ソユーズ運用リスト5 Soyuz missions 1986-1989
前へ
※時刻は日本時間/24時間表記を使用している。
※運用期間は、その宇宙船が飛行していた時間である(クルーのそれとは必ずしも一致しない)。
ソユーズT-15号
打上時刻:1986年3月13日21時33分09秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1986年7月16日21時34分05秒
帰還地点:アルカリク市の北東55キロ
運用期間:125日00時間00分56秒
クルー: レオニード・キジム(船長)
ウラジミール・ソロフィエフ(フライトエンジニア)
概要:
サリュート7号にはまだ終わっていない実験や持ち帰ってない資料などが残されていた。ソユーズT-14号が帰還した時点で宇宙船の在庫は1機(これは83年9月に失敗したソユーズT-10aの帰還モジュールを再利用)であり、また同時期開発中だった新型「ソユーズTM」もまだフライトレベルに達していなかった。また、新型宇宙ステーション(ミール)は、居住モジュールは打ち上げを待つばかりだったが、それに結合するモジュールはまだできあがっていない段階だった。そこで当局は、新型ステーションを打ち上げ、そこへ最後のソユーズT宇宙船を飛ばし、そしてそこからサリュート7号へ飛び移り残った仕事を片付け、また新型ステーションへ戻るという飛行計画を立てた。
1986年2月20日、ソ連は新型ステーションを打ち上げた。この名は「ミール」と発表され、西側観測筋の「サリュート8号」の予測を外した。ソ連は打ち上げを大々的に宣伝したが、その名(「平和」という意味)と共に、当時冷えていた東西関係への当てつけであったとされる。宣伝が大きかったために、さぞ巨大で斬新なステーションを打ち上げたことだろうと西側観測筋は推測したが、実際は単なるサリュートの改良版だった。ただ、ひとつ大きな相違点があり、それはフロントに5つのドッキング装置を備えたポートが装着されたことだった。ソ連は1990年までに4つの大型モジュールを接続することを表明した。
キジムとソロフィエフの名は、それまでのソ連クルーと異なり、打ち上げの前に公表された。加えて、彼らの打ち上げはライブで中継されたが、これも初のことだった。
彼らの任務は、後続のミールクルーのために下準備をすることだった。無人貨物船プログレス25号と26号が4月と5月に到着し、物資が運び込まれた。また、通信衛星コスモス1700を経由して管制部と通信が行われたが、中継衛星を経由した管制部とのライブトークは初のことだった。
サリュート7号はミールの前方7000キロを、やや低い高度で飛行していた。5月4日、ミールのエンジンを噴射し高度を下げ、サリュートへのアプローチが行われた。ミール自体の高度を下げたのは、ソユーズの燃料を節約するためである。翌5日、キジムらはソユーズに乗り込み、ミールを離れ、サリュートへ向かった。この時両者の距離は2500キロの間隔があり、移動に29時間を要した。
5月28日、彼らは3時間50分の船外活動を行い、外壁に固定された曝露サンプルの回収などを行った。2度目の活動が同31日に実施され、活動時間は5時間だった。
サリュートでの活動を終えると、6月24〜25日にかけてミールのエンジンを2度噴射し、軌道を上昇、サリュートに近づけた。25日、クルーはサリュートを離れ、再び29時間かけてミールに戻った。この際、350ないし400キロの重量に達する各種機器や記録がサリュートからミールに搬送された。サリュートは8月19日から22日にかけて高度を上昇し475キロに達したが、これは新記録。大気の抵抗をできるだけ抑えるための処置だったが、その効きは予想以上に大きく、55ヵ月後に大気圏に突入した。
ちなみに、7月3日、キジムがリューミンの滞在記録を抜いた。7月6日、彼は丸1年(365日)を宇宙で過ごした最初の飛行士となった。
ソユーズTM-1号
新型「ソユーズTM」宇宙船のテスト飛行で、1986年5月21日、無人で打ち上げられた。約9日間の飛行後、同30日に帰還した。
ソユーズTM-2号
