ソユーズ運用リスト4 Soyuz missions 1982-1985
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※時刻は日本時間/24時間表記を使用している。
※運用期間は、その宇宙船が飛行していた時間である(クルーのそれとは必ずしも一致しない)。
ソユーズT-5号
打上時刻:1982年5月13日18時58分05秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1982年8月28日00時04分16秒
帰還地点:ジェズカズガン市の東225キロ
運用期間:106日05時間06分11秒
クルー:打上時 アナトリー・ベレゾボイ(船長)
ワレンティン・レベデフ(フライトエンジニア)
帰還時 レオニード・ポポフ(船長)
アレクサンドル・セレブロフ(フライトエンジニア)
スベトラナ・サビツカヤ(科学搭乗員)
概要:
1982年4月19日、ソ連はサリュート7号を打ち上げた。これは同6号をグレードアップしたもので、MKFおよびKateカメラに加え、大型X線望遠鏡や新型の運動器具が備えられ、そして外壁には船外活動をよりスムーズに行うために取っ手の数が増やされた。太陽電池パネルも3枚になり、より規模の大きい実験を複数同時に実施するための電力確保が図られた。また、大型モジュールが安全にドッキングできるよう、ドッキングポートにも改良が加えられている。
この新ステーションに最初に滞在するクルーがベレゾボイとレベデフで、ソユーズT-5号で向かった。ベレゾボイはルーキーでレベデフは2度目の飛行であったが、両者の仲はミッション開始直後から険悪になった。彼らは約200日に及ぶ長期滞在中、必要最小限以外は殆ど口をきかなかったとされる。幸いだったのは、彼らの滞在中、2度の短期クルーが訪問したことだった。
サリュートに到着直後の5月17日、レベデフらはエアロックから小型のアマチュア無線衛星「Iskra 2」を軌道へ投入した。これは専用の球形エアロックからスプリングの力で行うもので、クルーは船内にいるままで実行できる。地球周回軌道を周回する宇宙船から別の衛星を放出するのは、これが初の試みとなった。25日、プログレス無人貨物船を迎えるにあたり、サリュートの姿勢を転向させた。その際のスラスターエンジン噴射はかなりの騒音で、「まるで樽をスレッジハンマーで叩いているようだった」とレベデフは語っている。同日、プログレス13号がドッキングした。
それまでのサリュートでも行われてきた地上撮影や合金実験、各種生化学実験などを続ける中、6月25日にはソユーズT-6号が到着した。これにはフランス人のジャン・ルー・クレチアンが搭乗し、1週間のショートステイを行った。7月12日にはプログレス14号が到着し、水に食料、燃料を運び込んだ。サリュート7号で初となる船外活動は7月30日に実施された。2人は2時間33分の活動中、外壁にあらかじめ固定されていた資料を回収し、新たなそれを設置したりした。この活動はレベデフがリーダーで、ベレゾボイが補佐。ベレゾボイはレベデフの活動をカメラで撮影し、ライブで地上管制部に送ったりもした。
8月には女性で二人目の飛行士となるスベトラナ・サビツカヤがソユーズT-7で到着し、また、2機のプログレス(15および16号)補給船を迎えたりした。プログレスのエンジン噴射で軌道高度を上昇させ、5月に続き2機目の衛星の軌道投入を実施した。
クルーは年末押し迫って(もしくは年を越して)の地上帰還が予定されていたようだが、早めに打ち切られた。滞在期間は211日であったが、これは当時の新記録。ソユーズT-7号に乗ったレベデフらは12月10日に帰還したが、ハードな着陸で、斜面を転げるものだった。モジュールが停止したとき、放り出されたレベデフはベレゾボイと重なっていたという。着陸地点は濃い霧と豪雪で、気温はマイナス18℃。回収もやや難航し、その日は野営することになり、彼らはトラックの荷台で寝ることになった。
彼らは体重を落としており、また赤血球の減少なども確認され、体調が本調子に戻るまで約1ヶ月を要したという。
レベデフは滞在中の日記を出版しており、その貴重な体験やサリュートでの生活、彼の心情などを知ることができる。出版の動機は、「飛行士とてただの人間であるのだ」ということを知ってもらいたかったということだった。
