコスモスゲストが乗っていた。そのゲストらはソユーズ29号で地上に帰還した。9月21日、コワリョーノフたちは100日目を迎え、その7日後、イワンチェンコフは38歳の誕生日を祝った。
ソユーズ31号はサリュートのリアポートにドッキングしていたため、彼らはソユーズに乗り込み、一旦サリュートを離れ、フロントポートに付け替えた。この作業は着陸ウィンドウの間に行われたが、これは再ドッキングに失敗した場合、そのまま地上に帰還できるようにするためである。
10月4日、プログレス4号が到着、積み荷の中には毛皮のブーツが入っていたが、それは彼らが地上に降りた際、寒くないようにするための配慮であった。同9日、プログレス4号の活動が終了次第、飛行士らが地上に帰還すると報じ、11月2日、クルーはソユーズ31号で帰還した。彼らの重力に対する適応は申し分なく、これは軌道上でのエクササイズの効果であった。
ソユーズ30号
打上時刻:1978年6月28日00時27分21秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1978年7月5日22時30分20秒
帰還地点:ツェリノグラード市の西300キロ
運用期間:7日22時間02分59秒
クルー:ピョートル・クリムク(船長)
ミロスワフ・ヘルマシェフスキ(科学搭乗員)
概要:
インターコスモス第2回ミッションで、ポーランド人のヘルマシェフスキが搭乗しサリュートへ向かった。打ち上げからドッキングまでは何の滞りもなく、軌道上で合流した4人は喜び合ったが、クリムクとヘルマシェフスキの活動は著しく制限された。これはコワリョーノフら長期滞在クルーの活動を邪魔しないためであったが、滞在クルーが休息の日はクリムクらはソユーズに戻って実験を行わなければならないなど、基本的に別行動であった。
彼らは結晶実験をはじめとして数多くの実験をこなした。地球観測の一環であるMKF-6Mカメラでの地上撮影も行われ、特にヘルマシェフスキは母国ポーランドを撮影することになっていたが、あいにく雲に覆われ撮影範囲が限られた。科学実験の中で興味深いのは「Smak」と名付けられたプログラムで、地上ではおいしく感じられる食べ物の中に、無重力ではまずく感じるものがある理由を追及するものであった。
ヘルマシェフスキは帰還の際、猛烈な大気圏突入を窓の外に見ながら、地上に帰る悲哀に浸ったそうである。
ソユーズ31号
打上時刻:1978年8月26日23時51分30秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1978年11月2日22時04分17秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東140キロ
運用期間:67日20時間12分47秒
クルー:打上時 ワレリ・ビコフスキー(船長)
ジークムント・イェーン(科学搭乗員)
帰還時 ウラジミール・コワリョーノフ(船長)
アレクサンドル・イワンチェンコフ(フライトエンジニア)
概要:
インターコスモス第3回ミッションで、東ドイツのイェーンが搭乗した。イェーンの主任務はMKF-6Mカメラでの地上撮影であったが、ドイツ・カールツァイス製であることもあり、象徴的であった。このカメラは通常の軍用カメラとしても東側陣営で使用されているものであった。また、数字の列を繰り返し読み上げ、発声トーンが変化するかということを観察する実験も行われた。これと併せて、逆にかすかな音の変化を耳で感じ取れるか否かを調べる実験も行われた。結晶実験などもこれまでのミッション同様行われ、地上で生成されるものよりも遙かに良質なものを得たという。
ビコフスキーとイェーンらは、ソユーズ29号で地上に帰還した。
ソユーズ32号
打上時刻:1979年2月25日20時53分49秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1979年6月14日01時18分26秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東170キロ
運用期間:108日4時間24分37秒
クルー:
クルー:打上時 ウラジミール・リャホフ(船長)
ワレリ・リューミン(フライトエンジニア)
帰還時 無人
概要:
サリュート6号はそもそも3回の長期滞在ミッションが予定され、それぞれのクルーはソユーズ25、26および28号で向かうことになっていた。しかしソユーズ25号の失敗により予定が狂い、長期滞在は2回に短縮された。ところが1979年2月までに、サリュートの状態が良好であると認識され、あと1回の滞在ミッション実施が決定された。それがソユーズ32号で向かったクルーである。