打上時刻:1987年2月5日06時38分16秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1987年7月30日10時04分12秒
帰還地点:アルカリクから80キロ
運用期間:174日3時間25分56秒
クルー:打上時 ユーリ・ロマネンコ(船長)
アレクサンドル・ラフェイキン(フライトエンジニア)
帰還時 アレクサンドル・ビクトレンコ(船長)
アレクサンドル・ラフェイキン(フライトエンジニア)
ムハンマド・ファーリス(科学搭乗員)
概要:
もともとこの宇宙船にはウラジミール・チトフとアレクサンドル・セレブロフが搭乗する予定だったが、発射の数日前になってロマネンコとラフィエキンに変更になった。これはどちらかの急病が理由と考えられている。
ラフェイキンは無重力状態を“痛い”と言った数少ない飛行士である。すでに1月18日にプログレス27号無人貨物船が到着しており、彼らはまずその荷解きを行った。また、3月5日にはプログレス28号が到着し、新型の結晶製造装置“Korund”やカメラなどが運び込まれた。特に“Korund”は実用的半導体結晶を製造するものであった。
プログレス28号が分離離脱すると、4月1日、大型モジュール「クバント1」が打ち上げられた。これはミールに匹敵する重量を有するモジュールで、天体観測用X線・紫外線望遠鏡などを搭載している。もともとサリュート7号にセットされる予定だったが、開発が遅れたため、ミール据え付けとなった。それ自身には自走装置がついていないため、TKS宇宙船をベースとした推進部(スペースタグ)を備えて打ち上げられた。
クバントは4月5日にドッキング予定だったが、200メートルまで接近したところでブレーキが利かず、脇をかすめていった。ロマネンコによると距離わずか30メートルで、間一髪だったという。同9日、再試行が行われソフトドッキングまではうまくいったがハードドックしなかった。何かがポートに挟まっている疑いが高くなり、同11日、クルーは緊急の船外活動で点検にでた。その結果、プラスチックシートが挟まっていることが確認され取り除かれた。シートはプログレス28号に付随していたもので、打ち上げ前に取り除かれるのを忘れられたものだった。彼らはハードドッキングを完了した。また、クバントを誘導してきたタグが分離破棄された。
4月21日、プログレス29号が到着し、物資と燃料がミールに運び込まれた。続く5月21日にはプログレス30号が到着した。6月12日、1時間53分の船外活動が実施され、太陽電池パネルの増設が行われた。これは同16日にかけて実施され、この日の船外活動は3時間5分に及んだ。
7月24日、ソユーズTM-3号が到着したが、これにはシリア人の飛行士が搭乗しており、彼はミールに乗り込んだ最初の外国人となった。また、アレクサンドル・アレクサンドロフが搭乗していた。彼はそもそも1週間のショートステイの予定だったが、打ち上げ1ヶ月前に、長期滞在が命じられた。これはラフィエキンとの交代命令であり、彼に心臓疾患の疑いが出たためだった。こうしてラフィエキンは174日の宇宙滞在で帰還した。
ロマネンコはソユーズT-10号のキジムらが樹立した滞在記録を9月30日に更新した。また、彼らの滞在中、8月5日にプログレス31号が、9月26日に同32号が補給を行った。8月31日、地上管制部はクルーに宇宙服を着用し、直ちに地上へ帰還せよと命令を出した。実はこれは非常事態に備えた訓練だったが、彼らには事前に教えてなかった。
11月23日、プログレス33号が到着し、12月23日にはソユーズTM-4号が来訪した。この宇宙船には次の長期滞在クルーであるウラジミール・チトフとムーサ・マナロフ、そしてショートステイのアナトリー・レフチェンコが搭乗していた。ロマネンコとアレクサンドロフそしてレフチェンコはソユーズTM-3号で帰還した。ちなみに3人はそれぞれ別々の日にミールにやってきて、かつ同じ宇宙船で帰還したことになるが、このようなケースは初だった。
約327日の飛行から帰還したロマネンコはすこぶる元気だった。一応、予防的措置で、担架で宇宙船から担ぎ出されたが、西側メディアはふざけて“wreck”(「難破船(からの帰還)」と「体がぼろぼろになっている」の二重意味)と表現した。
