宇宙ステーションへの道

ロシア/ 旧ソ連の宇宙開発というと、数年前まで稼働していた宇宙ステーション「ミール」がよく知られている(写真・1998年の姿)。2001年3月28日、精密誘導で軌道から離脱、太平洋の藻屑と消えたミールだったが、その数日前から「ミールが落ちてくる!」等と報道でも大きく扱われたため、ご記憶の方も多いだろう。

ロシア/ 旧ソ連は70年代より、宇宙における人間の長期滞在記録を次々と更新してきた。今回はその源流を簡単に辿り、数回に分け、彼らの経験した栄光と困難に焦点をあててみることにする。


1969年1月、旧ソ連は、悲願であったニュータイプの宇宙船「ソユーズ」の完全飛行に成功した(開発史(11)参照)。これは2機のソユーズによる、同時飛行・ドッキング・乗務員乗り移り、という複雑なミッションであったが、この成功が現場に与えた自信は大きかった。

だがこの裏側に、宇宙開発現場に覆い被さる、暗い重圧があったことは忘れられない。

それは、1968年12月、米国のアポロ8号が、人間を乗せて月の周囲を周回、無事に地球に帰還したという快挙だった。生身の人間が月の姿を、間近で、その目で確かめたのである。月の地平線上の、漆黒のそら宇宙に佇む青い地球…その美しい写真に、世界中の人々がため息をついた。人間が、いや、米国人と言った方が正しいか、月へ降りるのは、時間の問題だった。(写真・アポロ8号撮影)。

この時の、8号の月周回飛行が旧ソ連に与えたショックは、その後の11号の月面着陸をも上回るものだったという。実は彼らも月周回計画を抱いており、困難続きではあったが、完成に近づきつつあった。それが、あと一歩のところで、米国に先を越されたのである。

「共産主義に敗北という文字はない」

…はずだった。

宇宙開発を含む、工業部門の“総元締め”とも言える、一般工業機械省大臣セルゲイ・アファナシエフは、69年1月10日、雪のちらつくバイコヌール宇宙基地で、怒鳴り声をあげた。ソユーズ4・5号の打ち上げの数日前だった。

「この“ヘマ”をどうやって償うのだ!?どうすればよいのだ!」

私個人の感想だが、この男、お世辞にも人相がいいとは言えない。素でへの字口のムッツリ顔。その男が怒鳴るのだ…まあそれはさておき、アファナシエフはこの日、「1ヶ月間の宇宙滞在」はどうか、示唆した。1ヶ月といえば、当時は画期的である。それで巻き返しを図ろうと考えたのだろう。

しかし、ソユーズ計画を遂行する国家委員会は、「一週間の飛行はどうか?」とトーンを落とした。こちらが総合的に、より現実的だと判断したからだった。だがこれに対し別の者が、「一週間なんて薄っぺらなものはダメだ。もっとシックな、分厚いものでいけ」と主張した。

…混乱とは、このことだろう。要はこの時、その後の方向性が全くと言っていいほど、定まっていなかった。宇宙飛行士を訓練する監督だったカマーニンは、「日記」2月11日付に、こう記している。

「我々はまったく、バカげた状況に陥ってしまった。この国の今後の宇宙開発について、正確に言えるものは誰一人いない。誰も、だ。何もわからないのだ!」

“コロリョフの後継者”であるバシーリ・ミーシン(開発史(6)参照)は、2月下旬、「3機のソユーズを打ち上げ、そのうち2機をドッキングさせ、1機を至近距離でホバリングさせる」というプランを思いついた。それはアポロには及ばないものの、複雑なミッションを成し遂げ、長期滞在に対する可能性を誇示するには充分、と考えたのだ。彼はより練ったプランを4月1日、提出した。それは、「8月に3機、10月に2機、年が明けた70年2月に2機を打ち上げ、ドッキングや各種ミッションを行う」というものだった。

しかしこの“連続技”を一蹴する出来事が起こった…7月21日、アポロ11号が月面に着地、ついに米国人が降り立ったのだ!

こうなることは、当時、既にわかっていたことではあった。しかし、11号船長・アームストロングが月面に第1歩を記すのを本当に見せつけられると、関係者は凍り付いたという。その後のミッションをどうするか、全てが不安定になってしまった。

「長期滞在達成」といっても、所詮、「苦肉の策」である。どんなにあがいても、月に人間が立ったことにはかなわないことは、百も承知だった。ミーシンは計画続行を訴えたが、現場で計画を定めることができなくなってしまった…彼らは、共産党の最高中枢であり、書記長ブレジネフらが占める、政治局の判断を仰ぐことにした。

だが、ブレジネフらの心もピリピリしていたのは、言うまでもない。「もしこの計画が、失敗に終わったらどうするのだ?」アポロで決定的に傷つけられた国家の威信。この上“自爆”でもしようものなら、というのである。