ソユーズT-6号
打上時刻:1982年6月25日01時29分48秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1982年7月2日23時20分40秒
帰還地点:アルカリク市の北東65キロ
運用期間:7日21時間50分52秒
クルー:打上時 ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
アレクサンドル・イワンチェンコフ(フライトエンジニア)
ジャン・ルー・クレチアン(科学搭乗員)
概要: 1966年より続いてきたソ連・フランスの宇宙開発協力を飾るハイライトミッションが、1980年に決定された。それが、フランス人飛行士がサリュートにショートステイするというものであり、実行に移されたのがこのソユーズT-6号であった。
船長には当初マリシェフが選定されたが、彼とクレアチンの相性が合わなかったため、ジャニベコフに変更されたという。非常に能力の高かったクレアチンは当初、シミュレーター訓練でマリシェフに一切のことを禁じられたという。イライラを募らせた彼はついに、訓練に参加せず、枕を抱えて別のシミュレーターに乗り込み、居眠りを決め込んでしまった。そうやってマリシェフへの激しい抗議を表明したのだった。
新しいクルーメンバーとの関係は非常に良好で、25日、フランスの関係者も見守る中、ソユーズT-6号は打ち上げられた。しかし自動誘導装置が故障し、ドッキングは手動で実施された。この誘導装置の不安定さは当時の最大の懸念になっていたようで、シミュレーターではあらゆる事態を想定した訓練が繰り返し実施されていた。
軌道上で彼らは数多くの実験をこなし、それらは現実以上のものに感じる手応えだったようである。内容はインターコスモスで実施された類似のものより、より高度かつ有益なものだった。またこのとき、米国のスペースシャトル「コロンビア」が軌道上を周回しており、7人の飛行士が軌道上で生活をしている状態にあった(これは1969年以来のことだった)。
約1週間の短期滞在を終えてクレアチンらは帰還した。彼は打ち上げの時よりも、帰還時の大気圏突入がとても印象的だったという。ちなみに彼は後日、ソ連側に対し、実験メニューが過剰だったと苦言を呈した。また、終始宇宙酔いが解消されることはなかったことも明らかにしている。
ソユーズT-7号
打上時刻:1982年8月20日02時11分52秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1982年12月11日04時02分36秒
帰還地点:アルカリク市の北東70キロ(ジェズカズガン市の東118キロと記す資料もあり)
運用期間:113日1時間50分44秒
クルー:打上時 レオニード・ポポフ(船長)
アレクサンドル・セレブロフ(フライトエンジニア)
スベトラナ・サビツカヤ(科学搭乗員)
帰還時 アナトリー・ベレゾボイ(船長)
ワレンティン・レベデフ(フライトエンジニア)
概要:
ワレンティナ・テレシコワが初の女性飛行士として宇宙を飛んでから19年、このソユーズT-7号には史上2人目の女性飛行士サビツカヤが搭乗していた。米国がシャトルに米国初の女性飛行士サリー・ライドを搭乗させることを表明しており、その直前に打ち上げたことは、プロパガンダ的であった。
世界の注目は高く、サリュートとのドッキングはライブ中継されたが、サビツカヤに注目が集まっており、ポポフとセレブロフの存在は「ところであの2人はだれ?」というものだった。
サリュートに到着すると、彼女らは歓迎を受けた。サビツカヤは身だしなみを気にしつつ、「ちょっと待って」を繰り返しながら、最後にサリュートに入った。レベデフらはサリュートで育てた花をお祝いに渡した。その際、「これはサリュートで種から育てたもので、宇宙で生まれ育った“宇宙花”だ」と説明した。彼は日記に「ステーションに来訪した最初の女性に、最初の宇宙花はふさわしい。人類の宇宙への植民のシンボルとして」と残している。また、一通りの歓迎が終わると、レベデフは彼女に水色のエプロンを渡し「スベトラナ、君はパイロットであり宇宙飛行士であるが、その前に女性だ。給仕を頼む」と言っている。これはジョークとしてメディアでは解されたが、先の「宇宙への植民のシンボル」といい、「女性は家事をし生み育てるのが仕事」とするロシア古来の習慣を象徴している。彼女は引き受けたが、恐らく、内心不快だったと思われる。
