“東方”という名の宇宙船(3)
2000年9月21日、米CNNは一人の男の訃報を伝えた。筆者の記憶が正しければ、以下のような内容だったはずである。
「オリンピックで金メダルを取ったアスリートのことは、誰しも、時が経った後でも覚えているものであるが、銀メダル選手のことは殆ど覚えていないものだ。その、宇宙飛行の銀メダリストであるゲルマン・チトフが20日、心不全で亡くなった。65歳だった。」
折しもちょうど、シドニー五輪(9月15日〜10月1日)の真っ最中。記者もこれにひっかけて、このような記事を書いたのだろう。
ソ連の宇宙飛行士で、一般人の間でもよく知られている、或いは一度は耳にしたことのある名前は紛れもない、ユーリ・ガガーリン。そう、人類で最初に宇宙へ飛び出した金メダリストだが、チトフとなると話は違う。宇宙開発に少々興味のある人でないと出てこない名前だ。
五輪でメダルを取り損なったアスリートは、年齢など特別な問題でもない限り、次こそはと4年後に照準を合わせて新たな一歩を踏み出す。しかしチトフの場合、ガガーリンのバックアップと決まった瞬間、銀メダルを覆すことは永遠にできなくなったのだ。
「何でそんなことを聞くんだよ!辛かったかどうかだと…そりゃ、多少なりとも不愉快だったさ!」
後年、自分が2番手と決まった瞬間の心境を聞かれたチトフはこのような言葉を発している。最終選考に残った両者は、1960年末、訓練の仕上がり具合や判断能力など、適性はほぼ互角だった。しかしこの金メダルは、己の筋肉でつかみ取る運動競技とは異なり、上層部がその判断で授けるもの。宇宙飛行士チームの同期として結束力の硬い中でも、互いに譲るところがなかったライバル心…。
◇
ガガーリンの劇的な地球周回飛行の次を巡っては、セルゲイ・コロリョフとその周辺の関係者とでは、意見が割れていた。ガガーリンは地球を1周しただけであり、次の飛行ではそれ以上のものを目指すという点では共通していたものの、飛行を16周とするか3周とするかでもめていたのである。
地球を16周というのは、丸一日すなわち24時間飛行を意味する。元々ガガーリンの飛行も24時間が予定されていたが、1960年8月に丸一日周回飛行した犬「ベルカ」と「ストレルカ」に元気が無く、これを受けて最初の有人飛行は地球を1周するのみと決定されていたのだ(開発史7参照)。しかし今やその1周を成功させた以上、それを上回ることをしないと意味がない。
宇宙飛行士の訓練監督であったニコライ・カマーニンは、1周から16周へといきなり飛躍するのはリスクが大きすぎると判断、生体医学担当部門のリーダー、ウラジミール・ヤツドフスキー(「スペースドッグ・犬の話」参照)の助言もあって、3周に抑えるように主張していた。無重力が人間に与える影響を慎重に集めるべきであるというのがその根拠である。
一方、コロリョフや第1設計局のエンジニアらは、16周飛行を主張していた。コロリョフは慎重な男と思われがちだが、チャレンジャーな側面もあったことを忘れてはならない。彼は政府の意志とは別に、彼自身の気持ちとして積極的に米国に勝つことを意識し、思い切った判断を下し、部下を鼓舞しミッションを遂行していたのである。
ちなみに打ち上げから3周目までは、ソ連領内の広範囲へ着陸できる。だが3周目の機会を逃すと、次は16周目まで待たねばならない。
結局、コロリョフは他の支持も取り付け主張を押し通すことに成功した。しかし無重力が人体に与える医学的影響については、殆ど無知に等しかった。犬の飛行はあくまで犬の飛行であり、生身の人間が無重力を体験したと言っても、僅かに地球を1周したに過ぎない…90分かそこら、ちょっと行って帰ってきた時間である。これがいきなり24時間となると、どのような影響が現れるのか…食事に排泄、それに睡眠もある…もはやそこ一時の飛行ではない、“住む”と言って過言でない状況下に置かれるのだ。
◇
ところで、米国も指をくわえてソ連の偉業を見ていたわけではない。「マーキュリー計画」はフルスイングで進められ、ガガーリンには負けたものの、程なく宇宙飛行を達成させたのである。
1961年5月5日、アラン・シェパードを乗せたマーキュリー「フリーダム7」・レッドストーンはまっすぐ天空を目指した。スマートな形のロケットが空の彼方に消え行く様に、全米の人々が釘付けとなり、歓声を上げたのである。ごく簡単に、当時の我が国の新聞報道を振り返ってみよう。
米の宇宙ロケット成功 シェパード中佐無事生還 十五分四八三`飛ぶ 【ケープカナベラル五日仲共同特派員】米航空宇宙局(NASA)は五日午前九時三十四分(日本時間同日午後十一時三十四分)ついに米国初の人間弾道ロケット打ち上げに成功した。アラン・シェパード海軍中佐を乗せたカプセルはほぼ正確に予定コースを飛び、発射十五分後にバハマ島沖の大西洋上に着水改修され、シェパード中佐は空母レーク・シャンプレインに無事収容された。 MR(マーキュリー・レッドストーン)3計画といわれるこんどの人間弾道飛行計画は当初二日に実施の予定だったが、悪天候と燃料系統の故障で延期され、五日に決行されたもの。この日もカウントダウン(時間読み)開始から発射までの九時間半の間に七回も時間読みを注視したほどで、気象や精神的困難と悪戦苦闘の連続であった。 シェパード中佐を乗せたレッドストーン・ロケットは、NASA当局者をはじめ日本人記者を含む約五百人の報道陣が見守るうちに時間読み“ゼロ”の九時三十四分、ものすごい轟音とすさまじい火炎とともにゆっくり上昇を開始、たちまあち高空に姿を消した。シェパード中佐は打ち上げ三分後無線電話で“すばらしいながめだ。気密室のぐあいはすべて良好”と堪え、地上の関係者をホッとさせた。 中佐を乗せたカプセルは高度百八十四`(予定どおり)飛行直線距離四百八十三`(予定は四百六十四`)の弾道軌道を、十五分間(予定どおり)で飛び、同九時四十九分大気中の空母レーク・シャンプレインからわずか四・八`離れた海上に落下さんで降下した。中佐は海面に浮かんだカプセルから自分でトビラをあけてはい出したほど元気で、ヘリコプターにつりあげられたのち、同九時五十三分乗組員の歓呼のうちに空母に帰還、さっそく約二時間医学的検査を受けたが異常なしと発表された。 中佐はバハマ諸島の海軍基地に寄って四十八時間の精密検査を受けたあと、八日ワシントンでケネディ大統領と会見することになっている。 ところでこんどの米国の人間弾道飛行は四月十二日のソ連人間衛星に比較すれば、初歩的な段階ではあるが、西欧陣営宇宙科学の指導的地位にある米国の体面を一応辛うじて保ったものといえよう。とくに実際の飛行が予定にほぼ一致したこと、シェパード中佐のカプセル内の操作が完全に行われたことは注目され、おそまきながら今年末に予定されている人間周回飛行に明るい希望を点じたものといえる。 (以下、略) 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)5月6日(土)夕刊 一面】 |
今回も例のごとく地方紙からの引用であるが、国際ニュースは殆ど外電や共同通信の引用であるから、社説などを除けば全国紙と内容は大差ないだろう。
打ち上げ4日前の5月2日、新聞夕刊は「今夜打ち上げか」と一面で書き立てていた。米宇宙飛行士第1号はジョン・グレンと本命視されている中、シェパードがややリードとの見方も取り上げ、盛り上げている。しかし一方では、事前に打ち上げを宣伝するようなことはやめるべきだと主張する上院議員の声も紹介している。「米国が失敗することはないだろうが、やはり打ち上げてからの発表の方がよいのではないか」というものだ。
余談だが、金メダリストはシェパードのはずだが、それをグレンと勘違いしている米国民は多い。そう、グレンは1962年2月にマーキュリー「フレンドシップ7」で、米国人として初めて地球周回飛行を成し遂げた人物。その周回飛行というインパクト、それがどうしても目立ってしまうのだ…順序で言えば、グレンは銀どころか銅メダルなのだが。弾道飛行とはいえ、宇宙へ最初に飛び出したのは、シェパードである。
「私が、米国人で最初に宇宙を飛んだ人間です」
生前、シェパードは講演会などの冒頭で、こう挨拶しては会場を笑いの渦に巻き込んでいた。この自嘲的なジョークも、グレン以前に宇宙を飛んだ米国人がいたことすら知らないものには、何が面白いのかわからなかったことだろう。アポロねつ造説も普通に唱えられる世の中だ…あと50年かそこらもしないうちに、「シェパード、実は飛ばなかった」「シェパードの前に飛んだ飛行士がいた」などという話が公然と語られる日が来る、かも知れない(?)。
続く7月21日、米は2機目のマーキュリーも成功させた。飛行士はガス・グリソム空軍大尉で、飛行時間は15分、水平到達距離は488kmという、まさに“K点越え”ジャンプ。着陸の際ハッチが吹き飛び海水がなだれ込み、カプセルが沈んでしまうという“着地失敗”に見舞われたが、彼は銀メダリストとして歴史に名前を残すことになった。