ソユーズTM-3号
打上時刻:1987年7月22日10時59分17秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1987年12月29日18時16分15秒
帰還地点:アルカリク市の北東140キロ
運用期間:160日7時間25分56秒
クルー:打上時 アレキサンダー・ビクトレンコ(船長)
アレクサンドル・アレクサンドロフ(フライトエンジニア)
ムハンマド・ファーリス(科学搭乗員)
帰還時 ユーリ・ロマネンコ(船長)
アレクサンドル・アレクサンドロフ(フライトエンジニア)
アナトリー・レフチェンコ(科学搭乗員)
概要:
この宇宙船は第3回目の国際共同飛行(インターコスモスミッションとして言えば12回目)であり、シリアのムハンマド・ファーリス飛行士が搭乗していた。打ち上げの2日後、クバントにドッキングした。
ファーリスはそれまでの国際共同飛行士が行ったような科学や結晶成長実験、それにシリア上空を飛行(これはまれなチャンスだった)した際には写真撮影を行った。
ビクトレンコとファーリスは、滞在を打ち切って帰還を命じられたラフィエキンと共にソユーズTM-2に乗り込み、地上に戻った。ちなみに帰還場所はおなじみのアルカリク市の北東だったが、パラシュートで降下するモジュールは流され、建造物から僅か2キロのところに着陸。皆をハラハラさせたという。
ソユーズTM-4号
打上時刻:1987年12月21日20時18分03秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1988年6月17日19時12分32秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東180キロ
運用期間:178日22時間54分29秒
クルー:打上時 ウラジミール・チトフ(船長)
ムーサ・マナロフ(フライトエンジニア)
アナトリー・レフチェンコ(科学搭乗員)
帰還時 アナトリー・ソロフィエフ(船長)
ビクトル・サヴィヌイフ(フライトエンジニア)
アレクサンドル・アレクサンドロフ(ブルガリア人 科学搭乗員)
概要:
チトフ、マナロフそしてレフチェンコを乗せたソユーズTM-4宇宙船は、打ち上げ2日後にミールにドッキングした。長期滞在中のロマネンコとアレクサンドロフは、レフチェンコとは初対面。ちなみにレフチェンコはソ連版スペースシャトルのパイロット要員だった。5日後、ロマネンコ、アレクサンドロフ、レフチェンコの3人はソユーズTM-3号で地上へ帰還し、チトフとマナロフが新たな長期滞在クルーとなった。マナロフはルーキーだった。
彼らの滞在は極めて安定的であった。1988年1月23日にはプログレス34号が到着し、約2トンの物資が運び込まれた。2月26日、チトフとマナロフは4時間25分の船外活動を行い、太陽電池パネル(先にロマネンコとラフィエキンが設置したパネル)の故障箇所を交換した。3月25日にはプログレス35号が、5月15日には同36号が到着した。
そのようなルーチンワークの中、5月下旬にはクバント1モジュールの故障箇所を改修するための船外活動が予定されていたが、これはソユーズTM-5号の訪問ミッションを終えてからに延期された。
6月9日、アナトリー・ソロフィエフ、ビクトル・サヴィヌイフおよびブルガリア人2人目の飛行士となるアレクサンドル・アレクサンドロフ(同名のロシア人と区別注意)が搭乗したソユーズTM-5号が来訪した。彼らは通常のショートステイよりも2日長い8日間滞在し、地上へ帰還した。その後、チトフらはソユーズTM-5号をフロントポートへと移し替え、次のプログレス到着に備えた。
6月30日、彼らは船外活動でクバントから故障機器を取り外したが、それは5時間を要するちょっとした大仕事だった。据え付けられる新しい機器は7月20日到着するプログレス37号で運び込まれることになるのだが、その設置は、ソユーズTM-6号の来訪が終わってからに延期された。