そもそもレベデフは、女性の来訪を快く思っていなかった。「ミッションの足手まといにならなければよいが」と思っていたが、実際に共同生活が始まると彼女の能力の高さが次第にわかっていき、そのような考えは払拭されたという。
彼女らはソユーズT-5号に乗って地上に帰還した。また、レベデフ、ベレゾボイの長期滞在クルーはT-7号にて12月に帰還した。
ソユーズT-8号
打上時刻:1983年4月20日22時10分54秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1983年4月22日22時28分42秒
帰還地点:アルカリク市の北東60キロ
運用期間:2日00時間17分48秒
クルー: ウラジミール・チトフ(船長)
ゲンナジー・ストレカロフ(フライトエンジニア)
アレクサンドル・セレブロフ(科学搭乗員)
概要:
サリュート7号は82年末から83年春まで主のいない状態で飛行していたが、3月には無人のモジュール(コスモス1443号)が接続されたりした。この増築されたサリュートに長期滞在すべく送り込まれたのがチトフら3人であった。
しかしそのミッションは出鼻からトラブルに見舞われた。フェアリングが分離する際、ソユーズのドッキングレーダーを引っかけてしまい、レーダーは半分展開したところで止まってしまった。彼らはスラスターを吹かして船体を振動させ、その完全展開を試みたが失敗。しかもこの出来事を隠すため、最初はスラスター噴射を「エンジンテスト」と偽って報告した。
本来ならば地上へ帰還すべきはずだが、チトフには地上からの支援の元、目視でのマニュアルドッキング試行が許可された。しかしそれは夜間側でのアプローチとなり、猛スピードでサリュートの脇をかすめるという、間一髪で大惨事を免れたものだった。彼は減速を行い、サリュートのリアポートへのドッキングを試みようとしたが、残存燃料が僅かとなったため、ミッションは打ち切りとなった。後にチトフが明らかにしたことだが、彼はマニュアルドッキングを充分に受けていなかったという。
ソユーズT-9号
打上時刻:1983年6月27日18時12分00秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1983年11月24日04時58分00秒
帰還地点:ジェズカズガン市の東160キロ
運用期間:149日10時間54分00秒
クルー:ウラジミール・リャホフ(船長)
アレクサンドル・アレクサンドロフ(フライトエンジニア)
概要:
ソユーズT-8号の失敗により、T-9号のクルーにはT-8号クルーに課せられていたメニューがそのまま引き継がれることになった。しかし、T-8号クルーに課せられていた高度な船外活動はT-9号クルーには無理と判断され、後日、T-8号クルーがソユーズで向かい実施されることになった。
打ち上げは順調だったが、周回軌道に投入された後、太陽電池パネルの片方が展開しなかった(これはソユーズ1号以来のトラブルで、公にされたのは1993年だった)が、飛行に問題はなかった。
リャホフとアレクサンドロフの任務は生化学実験や地上撮影など、それまでのサリュートミッションで実施されたものと同様のものだった。ただこのとき、フロントポートに大型モジュール「コスモス1443」がドッキングしており、この運用も行われた。
7月27日、避難訓練を実施中、彼らは衝撃音を聞いた。調べたところ厚さ14ミリの窓ガラスに、深さ4ミリに達する衝突痕があった。それは当時活動が活発だったみずがめ座流星群の微小隕石か、あるいは軌道上のデブリか、その類いのものの衝突痕と考えられている。8月14日、コスモス1443が切り離されると、リアポートにドッキングしていたソユーズが(コスモスが抜けた後で空いている)フロントポートに移動させられた。8月19日、リアポートにプログレス17号が到着した。このプログレスは9月27日に離脱投棄され、空いたリアポートにはソユーズT-10号が来ることになっていた。