サリュートにドッキングし、ハッチを開けると鉄の焼けたような匂いがしたという。それをリューミンは「宇宙の香りだ」と形容した。彼らの任務はサリュートの機器をチェックし、眠りから目覚めさせることだった。システムはおおむね良好だったが、燃料系に深刻なトラブルが見つかった。燃料タンクを加圧する膜にリークが生じ、加圧窒素ガス側に漏れ出していたことだった。エンジンには問題がなかったが、バルブとレギュレーターにリスクが生じる可能性があったため、このタンクを閉鎖し、予備のタンクを使用することになった。なお、漏れが見つかったタンクの燃料はステーション全体を回転させるという手法で外へ排出され、窒素で満たされ完全封鎖された。
プログレス5号貨物船が3月12日に打ち上げられ、サリュートにドッキングした。これにはテレビモニターが積まれていたが、これを据え付けることで管制部との相互ビデオホンが可能となった。また、電気炉「Kristall」が故障していたため、新しいものが持ち込まれた。上述したタンクの漏れ問題が解消されると、プログレスから燃料が移し込まれた。
タンク漏れが解消された日、彼らは軌道上で初めてシャワーを体験したが、それは水中めがねを着用してのものだった。また、3月下旬までに40カ所のリペアを済ませたが、これはサリュートにだいぶガタがきていることの表れであった。ビデオレコーダーがハンダ付けで修理されたが、軌道上でハンダ付け修理が行われたのはこれが史上初である。ウズラの孵化観察も行われたが、軌道上で孵った雛は成長が遅く、また奇形も多かったようである。
4月11日にソユーズ33号がブルガリア人のゲスト飛行士を乗せて到着することになっていたが、トラブルが発生し緊急帰還することになると、その次に控えていたハンガリー人ゲスト飛行士ミッションも中止となった。ところが、33号がリャホフらの帰還船となるはずだったため、つまり、彼らには帰る船がなかった(33号のトラブルはエンジンにあり、32号も同型であったため、懸念が生じていた)。そこで、エンジンを改良した無人のソユーズを打ち上げることになった(ソユーズ34号)。32号は無人で地上に帰還した。34号はリアポートに接舷したが、32号が離脱するとクルーは34号に乗り、それをフロントポートへと移し替えた。ちなみに33号がトラブルで緊急帰還する羽目になった際、リャホフらは失意とやり場のない怒りのために、管制部との交信を切ってしまった。険悪な雰囲気は一週間ほど続いたと言われる。
6月28日、プログレス7号が打ち上げられ、6日後にドッキング。生活物資や食料、手紙と共に、大型パラボラアンテナ「KRT-10」が運び込まれた。これは折りたたみ傘のような電波望遠鏡であり、パルサーなどの電波源を観測するもの。プログレス7号がサリュートから離脱する前、7号がドッキングしているリアポートに内側から装着された。畳まれたアンテナは軌道モジュール内にある。この状態でプログレスがゆっくり離脱すると、アンテナが外空間にむき出しになり、そこで展開された。大きさは直径10メートルだった。
だが、成果は今ひとつだったという。一説には“傘”が引っかかって展開が不十分で、役に立たなかったとも言われている。展開から約1ヶ月後の8月9日、TRT-10は破棄されたが、船体からうまく離れなかった。そこで同15日、クルーは船外活動でそれを除去する作業を行ったが、ハイリスクなものだった。彼らは長期滞在で疲れており、ミスなどから2人とも船内へ戻れない可能性も考えたことから、ソユーズ帰還モジュール内に遺書を残して外へ出た。
リャホフとリューミンはソユーズ34号で無事に帰還したが、最初は重力への適応が苦しく、話すことも苦しかったという。
ソユーズ33号
打上時刻:1979年4月11日02時34分34秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1979年4月13日01時35分40秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東320キロ
運用期間:1日23時間01分06秒
クルー:打上時 ニコライ・ルカビシニコフ(船長)
帰還時 ゲオルギー・イワノフ(科学搭乗員)
概要:
