コラム: R−7ロケットとバイコヌール 

ソ連/ロシア宇宙開発を支えた屋台骨というべきロケットが、「R−7」(コード番号8K71)である。これはコロリョフとその仲間達が作り上げた傑作で、マイナーチェンジを繰り返しながら、50年以上たった今でも現役で活躍している。これまでに打ち上げられた総数は1700を軽く超えるが、厳密な数字は恐らく誰にもわからないだろう(一応、一の位まで記す数字も出ているが、果たして本当なのか…)。ソ連がそれほどまでに頼ってきたこのR−7と関連施設をごく簡単にまとめてみよう。

◇ロケット本体

ロケットと言えば普通、我が国の「HUA」や米国の「デルタ」といったペンシル型の細長い姿を想像するものだが、R−7は極めて独特の形状をしている。

ロケットは打ち上げる衛星や宇宙船といった“貨物”(ペイロード)の重さに応じて、補助ロケットを底部に複数本装着するのだが、写真で明らかなように、R−7の場合はその補助ロケットがあまりに大きく、本体とほぼ一体化している。ちなみにR−7自体、当時は最大のロケットだった。「こんなもの飛ぶはずがない」と言う者もいたほどだ。視察に訪れたフルシチョフ第一書記も思わず、「これはでかい」と声を上げたとされる。

ロケット本体(いわゆる「第1段」。「コアステージ」や「初段」とも呼ぶ)を中心に4基の補助ロケットが装着されているが、補助ロケットは初段とほぼ同じものと言っていい。これは「単純に同じロケットを束ねるだけで強い推力を稼ぐことができる」という発想の下で設計されたためであり、そういう意味で言えば(ペンシル型ロケットに取り付けた、不足推力を補う小型ロケットという意味での)“補助”ではない。実際、ロシアではこの4基をまとめて第1段と呼んでおり、少々ややこしいところでもある。

写真はR−7で用いられているRD-107/108と呼ばれる液酸・ケロシンエンジンで,
開発はグルシュコ設計局。見る限り、燃焼室(及びノズル)が4つ組み合わされているが、これらは1つのターボポンプを共有する。つまりポンプ1つが4つのエンジンに燃料と酸化剤を供給する構造になっているわけである。加えて、個々の燃焼室がやや細長いのも特徴的だ。これは燃焼圧振動(燃焼室での燃焼不安定による振動現象)を抑制するための工夫である。

本来ならば単一の燃焼室(およびノズル)のエンジンであるのが理想だが、それでは燃焼圧振動を押さえ込むことができなかったため、グルシュコは燃焼室を4つに分割することで問題を克服した。これは苦肉の策であり、コロリョフもこのスタイルを好まなかったと言われる。




右写真はソユーズロケットの底部。これを見れば一目瞭然だが、上のRD-107タイプのエンジンが5基並んでいるのがわかる。中央にあるのが第二段・コアステージで、その周囲を取り囲む4基のエンジンが第一段エンジン(補助ロケットブースター)。高度50キロ付近でこの4基のブースターが切り離され、コアステージのみで加速を続ける。(正確を期すと、中央・コアステージのエンジンはRD-108で、第一段がRD-107)

なお、補助ロケットブースターを「第一段」と呼ぶのはロシア流であり、欧米を初めとして世界の主流はコアステージを第一段と呼び、ブースターは「第〜段」とは呼ばない。ブースターはあくまで“補助”としての位置づけがなされている。

また、各エンジン基の外側についた小さなノズルは「バーニアエンジン」と呼ばれる小型エンジン(右下写真)で、この噴射方向をちょこちょこ可変ことでロケット全体の姿勢を制御する(シャトルのようにエンジンノズル全体の向きを変えることは不可能であるから)。これはコロリョフの側近であるミーシンが提案し、コロリョフ設計局で開発が行われた。

◇R−7派生型

R−7(8K71)はスプートニク1号〜3号までを打ち上げたが、有人宇宙船など重量の重い宇宙機となるとパワー不足。そこで上に更にロケットを追加してやるわけだが、こうしてできたのがいわゆる「ヴォストークロケット」(8K72)や「ソユーズロケット」(11A511)などである。これらはコアステージの上に第2段(ロシア流に言うなら第3段)ロケットを載せ、その上にペイロードである宇宙船を載せたものである。ちなみに通信衛星や惑星探査機の打ち上げに用いられた「モルニアロケット」もやはり同じタイプ(8K78)であるが、これは第3段の上に更に第4段が載せられたもので、地球の重力を振り切ることが可能になっていた。

もちろん、このような増設が容易かった背景には、そもそもR−7のパワーが強大だったことがあることは、再認識しておいていいだろう。短期間でトン級の衛星を軌道に、そしてガガーリン飛行を可能にしたのは、その底力だった。

      


