ソユーズ運用リスト3 Soyuz missions 1980-1981

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※時刻は日本時間/24時間表記を使用している。
※運用期間は、その宇宙船が飛行していた時間である(クルーのそれとは必ずしも一致しない)。

ソユーズ35号

打上時刻:1980年4月9日22時38分22秒
    射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1980年6月4日00時06分23秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東180キロ
運用期間:55日01時間28分01秒
  クルー:打上時 レオニード・ポポフ(船長)
            ワレリ・リューミン(フライトエンジニア)
        帰還時 ワレリ・クバソフ(船長)
            ファルカシュ・ベルタラン(科学搭乗員)

概要:
リャホフとリューミンが79年8月に地上に戻って以来無人であったサリュート6号に、4組目の長期滞在クルーが搭乗することになり、ソユーズ35号は彼らを乗せて打ち上げられた宇宙船である。もともとフライトエンジニアにはワレンティン・レベデフが就いていたが、打ち上げの直前、トランポリン訓練中に膝を痛めてしまい、搭乗できなくなった。規定では、クルーには経験者が最低一人は加わることになっていたため(船長のポポフはルーキー)、急遽リューミンがフライトエンジニアとして搭乗することになった。長期滞在から帰還し8ヶ月あまりで再度長期滞在に臨むとは、ある意味名誉なことであり、そしてハードなことであった。リューミンの家族は怒ったという。

ちなみに8ヶ月の無人飛行中、サリュートには2機の無人機が訪れていた。一機はソユーズT-1号であり、もう一機はプログレス8号である。プログレスはソユーズT-1が離脱した直後の80年3月27日に打ち上げられリアポートにドッキング、4月2日までのエンジン噴射でソユーズ35号の到着に合わせた軌道調整が行われていた。

4月10日、35号はサリュートにドッキングした。サリュートを去るクルーは、次のクルーに向けた手紙を残すのが習慣であったが、リューミンは自分が残した手紙を自分で見ることになろうとは、ある意味皮肉な話である。ポポフは興奮気味であったが、リューミンは「まあ落ち着け」と抑えた。

リューミンはチェックの際、2つの窓が透明度を失っていることを確認した。それは微小隕石やデブリの衝突で外側が傷ついた結果だった。また彼らはプログレス8号に搭載されていた物資(新しいバッテリーやエアタンク)を運び出して交換したり、時計を管制部と合わせたりなど、新生活に備えた。

プログレス8号は4月25日に切り離され、その2日後プログレス9号が打ち上げられ、29日にドッキングした。この輸送ミッションではプログレスのタンクからサリュートへの水移し替えが行われたが、これは初めての試みだった。荷ほどきは4月12日までには完了した。

滞在中にはプラスチックの成形など各種実験が実施された。また宇宙ミニガーデン“オアシス”での栽培実験も行われ、リューミンは地上管制部へ巨大なキュウリを見せて自慢したが、あとでそれは模型であったことを明かした。

彼らの滞在中、5月にはソユーズ36号の来訪があった。これはインターコスモスミッションでハンガリー人が乗っていた。6月にはソユーズT-2号で2人の飛行士がやってきたが、これはテスト飛行で、わずか二日でサリュートを後にした。7月1日にはプログレス10号が到着したが、生活物資の他に、ポラロイドカメラやカラーモニター、ロシアンポップスのカセットテープなども入っていた。7月19日にはモスクワ五輪開会式で、軌道上からライブで祝辞を述べた。五輪期間中、ソユーズ37号がベトナム人を乗せて打ち上げられ、サリュートにショートステイした。

8月にはMKF-6MおよびKT-140カメラでソ連領の集中撮影が実行された。約4500ショットが撮影され、カバー領域は9600万平方キロに達した。

9月にはソユーズ38号が打ち上げられ、このインターコスモスミッションではキューバ人がやってきた。リューミンらはゲストクルーらと共に、27の材料、医学実験を行った。