インターコスモス第4回ミッションで、ブルガリアのイワノフがサリュートへ向かうことになっていた。船長ルカビシニコフは、非軍人かつ非パイロットで初のソユーズ船長。春を迎えつつあったが当時は連日ブリザードがひどく、本来は2日前に打ち上げられる予定だったが延期されていた。かろうじて打ち上げにこぎ着けた4月11日も、風速10メートルを超える強風の中で打たれ、ロシア宇宙史上、最悪のコンディションでの打ち上げとされている。
宇宙船の軌道投入は問題なく、サリュートまで9キロというところで誘導装置「Igla」を作動させた。マニューバを繰り返しながらアプローチを続けたが、しかしあと1キロの地点でエンジンが不具合を起こした。そもそもルカビシニコフは軌道投入時、直感的に何かがおかしいと感じたといい、パネルを見ると、確かにチャンバー圧が低かったという。マニューバの最終段階で6秒間のエンジン噴射が予定されていたが、噴射3秒後に緊急停止。地上管制部と協議し、再度噴射を試みたが、それも停止してしまった。この様子を見ていたサリュートのリューミンは、ソユーズ後部の側面から妙な輝きが見えたと報告した。
結局、ドッキングは断念され、帰還が命じられた。ルカビシニコフらは再度の試みを要求したが管制部は却下。軌道の関係で帰還は翌日に持ち越され、クルーには睡眠を取るよう指示されたが、ルカビシニコフは眠れず、小説「宇宙からの脱出」(Marooned)が頭から離れなかったという。
このとき、事態はかなり深刻だったことが後年明らかになった(83年)。ソユーズにはバックアップエンジンが搭載されているが、メインエンジンの異常燃焼が、横にあるそのバックアップも破壊しているのではないかという懸念であった。もしこの場合、飛行士は自然落下して帰還するまで(約1週間と見積もられていた)を、5日分の物資で耐えしのがねばならなくなり、非常に危険な状態に陥ることになりかねなかった。バックアップが破壊されている場合の選択肢はであるが、ひとつは姿勢制御スラスターを吹かして減速する方法があったが、しかし、小推力を補うだけの搭載燃料はなく、また、狙った場所に着陸させることも難しかった。また、スラスターを吹かしてサリュートにドッキングしてしまう手もあったが、両者は少しずつだが離れつつあり、また、必要なマニューバを算出するのに時間がかかるものだった。
結局、バックアップエンジンを吹かす以外に妥当なものはなかった。燃焼は188秒必要だったが、そんな状況であったから、どのタイミングで停止するかわからないものだった。最低90秒継続すれば、あとは手動で再燃焼させ、着陸にこぎ着けられる。90秒に満たなかったら、軌道離脱ができない。もし188秒を超えて吹かしたら、弾道突入で帰ってくることになる。結局エンジンは213秒燃焼し、クルーは弾道突入の強いGに耐えながら地上に帰還した。
このトラブルが直近のサリュートミッションに与えた影響は大きかった(ソユーズ32号の項参照)。調査の結果、エンジンに改良が加えられることになった。
ソユーズ34号
打上時刻:1979年6月7日03時12分41秒
射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
形式:7K-T
帰還時刻:1979年8月19日21時29分26秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東170キロ
運用期間:78日18時間16分45秒
クルー:打上時 無人
帰還時 ウラジミール・リャホフ(船長)
ワレリ・リューミン(フライトエンジニア)
概要:
ソユーズ32号、33号の項で述べたが、エンジンを改良して打ち上げられたのがソユーズ34号であった。無人であったため、代わりに130キロ(クルー2名分の重さ)の貨物を搭載して打ち上げられた。
ソユーズT-1号
1979年12月16日に打ち上げられた無人のソユーズ宇宙船。西側観測筋は同年8月にサリュート6号が無人になって4ヶ月が経過していたため、12月中に新たなクルーが送り込まれるものと踏んでいたが、打ち上げられたソユーズT-1は無人のテスト機であった。18日にサリュートにアプローチ、ドッキングを試みたが失敗し、翌日再度挑戦が行われ、見事に成功した。T-1は95日間接舷し、その間にサリュートの軌道上昇などが実施された。
第3世代となるソユーズTタイプでは太陽電池パネルが復活、誘導レーダーやスラスターに改良が施されている。“T”は“транспортный”(輸送)の頭文字で、輸送力を高めたものという意味が込められている。このタイプでは宇宙服を着用して3人搭乗が可能となり、後に3人運用が復活している。
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