新聞報道はどちらも飛行から数日間、何らかの情報を伝え続けた。ただその取り上げ方は、ボストーク1号ほどのめり込んだものではなかった(この辺、各紙見比べるとまた違った面白さがあるのだろうが)。弾道飛行であるし、伝え手にも「いまさら…」という気持ちがあったのだろうか(補足1参照)。
なお、ケネディが「60年代中に人間を月へ立たせる」と高らかに演説したのは、5月25日。現在これは、ソ連宇宙開発に対する公式回答かのように捉えられることが多いが、しかしこの2週間後、ケネディはフルシチョフに対し相互協力で月を目指すことはできないか、その可能性を問うていたことは注意に値する。フルシチョフはあっさり“ニエット”の返事を返したが、その後思い直し“考えてみよう”と返答、だが最終的にはやはり断った。
この心の揺らぎに関し、フルシチョフの息子のセルゲイ・フルシチョフは後に、「いずれ米国は我が国を攻撃することになるだろう。協力するということは、こちらの手の内も明かすということだ。当時の我々は結局、何も持ってはいなかった…そのことこそ、隠さねばならぬことだったのだ!」と語っている。実はソ連のロケットやICBMなど恐れるに足りぬものであることを一番知っていたのは、フルシチョフたちソ連指導部だったのである。
◇
話を戻そう。ボストーク2号に搭乗するのはチトフである。彼の任務は“24時間耐久”に出ることであり、その間には食事や睡眠の他、宇宙船の姿勢制御も含まれていた。ボストークには姿勢制御ハンドルが備えてあったが、ガガーリンは一切それに触れていない…チトフは軌道上でそれを握り、船の姿勢を動かす実験を行うことになっていたのである。
チトフの打ち上げは8月6日に決定した。彼は5日の夜、ガガーリンもその前夜を過ごした小屋の中に入り、ガガーリンも寝たベッドに横になった。ガガーリンのバックアップとしての自分が寝たベッドには、今度はニコライエフが寝ている。
ステップ気候のバイコヌール、冬期は厳冬だが真夏は暑く、陽が沈んでもまだ気温は高かった。チトフは寝付けず、窓を開け放ったという。
夜は遠くまで音がよく伝わる…彼方に見える発射場で、整備に当たる関係者達の声や物音が聞こえただろうか…恐らく煌煌と輝く照明塔も目に入ったに違いない。誰もが、ボストークのために働いている…「明日は、いよいよ自分の番だ…」そんな喜びと興奮もあったことだろうか。
翌朝。準備の整ったチトフはバスに乗り込むと、前回はガガーリンが座った席に腰を下ろした。その後ろには、ニコライエフ。満面の笑みを浮かべるチトフの写真が残されているが(右)、その何とも言えない嬉しそうな笑顔…4月以来、彼はこの日をどれほど待ちわびていたことだろう。
6日、モスクワ時間・午前9時、バイコヌール宇宙基地・第1番発射台よりボストークロケットが打ち上げられた。タス通信は至急電を放ち、モスクワ放送が番組を中断して声明を発表したが、これはガガーリンの時と同じだった。日本の新聞は、この日の夕刊には間に合わず、翌日の朝刊で一面を中心に大きく記載した。奇しくも広島への原爆投下の日と重なりその関連記事があってもよさそうなのだが、完全に消し去られている。
ソ連、第2号人間宇宙船打ち上げ 順調に軌道を飛行中 17周後に回収か 飛行士はチトーフ少佐 手動装置で操縦 【モスクワ六日タス=共同】ソ連は六日午前九時(日本時間午後三時)人間宇宙船ウォストーク二号を打ち上げた。この宇宙船はゲルマン・ステパノビッチ・チトーフ少佐によって操縦されている。宇宙船飛行の仕事は長い軌道上の飛行と地上への降下の人体に及ぼす影響と無重力状態での人間の仕事の能力を研究するためである。 【モスクワ六日UPI、ロイター=共同】モスクワの消息筋は六日、「チトーフ少佐は大気圏外で地球を十七周後に回収する予定で、飛行時間は二十五時間以上となろう」と語った。また宇宙船の打ち上げ地点は、アラル海北東のカザフ共和国内のバイコヌル宇宙基地であることにほとんど間違いないとみられている。 宇宙船上で食事 地球をすでに五周 【RP=共同】六日午前十時五十分(日本時間午後四時五十分)のモスクワ放送は、人間を乗せた宇宙船ウォストーク二号の打ち上げについて次のようなタス通信発表を伝えた。 一、八月六日午前九時(日本時間午後三時)宇宙船ウォストーク二号の人工衛星軌道への打ち上げが行われた。同宇宙船はソ連宇宙飛行士ゲルマン・ステパノビッチ・チトーフ少佐によって操縦されている。 一、宇宙船打ち上げの課題は、長期の軌道飛行および地上への降下の人体組織への影響の研究、長期の無重力状態下での人間の作業能力の研究である。 一、中間試料によると、ウォストーク二号は予定された軌道に近い軌道に乗った。 一、軌道のパラメーターは近地点百七十八`b、遠地点二百五十七`b、赤道平面への偏差は六四度五六分。最初の周期八八・六分、ウォストーク二号の重量は運搬ロケット、最終段を除き四千七百三十一`cである。 【RP=共同】六日のモスクワ放送によると、タス通信はウォストーク二号について次のように発表した。 一、チトーフ少佐を乗せた宇宙船ウォストーク二号の飛行は計画に従って順調に行われている。 一、テレビで写された宇宙飛行士の状態や、地上のキャビン中における彼の身体状況にかんするテレメーター試料は宇宙飛行士の飛行が正常に行われていることを証明している。飛行士の知覚はすばらしい。飛行の任務はチトーフ少佐により予定どおり遂行されている。 一、チトーフ少佐は地球を二周目のさいに飛行が順調に進んでいることを証明する一連の報告を送った。 一、宇宙船の構造とその設備は正常に働いている。チトーフ少佐の気分は良好である。超短波と短波による宇宙飛行士との往復無線通信連絡は良好に行われている。チトーフ少佐はアフリカ上空の通過にさいし、宇宙船上からアフリカ諸国民への挨拶を送った。宇宙飛行士の状況ならびに宇宙船装置の作動にたいするコントロールが遠隔測定により行われている。 米国民へあいさつ送る 【RP=共同】六日夜のモスクワ放送は、ウォストーク二号の進行状況を次のように伝えた。 一、モスクワ時間六日午後三時(日本時間同九時)ウォストーク二号は地球四周を終えた。チトーフ少佐は三周目欧州上空から、ソ連と欧州諸国民にあいさつを送った。 一、三周目の終わり、午後零時三十分から午後一時までの間、チトーフ同志は昼食をとった。宇宙飛行士の食事は三種の料理からなり、食事が終わると宇宙飛行士は「食事をとった。気分は良好」と伝えてきた。四周目の間に宇宙船はマドリード、パリ、コペンハーゲン、レニングラード、ウラン・ウデ(ザバイカル地方)、上海の上空を飛んだ。 一、四周目の最初、宇宙飛行士は飛行計画に従い、一時間の休息をとり、そののち再び予定された作業にかかった。四周目の終わりごろ、チトーフ少佐は、上空から米国民にあいさつを送った。 一、チトーフ少佐の報告によると、宇宙船上のすべての機器は故障なく作動している。一時間に渡ってチトーフ少佐は宇宙船の手動操縦装置を試験し、終わってから「手動装置でも宇宙船が良好に操縦できる」と報告してきた。 一、第五周の間、宇宙船はエジンバラ、アルハンゲリスク、ノボシビルスク、広州、メルボルン、ローマの上空をも通過する。 気分は良好 チ少佐 宇宙からメッセージ 【モスクワ六日タス=共同】宇宙飛行士チトーフ少佐は、六日午前十時四十分(日本時間午後四時四十分)ソ連領土上を飛びながら、宇宙船ウォストーク二号からソ連共産党中央委員会、ソ連政府およびフルシチョフ首相にあてて、次のようなメッセージを打電した。 「宇宙船ウォストーク二号の飛行は成功のうちに行われていることを報告する。船上の全装置は正確に作動している。気分は良好である。全ソ連国民に心からあいさつを送る」 フ首相は「全ソ連人民は貴下を誇りとしている。貴下の地上への帰還を待つ」との返電を送った。 26歳の名パイロット チトーフ少佐の横顔 【RP=共同】六日のモスクワ放送によると、宇宙飛行士第二号のゲルマン・ステパノビッチ・チトーフ少佐は一九三五年アルタイ地方ゴシヒン地区上ジリノ村の教師の家庭に生まれたロシア人。ガガーリン少佐より一つ下の廿六歳。五五年から五七年までスターリングラード軍管区へ派遣された。ソ連共産党員候補で、婦人は一九三七生まれのタマーラ・ワシリエブナさん。 喜びに沸くモスクワ 放送塔囲んでご機嫌 【モスクワ六日AP=共同】ウォストーク二号打ち上げのニュースを迎えた六日朝のモスクワは快晴。ロシアの風習で陽光と散歩を楽しむ市民が路上に群れている。彼らは市内数百カ所に設けられた放送塔を囲んでは、刻々伝えられるチトーフ少佐の宇宙旅行のもように全くごきげんのていだ。モスクワ全市がこのスピーカーの声でどよめいている感じだ。 ニュースの合い間合い間には愛国調の音楽が流される。