この時、サリュートは傷みが激しかった。燃料漏れが生じ、バックアップのメインエンジンは不調で、太陽電池パネルも調子が悪く、発電量が低下していた。中でも大きな問題は9月7日に発生した。プログレスから酸化剤を転送中、パイプが破損したのだった。また、32あるスラスターのうち半分は使用不能となり、サリュートはもはや廃船かと思われたが、地上管制部は問題の解決と実験の継続を決定した。9月、チトフとストレカロフを乗せたソユーズが失敗すると、西側では、リャホフらが軌道上にトラップされていることを懸念する記事が流れた。特にソユーズT-9が使用期限を越えていることに触れ、センセーショナルに扱われた。
10月21日、プログレス無人貨物船が太陽電池パネルや燃料などを搭載して打ち上げられた。太陽電池パネルのメンテは結局リャホフらによって行われることになり、2回の船外活動でそれは実施されたが、なにせ訓練を受けていなかっただけに、予定よりも時間がかかってしまった。ルーキーであるアレクサンドロフには特に負担で、活動中に管制部から叱責をうけることもあった。
11月24日、彼らは帰還の途に就いたが、使用期限を越えて運用されたソユーズTの信頼性が懸念された。だが問題は一切なく、逆に新型宇宙船の信頼性が高まることになった。
ソユーズT-10a 号
打上時刻:1983年9月27日04時37分29秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1983年9月27日04時43分02秒
帰還地点:射点近傍(緊急脱出)
運用期間:0日00時間05分13秒
クルー:クルー: ウラジミール・チトフ(船長)
ゲンナジー・ストレカロフ(フライトエンジニア)
概要:
ソユーズT-8号に搭乗していたチトフとストレカロフが、再度サリュートに搭乗すべくソユーズに乗り込んだ。彼らの任務は太陽電池パネルのメンテナンスと増設で、そのための船外活動訓練を受けており、彼らにしかできなかったためである(このためか、ソユーズ操船の練度はそれほど高くなかったようである。T-8号、T-9号の項も参照)。
打ち上げまでは順調に進んでいたが、発射の直前、燃料があふれて引火した。火はあっという間に広がり、ロケットは爆発したが、間一髪、エスケープ装置が起動し、彼らの乗った宇宙船はフェアリングごと高空に飛び去った。2人の乗った帰還モジュールは分離され、パラシュートを展開して離れた場所に着地した。
緊急脱出モードに入ったことを認識したとき、チトフは「またサリュートに行けないのか」と思ったそうである。詳しくはこちらへ http://spacesite.biz/ussrspace16.htm
ソユーズT-10号
打上時刻:1984年2月8日21時07分24秒
射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1984年4月11日19時48分48秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東145キロ
運用期間:62日22時間41分22秒
クルー:打上時 レオニード・キジム(船長)
ウラジミール・ソロフィエフ(フライトエンジニア)
オレグ・アトコフ(科学搭乗員)
帰還時 ユーリ・マリシェフ(船長)
ゲンナジー・ストレカロフ(フライトエンジニア)
ラケッシュ・シャルマ(科学搭乗員)
概要:
ソユーズT-10号は3人を乗せて2月8日に打ち上げられ、翌日にサリュート7号にドッキングした。ソ連はしかし、具体的な滞在期間を発表しなかった。滞在開始からまもなく、プログレス19号が到着、生活物資などを搬入した。アトコフは医者であり、彼は自身の健康管理と計測を続け、データを取った。
4月4日、クルーはソユーズT-11号を迎えた。これにはインド人飛行士が搭乗しており、1週間のショートステイで帰った。ちなみにこのとき米国のスペースシャトル・チャレンジャー(5人搭乗)も軌道上におり、計11人が軌道上を飛行したのはこれが初めてであった。
4月20日、プログレス20号が到着し、サリュート燃料系を修理する工具と資材が運び込まれた。23日、1回目の船外活動が行われ、4時間15分に及ぶ作業実施の下準備が行われた。3日後、4時間56分の船外活動で修理が行われ、29日と5月3日にはそれぞれ2時間45分の活動が実施され、計5回の船外活動で修理が完了した。プログレス20号が切り離されると同21号が到着し、新しい太陽電池パネルが持ち込まれた。また、プログレスのタンクから燃料が、修理したての配管を通してサリュートにチャージされた。5回の船外活動は当時の最多記録。
