子供が英雄になったとき

次のような命題があるとする。

「貴方に娘がいる。年は26、独身。所属するクラブの遠征合宿に出かけると言い残して数ヶ月、いきなり日本が独力で打ち上げた初の有人宇宙船の飛行士として彼女が乗っていたとしたらどう感じるか?」

もし私の娘だったら、ぶったまげて大声あげるのは間違いないだろうが…いや…想像がつかない。

実は、過去にこのような例がいくつかあった。それは、ソ連の飛行士たちにまつわるエピソード。

1961年4月12日、ソビエト連邦(現ロシア)は史上初の有人宇宙船を打ち上げた。搭乗していた飛行士はユーリ・ガガーリン。27歳の彼は一躍時の人になったが、恐らく最も驚いたのは彼の妻そして親だろう。プロジェクトを極秘に進めていたソ連上層部は、飛行士達には、家族にすら自身の仕事を明かさないよう厳命していたのであった。

ガガーリンの母親は、「搭乗しているのはソビエト社会主義共和国連邦市民、ユーリ・アレクセービッチ・ガガーリン空軍少佐である」というラジオの一声を聞いた直後はまさか自分の息子とは思わず、それがそうだと知ったとき腰を抜かしたと言われる。

1965年3月18日、ソ連はウォスホート2号を打ち上げた。この宇宙船では史上初の宇宙遊泳(船外活動)が行われることになっていた。搭乗していたのはパベル・ベリャーエフおよびアレクセイ・レオーノフ飛行士。人類初の宇宙遊泳の任務=栄誉は、レオーノフに与えられていた。

レオーノフの宇宙遊泳は成功した。宇宙船の外に出て、ぷかぷか浮かぶ彼の姿はソ連全土にテレビ放映された。

「宇宙遊泳を行っているのは、アレクセイ・レオーノフ空軍中佐である」…テレビを見ていた彼の父は、この一声を栄誉に思うどころか、「何を遊んでいるんだこのバカ息子が。だれか早くあいつを連れ戻せ!」と怒鳴り声を上げたそうである。


1963年6月16日、ソ連はボストーク6号を打ち上げた。搭乗しているのはワレンチナ・テレシコワ、史上初の女性宇宙飛行士である。

彼女は子供の頃から快活で、男の子も顔負けの行動力を持っていた。地元のスカイクラブではダイビングに熱中していたが、これは当時の女性には珍しいことであった。

だがそんな彼女の行く手を阻む最大の壁は、母親・エレナであった。テレシコワは「母は私がやること全てに反対していたわ」と述懐する。厳格なエレナは、娘に古典的な女性像を求めていたのかも知れない。そんな母の目にテレシコワは、“おてんば”に映っただけだったのだろう。

18歳の時、学校卒業時から勤務していたタイヤ工場から繊維工場へと転職。粉塵がきつかったというが仕事の内容は楽しいもので、充実した日々を送っていたようである。そのような中、コムソモール(共産党の青年組織)にも加わり、ボランティア活動などにも精を出し始めた。

テレシコワは毎日、決まった時間には帰宅していた。スカイクラブ入部を考えるようになった彼女はある日、それを見学したため帰宅時間が少しばかり遅くなってしまった。ところがエレナは、“母のカン”を鋭く発揮、なぜ遅くなったのか問いただしたという。

「今日のあなたはなんかへんね…なにかあったの?」

この時は何も答えずごまかしたテレシコワ。しばらくの間打ち明けなかったが、自分がクラブ、しかもスカイダイビングに入部したことを話したときは猛反対を食らったという。しばしのぶつかり合いの末、エレナはテレシコワの入部をしぶしぶ認めたのであった。

彼女は当時22歳。初めてのダイビングは1959年5月21日木曜日のことだった。

1961年4月のガガーリンの成功の時は、とても興奮したという。「人間が宇宙を飛ぶ時代が来た。最初は男だが、次は女だ」と。しかもそれからわずか4ヵ月後、2人目のソ連人が飛行に成功すると、いたたまれなくなってソ連最高会議宛に「自分を加えてください」と手紙を書いたのだ。

ちなみに当時、このような手紙がソ連全土から殺到していたという。しかも差し出す方もどこへ出せばいいかわからないから、最高会議、共産党本部、コムソモール、などなど国の行政機関どこそこに集まっていた。だがそれらは全て、飛行士の訓練を担当していたニコライ・カマーニン監督の下に集められ、彼は一つ一つにきちんと目を通したという。その中で、アメリカをアッと言わせる次の案としては女性を宇宙に飛ばすのがよいかも知れないと思うようになり、上層部へ提案したところ、採用されたのだという。

1962年2月16日、テレシコワは宇宙飛行士候補に選ばれた。これは彼女が出した手紙がきっかけというわけではなく、大勢をふるいにかけていく中で自然と浮かび上がったもので、特にコムソモールでの目立った活動がパンチを効かせたとされる。

63年に入ると、モスクワで本格的な訓練を受けることになった。これは最終候補に残ったためだったが、母エレナには「クラブの合宿に出かけてくるから」と伝えただけだった。当然エレナは渋い顔をしたというが、「完璧な訓練を達成しなければならないから」という娘の言葉を信じ、そして誇りに思い、送り出したという。母は、ダイビングに打ち込む彼女にいつしか理解をしめすようになっていたようで、披露会の時には家族みんなで見物に出かけていたのであった。

だがテレシコワは、さすがにこの時ばかりは、後ろめたかったという。母をだまして、モスクワでやっているのはパラシュートではなく、宇宙飛行士訓練。モスクワからは10通ほど手紙を書いているが、どれにも「自分は元気だから」と書き、母を案じさせないようにしていたという。

そうして、その時歴史は動いた。1963年6月13日、ボストーク6号が打ち上げられたのである。この時、歳は26。この一報がソ連全土そして全世界に報じられたが、テレビを見ていた友人達が「テレシコワに激似だけど」とエレナに伝えたのだという。だがこれに対し、

「そんなはずないじゃない。だってあの子はモスクワでパラシュート訓練をやっているのよ!」

            

しかし公開されたプロフィールと写真、そして、宇宙船から送った母へのメッセージを聞いて(彼女は母へ宛てたメッセージを読むことを許された)、それが本当のことだと知らしめされた母・エレナ。完全にテレシコワを信じ切っていた彼女は、娘が人類初の女性飛行士になったことに栄誉と誇りを感じるよりも、ただただ裏切られたという思いで一杯だったという…。

数々の“史上初”の裏側には、このようなドラマもあったのであった。