プログレス11号が9月下旬に打ち上げられたが、これは西側観測筋を驚かせた。クルーはまもなく帰還すると踏んでおり、追加物資は必要ないと見ていたからであった。事実、クルーらはまもなく帰還したが、プログレスの荷ほどきは半分ほどだったという。

クルーは10月11日に帰還した。飛行期間は185日とそれまでの記録(175日)を更新したが、IAFの規定(それまでの記録を10%を上回る)に合わなかったため新記録と認定されなかった。リューミンは滞在中に3キロも太ってしまった。また彼は3度の宇宙飛行が通算1年に達し、「私は火星へいける」と語った。彼らは帰還後1週間もしないうちにテニスができるまでに筋力を回復したが、これは厳しく管理された軌道上での運動プログラムの成果であった。


ソユーズ36号

打上時刻:1980年5月27日03時20分39秒
    射点:第31番射点(Pad 31)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1980年7月31日00時15分02秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東140キロ
運用期間:65日20時間54分23秒
  クルー:打上時 ワレリ・クバソフ(船長)
            ファルカシュ・ベルタラン(科学搭乗員)
        帰還時 ビクトル・ゴルバチコ(船長)
            パン・トアン(科学搭乗員)

概要:
インターコスモスミッション第5回目であり、ハンガリーのベルタランがサリュートに向かった。元々前年の6月に予定されていたものであったが、ソユーズ33号のトラブルのため延期されていたものである。打ち上げの翌日にサリュートのリアポートにドッキングし、ベルタランはハンガリーの食べ物などを差し入れした。一緒に向かったクバソフよりも彼の方が無重力への適応は早かったと伝えられている。

ベルタランらは数多くの実験を実施し、一時は睡眠時間が3時間ほどしか取れないくらいであった。無重力化におけるインターフェロンの作用実験には力が注がれた。

彼らは約7日間の飛行を終え、6月3日、ソユーズ35号で帰還した。

翌日、サリュートのリューミンらは36号に乗り込み、リアポートから(35号が接舷していた)フロントポートにそれを移し替えた。この慌ただしい付け替えに西側観測筋は、立て続けにインターコスモスをやるのではないかと勘ぐったが、違った。打ち上げは実施されたが、それはソユーズTの有人テスト飛行であった。


ソユーズT-2号

打上時刻:1980年6月5日23時19分30秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-ST
帰還時刻:1980年6月9日21時39分00秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東198キロ
運用期間:3日22時間19分30秒
  クルー: ユーリ・マリシェフ(船長)
       ウラジミール・アクショーノフ(フライトエンジニア)

概要:
前年、ソユーズT-1の無人テスト飛行に成功したソ連は、今度は有人テスト飛行を実施した。それがこのソユーズT-2号である。ソユーズTは新型の「アルゴン」コンピュータを搭載し、完全自動ドッキングを目指していたが、サリュートまで200メートルのところで装置が故障、手動ドッキングを余儀なくされた。

ドッキング後、サリュートには6人が滞在したが、約2日半後、クルーはT-2に乗り込みサリュートを後にしたが、完全離脱の前に全景を撮影している。帰途、彼らは軌道モジュールを逆噴射の前に分離したが、これにより逆噴射の時間を短くできた(つまり燃料軽減)。


ソユーズ37号

打上時刻:1980年7月24日03時33分03秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1980年10月11日18時49分57秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東180キロ
運用期間:79日15時間16分54秒
  クルー:打上時 ビクトル・ゴルバチコ(船長)
            パン・トアン(科学搭乗員)
        帰還時 レオニード・ポポフ(船長)
            ワレリ・リューミン(フライトエンジニア)