7月18日から同29日まで、ソユーズT-12号のショートステイを迎えた。その後の8月8日、6回目の船外活動が実施され、西側観測筋を驚かせた。この活動では燃料系の追加の改修が実施されたが、これはもともと予定されていなかったもので、手順等は管制部から逐一伝達された。これは5時間の活動だった。
プログレス23号が8月末に到着し、9月はじめ、クルーはそれまでの滞在記録211日(レベデフらによる)を更新した。最終的に、236日22時間49分の新記録を樹立した。
ソユーズT-11号
打上時刻:1984年4月3日22時08分00秒
射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1984年10月2日19時57分00秒
帰還地点:アルカリク市の東46キロ
運用期間:181日21時間48分00秒
クルー:打上時 ユーリ・マリシェフ(船長)
ゲンナジー・ストレカロフ(フライトエンジニア)
ラケッシュ・シャルマ(科学搭乗員)
帰還時 レオニード・キジム(船長)
ウラジミール・ソロフィエフ(フライトエンジニア)
オレグ・アトコフ(科学搭乗員)
概要:
ソユーズT-6号以来、2回目の国際共同飛行(インターコスモスとしてカウントすれば11回目)で、インド人のラケッシュ・シャルマが搭乗した。彼ら3名のサリュート到着で、一度に6人がサリュートに滞在したが、これは最多記録。インドの科学実験や地上撮影、ヨガのポーズでの無重力適応観察などが実施された。彼らショートステイ組はソユーズT-10号で地上に帰還した。
ちなみに、フライトエンジニアにはもともとルカビシニコフが任じられていたが、メディカルチェックで異常が見つかり、外されてしまった。彼は何年にもわたりサリュートの訓練を受けてきていたので、この決定は深くがっかりさせることとなった。そもそもルカビシニコフは1971年、ソユーズ10号でサリュート1号に向かったが、ドッキングの不調であえなく帰還。その後アポロ・ソユーズ・テストプログラム(ASTP)に加えられることとなり、サリュート4号に搭乗する代わりに、ソユーズ16号でASTPのドレスリハーサルをやらされることになった。サリュートに滞在するチャンスが1979年に訪れたが、搭乗していたソユーズ33号がエンジントラブルのため緊急帰還する羽目に。結局ルカビシニコフはサリュートに乗り込むことも、また、この後宇宙を飛ぶこともなかった。
ソユーズT-12号
打上時刻:1984年7月18日02時40分54秒
射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1984年7月29日21時55分30秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東140キロ
運用期間:11日19時間14分36秒
クルー: ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
スベトラナ・サビツカヤ(フライトエンジニア)
イゴール・ボルク(科学搭乗員)
概要:
このフライトではサビツカヤがソユーズT-7号以来、2度目の飛行をすること、また、ボルクがソ連版スペースシャトル「ブラン」のパイロットに内定していたことが特徴である。特にボルクは、ソユーズ25号の一件で導入された「オールルーキーのクルーはあってはならない」という規定のため、宇宙飛行を経験しておく必要があるとされ、今回の飛行に至った。ちなみに彼はもともと、83年、キジムおよびソロフィエフと共に飛ぶ予定だったが、ソユーズT-8号の失敗でスケジュールが狂い、今回になってしまった。
また、サビツカヤとジャニベコフは共同で3時間35分の船外活動にあたったが、女性では初、そしてソ連/ロシアの女性飛行士で船外活動を行ったのは現時点で彼女のみである。また、男女の飛行士がペアで船外活動に携わったのも史上初であった。これらの“史上初”は、3ヶ月後に米国が予定していたスペースシャトルでの同様ミッションを意識して、先に達成したものである(NASAは83年11月、キャスリン・サリバンに船外活動をさせると表明。それから1ヶ月もしないうちにソ連はT-12号のクルーにサビツカヤを入れることを決定した)。船外活動では、金属切断やハンダ付け、溶接実験が実行された。活動の最後には、外壁に固定してあった暴露サンプルの回収が行われた。