2ヶ月以上も経った9月29日、ミーシンやアファナシエフらは討議、翌日、政治局でも検討された結果、3機同時飛行のプランは正式決定された。それは、「ソユーズ7号と8号がドッキングし、6号はその至近距離を飛行する」というものだった。

1969年10月11日モスクワ時間午後2時10分、バイコヌール宇宙基地31番発射台より、ソユーズ6号が打ち上げられた…10ヶ月ぶりに打ち上げる有人宇宙船だった。これにはドッキング装置は積まれなかったが、軌道モジュールに小型の溶接装置が積まれた。無重力・真空状態での溶接実験を行うのである。

溶接は、将来の宇宙ステーション建造で必要とされると考えられていたため、その可否を確認するためであった。なおこの船には、ゲオルギ・ショーニン及びバレリー・クバソフの両飛行士が乗り込んでいた。3日連続で立て続けに宇宙船を打ち上げる…慌ただしい仕事が始まった。

翌12日午後1時45分、第1番発射台よりソユーズ7号が飛び上がった。これには、3人の飛行士が搭乗していた。彼らの名を、アナトリ・フィリィプチェンコ、ウラジスラフ・ボルコフ並びにビクトル・ゴルバチコという…皆、宇宙を飛ぶのは初めてだった。

「7号のミッションは、6号との共同飛行を確立すること、天体観測を行い恒星の明るさなどを測定すること」打ち上げ後、政府はそう発表した。だが、8号とのドッキングのための装置を積んでいること、また、ドッキング自体を計画していることは、公にしなかった。

13日朝、2日前に6号が離陸した31番発射台には、ソユーズ8号が据えられていた。その準備は6号が飛び去った直後に始まるという、バタバタしたものだった。

小雨がパラつく空の下、モスクワ時間午後1時19分、ソユーズ8号は轟音を立てて舞い上がった。飛行士は、ウラジミール・シャタロフ及びアレクセイ・イェリセイエフ…この2人、ソユーズ4・5号でも搭乗した“経験者”であり(開発史(11)参照)、シャタロフが全3機の総合指揮も執る。

しかも彼らは、一度宇宙へ行ってから10ヶ月かそこらで再び宇宙を飛ぶという“最短記録”まで作ってしまった。

ソ連国営タス通信は全世界に向け、「ソユーズ8号は6、7号と共に科学的な調査を行い、有人飛行における数々の課題を克服するのが目的である」と発表した。あからさまに「ドッキング」とは言わず、それを示唆するような表現を用いるところが、卑怯である。結果がどう転んでも、何とでも言える。

3機のソユーズに計7人が乗り込み、同時に地球を回るという、前代未聞のミッションが始まった。この状態に世界は、驚きを隠さなかった。だが、それはむしろ、“首かしげ”に近いものだった…「一体、何をしようというのだ?」

10月14日、3機は共に、約200kmかそこらの範囲内を“編隊飛行”する形に並んだ。200kmというと、宇宙空間では至近距離になる…ものの数分で飛ぶ距離だ。

やがて、7号と8号が接近を始めた。勿論、ドッキングを目論んでの事である。両者は約500メートルまで近づき、その傍で6号がその姿を眺める形をとった。更に、自動装置で約100メートルのところまで近づき、その後、手動制御でゆっくりと、がつんと力強く、ドッキングを達成させる予定だった…が、頼みとしていた自動誘導装置が故障してしまったのだ!両者は約1500メートル離れたところまで接近したものの、その後は手動で近づけることになった。


これは実は、かなり難しい操舵である。1500メートルというと大したことなさそうだが、宇宙船には窓が殆どない。前を見るには潜望鏡で、あたかも潜水艦から水面を覗くように、狭い視野で見るのだ。自分の船と相手の位置関係を見失う、或いは相手自体を見失ってしまうこともありうる。第一、距離感がつかみづらい。実際、ソユーズ3号に搭乗していたベレゴボイは、200メートルの至近距離で位置関係を見誤ってしまったのだ!(開発史(11)参照)誘導装置の偉大さを知らされる瞬間である。

8号を操舵していたシャタロフは、距離カンに苦しみ、疲れ果ててしまった…ドッキングを諦め、翌日に持ち越すことになった。

だが、翌日も同じだった。1700メートルまでは近づいたものの、そこから先が達成できなかった…結局、ドッキングは放棄された。

3機の船は、しかし、接近はしていたので、お互いの写真を撮るなどはしたという。だが今日まで、この時のスナップは一枚も公にされていない。当時公開されなかったのは…あまりの失望のためか、アポロの前には恥でしかないと思ったか、それはわからない。今なお日の目を見ないということは…写真が所在不明になったか、或いは、見せることのできないものが写っていたか、実は写真を撮ったというのはウソなのか、もしくは、もう誰も興味を示さず野積みされているだけなのか…?