8月31日、ソユーズTM-6号が到着、ウラジミール・リャホフ、アフガン人のアブドゥル・モハマンドそして医師であるワレリ・ポリャコフの3人がミールに乗り移った。これも国際共同ミッションで、モハマンドとリャホフは6日後のソユーズTM-5号で地上に帰還した。この後、9月12日にプログレス38号が到着した。
10月20日、ついにクバントへ新しい観測装置が据え付けられ、望遠鏡は機能を回復した。11月11日、チトフとマナロフはロマネンコの滞在記録を更新した。この頃、フランス人飛行士ジャン・ルー・クレチアンが再びソユーズに乗ることが発表された。クレアチンを乗せたソユーズTM-7号は11月26日に打ち上げられた。クレアチンと共に飛んだロシア人はアレクサンダー・ボルコフおよびセルゲイ・クリカリョフ。ソ連当局は、ボルコフとクリカリョフがポリャコフと共に長期滞在を行うと発表した。
365日の滞在記録を樹立したチトフとマナロフは、クレアチンと共に、12月21日にソユーズTM-6号でミールを離れた。この帰還ミッションでは、ソユーズTM-5号(帰路)でのトラブル(詳細はTM-6号の項参照)を受けて、軌道モジュールは逆噴射が完了するまで分離されなかった。
この時点でチトフとマナロフの滞在記録は最長となり、また、クレアチンの滞在記録は25日と更新された。しかしソ連当局は、「当面、長期滞在は約5ヶ月に抑える」と発表した。
ソユーズTM-5号
打上時刻:1988年6月7日23時3分13秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1988年9月7日09時49分38秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東202キロ
運用期間:91日10時間46分25秒
クルー:打上時 アナトリー・ソロフィエフ(船長)
ビクトル・サヴィヌイフ(フライトエンジニア)
アレクサンドル・アレクサンドロフ(ブルガリア人 科学搭乗員)
帰還時 ウラジミール・リャホフ(船長)
アブドゥル・ムハンマド(科学搭乗員)
概要:
第4回目の国際共同飛行(インターコスモスとしては第13回目)、ブルガリア人アレクサンドル・アレクサンドロフ(同名のロシア人と注意)が、ブルガリア人として初めて宇宙ステーション滞在を行った。もともとブルガリア人はソユーズ33号でゲオルギー・イワノフが搭乗したのが初だが、ソユーズのトラブルでサリュート滞在ができなかった(ソユーズ33号の項参照)。この時のトラブルを埋め合わせるために、ソ連当局はブルガリアに対し再度同国飛行士の搭乗を打診、実現化したのがこの飛行であった。事実、ソ連はイワノフの時にできなかった5日間のショートステイをアレクサンドロフに追加し、計10日間の滞在メニューを組んだのである。
ただしメディアは当初、混乱させられた。一年前の同時期に、同名のロシア人飛行士が帰還したこと記憶に新しかったためである(ソユーズTM-4号)。
ミッションは入念な用意もあって、すべて滞りなく実行された。アレクサンドロフが行った実験は40に上り、その多くは今後さらなる発展のためにミールに残された。彼らの滞在中、ソユーズTM-6号が到着した。
アレクサンドロフらはソユーズTM-4号で地上へ戻った。
ソユーズTM-6号
打上時刻:1988年8月29日13時23分11秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1988年12月21日18時57分00秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東160キロ
運用期間:114日5時間33分49秒
クルー:打上時 ウラジミー・リャホフ(船長)
ワレリ・ポリャコフ(医師)
アブドゥル・ムハンマド(科学搭乗員)
帰還時 ウラジミール・チトフ(船長)
ムーサ・マナロフ(フライトエンジニア)
ジャン・ルー・クレチアン(科学搭乗員)
概要:
第5回目の国際共同飛行(インターコスモスとしては14回目)であり、アフガニスタン人のムハンマドが搭乗した。ソ連によるアフガニスタン侵攻の件で東西関係は冷え切った中、アフガン人の飛行は同国とソ連の友好関係を象徴するものとして宣伝された。