ブラン計画は極秘事項だったため、サリュートでのボルクの訓練内容は表にされなかった。彼は帰還後、ブランの制御システムを備えたツポレフ154やミグ25を操縦し、宇宙滞在が彼のスキルに与える影響の測定が実施された。これは、ブランが地上へ帰還する際のシミュレーションに相当するものであった。
ソユーズT-13号
打上時刻:1985年6月6日15時39分52秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1985年9月26日18時51分58秒
帰還地点:ジェズカズガン市の北東220キロ
運用期間:112日03時間12分06秒
クルー:打上時 ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
ビクトル・サヴィヌイフ(フライトエンジニア)
帰還時 ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
ゲオルギー・グレチコ(フライトエンジニア)
概要:
今後のサリュート7号の次の長期滞在クルーとして、そもそものプランでは、ウラジミール・ヴァシューチン、ビクトル・サヴィヌイフおよびアレクサンドル・ボルコフがソユーズT-13号で飛び立つことになっており、その半年間の長期滞在期間中、女性のみで構成されたクルーがソユーズT-14号で2週間のショートステイを行うことになっていた(このT-14号の船長にはサビツカヤが予定されていた)。その後、ソユーズT-15号で最後の長期滞在クルーが飛び立ち、そのミッション完了後、新しい宇宙ステーションを打ち上げることになっていた。
だが、1985年の初旬には、サリュート7号は全ての機能を停止して、軌道上を“漂流”していた。電力は失われ、管制部とのコンタクトも取れない状態になっていた。関係者の間では、内部は凍結し、二度と居住はできないものと考えられていた。そのまま放置しておくと、米スカイラブの落下(1979年)の二の舞になる可能性があったため、人員を派遣し機能を復活させることが決定された。
このために選抜されたのがジャニベコフとサヴィヌイフであった。ジャニベコフは1年前にサリュートから帰還したばかりであったが、計4度の宇宙飛行を行い(これはソ連では当時の最多記録)、ドッキング能力に長けていた。しかし、ソユーズT-12号で帰還した際にはこのような任務を受けることになるとは聞いていなかった。彼らの目的は、サリュートの再生が可能か否かを見極めることであり、実際復旧できたら、ソユーズT-14号で滞在クルーが送り込まれることになった。
ソユーズT-13号は打ち上げの2日後、漂うサリュート7号近傍へ到着した。そのとき彼らが見たものは、各々勝手な方向を向けた3枚の太陽電池パネルと、船体長軸を中心にゆっくり回転するサリュートの姿だった。彼らは携帯型レーザー測距計で距離を測りながら、全体のチェックを行った。この後、巧みな操船でフロントポートに近づき、ハードドッキングを行った。この成功には管制部もさすがに驚き、歓喜したという。もちろん、機能停止したステーションにドッキングした初のケースである。
彼らはドッキングポートにおける電気系の接続が死んでいることを確認した。また、ハッチを開ける前にサリュート内のエアをサンプルし、分析した。その結果、船内は非常に低温であるが、呼吸はできる状態であることが確認された。耐寒服を着込み、手袋と毛糸の帽子、そして酸素マスクを着用し、恐る恐る船内に入った彼らが見たものは、霜で氷結した船内であった。彼らはまずバッテリーを確認したが、8個は放電し尽くし、2個は壊れていた。太陽電池パネルを正しく向けるためのセンサーが故障しており、充電ができない状態だった。テレメトリーも機能しておらず、したがって管制部からステーションの診断をすることもできなかった。このことから、センサーの故障によりバッテリーがアガり、機能喪失に至ったと結論づけられた。