ドッキングは不本意な結果に終わったが、まだ重要なミッションが残っていた。「無重力溶接」である。

16日、6号に持ち込まれた特製の溶接機で行われた。これは重さ50kgで、真空中で加速した電子ビームを試料にぶつけ、溶接する仕組みになっている。試料は、チタン、アルミ及びステンレスが準備されていた。

飛行士らは軌道モジュールにセットされた装置を確認すると、帰還モジュールへ退避、ハッチを閉じ、軌道モジュールの空気を抜き始めた。以降は全て、全自動で行われる。彼らは、帰還モジュールで待っていればよかったのである。

しかし、1990年、これが大惨事寸前だったことが明らかにされた。作業終了後、軌道モジュールに空気を満たし、飛行士らが中で見たものは…焼け落ちた船底だったのだ!電子ビームの照準が不完全で、床に当たり、溶かしていたのだ…それは、船体を突き破らんとする程の、深刻なものだったという。

驚愕した彼らは慌てて帰還モジュールに退避、ハッチを閉じたという…脳裏を過ぎったのは、空気抜けという恐怖だった。だが、クバソフは冷静に判断した結果、「サッと行って帰ってくれば大丈夫だろう」と悟り、試料を取り戻しに再び軌道モジュールへ入った。

6号には、直ちに帰還することが命じられた。モスクワ時間12時52分(現地時間夕刻)、ソユーズ6号は寒風吹き付けるカザフのステップ地帯に無事、着地した。更に、6号に続くように、7号が17日、8号が18日に帰還した。3機の帰還はほぼ24時間間隔であった…“編隊飛行”は、幕を閉じた。

「目立つものを」というコンセプトであったにもかかわらず、結果は不本意でなものであった。「なぜドッキングしなかったのか?」という西側メディアの質問に対し、「ドッキングは最初から予定されていなかった」とシラを切るのが精一杯だった(だが、米国のCIAは早い時期から、それがウソであることを、しかもかなり詳細につかんでいたようである)。溶接実験も、惨事寸前だった。

スプートニク以来、トップを維持してきたはずのソ連がアポロに月を取られ、その上、宇宙開発自体が行き詰まった瞬間だった。


ソ連は、今後のスタンスを明確にさせる必要性に迫られていた。ただ実のところ、1968年12月にアポロ8号が有人月周回に成功した結果、69年の春にはいくつかの計画が検討に入っていた。それには3つの選択肢があった…「火星への有人飛行を企てるか」「このまま月飛行計画を進めるか」或いは「地球を周回する宇宙ステーションを構築するか」である。

このうち火星と月は、除外された。だがしかし、宇宙ステーションへ流れが向くのは、むしろ、自然なことであった。技術と予算が長距離旅行を許さず、しかも、米国も宇宙ステーション構想を練っていることが明らかになったからだ。これは1972年に打ち上げを目指し、「スカイラブ」と命名されたものだった…“連敗”だけは避けねばならなかった。(写真:「スカイラブ」1969年プラン)

宇宙ステーションとは、宇宙空間に長期滞在し、数々の実験や調査を行うための施設である。普通の宇宙船と異なり居住設備が本格的で、カンフォタブルな環境に極力近づけてある。

ソ連における宇宙ステーション構想は、早い時期から存在した。漠然としたコンセプトはコロリョフも生前暖めていたが、具体的なプランを初めて提出したのは、ウラジミール・チェロメイというデザイナーで、1964年のことだった。因みにこの男、ソ連宇宙開発シーンでは、コロリョフ、グルシュコと並んで外すことのできない重要なキーパーソンの一人である。彼もまた、誇り高き男であった…そのより詳しい素性や仕事は、続号で取り上げることにしよう。

チェロメイの考案したステーションは軍用の偵察を主としたもので、「アルマズ」と名付けられていた。ちなみにアルマズとは、ロシア語でダイヤモンドを意味する。

その基本形状は、図のようなものが構想されていた。雄大に広がった太陽電池が豊かな電力を供給し、充分な衣食住が賄えるような物資を搭載した、巨大なものである。

このプランは、1967年に承認され、チェロメイは1970年の打ち上げを期待していた。その年は、レーニン生誕100周年に当たる年だった。だがしかし、開発に時間がかかり、初飛行は大幅に遅れる見通しとなっていた。

しかし、そこへ降ってきたのが、アポロの成功である。1969年10月、ステーション構想を検討する会議の席上、搭載する機器の問題等で、アルマズのフライトまでまだ数年かかることが確認され、また、それを避けるための案が提出された。それは、完成しているアルマズの船体とソユーズの設備を組み合わせることで、いうなら“突貫で”ステーションを建造するというものである。