ウォストーク二号の打ち上げ発表直後に放送されたのは「私は祖国を花嫁のように愛し、母親のようにいつくしむ」という趣の合唱曲だった。 またテレビは海外からの好意的な反響を伝えるとともに間をおいてはチトーフ少佐のスチール写真を紹介している。これでみるとチトーフ少佐は宇宙飛行士第一号のガガーリン少佐よりも年上のようだが、ガガーリン少佐よりも理知的な感じの美男子で、髪を左右に分け、かすかな笑いを浮かべた明るい顔立ちだ。 人体への影響を調査 期待される医学的試料 [解説]ソ連は再び人間衛星の打ち上げに成功した。ここ数日伝えられていたウワサが実現したわけだ。米国が人間弾道飛行すらまだ二回しか成功せず、衛星軌道飛行はことし中に実現が危ぶまれているのに比べて大きく“水をあけた”といえよう。 こんどの目的は長期軌道飛行と地上降下への人体組織への影響および長期無重力下での作業能力を調べると発表されている。ウォストーク二号は数周回るとタス通信はいっているが、十七周−ほぼ一日回ったところで回収する公算が大きい。つまり、回収(着陸)地点がソ連領内であるかぎり、また二、三周で回収していない点からも、犬衛星で実験ずみのコースをとるとみるのが妥当で、ソ連消息筋もこの見方をとっている。 もしまる一日飛行するとすれば、宇宙医学的に見たその意義は非常に大きい。一日というのは人間の最低の生活サイクルだ。ガガーリン少佐が体験したのは一時間半。この時に食事もしたが、生理的要求によるものでなく、単なる実験だった。二十四時間を経験すれば、実際の空腹、排せつ、睡眠などの生理的要求を処理せねばならない。このデータが取れれば永久的な宇宙旅行での医学・生理学上の状態が充分に推定できる。 まる一日の無重力状態下で作業能率がどうなるか、そのために必要なエネルギー代謝量はどれだけかなども正確なデータがとれる。無重力下での作業は地球上での作業と力の使い方が全く違う。重力に抗してものをささえることはなくなり、引き寄せたり、突き押したりすることだけでものを動かせばよいからだ。手足の動かし方も全く力の入れ方が違う。必要なエネルギー量に地上とは違うわけ。宇宙飛行での一日の代謝量が出ないと将来の宇宙旅行に携行すべき食糧も計算できない。こういった意味で貴重なデータが期待される。 また加速度、無重力などの体験、医学的データが、ガガーリン少佐だけでなく、違う人間からも得られるわけで、二人のデータの比較も重要な成果となろう。 こんどの実験に次いで、複数人間衛星や、より長時間の有人天体観測衛星など一連の実験が繰り返され、やがて月へ人間が到達する段階がくる。その時期は米ソとも一九六七年ごろを目標にしているが、ソ連の実力からみて、意外に早く実現するかもしれない。 ソ連またも勝ち星 西側外相会議の最中 宣伝戦に好材料 六日のソ連宇宙衛星船「ウォストーク二号」び打ち上げは、パリの米、英、仏、西独の西側外相会議が二日目の会談に入る直前に発表された。フルシチョフ・ソ連首相は七日午後八時(日本時間八日午前二時)ラジオ・テレビで重要演説をすると五日予告されている。この演説でフ首相はベルリン問題にかんするケネディ米大統領の演説(七月二十五日)に回答するもののようだが、ウォストーク第二号の成功についても当然、誇らかに言及することになるだろう。 キューバ、ブラジル、カナダを歴訪していた宇宙飛行士第一号のガガーリン少佐も、七日モスクワに帰着する予定と伝えられる。フ首相の演説までに第二号の回収が終わり直ちにチトーフ少佐がモスクワへ飛べば、二人の“宇宙の英雄”たちがフ首相と並んでにこやかにテレビスクリーンに姿をみせるかもしれない。 そうなればモスクワは再び異常な興奮にわきたつだろう。 今回の宇宙旅行は地球を十七周し、二十数時間かかるという前回よりもいちだんと大じかけなものになるといわれるだけに、ソ連人にとってはいっそうの偉業であろう。チトーフ少佐は出発直前のあいさつで「この宇宙飛行を第二十二回党大会にささげる」といっていた。 六日は日曜日なので米国はじめ各国の政府その他当局者の反響はまだなにもない。技術的に数段と遅れた“人間弾道ロケット”第二号の打ち上げをようやく終えた米国としてはソ連がさらに大きな白星を加えたことを認めないわけにはいくまい。宇宙開発の分野でのソ連の威信の高まりは直接に今日の世界政治にひびくものではないが、長い目でみて諸国民のソ連に対する見方や戦争観にまでしみ込んできていることは争われない事実だろう。「ソ連は計画どおり必ず実現する国だ」という見方が行きわたれば、ソ連にとってこれ以上の“宣伝”はない。そのような空気が“平和共存”の確立に向かうかどうかは今後の問題である。偶然にせよ、八月六日は日本人にとっては十六年前の広島の原爆の記憶と結びつき、ソ連の対日宣戦布告はその二日後であった。(共同) (以下略) 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月7日(月)朝刊 一面】 |
チトフの飛行の概要と目的、その政治的意味が非常にわかりやすくかつ端的にまとめられており、特に言及することはない。ソ連が公にはしなかった打ち上げ基地が、カザフ共和国(現・カザフスタン)のバイコヌール宇宙基地であることもほぼ同定されている。
地球周回は17周とされた。新聞の解説地図に示されているように、帰還地点はバイコヌールの西側になる。
余談だが、実はこの時、チトフの年齢は25歳だった。正確には25歳11ヶ月(誕生日は9月11日)であり、宇宙を飛行した最年少で、この記録は今なお破られていない。ソ連が26歳と発表したのは…11ヶ月だからこの際繰り上げたのか。もしくは27歳のガガーリンよりも若いことが目立たないようにしたのだろうか。
◇
宇宙船に乗り込んだチトフ。モスクワ時間午前9時、R−7ロケットに火が付いた!プロセスは全て順調で、彼は座席に押さえつけられていく。脈拍は最高132に達したと記録されている。
重力を振り切るように加速するロケット。宇宙船を覆っているフェアリングが外れると、足下の窓から地球を見ることができるのだが、しかし彼にはそのような余裕はなかったようである。上段エンジンが停止し、宇宙船が軌道に投入されると、それまでの緊張が一気に解きほぐされた。彼はこの時の様子を、こう言い残している。
「突然、騒音が止まり、静寂に包まれたのです。いま頭を下にした状態にあるのではと思うと、衝撃を受けました。私を囲む物ものが浮き上がったように見えました。最初の周回が始まったのです」
タス通信がボストーク2号の打ち上げを全世界に報じたのは、この軌道投入直後であった。この時ガガーリンはカナダにおり、側近からチトフの第一報を聞かされたが、「知ってるよ」と笑みを浮かべたという。彼はチトフ宛てに祝電を打ち、帰国の途についた。
バイコヌール時間で早朝、東に向けて打ち上げられたチトフは、間もなく夜の域へと入っていった。その時見た光景は、とてもとても美しく、彼の脳裏に焼き付いたようである。
「月光の満ちる中、我々の惑星はダークグレーに見えた。地平線は辛うじて認識できる輝きだが、常に見え続けていた。地球は完全に黒いという印象ではなかった。それは、グレーの膜で包まれた様な具合で、目を凝らせば丸みも見えるだろう」
「鮮やかな日の入りは、闇の包みへしぶしぶと取って代わられる。地平線で色彩はフラッシュし、青いハローは色相を増していき、何か手品の仕業で、深い夜が支配してしまうのだ」
宇宙飛行士は皆、軌道上での“日の入り”や“日の出”の美しさに心を奪われるという。チトフは日の入りの一部始終を上述したような言葉で残している。下は、2008年4月26日、国際宇宙ステーションから撮影された日の入りの光景である。ブルーハローにオレンジの帯、淡い雲、消えゆく太陽、上下から迫る黒…肉眼で見たらとても美しく、神秘的なことだろう。これはホンの一瞬の出来事で、すぐに闇が支配してしまう…チトフもこのような光景を見たのだろうか。(大きいサイズはこちら)
彼はその飛行の間、何度も日の入り、そして日の出を見た。ボストーク2号にはカメラも乗せられており、眼下に広がる地球をカメラに収めたりした…青い海と茶色い大地、白い雲、緑の森、そのどれもが美しく、いたく感動したという。
宇宙船は夜の空を飛行し、やがて昼の域に飛び出した。“日の出”は日の入りと逆の過程であるが、チトフは日の入り同様、美しさに言葉を失ったようである。だがいつまでも浸っている時間はなかった…ハンドルを握り、宇宙船の姿勢を変える実験を行わねばならなかったのだ。
新聞の見出しにも大きく書かれているように、“操縦”するのだ。ただし姿勢を変えるといっても、ロール回転を行うだけである。これは進行方向軸まわりの左右回転であり、軌道パラメータに支障を与えるものではない。チトフはハンドルを握ると、ソロリソロリとひねった。船体に取り付けられた小型スラスターから窒素ガスが吹き出す…船体はいとも簡単に回転を始めた!