概要:
第6回目のインターコスモスミッションで、ベトナム人のトアンが搭乗した。彼はアジア人初の宇宙飛行士でもある。インターコスモスは極めて政治的なミッションであったが、37号の飛行はその代表格であった。というのも、トアン自身、ベトナム戦争に参加した戦士であることが強調され、また、モスクワ五輪にひっかけた打ち上げでもあった。前年の79年にソ連はアフガニスタン侵攻を行っており、西側が一斉に五輪参加をボイコットするなど、東西が極めて緊張した状態であった。

トアンの無重力への適応はいまひとつだったようである。頭痛と食欲低下に悩まされたと言われるが、体が慣れてくると、予定されていた実験など活動を精力的にこなした。ソ連の発表では、彼の主要ミッションはベトナムの空撮であり、ベトナム戦争における空爆が森林などに与えた影響を調査することであったが、これもまた政治的発表の仕方であった。


ソユーズ38号

打上時刻:1980年9月19日04時11分03秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1980年9月27日00時54分27秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東175キロ
運用期間:7日20時間43分24秒
  クルー: ユーリ・ロマネンコ(船長)
       アルナルド・タマヨ・メンデス(科学搭乗員)

概要:
第7回インターコスモスミッションで、キューバ人のメンデスが搭乗した。西側観測筋は9月24日頃に打ち上げるのではないかと予測していたが、実際は19日であった。これは、キューバからその飛行が見えるように意図したためであった。

軌道上で行われた実験はそれまでにも実施されてきたようなものであった。彼らは乗ってきた38号で帰還したが、着陸予定ポイントから僅か3キロしか離れていない場所に着陸し、これは当時最も正確なランディングであった。

なお、サリュートに長期滞在していたポポフとリューミンが10月11日、ソユーズ37号で帰還した。


ソユーズT-3号

打上時刻:1980年11月27日23時18分28秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-ST
帰還時刻:1980年12月10日18時26分10秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東129キロ
運用期間:12日19時間07分42秒
  クルー: レオニード・キジム(船長)
       オレグ・マカロフ(フライトエンジニア)    
        ゲンナジー・ストレカロフ(科学搭乗員)

概要:
1971年のソユーズ11号以来、初の3人乗りソユーズ。そのテスト飛行でもあったが、彼らの最大の任務は、サリュート6号のメンテナンスであった。打ち上げられたソユーズT-3号はT-2号と異なり自動ドッキングに成功、10月にリューミンらが帰還して空き家になっていたサリュート6号に乗り移った。

12月2日、メンテナンス作業を開始し、まず熱コントロールシステムから手をつけた。同4日にはテレメトリーシステムの電気系に着手、5日に故障箇所を発見し修繕した。その他、燃料輸送系やオンボードコントロールシステム、電源系の交換なども実施した。

9日、プログレス11号のエンジンによりサリュートの軌道上昇が行われた。その後プログレスは離脱破棄され、それに続いて彼らも地上に帰還した。この3人飛行成功は大きな成果だったが、しかしソ連当局は、今後必ずしも3人目を乗せて飛ばすわけではないと表明した。


ソユーズT-4号

打上時刻:1981年3月13日04時00分11秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-ST
帰還時刻:1981年5月26日21時37分34秒
帰還地点:ジェズカズガン市の東124キロ
運用期間:74日17時間37分23秒
  クルー: ウラジミール・コワリョーノフ(船長)
       ビクトル・サヴィヌイフ(フライトエンジニア)

概要:
サリュート6号最後となる長期滞在クルーがソユーズT-4号で向かった。もともとこのミッションはソ連が予定していたものではなく、ソユーズ33号のトラブルによるスケジュール再編成で付け足されたものとされる。33号のトラブルがなければ、モンゴルとルーマニアのゲスト飛行士が滞りなく宇宙滞在をしていたのだが、それができなくなった。その実行のための長期滞在といえる。またこれは、長期係留しておいたソユーズT型宇宙船の信頼性チェックも同時にできることになった。