まずやることはバッテリーの充電であった。これには姿勢を制御する必要があったが、これはソユーズT-13号側のスラスター噴射等で実施された。6月10日にはエアヒーターの機能が回復されたが、エアの循環はソユーズの力を借りる他なかった。13日には姿勢制御系が機能を回復し、管制部は歓喜に包まれた。これはプログレス貨物船の到着が可能になったことを意味する。壁面のヒータにーは、霜が完全に消失してから通電された。船内湿度も、6月末には通常値になった。水タンクも6月末までには復旧された。水まわりのヒーターも凍結で破壊されていたため、代わりにテレビカメラ用の強力照明を当てることで温度が確保された。
リカバリーの最中であった6月23日、プログレス24号が到着し、資材や生活物資を運び込んだ。しかもその合間には、通常の科学実験も行われたのである。完全復旧した後の7月21日、大型モジュール「コスモス1669」がドッキングした。これにより更に本格活動が実施され、また、8月2日には船外活動で太陽電池パネルの増設が行われた。こうして最終的に、ステーションの機能は完全回復された。このリカバリーミッションはまさに「奇跡」と呼ぶにふさわしいものとなった。
コスモス1669は8月27日に分離破棄され、9月18日、ソユーズT-14号が到着した。ジャニベコフはT-14号に搭乗していたグレチコと2人で先に地上に帰還し、サヴィヌイフは長期滞在記録更新を目指して生活を始めたが、T-14号でやってきたヴァシューチンの急病のため、全員で戻ることになった。
ソユーズT-14号
打上時刻:1985年9月17日21時38分52秒
射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
形式:7K-ST
帰還時刻:1985年11月21日19時31分00秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東180キロ
運用期間:64日21時間52分08秒
クルー:打上時 ウラジミール・ヴァシューチン(船長)
ゲオルギー・グレチコ(フライトエンジニア)
アレキサンダー・ボルコフ(科学搭乗員)
帰還時 ウラジミール・ヴァシューチン(船長)
ビクトル・サヴィヌイフ(フライトエンジニア)
アレキサンダー・ボルコフ(科学搭乗員)
概要:
サヴィヌイフらは282日の長期滞在記録樹立を目指して生活を始めた。全ては順調で、それまでのミッションと同様のルーチンワークも始まった。10月2日には大型モジュール「コスモス1686」がドッキングした。コスモス1686には偵察装置も搭載されていたようで、それはクルー唯一の軍人であったボルコフが操作した。また、クルー全員が女性であるソユーズがサリュートを訪問する計画も練られていた。ヴァシューチンらはあらゆる実験を期日前に完了して1986年3月に帰還、「サリュート8号」と呼ばれることになるであろう新型ステーションが打ち上げられる、という流れが期待されていた。
しかし思惑通りには進まなかった。船長であるヴァシューチンは体調の不良を訴え始めた。ちょっとした不快感を訴えた彼は抗生物質で抑えようとしたが、完全にはいかなかった。このことが船長の任務遂行に障害となり、彼は役割を全うできていないことを気にし始めた。不眠症と食欲不振に陥り、彼は更に苦しむことになった。これらのことを当初、クルーは地上管制部には黙っていたが、いよいよ専門家のケアが必要な段階になったところで打ち明けることとなった。当局はサリュートでの活動を定期的に西側に公表していたが、「クルーの健康状態は良好」の一文がリリースからなくなったことに観測筋は気づいた。軌道の関係から11月までは軌道滞在を余儀なくされた。
11月13日、クルーは地上へ緊急連絡を行った。17日までにヴァシューチンの状態は悪化、腹部に激しい傷みを訴え、医師団はこれ以上のフライトは不可と判断した。サヴィヌイフが指揮を執り、地上へ帰還することが決定した。結局、サヴィヌイフの長期滞在は168日で終了した。
帰還後、ヴァシューチンは直ちにモスクワへ搬送された。盲腸の疑いがあったが、検査の結果、前立腺の炎症とそれに伴う発熱であることが判明した。実は彼は事前に持病のあることを申告していなかった。この結果より厳しい身体検査が実施されることになり、これが元で今後飛べなくなったベテラン飛行士やや、あるいはまだ一度も飛ばずに飛行士隊を去ることになった者たちもいた。ヴァシューチン自身は86年2月に退役し、元いた空軍部隊へと戻った。
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