チトフはこの瞬間、ごく限定的とはいえ宇宙船を“操った”最初の飛行士となった。ガガーリンでは一切行われなかったことである。この試みは周回7周目でも行われたが、やはり難なく回転させることができた。チトフは非常に喜んだという。
タス通信は発表するにおいて、「チトーフ少佐によって操縦されている」という文言を盛り込んだ。操縦=思いのままに操る、というにはまだほど遠いが、飛行士が姿勢を制御したことの意義は大きい。
◇
チトフは3度食事を摂ることになっていたが、これは言うまでもなく朝食、昼食それに夕食に匹敵する。ちなみに軌道上で最初に飲み食いした飛行士はガガーリン。ただ彼の場合、打ち上げ後10分かそこらの時点で水を飲んだことははっきり記録されているが、食物をどの時点で口にしたのかはわからない(筆者は資料を探しきれなかった)。疑問は残るが、ひょっとしたら食べたというよりもちょこっと出して舐めてみた、といった感じだろうか。
ガガーリンの持ち込んだ宇宙食は、歯磨きを連想させるチューブの中に練り物を詰めたものだったが、チトフの場合はパンや燻製などの乾物も若干加えられた。また、ビタミン剤なども添えられていた。このような宇宙食は、打ち上げの2日前に試食が行われている。
軌道上での3度の食事は、周回3周目、7周目そして14周目に摂ることになっており、7周目は夕食、14周目は朝食であった。それらには何ら困難も問題もなかったが、1つ足らない点があるとすれば、それは“楽しさ”であると彼は報告している。楽しい食事とは、みんなで食べるもの。一人閉じこめられた狭いスペースでの食事は、楽しさからはほど遠いものだった。
楽しい食卓が人には不可欠な要素であることは、誰でも知っている。宇宙での長期滞在で克服せねばならぬ大きな精神的問題の1つが、早くも明らかになったのだ。
ところで、打ち上げ直後は元気だった彼であるが、周回4周目に入る頃、明らかに元気がなくなっていた。最初の食事の時点で既に食欲はあまりなかったようで、6周目から7周目に入る頃に不快は最高潮に達していたようである。彼はベルトを外し軽く浮遊してみたが、かえって悪化するような心地を感じ、元に戻している。それはちょうど船酔いに近いもので、吐き気はしたが、もどすことはなかったという。
そう、今ではよく知られている“宇宙酔い”だった。
この現象、遠心加速器による実験でも似たような症状が現れていたことなどを通して、ある程度予測はされていた。だが当時ははっきりとした理由はわからず、そしてその酔いが現実のものとなったことで、今後克服すべき重要な課題として位置づけられたのである。
「全ては完璧です」…彼は地上にそう報告し続けていたが、実際には何とも言い難い酔いに悩まされていたのであった。
彼は7周目で、用を足したことを地上に報告した。排泄器具は完璧に機能したという。そして、眠りについた…。次は、ボストーク2号が順調に飛行を続けていることを伝える夕刊一面である。
ウォストーク二号、順調に飛行中 チ少佐 八時間の睡眠 着陸は午後一時以降に 【RP=共同】七日午前六時五分(日本時間午後零時五分)のモスクワ放送は、人間宇宙船ウォストーク二号が地球を十二周したと次のようなタス通信発表を伝えた。 宇宙船ウォストーク二号の宇宙飛行士チトーフ少佐はモスクワ時間七日午前三時までに地球を十二周した。この間の飛行距離は五十三万七千三百`bである。宇宙船の軌道パラメーターはほぼ計算どおりである。六日午後六時半から七日午前二時までチトーフ少佐は休息をとり、眠ることになっていたが、午前二時三十七分に目をさまし、作業を進行し始めた。宇宙船上からチトーフ少佐は「よく眠った。船上の全設備は正常に働いている。気分は良好」と伝えてきた。宇宙船との通信連絡は上々である。睡眠中、宇宙飛行士の脈はく数は一分間五十三−六十七の範囲内だった。ウォストーク二号は飛行を続けている。 【ロンドン七日AP=共同】七日のモスクワ放送によると、ウォストーク二号のチトーフ少佐は宇宙船内で約八時間睡眠をとったのちモスクワ時間七日午前二時三十七分(日本時間午前八時三十七分)目をさまし、引き続き飛行を続けている。 【ロンドン六日AP=共同】英国宇宙協会のケネスガトランド事務局長は六日ウォストーク二号の飛行時間について次のように述べた。 一、もしすべてが順調に行きチトーフ少佐が宇宙船を軌道からはずさねばならないような緊急状態にあわなければ、少佐は七日朝五時(日本時間午後一時)以降に着陸するものと思われる。 一、着陸地点は恐らくモスクワから約七百`離れたサラトフでガガーリン少佐と昨年八月に打ち上げられた二匹の宇宙犬も同所に着陸したと考えられる。 お目ざめの第一声 電波研で受信 ウォストーク二号の発射時から、特有の電波と第二の宇宙人チトーフ少佐の音声をキャッチした殊勲の東京国分寺の郵政省電波研究所電離層研究室では、中田室長らベテラン技術者がほとんど徹夜で七日朝を迎えた。 ウォストーク二号からの電波は軌道の関係で深夜から雑音が多く、受信状態はあまり良好ではなかった。しかし朝七時ちょっと過ぎ、再び“ピー・ピー”という十九・九九五メガサイクルのテレメーター用信号がねむけをさました。電波は午前六時五十六分から七時二十分、同八時二十一分から同五十五分、十時二分から二十分の三回にわたり、ウォストーク二号の目ざめを伝えてくるようだ。 またチトーフ少佐の音声は二〇・〇〇六メガサイクルで、同八時三八分からキャッチされた。ちょうど十三周目。チトーフ少佐は午前八時ごろに目を覚ましたと伝えられているので、これがお目ざめ第一声だ。音声電波はこの時から五分ずつ四回、さらに十時九分から二分ずつ二回、明瞭に飛び込んでくる。 ウォストーク二号の飛行を終始追い続けている中田室長は、七日午前四時前後と推定される回収の時間について「着陸開始時に電波がとぎれる瞬間は、宇宙船は日本の裏側にあたるので、キャッチできないだろう。しかし、もし十七周目の終わりに回収するとすれば、一八周目に同研究所の真上を通るはずの午後四時一分前後の電波が受信できないことによって確認できるだろう」と言っている。 昨夜から二時間仮眠しただけだという中田室長らは、黙々はいる歴史的な電波を耳で聞き、録音にとりながら、ソ連をのぞけばおそらく日本だけとみられるウォストーク二号の発射から回収までの息吹きを追い続けている。なお音声が信号電波よりもいつも約十分遅れることについて同室長は「音声をいつも発しているなら同時に受信できるはずなのに遅れるのは、多分ウラジオストクに向けて話し始めるからだろう」と言っている。 近く野心的宇宙飛行 【モスクワ六日UPI=共同】ソ連科学界の消息筋は六日「もしチトーフ少佐の宇宙旅行が成功した場合には、ソ連は近く“もっと野心的な”宇宙旅行を試みるだろう。この次の宇宙旅行は三、四日かかり、おそらく十月のソ連共産党大会の前に打ち上げられよう」と述べた。 米、冷静に受け取る 軍事、外交への影響重視 【ワシントン六日仲共同特派員】ソ連のチトーフ少佐が六日早朝ウォストーク二号で二十四時間にわたる地球回転を開始したことは、同日朝いらい全米のテレビ・ラジオのニュースを独占しているが、政府、議会それに一般市民も冷静に受け取っている。ワシントンの科学専門家筋の見解は「一、二年間米ソ宇宙競争の最大の焦点であった人間衛星競争が、ソ連の一方的得点で事実上幕を閉じ、舞台は五、六年後に予定されている人類の月旅行へ移った」という点で一致している。 しかし外交筋は、こうした純科学的面での発展よりも、ベルリン、軍縮問題への影響を重視し、 一、ベルリン防衛を目指して西欧諸国内で進められている軍備増強計画が、ソ連の新しい軍事科学力の誇示で同盟諸国間の信頼感をおとす。 一、今秋の国連総会を舞台に新展開を予想される東西軍縮交渉で、ソ連の発言力が一段と強力なものになってくる。 ことを指摘、宇宙船の外交的、軍事的、さらに心理的な効果を注目している。 このようなソ連の新しい外交的優位は七日に予定されるフルシチョフ演説の中で明らかにされるだろうとワシントンの外交筋はみている。フルシチョフ演説は、二週間前にケネディ大統領が行ったテレビ演説の戦闘的調子に激高したといわれるフルシチョフ首相が、ベルリンをめぐって西欧へ交渉を呼びかけるとともに、強力な軍事力を背景に警告を発する目的で行われるものとみられる。宇宙平和利用でのチトーフ少佐の劇的成功は、この両目的にまたとない味付けを提供することになるだろう。 六日のワシントンは日曜日のために夕刊がなく、政府当局者の論評もほとんどないので、ハイアエスポートで休暇中のケネディ大統領の反響が注目されよう。たまたまケ大統領と総会対策を検討していたスチブンソン国連代表は記者団にたいし、ケ大統領の見解として、 一、大気圏外の国際管理の必要は、この結果きわめて緊急なものとなってきた。米国はソ連が長期間にわたる消極的な態度を捨て、米国とともに宇宙平和利用のための管理計画に協力することを望む。 一、米国は東西の軍備競争が大気圏外へ拡大することを懸念している。この点からも米ソが協力して、大気圏外の管理へ進むことが必要である。 の二点を明らかにした。こうした見地から、今後米政府部内では平和利用のための宇宙法制定や、軍縮の一環としての大気圏外管理の二点をめざして新しい努力を始める可能性が強まってきた。 “すばらしい冒険” 英国 【ロンドン七日奥戸共同特派員】ソ連のウォストーク二号打ち上げ発表は、連休第一日を楽しむ英国民にラジオとテレビで伝えられた。(新聞は連休)このニュースにたいする英国民の反響は“すばらしい冒険”の一言に尽きるようだ。米ソに大きく引き離された英国民の宇宙開発への興味は、いまや冒険崇拝的なものとなっており、これはガガーリン訪英のさいの歓迎式にも現れた。したがってテレビの対談も、いったいチトーフはどんな昼食を食べたのか、運動とはどのようなことをしているのか、英国から見えるだろうか、という点に重点が置かれていた。英国民の中にはガガーリンは本当に飛んだのかという素朴な疑問が相当に強かったが、この疑問はこれで完全に消えたわけだ。 一方、政治的にみると、この打ち上げはパリの西欧外相会議をねらったわけでもなかろうが、パリ会場で軍事面が検討された五日には、ワルシャワの穏やかなコミュニケが発表され、政治面検討の六日にこの打ち上げにぶつかったことは、いささか作為的という見方もある。これはワルシャワ・コミュニケが西側の高姿勢に肩すかしの印象を与え宇宙船がミサイル優位を誇示した結果になったためである。 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月7日(月)夕刊 一面】 |