コロリョフ・ミーシンの部下で、卓越した技術者であったフェオクチストフは、「1年後には打ち上げてみせる!」と大きく出た。しかも、非軍事の科学ステーションを作るという。政府はこのプランを評価し、ゴーサインを出した。ちなみにこの時、チェロメイは不在だった…彼のダイヤモンドとプライドには、傷が入ろうとしていた。

1970年3月、ミーシンの部下がチェロメイに面会、建造中のアルマズの改造を認める決定を政府が下し、その船体をミーシン設計局へ引き渡すように交渉した。だが勿論、チェロメイは抵抗した。話し合いは難航したが、最後は、ムッツリ顔・アファナシエフの登場で全て終わった。チェロメイは渋々、引き渡しに同意したという。


しかし、やはり遅延は避けられず、打ち上げは1971年の初頭になりそうだった。ミーシンは一連のプロセスに平行して、その間を埋め合わせるミッションを考えていた。それは、ソユーズで宇宙長期滞在の新記録を打ち立てることだった。またそれは、長期の無重力が人間に与える影響を調べる意味もあった。

このプランは政府に承認された。69年晩秋には、カマーニンは宇宙飛行士を6人選抜、訓練を開始した。最終的に選ばれたのはアンドリアン・ニコライエフとヴィタリ・セバスチャノフの2人だった。このうちニコライエフは1962年8月、ボストーク3号に搭乗、ソ連で3人目に宇宙を飛んだ人間である。

慌ただしいが、滞りのない準備が進められた。70年5月18日、打ち上げが同月31日深夜にセットされ、翌日には飛行士らがモスクワからバイコヌール宇宙基地へと向かった。28日には、政府関係者も基地入りした。その中には、アファナシエフの姿もあった。

5月31日、組み立て工場でロケットの最終仕上げが行われた。ソ連の誇るロケットR−7の先端には、ソユーズ宇宙船が装着されている。ただ、作業に若干の遅れが生じたため、実際の打ち上げは6月1日に延期されていた。

翌1日、現地時間午前5時、組み立て工場からゆっくりと、機関車がR−7を押し出した。これまで同様、ロケットは横たわった状態で搬出され、31番発射台まで運ばれた。午後2時、カマーニンは飛行士達と落ち合い、最後のアドバイスを施した。その際、「不必要なリスクを冒すな、非常の決断を要する際は、私はいつも君たちの傍にいる」と彼らを励ましている。

カザフのステップの中に広がる宇宙基地。気温25℃、風が吹き抜ける穏やかな日だった。午後7時、燃料の充填が始まり、午前0時の打ち上げに向けたカウントダウンが始まった。午後9時45分、2人の飛行士は政府関係者に宣誓を行い、その3分後、カプセルに入った。全てはパーフェクトで、志気は最高潮に向かっていた。

午前0時、ロケットは闇夜の中を、天を目指して飛び上がった。宇宙船はソユーズ9号と命名され、ニコライエフとセバスチャノフの“持久走”が始まった。


1日、1日と日付は過ぎていく。彼らは地球を周回している間、新搭載の機器のチェックなど、様々な調査も行ったが、さほど大きな仕事はなかったようである。ヒマをもてあました彼らは、仕事の合間にチェスなどを楽しんでいた。地上管制部のカマーニンも巻き込んで…(笑)。

打ち上げから7日目の6月7日、管制室に一人の女性が現れた。彼女の名は、ワレンチナ・テレシコワ。1963年6月、ヴォストーク6号で宇宙を飛んだ、史上初の女性だ(開発史(1)参照)。彼女はその後、ニコライエフと結婚、一児を授かっていた。この日は、この6歳になる娘・エレナも一緒で、しかも、エレナの誕生日だったのだ!

彼女らは、ニコライエフに話しかけた。

「パパー!」

娘はそう叫んだ、かもしれない。それまでの淡々としたミッションでやや疲れていた関係者達は、このほほえましいエピソードに癒され、また、励まされたに違いない。(写真はテレシコワとマイクを握るエレナ。左の男性はフルノフ飛行士。)

飛行は順調で、17日には飛行17日目を迎え、それまでの長期飛行記録(16日間=米・ジェミニ7号による)を塗り替えた。だがその一方、体に変調をきたしつつもあり、既に、飛行13日目には単純ミスが目立つようになっていた。

帰還後、盛大にセレモニーを催そうという雰囲気に対し、「暫くの間、病院で安静にしているべきだ」と主張したのは、カマーニン、唯一人だった。

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
Encyclopedia Astronautica  http://www.astronautix.com/
“Soyuz” by Rex D. Hall & David J. Shayler, Springer Praxis, 2003
“Sputnik and the Soviet Space Challenge”by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
NASA JSC Digital Image Collection  http://images.jsc.nasa.gov/index.html
S.P. Korolev Rocket and Space corporation ENERGIA http://www.energia.ru/english/index.html