ムハンマドの主たる任務は、それまでのインターコスモス同様、軌道上からの空撮であった。
ちなみにリャホフは、この飛行で3種類の宇宙船とステーション(過去には搭乗したのはソユーズ32号、ソユーズT−9、サリュート6号、サリュート7号)を経験することになった。また、このフライトにはフライトエンジニアが乗っていなかった。そもそもリャホフには単独飛行ミッションが予定されており、彼一人ですべてできるように訓練されていたためである。
帰還の際、危機一髪の出来事があった。詳しくはこちらへ http://spacesite.biz/space_soyzTM5.htm
ソユーズTM-7号
打上時刻:1988年11月27日00時49分34秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1989年4月27日11時57分58秒
帰還地点:ジェズカズガン市の北東140キロ
運用期間:151日11時間08分24秒
クルー:打上時 アレキサンダー・ボルコフ(船長)
セルゲイ・クリカリョフ(フライトエンジニア)
ジャン・ルー・クレチアン(科学搭乗員)
帰還時 アレキサンダー・ボルコフ(船長)
セルゲイ・クリカリョフ(フライトエンジニア)
ワレリ・ポリャコフ(科学搭乗員)
概要:
第6回目の国際共同飛行(インターコスモスとしては15回目)であり、これが最後の国際共同飛行(インターコスモス)となった。搭乗したのはフランス人クレアチンであったが、これまでのソ仏宇宙提携が非常に生産的なものであったため、最重要事項として扱われた。実際、フランス大統領ミッテランはバイコヌールにコンコルドで乗り付け、打ち上げに立ち会ったのだが、それを実現させるために打ち上げ日時を11月27日にしたのであった(元々21日だった)。
このミッションでクレアチンは、30日のミール滞在と、船外活動を行うことになっていた。彼はもちろん、米ソ人以外で初めて船外活動を行った人物となった。このような“サービス”に対し、ソ連はフランスから見返りとして多くの科学実験装置の提供を受けた。しかし“タダ”でソユーズの座席が提供されたのはこれが最後となり、次のフランス人飛行士の時には1200万ドルがソ連に支払われている。
ちなみにクレアチンが宇宙に滞在したのは24日ほど。これはミッテランの日程がずれたことが影響している。打ち上げの直前、バイコヌールではミッテランとそのご一行を囲む人々そしてメディアがごった返し、その中をクルーは歩み進んで、伝統として行われる宣誓式に臨んだ。
すべては順調に進み、クレアチンらはミールに滞在するボルコフらと合流した。クレアチン(とボルコフ)の船外活動は12月12日に予定されていたが、3日早められ9日に実施された。彼らは5時間57分の活動中、フランスから提供された実験装置を据え付けた。これは宇宙空間で立方体に展開するカーボンファイバー製構造体で、800万ドルがかかったもの。材料・構造実験の一環だったが、展開せず失敗に終わった。構造体は彼らによって破棄された。展開にはかなり労力を使ったようで、後に「強く蹴っ飛ばしてやった」とボルコフは告白している。
クレアチンは12月21日、チトフそしてマナロフと共にソユーズTM-6号で地上に帰還し、ミールにはボルコフ、クリカリョフそしてポリャコフが残された。27日にはプログレス39号が到着、年末年始の祝いの品々が届けられた。
この頃、ミールには次のモジュールが接続される予定だったが、経済状況の厳しさなどからスケジュールは大幅に遅れていた。したがって実行できる実験類も限られたものになった。一方、ミールの傷みが早くも始まっており、それは冷却系の漏れなど面倒なもので、二次汚染なども広がっていた。クルーはそれらの修理に時間を割かねばならず、これらのことは、今後の運用とミールの寿命に関して関係者に暗い影を落とすことになった。
1989年2月12日、プログレス40号が到着した。クルーのリクエストで、キュウリのピクルスが積まれていた。ボルコフとクリカリョフによって行われる予定だった船外活動はキャンセルされ、ポリャコフの滞在延長を示唆する話が流れてきた。3月3日、プログレス40号はミールを離脱したがすぐに大気圏突入させられず、しばらくミールの周囲を飛行しながら構造物展開実験が実施された。3月18日、プログレス41号が到着した。