この時、米ソ東西両陣営は、ベルリンの扱いを巡って対立はピークに達しつつあった。共通の敵・ナチスに対する戦いは過去の話となり、分割管理下に置かれていたベルリンはもはや互いの野心を体現する象徴に他ならなかった。フルシチョフは7月8日、国防予算の大幅増額と兵力削減の中止、西側に対しベルリン問題への熱意を示すよう強硬な演説を行っている。ソ連はベルリン東地区からの人口流出に頭を痛めており、結局、8月13日、いわゆる“ベルリンの壁”の建設を始めることになる。
このような情勢の中、チトフの飛行が西側陣営に与えた動揺は大きかった。ガガーリンの飛行には、それを疑う声が英国民の間では多かったことが伝えられているが、これは米国でも同様で、米議会議員の中には改めてきちんとした調査を行うべきだと主張するものもいたほどである。しかしチトフの飛行がソ連の宇宙技術に対する疑念を完全に払拭したわけであり、東側優位はもはや疑い無しという印象を焼き付けたのであった。
余談だが、フルシチョフは演説後の7月中旬、コロリョフら関係者を招き、8月10日までにボストークを打ち上げるように要求している。この重要な局面で、ベルリンの壁建設というタイミングに合わせて西側に立て続けに衝撃を与えようという政治的目的がはっきりしていたのである。
さて。地球を周回している当のチトフは睡眠を7時間半とることになっていたが、彼は予定より30分も遅れて目を覚ました。彼は宇宙で初めて眠ったわけだが、初めて寝坊した人間にもなった。当時、無重力状態下では眠ったら最後、目を覚まさないと真剣に考える研究者もいたわけで、起きないチトフに地上はハラハラさせられたとも伝えられている。
彼の宇宙酔いは目が覚めた時点ではまだ続いていたが、それから間もなく、だいぶ改善されたようである。
興味深いのは、日本の電波研究所が目覚め直後のチトフの交信をキャッチしていたことだ。記事によると、電波研究所はチトフの声を午前8時38分ごろからキャッチしたという。実際、チトフの目覚めが午前8時37分ということなので、チトフが地上管制部へ向けて発した寝起きの声そのものの可能性が高い。この時宇宙船は、フィリピン東方から日本の東海上上空へ向けて飛行をしていたところだった。無線を傍受するにはまさに絶好の位置関係であり、かなり鮮明に聞こえたのではないだろうか。
電波研究所の技術陣は無線追跡で大活躍し、成果の一部は外電にも引用されている。それにしても、寝坊するほどぐっすり眠ったチトフの船を追跡するために、関係一同はほとんど徹夜だったというのが面白い。
下は、電波研究所の技術陣の興奮を伝える記事である。
聞えた!宇宙人の声 東京 二度、三度ハッキリ 郵政省電波研 一瞬紅潮する係員 “ピー、ピー、ピー…” 力強い、規則正しい宇宙からの交信。ソ連第二の宇宙人、チトーフ少佐は、おそらく地球圏外“最大のショー”に目を見張って宇宙旅行を続けながら地上へのメッセージを打ちまくっているのだ。東京国分寺の郵政省電波研究所電離層観測室は六日午後三時十分、確実に宇宙の声をとらえた。一周、二周…音は絶え間なく、果てしなく聞こえてくる。まさに驚異の一瞬だ。 ○…電波研の電離層観測室ではこの日午後二時すぎ宇宙船発射前の秒よみとみられる信号音をキャッチした。一九・九九五メガサイクルだ。「きょうは打ち上げがあるぞ」午前中からそんな情報が各方面から飛び込み、研究室では昼前から三人の研究員が出勤、待機していた。 ○…中田室長らベテラン三人の係員が緊張して機械を操作する。午後三時十二分宇宙船からの信号音が続いて同二十五分、二○・○○六メガサイクルでチトーフ少佐の肉声が入ってきた。「第一周目からキャッチできたゾ」と係員たちは大喜び。続いて同四時四十四分から第二周目。同六時七分から三周目。七時三十五分から四周目の信号音、音声が機械をふるわす。絶対の自信をいだいて精巧な機械に取っ組んできた係員はさすがに紅潮。「夏休みを返上したカイがあった」と、神秘な夜のトバリをたたいて刻々状況を伝える宇宙船の“アイサツ”に耳を傾けていた。 ○…中田室長は「発射前のところから観測できたので大成功だった。これから回収まで慎重にデータをあつめ、りっぱな観測結果を残したい。チトーフ少佐の声は一周目と二周目はハリがあったが、三周目から疲れたのかとぎれとぎれとなった。四周目に回収しないとすれば、ほぼ丸一日、七日午後まで飛びつづけねばならないが、乗員が無事地球に帰ることを祈っている」と語った。 医学的意義は非常に大きい ▽東京慈恵医大佐伯ひさし助教授(生理学)の話 第一号より長時間飛行するというが、まる一日だとすれば、その意義はまことに大きい。時間が単に長くなったということより、人間の整理上一つのサイクルが経験できるからであって、一日分のデータがとれれば、半永久的な状態が推定できる。一号の時も食事はとったというが、実験的に食べるのではなくこんどは本当に腹がへるだろうし、排泄や睡眠も経験できよう。無重力下での仕事の能率も推定できるし、その特異なエネルギー代謝のデータもとれる。 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月7日(月)夕刊 七面】 |
電波研究所、まさに大お手柄!タイムマシンがあるなら、筆者もこの瞬間に立ち会ってみたい(笑)。彼らがボストークのテレメトリー、そしてチトフの音声を受信したとき、まだ世界の殆どはロケットの打ち上げを知らなかった…モスクワ放送が臨時ニュースとして発表したのは午後4時45分だったのである。
後述するが、このとき電波のドップラー効果を確認しきれなかったので確信が持てず、発表を控えたのだという。もし確認が取れていれば…この東京発速報電は歴史に残った、かも知れない。
ちなみにタス通信は、宇宙船の使用周波数も詳しく報じている。それによると、15.657MHz、20.006MHz、143.625MHzを音声、19.995MHzをテレメトリーとしている。このように特に詳しく報じたのは、世界に対する「チトフの声を聞け」というアピールと考えられている。当時はアマチュア無線家も多く、また、短波(15MHz、19MHz、20MHz)が聞けるラジオを自作するものも多かったため、一般にもチャンスは広がっていたのである。
3周目の飛行でチトフの疲れを察しているのは鋭い。実際彼はこの頃、宇宙酔いに悩まされ始めていたのだ。
◇
8月7日、ボストーク2号は無事に地上へ帰還した。日本時間で午後4時過ぎのことであり、発表は午後6時であった。日本では翌8日の朝刊一面を飾っている。
ウォストーク2号 着陸 25時間18分飛び チ少佐 元気に生還 【RP=共同】モスクワ時間正午(日本時間午後六時)のモスクワ放送は「チトーフ少佐を乗せたソ連のウォストーク二号が同日無事帰還した」と発表した。 17周、予定通り回収 【RP=共同】モスクワ放送が伝える人間宇宙飛行の成功にかんするタス通信の発表全文次のとおり。 一、ゲルマン・ステパノビッチ・チトーフ少佐によって操縦されるソ連の第二号人間宇宙船ウォストーク二号は二十五時間十八分にわたって地球を十七周以上し、七十万`b以上を飛んだ。 一、所定の科学研究計画を成功裏に完遂し、予定の飛行過程に従って宇宙船ウォストーク二号はソ連領土の所定の地域へ着陸した。これは一九六一年四月十二日、ソ連宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン少佐のウォストーク一号の歴史的着陸地点の付近である。 一、ゲルマン・ステパノビッチ・チトーフ同志は健康で、良好な気分でいる。ソ連の宇宙飛行士による人類史上かつてない偉大な宇宙飛行は成功のうちに完遂された。得られた研究結果は人間の宇宙旅行のいっそうの発展に広い見通しを開くものである。 (注)タス通信によると、ウォストーク二号の飛行時間は二十五時間十八分となっているので、同宇宙船の着陸時間は出発のモスクワ時間六日午前九時(日本時間同日午後三時)から逆算すると七日午前十時十八分(日本時間七日午後四時十八分)と推定される。(共同) 次は月の征服 宇宙船の操縦自在に [解説]▽…チトーフ少佐は二十五時間十八分、距離にして七十万`の宇宙飛行を果たして無事ガガーリン少佐と同じ場所に正確に着陸した。飛行途中のもようはモスクワ放送を通じて詳しく伝えられ、地上帰還も十七周後に当たる日本時間七日午後四時ごろと推定されていたが、待望の“無事帰還”のニュースはその予定時間を二時間も過ぎた午後六時五分(日本時間)まで報道されず、世界の人々をやきもきさせた。とくにウォストーク二号の電波を観測し続けてきた東京国分寺の電波研究所電離層研究室は、午後三時五十分頃、「逆ロケットを吹かせ」という地上からの司令らしき電波を傍受しており、また第一回のガガーリン少佐のときは逆ロケット噴射まですぐに発表されたのに、今回はモスクワ放送が沈黙を守ったので、一部では失敗かとの懸念も出たほどだった。 ▽…宇宙飛行の七十万`は飛行時間を別にすれば直線距離で平均三十八万キロの彼方の月に行っておつりがでる距離だ。成功を伝えたタス通信声明が「人間の宇宙飛行のいっそうの発展に明るい見通しを開いた」と述べているのは、この点意義が深いようだ。 人間衛星でおくれをとった米国は一九六七−八年頃までに月に人間を送り込み、ソ連の先手を越そうと懸命だが、月の征服でもソ連が勝つことは、このチトーフ実験の結果ほぼはっきりしたとみてよいようだ。 “ベルリンの危機”対策をめぐって米、英、仏、西独四外相がパリでひたいを集めているのと時を同じくして行われたこのソ連のデモンストレーションに西側は強い政治的、心理的ショックを受けたとみられる。 ▽…ガガーリン少佐と同じ場所に正確に着陸したことはソ連の技術の優秀さをあらためて実証したものだ。発表された軌道周遊の周期から判断すると、ウォストーク二号は降下時の逆ロケットのほか、軌道上の速度を修正できる小型推進ロケットを持っていたと推定され、チトーフ少佐がこれを操縦していたようだ。今回の成功の最大の意義は、パイロットが操縦する宇宙船に乗員が乗り込んで地球を離れ、また地球に帰ってくることが可能だということをはっきりさせたことである。この点で地球を一周しただけのガガーリン少佐の場合よりも決定的な成果であるといえよう。 サラトフ州に着陸 【モスクワ七日UPI=共同】タス通信は七日ソ連の宇宙飛行士第二号チトーフ少佐は、モスクワ東南約六百四十`ないし七百二十`のサラトフ州に着陸したと発表した。チトーフ少佐を乗せたウォストーク二号は、さきにガガーリン少佐を乗せた宇宙船ウォストーク第一号が打ち上げられたカザフ共和国のアラル海東方バイコヌルから発射されたらしい。 宇宙日記 【モスクワ七日UPI=共同】宇宙船ウォストーク二号で二十五時間十八分を過ごしたチトーフ少佐の“宇宙生活”の日記をソ連の放送、通信の公式発表でたどると次のようになる。(時間はモスクワ時間) ▽六日午前十時四十分=モスクワ放送は突然国内放送を中断し、ウォストーク二号を同日午前九時に打ち上げたと発表。 ▽同十一時=ウォストーク二号上の全ての設備は正常に動きチ少佐の気分は良好。 ▽同十一時四十分=チ少佐、地球を二周、地上と相互交信。 ▽同十一時五十五分=モスクワ放送、チ少佐が気分良好とソ連国民に送ったメッセージを放送。 ▽同日午後零時三十分=モスクワ放送、宇宙船上のチ少佐がフルシチョフ首相とソ連共産党中央委員会あてのメッセージを放送。 ▽同日午後零時四十分=モスクワ放送、フルシチョフ首相の返事を放送。 ▽同一時二分=チ少佐モスクワ上空を飛び、フ首相のメッセージに感謝し、宇宙船上はすべて順調と答える。 ▽同一時三十分=モスクワ放送、ウォストーク二号が同日午後五時五十四分、ワシントン上空を飛ぶと発表。 ▽同五時=チ少佐夕食をとる。 ▽同五時四十二分=ウォストーク二号、二万三千四百`を飛んで地球を六周。(補足2参照) ▽同七時=モスクワ放送、ソ連国民にたいし“おやすみなさい”というチ少佐の肉声をなま放送。チ少佐はこのさい午後六時半から七日午前二時まで眠ると伝えた。 ▽同九時五十六分=タス通信、ウォストーク二号が米国のチャールストン、オクラホマ、ロサンゼルス、その他で一等星ぐらいの大きさに見えると発表。 ▽七日午前零時五分=モスクワ放送、ウォストーク二号は六日午後十一時四十五分地球を十周、地球から月までの距離よりも長い四十万六千七百二十`を飛び、チ少佐の健康状態は良好と発表。 ▽同二時十七分=モスクワ放送チ少佐が目を覚ましたとのタス電を発表。 ▽同六時二十五分=タス通信、ウォストーク二号が同日午前三時までに地球を十二周し、五三万七千三百`を飛び、チ少佐の気分は全く良好と発表。 ▽同九時二十五分=モスクワ放送、ウォストーク二号が同日午前八時十六周を終ったと発表。 ▽同十時十八分=チ少佐、六十九万四千四百`の宇宙旅行を終えソ連領内の予定された地点に着陸。 ▽同日午後十二時五分=モスクワ放送、着陸を発表。 東西対立に影響なし 外務省見解 ウォストーク二号の回収成功について外務省では七日夕「長期的な見地から見た場合、今後の世界政治の中でソ連の威信を高めることは争えない事実だが、当面、直ちに東西間の対立に大きな影響を及ぼすものとは考えられない」と次のような非公式見解を示している。 一、今度の成功が、米ソ間の人間衛星競争でソ連の優位を決定的なものとしこれによりソ連の威信を高めたことは否めない事実だ。ソ連はこれで社会主義体制の優位を誇示し、そのことが、長期的な意味で今後の政治、外交、軍事に影響を及ぼすことは否めない。 一、しかしこの成功が直ちに当面の東西対立に影響するものとは考えられない。ベルリン問題が緊迫化しているときに打ち上げたことは、ソ連の強腰に実力の裏付けがあることを誇示したものともみられ、今後、西側に圧力をかけやすくなったといえるが、だからといって、西欧側が態度を軟化させることは全く考えられないことだ。 一、すでにウォストーク一号が成功していることであり、こんどの成功は前から当然予想されたことだ。ただこれまでと異なり、回収成功前に早くから打ち上げの事実を発表したことで、これはソ連が十分の自信を持っていたことを示すものだ。日本としては、こんどの成果が平和目的に使われることを切望するとともに、その資料の公開を期待したい。 資料の公表望む 前尾自民党幹事長談 自民党は七日ソ連の第二号人間宇宙船の回収に成功したことについて次のような幹事長談話を発表した。 ウォストーク二号が成功したことは全くすばらしい。改めてソ連の技術的進歩に敬意を表する。人間宇宙船の飛行時間の延長によって、宇宙のナゾを十分人間の目やからだで体験して、貴重なデータを地球に持ち帰ることができた。これらの貴重な資料は医学をも含めて全世界の科学者が待ちのぞんでいたデータである。 したがって、ソ連もできるだけ早くこれらの資料を公表して全世界の学者の夢をかなえてほしい。しかし、ソ連としてはベルリン問題など東西両陣営が深刻な対立をみせているやさきなので、西側の西欧諸国に対する東側の外交攻勢の機運を盛り上げるチャンスともなろうが、あくまで国内や外交面での宣伝効果をねらわず、この成功を世界全体の福祉のために平和利用の面に貢献することをのぞんでやまない。 ◇ 社会党の江田書記長、民社党の曽祢書記長はソ連のウォストーク二号の成功にたいしそれぞれ次の談話を発表した。 軍事的対立は笑い物に ▽江田書記長 ソ連のウォストーク二号の成功は喜びにたえない。心から敬意を表する。月への旅行ももはや時間の問題となった。しかし人間宇宙船が飛んでいるときベルリンその他で軍事的対立を続けていることは笑い物であり、今こそ行きがかりにとらわれず平和のための話し合いに踏み切るべきである。米ソはもとより全世界が人類の発展のために冷静な理性を取り戻すことは後世に対する厳粛な期待である。 冷たい戦争の道具にするな ▽曽祢書記長 ソ連が第二回の宇宙船飛行に成功したことはたいへん喜ばしく心から敬意を表する。これによって米国も大いに刺激されいっそう宇宙科学の開発に乗り出すだろう。双方が宇宙科学の分野で大いに競争し進歩することは納得なことだ。しかし宇宙科学進歩発展が冷たい戦争の道具に使われてはならないことを特に要望したい。 (以下略) 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月8日(火)朝刊 一面】 |
チトフの飛行は完璧だったことが報じられている。ただ着陸の発表が、西側の予想よりもやや遅かったため、その間かなりやきもきさせられたようだ。
また、チトフは宇宙船を自在に操縦したという、完全に誤った方向で理解しているのも興味深い。飛行距離が月までの距離を超えたというのも強調されているが、周回軌道を離脱して月へ向かうのはまた別の話。宇宙船もロケットもその姿さえ公表されないのに、月への一番乗りはソ連でほぼ確定ではないかという結論も性急すぎる。
しかもこの誤った結論は、チトフ自身の会見でより強固なものになった。彼は8日、ガガーリン同席の下、記者団との初の会見に臨み、自ら操縦して着陸したかのように語ったのである(実際にはガガーリンの時と同様、地上からのコマンドで自動的に行われたのであったが)。以下は、会見の内容を報じる記事の一部である。
自ら操縦して着陸 チトーフ少佐が記者会見 【モスクワ八日タス=共同】ソ連の宇宙飛行士第二号のチトーフ少佐は八日休養先の宿舎で記者会見し、次のように述べた。なおこの会見には、宇宙飛行士第一号のガガーリン少佐も同席した。 一、私は計画に従って六日午前十時(注=発射後一時間に当たる)からウォストーク二号の操縦を開始した。宇宙船は私の操縦によく従い、また着陸の時には私は宇宙船をどの方向へも向けさせることができたので、私は本当のパイロットであると感じることができた。とにかくこの手による操縦はすばらしくよく動作した。 (以下略) 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月9日(水)夕刊 一面】 |
8日の朝刊では、今回の飛行に関して紙上座談会が開かれている。興味深いので一部引用してみよう。