ちなみにサヴィヌイフは宇宙を飛んだ100人目、ソ連では50人目の飛行士となった。彼らのT型ソユーズに対する練度は高くなかったため、宇宙船の移し替えなどは予定されなかった。これはすなわち、彼らのミッション期間が限定的なものになることを意味した。81年1月にドッキングしていたプログレス12号の荷ほどきをすると、長期滞在に備えた準備を行った。プログレス12号は3月20日に離脱破棄された。

3月23日、ソユーズ39号でモンゴル人ゲスト飛行士が訪れた。このショートステイが終わると、クルーはソユーズT-4号のドッキングユニットをサリュートのものに交換する試みを行った。こうすれば別のソユーズと軌道上で(ソユーズ同士の)ドッキングが可能になるが、これはレスキューミッションの可能性を検討するためのものだったと考えられている(ソユーズ33号のトラブルを受けて)。5月15日、ルーマニア人ゲスト飛行士が訪れ、滞りなくミッションが遂行された。

コワリョーノフらは5月26日に帰還したが、サリュート6号にはその後、サリュートと同サイズの無人モジュール(コスモス1267)が接続され、様々な試験運用が実施された。このことは、続くサリュートがより規模の大きいミッションを想定していることを西側に推測させた。サリュート6号は1982年7月、軌道離脱、破棄された。


ソユーズ39号

打上時刻:1981年3月22日23時58分55秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1981年3月30日20時40分58秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東175キロ
運用期間:7日20時間42分03秒
  クルー: ウラジミール・ジャニベコフ(船長)
       ジェクテルデミット・グラグチャ(科学搭乗員)

概要:
第8回インターコスモスミッション。搭乗したゲスト飛行士は人類101番目の宇宙飛行士でもあったが、その名を“Jugderdemidiin Gurragchaa”と配信され、各国報道部の目を白黒させた。ジェクテルデミット・グラグチャと読まれる彼は、モンゴル人。ジャニベコフを船長とするソユーズ39号は打ち上げの翌日、サリュート6号にドッキングした。

ミッションの内容は、それまでのインターコスモスと大差ないものであった(すなわちいくつかの医学的実験と、地球観測。この場合はモンゴルの撮影)。

ちなみに、グラグチャは無重力にかなり興奮したリアクションを示した(数少ない)飛行士のひとり。このことが「品行がよろしくなかった」、「訓練の成績があまりよろしくなかった」などという話を後に残すことになったと思われる。軌道上での彼の姿は、写真がたった1枚リリースされただけだったが、着陸直後の表情は任務を全うした誇り高き飛行士のそれだったという。


ソユーズ40号

打上時刻:1981年5月15日02時16分38秒
    射点:第1番射点(Pad 1)、バイコヌール
   形式:7K-T
帰還時刻:1981年5月22日22時58分30秒
帰還地点:ジェズカズガン市の南東225キロ
運用期間:7日20時間41分52秒
  クルー: レオニード・ポポフ(船長)
       ドゥミトル・プルナリュー(科学搭乗員)

概要:
最後のインターコスモスミッション(第9回)であり、ソユーズ12号から続いてきた第2世代ソユーズ最後の飛行であった。搭乗していたプルナリューはルーマニア人。滞在中はそれまでにも行われてきたミッションに加え、高層大気や磁場の観測なども行われた。

ちなみに、この後もソ連友好国の人間を乗せたソユーズを打ち上げるが、資料によってはそれらもインターコスモスミッションに含める場合もある(ソユーズ40号までの9回にはインターコスモス仕様の共通ロゴが用いられており、これらが正規と見なせる)。

プルナリューらの帰還後、程なくしてコワリョーノフらがソユーズT-4号で帰還した。約3年半の運用期間中、サリュート6号を訪れたクルーは16組で、到着した無人貨物船は15機。飛行士の滞在期間は通算676日で、軌道上で撮影された地表の画像は13000ショットに達する。遂行された実験は1310項目であった。

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