ところで地上では、アレクサンドル・ビクトレンコとアレクサンドル・バランディンが訓練を続けていた。実は元々バランディンの代わりにアレクサンドル・セレブロフがビクトレンコと組むはずだったが、セレブロフが運用するはずだった新モジュールの打ち上げが遅れていたため入れ替えられたのであった。彼らは4月19日にソユーズTM-8で打ち上げられ、ボルコフ、クリカリョフと交代する予定になっていた。ところが4月12日、ソ連当局は、ミールに滞在している3人は全員ソユーズTM-7号で帰還し、数ヶ月間ステーションを無人にすると発表した。これは、新モジュールのめどが立たない中、有人運用を続けても無駄であるとの判断からだった。
3人は4月27日に帰還した。
ソユーズTM-8号
打上時刻:1989年9月6日06時38分03秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-M
帰還時刻:1990年2月19日13時36分18秒
帰還地点:アルカリク市の北東55キロ
運用期間:166日06時間58分15秒
クルー:打上時 アレキサンダー・ビクトレンコ(船長)
アレクサンドル・セレブロフ(フライトエンジニア)
概要:
1987年2月から有人運用が継続されてきたミールであったが、89年に入り初めて4ヶ月間の無人運用が実施された。しかし有人運用の再開を強く示唆する出来事がプログレス無人貨物宇宙船の打ち上げで、89年8月23日のことだった。これは2日後にミールにドッキングし、しかもバージョンアップした「プログレスM」型宇宙船であった。
9月6日、ソユーズTM-8号が打ち上げられた。船長は予想通りビクトレンコであったが、フライトエンジニアがバランディンではなくセレブロフだった。このため、新モジュールの打ち上げも近いと西側は推測した。また、ソユーズロケットには広告が描かれていたが、これもソ連宇宙開発史上初のことだった。彼らはミールのリアポートにドッキングしたが、
しかし、新モジュールの打ち上げが延び、本来なら10月に予定されていたものが11月となり、クルー交代のプランに支障を与えかねなくなってきた。モジュール打ち上げ延期をソ連メディアも報じたが、メディアが遅延を批判的に扱ったのはそれまでになかったことだった。
11月26日、新モジュール「クバント2」が打ち上げられたが、軌道上で太陽電池パネルのひとつが展開しなかった。これはミール接続後に船外活動での展開必要性を示すものであった。また、ドッキングは距離20キロのところで延期となった。これはクバント2の軌道が適切でなかったためで、12月6日に再試行が行われ、今度は成功した。クバント2はフロントポートのトップ(5つのポートのうち軸線上)にドッキングしたが、ロボットアームでサイド(トップ以外の4つのひとつ)に付け替えられた。この間、ソユーズTM-8号はリアポートにいたが、20分かけてフロントのトップポートに移し替えられた。
12月20日、プログレスM-2号がリアポートに到着した。この貨物船には米国の民間製実験装置が搭載されていたが、これはソユーズロケットに描かれていた広告と関連がある。
クバント2は大型のモジュールで、広いエアロック、各種科学実験装置、撮像カメラや生命維持装置そしてシャワーを搭載していた。また、ソ連版「MMU」(Manned
Maneuvering Unit)が積まれていた。米国版MMUは1984年に実施された3回のスペースシャトルミッションで使用されたそれが有名で、テザー無しで飛行士を誘導する装置である。ソ連版MMUの場合は、テザーがついていた。
1990年1月、3回の船外活動が実施され、3月に到着予定の新モジュールの受け入れ準備や、曝露資料の回収などが行われた。2月1日、4回目の船外活動が行われ、セレブロフがMMUを使用した最初のロシア人となった。彼はそれを操り、ミールから33メートルの距離まで離れた。その4日後には5回目の船外活動が行われ、ビクトレンコは45メートル離れることに成功した。
計5回で実施された船外活動は17時間を越えた。
次へ