宇宙でも生活できる 座談会 眠れたことに意義 肉体的変化あるまい ソ連の宇宙科学陣はまたまた輝かしい成果を収めた。さきのウォストーク一号がガガーリン少佐を乗せて地球を一周したのに比べ、こんどは格段に飛躍して二十五時間十八分、地球十七周後みごとに地上に生還した。チトーフ少佐は人類史上初の苦難によく耐えて、宇宙医学に貴重な資料を提供したが、この成功はソ連のみならず全世界に、地球を越えて遙かな宇宙に地球人が乗り出し、そこに生活できるという大きな自信を与えた。そこで、今度の実験の意義、将来の宇宙開発などをめぐり一橋大学教授南博(心理学)東京慈恵医大助教授佐伯ひさし(生理学)東京天文台技官開口直甫(天文学)の三氏を招き、また郵政省電波研究所電離層研究室長中田美昭(電波通信)氏には紙上参加の形で座談会を開いた。(敬称略) 宇宙旅行のサンプル 司会 ウォストーク二号の特徴は滞空時間が著しくのびた点だ。まずその意義から。 佐伯 ガガーリン少佐の滞空時間がこんど二十五時間になったというだけではなく、一日の人間の生活の単位が全部とらえられた。したがってその価値は前回に比べて二十五倍以上だ。これから先、長時間の宇宙飛行を行うための最小限のサンプルが得られたといえる。このデータはどんなに小さな一つをとりあげても、意義ははかりしれないほど大きい。 司会 宇宙医学的にみて一番大きな収穫はなんだろう。 佐伯 まず睡眠。起きているときと寝ているときという二つの違うからだの状態が、ともに飛行に耐えられたわけだ。とくに睡眠が地上と異なった条件下で得られた点に注目する。脳波などのデータもとったというが、地上と異なった条件下でどんな形ででているか。またこのような異常な条件下でどうやって睡眠が得られたのか。おそらく睡眠剤とか、電気睡眠ではなく、条件反射で眠らせたと思うが、生理学的に興味深い。 宇宙人の大脳反応 司会 大脳の働きはどうだったろうか。 佐伯 ウォストーク二号では一日に昼夜が何回となく交代する。激しい変化の頻度が興奮した神経に働き、普通人ならとても眠れない。それが七時間半も眠っている。 南 こんどは特殊な訓練を受けた人が乗り込んだわけで精神的構えが違う。たとえば祖国のためという特別な使命感をもって乗っていることだ。私には長時間、他人と個人的接触がない状態が精神的にどんな影響を与えるか、狭いキャビンに閉じこもっていることからくる単独感、さらに宙に浮いているので基準になる空間がつかめず、自分の位置がはっきりわからないことなど、これらの心理的影響が興味深い。 司会 肉体的な条件はががーりのときとどう違ったろうか。 佐伯 想像だが宇宙船上で元気に応答し、正気の行動をしていることを考えると、そう大きな肉体的変化も大脳神経系への影響もなかったとみてよい。しかし、興奮のていどや作業能率の落ち方、循環系統の変化、ストレスなどの微細な変化はなかったのか−などについて精密な検査の結果が待たれる。 司会 発射のさいの加速度、二十四時間に及ぶ無重力状態、回収のさいの加速度、これは身体にどんな影響を与えるのか。 佐伯 ガガーリン少佐の場合、無重力状態は約八十分だったが、こんどは廿五時間にのびた。この点二人にどう差があったか。とくにそれらの影響からの回復過程がどう進行したか発表が待たれる。 天文学より宇宙医学 司会 開口先生、宇宙開発の点から見た収穫は…。 開口 実用面よりも研究手段として人間が長時間、宇宙船に乗れるようになったことは、これからの大気圏外の観測に大きく役立つと思う。機械でもあるていどの観測はできるが、人間が乗らないと観測できない現象があるものだ。しかし、天文学上よりは宇宙医学上の収穫の方がはるかに大きかったと思う。 よくいった電波受信 司会 こんどは電波が非常にうまくとれたようだが…。 中田 第一周目からよくはいった。外電で打ち上げが近いとあったので、六日は日曜だが待機していた。午後三時十二分(日本時間、以下同じ)から一九・九九五メガで、聞きなれたピー・ピーというテレメーター信号の断続音がはいり、十四分間続いた。音声らしいものも二〇・〇〇六メガで三時二十五分から十分間聞こえた。「やったな」と思ったが、電波のドップラー効果が確認できなかったので発表をためらっているうちに、第二周目の四時四十四分からの信号が入る直前、ソ連の発表があったわけだ。 司会 どの回も音声の方がテレメーター電波より十五分ていど遅れて受信されたのはなぜだろう。 中田 ウラジオ付近に音声用地上局があるのかも知れない。とにかく声は非常に元気で、からだの調子がよかったことを示していると思う。 楽な無重力下の生活 司会 長時間無重力を経験した生理的影響と作業能力との関連は…。 佐伯 無重力下の生活は負担が軽くなるから、地上での安静状態よりも楽なくらいだが、その中で目的をもって行動するのは容易ではないだろう。無重力状態になれるとエネルギーの消費量は少なくなる。 司会 なれるまでの時間はどれぐらいか。 佐伯 目で見て行動しているかぎりではなれるのは非常に早い。ということは目は大脳神経に支配されているからだ。 南 ソ連では手足を切断して作業能率と心理的な関連を実験している。サルの目に左右が別々になるメガネをはめて運動神経がどう反応するかという実験をやっているが、何回かはめてなれるとほとんど影響がなくなるという。 将来は船内で養魚も (中略) これからの宇宙開発 司会 これからの米ソの宇宙開発はどうなるか。 開口 米ソともいままではだいたい四つのシリーズがあったと思う。一つは一群の人工衛星、二つ目は月ロケット、三つ目は金星、火星などへの惑星ロケット、四番目が人間を乗せるロケットだ。将来はこれらが一つになっていくだろう。ソ連はガガーリンのときは地上からの司令で着陸したが、こんどはチトーフ少佐が操縦したのではないか。この着陸方法の開発が、もう一回、その後は地球からさらに離れること、月をねらって人間を打ち上げることだろう。 惑星ロケットは打ち上げの時期が限定されているが、チャンスがあれば必ず打ち上げるだろう。火星ロケットは金星ロケットよりチャンスが少なく、技術的にもむずかしい。米国はまず重い衛星打ち上げに努力を傾けるだろう。重量は小さいが月ロケットを一年内に打ち上げるのではないか。 南 とにかく米国は宇宙開発に陸海空三軍の利害関係があり、自由競争ではソ連に追いつかないのではないか。宇宙開発をする国家形態は自由競争のワクを超えた社会体制でなければならなくなるだろう。 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月8日(火)朝刊 二面】 |
各人の発言は簡潔だが非常に当を得た座談会になっている。会でも指摘されているが、今回の飛行で日本側の大きな収穫は、地上との通信が可能な限り傍受されたことだ。米軍などそちら方面の施設はともかく、民間組織で一部始終をきちんと追えたのはどうやら電波研究所だけだったようである。大気圏突入直前と思われる、着陸8分前の交信も傍受されており、ロイター電が引用して配信している。
音声地上局がウラジオ(ウラジオストク)付近にあるのではという類推が興味深い(実際はハバロフスクにあった)。恐らく19メガのテレメトリーは出っぱなしであったのだろう。それは宇宙船が近づきパスが通るや否や、弱い段階から受信されたに違いない。しかし音声の方は、交信開始のタイミングが決まっていたと考えられる。ボストークには簡単だが時計仕掛けの地球儀があり、また、地上局からは固有の識別信号が発せられていた。その強度をマーカーに交信のタイミングは決めるとすれば、トークの開始がテレメトリーより10分かそこら遅れるのは当然のことと考えられる。
当時は太陽活動が活発な時期でもあり、この日は非常に電波のコンディションがよかったのだろう。アマチュア無線帯で類推すれば18MHz帯や21MHz帯になるが、これらのバンドは状態が良ければ欧州やアフリカまで強力に通じる。(補足3参照)
ひとつ目をひくのは、「将来は船内で養魚も」という行だ。宇宙での長期滞在には食糧の問題があるが、軌道上で生産から行う時代が来るかもしれないという飛躍である。そこを“養魚”というのが、当時の主たるタンパク源が魚であったことを象徴している。肉食主体の今なら“畜産”ということになるだろうか。しかしどちらも、近未来には実現しそうもない。
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チトフは9日、モスクワ入りし、4月にガガーリンが経験した、赤の広間での大喝采を浴びた。フルシチョフは演説し、「ソ連の宇宙船が月へ飛行する日もそう遠くないと信じる」と宣言している。少々大袈裟かもしれないが、これが先のケネディ演説に対する“回答”と言えなくもない。ただ、「〜日もそう遠くないと信じる」と観測的な、第三者的な言い回しが例のごとく曖昧ではあるが…。以下はそれを報じる10日の朝刊である。
【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月10日(木)朝刊 一面】 |
最後に、11日のチトフの会見の内容を振り返ってみよう。見出しにもあるが、飛行士とカプセルは別々に降下したことを認めている。しかしそのニュアンスは、「あくまで別々に降りたのは自分であって、ガガーリンはそうではなかった(=カプセルの中に入って着陸した)」ということを暗にほのめかしている。
人も船もパラシュートで降下 チトーフ少佐が語る 【モスクワ十一日AP=共同】ソ連の第二号宇宙飛行士チトーフ少佐は十一日、モスクワでの記者会見で次のように語った。 一、私は飛行中加速度の力や騒音、着陸時の振動などによる悪い作用はまったく感じなかった。発射一時間後の午前十時に手動装置に切り替えたが、思うままに操縦できた。 一、宇宙船からは川や山、耕された畑や収穫中の畑、まだ収穫していないものなどがみえた。また雲と雪を見分けることもできた。雲は地表に影が映ったからである。また宇宙船の窓から地球が真上に宙づりに見え、何が地球をあんなところにささえているのかと不思議に思えた。 一、私は地上にパラシュートで降りた。宇宙船自体も降下の最終段階ではパラシュート降下に切り替えられた。もっともその必要があった場合には、私は宇宙船に乗ったままでこれを着陸させることができた。宇宙飛行といってもごくあたりまえのものだ。 つまり着陸にはキャビンごと降りるか、宇宙船から座席ごと射出装置によって発射されてパラシュートで降りるかの二通りがあり、どちらにするかは自分の選択に任されていた。 資料は公開 ケ総裁が表明 【RP=東京】十一日のモスクワ放送によると、同日午前十一時半(日本時間午後五時半)からウォストーク二号の飛行成功についてのチトーフ少佐の記者会見がモスクワ国立大学講堂で行われた。記者会見にはチトーフ少佐のほかセドフ宇宙飛行委員会長、パーリン医学アカデミー総裁、フョドロフ科学アカデミー書記らソ連の科学者多数が出席した。 まずケルディッシ・ソ連科学アカデミー総裁が「チトーフ少佐の宇宙旅行は最も貴重な科学的成果をもたらしたが、これら資料は研究ののち公表され、全世界の科学者の資産となろう」と述べた。同総裁はまたチトーフ少佐が科学と宇宙飛行に尽くした功績により、“チオルコフスキー記念賞”を科学アカデミー科学部会から授与するむね発表した。またケルディシ総裁は次のように述べた。 (以下略) 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月12日(水)朝刊 一面】 |
ソ連科学アカデミーのケルディッシュ議長は、メディア対応など表向きの顔としても重要な存在だった。当然だが、コロリョフら現場の中枢幹部が表に出ることはなかった。
チトフの飛行は、政治的にも宇宙科学的にもパーフェクトなものだった。宇宙を飛んだ順番としての金メダルは手に入らなかったが、最初に宇宙船を操縦したこと、3度の食事を摂ったこと、しっかりとした睡眠をとったこと、宇宙飛行をたっぷり楽しんだこと、最年少での宇宙飛行etc…で沢山の金メダルを取ったと言っていいだろう。
このあと、より長期の飛行、そして初の編隊飛行に向けてソ連宇宙開発陣は計画を加速させていく…。
※補足1
米国はこの時点では、確かに宇宙開発そのものに対する遅れを取っており、「宇宙開発はすぐには金にならない」という認識があったのも事実。だがその有望性に気づいた者も多く、大企業は早くも“争奪戦”を繰り広げていたのも一方では事実だった。以下はその一端をレポートする記事である。
脚光あびる通信衛星 米の大企業間で争奪戦 人工衛星を国際通信に利用する計画がいま米国の大企業の間で激しい利権争いの的になっている。だいたいする金にならないのが通り相場の宇宙平和利用の中で、通信衛星だけが早くてここの十年のうちに巨額の利益を生む商売になりそうだからである。“宇宙を支配するものは世界を支配する”とは米空軍内の軍拡主義の合い言葉だが、この言葉は最近の通信業界にも通じるようである。(以下略) 【熊本日日新聞 昭和36年(1961年)8月2日(水)夕刊 四面】 |
当時用いられていた国際有線ケーブルによる通信量は飽和状態にあった。通信衛星の配備は巨額の投資を要するが、それ以上にリターンが大きいことを企業は悟っており、主導権を巡って水面下では“争奪戦”を繰り広げていたことが報告されている。
※補足2
「二万三千四百`を飛んで地球を六周」は、“二十万”三千〜の誤りであろう(?)。
※補足3
ボストーク宇宙船との交信のために、当時、地上局がノボシビルスク、ハバロフスク、アルマアタ、モスクワ、バイコヌール、コルパシェボ(オムスク州)、イェリゾボ(カムチャッカ)の7ヶ所に置かれていた。このうちバイコヌール、コルパシェボ、イェリゾボの3ヶ所ではVHF帯を用いた通信を、それ以外では短波による通信を行っていた。VHF帯は宇宙船が可視範囲を飛行する場合に限られており、TV画像もこれら地上局で受信された。
また、短波4局はそれぞれ独自を識別するための識別信号(音楽)を流していた。これを頼りに、飛行士がいまどこの波を受信しているか判断することができた。
当時のアマチュア無線家やラジオ愛好家が信号をキャッチできたか否かであるが、デジタル表示機器の無い時代、周波数を指定したいわゆる待ち受け受信は難しかったが、頑張り成功した人はいたと思われる。1957年のスプートニク1号の時点でそのビープ音が各地のアマチュア無線家によって受信されているので、それから3年半も経てば受信のコツなども共有され、そう難しくはなかったかもしれない。
参考までに、下は当時の無線&ラジオ愛好家の活発さをレポートする記事である。ガガーリンやチトフが飛行する約3年半前の、スプートニク1号および2号の打ち上げ直後の新聞記事から拾ったもので、衛星がアマチュア無線家やラジオ工作少年に大きな影響を与えたことを伝えている。
楽しきかなハム(下) 県下ベテラン座談会 (中略) −先にも話が出たのですが、非常災害のさいの思い出を。 「六・二六の夜、子飼橋付近のハムと話していた。私の局は二階なので“階下が浸かった”というと、先方は“オレの所は大丈夫だ”といっている間に途絶えた。あれよあれよという間に水没したんですね。廿七日から一週間はすべての通信線が切断されていたので、山のような新聞原稿を読みました。日赤本社への連絡もやりましたが、時には熊本−東京間がよく通じないので北海道のハムが中継して、熊本−北海道−東京と連絡したこともあります。それでも電報より早かった。」 「全国にいるハムはみんな自宅に無線局を持っているのだから、非常の場合はいつでもお役に立ちますよ。七・二六でも諫早のハムはずいぶん仂いている。電電公社があの晩、四通話しか話していないのに、諫早のハムは五百数十通話している。情報は政府の通信機関より、ハムがよっぽど早く伝達している。(中略)」 −スプートニクで関心をいよいよ高めたIGY(国際地球観測年)での仕事は。 「五〇メガの異常伝搬を調べています。それと人工衛星。アメリカがハムに目を着けたのはさすがですよ。改めて無線局をこれだけ作るのは大変だ。アメリカの人工衛星は一○八メガで、これの受信の準備をしているところです。」 「そこにソ連が出しぬけに上げた。しかも二○メガと四○メガ。これですっかり慌てたのですが、現在のアマ無線局で聞こえる周波数にしたのは効果絶大でしたね。」 (以下略) ※「六・二六の夜」=昭和28年6月26日、熊本市中央を流れる白川が氾濫、市中心部が水没した大水害(詳細こちら)。文中の「子飼橋」(こかいばし)は白川にかかる主要幹線橋であるが、この夜完全に流された。“七・二六”というのは六・二六の誤植。 【熊本日日新聞 昭和32年(1957年)11月14日(木)朝刊 五面】 高校科学班めぐり(1) 「五対五」という言葉がはやっている。野球のスコアでもなければ確率の予想の言葉でもない。ICBM、人工衛星の打ち上げなどソ連のスバラシイ科学の発達にしげきされた文部省が、来年度の理科系大学生の数を文化系まで引き上げるということだ。“法科万能”の時代は過ぎて理科系教育の急務が叫ばれているこの意味から科学する高校生を紹介しよう。題して高校理科班めぐり。 科学クラブ 国立熊本電波高校 ○…“えー、こちらはTA6WNこちらはJA6WN。所在地熊本市大江町熊本電波高校内。ただいま開局第一波発信中です。感度がありましたら交信願います。”昨年四月からアマ無線局の開局準備中だった同校科学部、先月廿五日、郵政大臣の正式免許を得て、第一波を秋空に発信した。同校はもともと電波高校だけに科学クラブの活躍も、もっぱら電波関係に焦点が絞られている。戦後の二十四年、学校教育とタイアップしてより深く知識を磨くためにクラブが発足したときは、班員の数は六十人ぐらいだった。それが現在では約百人を超え、クラブ顧問の永●敬一郎教官を中心に、電波ととりくんでいる。 ○…昨月十一月、電化新聞社主催のラジオ受信機コンクールが東京で開かれたとき、同校から山鹿克高君と松岡重賢君の二人が高校課題の2バンド五級スーパーを出品した。結果は山鹿君が中間周波回路の考案に新味を出して通産大臣賞を獲得、また松岡君も佳作に入選するなど輝かしい成績をあげた。めまぐるしい社会の発展とともに電波部門の重要性は日、一日と増大、特にテレビの急速な発達は社会生活へ大きな影響を与えているが、班員も熊本でテレビ放送が始まりしだい、今度はテレビを組み立てるのだと張り切っている。 ○…先にソ連の人工衛星が発射された時は、“電波技術”にモノをいわせて衛星からの電波を受信、テープレコーダーに収録するなど活躍した。しかし、この人工衛星も本格的な弾道兵器を完成するための弾道調査などの目的にも利用され得ると聞いたとき、部員の目は曇った。そして“科学の本来の目的はあくまでも人類の福祉と平和に役立つものでなくてはならない。だから、私たちはこの実験も人類の夢を一歩未来に近づけたものと解釈し、ソ連の科学者の良心を信じたいと思いますね”とこの若い科学者達は語っている。 ※ ●=活字つぶれ判読不能 【熊本日日新聞 昭和32年(1957年)11月18日(月)朝刊 三面】 |
国立熊本電波高校(現・熊本電波高専)の科学クラブがスプートニクの信号をキャッチしていたことが伺える。しかし、宇宙平和利用は軍用と表裏一体であることも認識させられた彼らであった。
【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!
Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
Sven's Space Place http://www.svengrahn.pp.se/
熊本日日新聞(詳細は各記事ごとに明記)
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Rocket Men Vostok & Voskhod, The First Soviet Manned Spaceflights”
by Rex Hall and David J.
Shayler, Springer Praxis, 2001