◇打ち上げ設備

コロリョフらがR−7を設計したとき、最大の問題はそれをどうやって支えるかということだった。HUAやデルタはスリムなペンシル型であるので立てた状態を保持するのは容易いが、R−7はその独特の形状のため難しい。そこで彼らが考えたのは、横っ腹に4本の腕(ペタル)をしがみつかせることで支える構造であった。

巨大なくぼみ(ピット)が彫り込まれ、その淵にテラス構造の射点が設置されている。このピットは火炎と噴気から生じる衝撃波を拡散させるためのもので、テラスには大穴が開けられており、ロケットはここにペタルで宙づりに保持される (写真は射点に立てられた直後のソユーズロケットで、ペタルが脇腹にしがみついてロケットを支えている。左右水平に倒れている塔は整備塔であり、これからロケット全体を挟み込む)。

  

また、組み立て工場から射点まで運ぶにも、立てたまま運ぶことができない。そこで工場では横に寝かせた状態で組み立て、そのまま鉄道で運び、射点でジャッキアップする。

エンジンが点火され、推力が増していきロケットが浮き上がろうとした時、ペタルを解放するシグナルが送られる。ロケット離陸の瞬間、ペタルが一斉に開く様、それは非常に動的で躍動感がある…動画サイトなどで検索すると見ることができるのでオススメだ。ちなみにこの構造体はその姿から「チューリップ」と呼ばれている。

◇宇宙基地◇

コロリョフらは当初、ロケット実験を「カプースチン・ヤール」と呼ばれる場所で行っていた。ここはボルガ川の近くに設置された実験場であり、1951年には犬を載せたロケットの弾道飛行実験が開始されている。しかし米国がトルコに設置していた無線傍受基地までの距離が近い上、設備がR−7にとっては小さいという欠点があった。また、R−7はそもそも水爆を米国へ飛ばすためのミサイルとして設計されたものであり、7000kmを超える射程が要求されていた。東西に長いソ連の国土は試射には有利であったが、着弾点を東端のカムチャッカとして逆算すると、発射地点は中央アジアのステップ地帯が理想的とされた。

1954年5月20日、新ミサイル基地建設が正式に承認された。場所は、カザフ共和国(現在のカザフスタン)の「チュラタム」と呼ばれる地域が選ばれた。ここは当時、鉄道駅以外には地質学者や鉱山開発者達のバラック小屋とテントしかない荒野であった。

鉄道は既に通っており、米の傍受基地から遠く、降水量も少なく、使い放題の広大な土地という利点があったが、寒暖の差が激しく(夏・40℃、冬・マイナス30℃)、真水の確保が難しく、オオカミや蛇といった危険生物の生息地という欠点もあった。中でも最大の欠点は、鉄道が通っているとはいえ、とにかく遠距離ということであった。

基地の建設は1955年1月より始まった。労働の主力は兵士であり、視察のための最初の部隊が現地入りしたのは同年1月12日。しかし行動は早く、ちょうど1ヶ月後の2月12日に政府の建設正式許可が下りている。

建設作業は苛酷を極めたという。遙か彼方の厳しい自然環境で、必ずしも充分とは言えない重機や火薬。巨大なピットは人海戦術で掘り起こされ、それは人間が掘った穴としては当時世界最大となった。コロリョフは2年で建設せよと命令を下しており、万を数える兵士たちが昼夜を問わず作業を続けていた。もちろん満足な住居はなく、それは基地と並行して建設されていった…最初の1年ほどは、簡単なバラック小屋かテントでの寝泊まりが続いたのである。

土砂やコンクリートを運ぶトラックの列は、草原をはい回る巨大な蛇だったという。

ちなみに殆どの兵士は中央ロシアの森林地帯から連れてこられた者たちであり、全く緑のない砂漠地帯に故郷を想う彼らは植樹を行い、寂しさを紛らわしたと伝えられている。1956年末までには必要とされる設備はほぼ整ったが、突貫工事に体を壊すものは後を絶たなかったという。

ところでチュラタムがバイコヌールと呼ばれたのはなぜか。実はバイコヌールとは、チュラタムから300kmも離れた鉱山町の名であった…まるで名古屋を岡山と偽って呼ぶようなものである。これは、西側の目を眩ますためのカモフラージュであった。

そもそもソ連は発射場の場所を伏せていた。1957年8月26日にソ連がICBM実験成功を発表した際、そして10月のスプートニク打ち上げの際もそうであり、だいぶ後に発射場を「バイコヌール」の名で明らかにしたのであった。この鉱山町が選ばれたのは、ミサイルやロケットの飛行軌道の真下にあるからだと言われている。

だがICBM実験発表の直後の米国は、発射場をチュラタムと確信、即座にU−2偵察機を飛ばし、同28日に写真撮影に成功している(写真・ピットの構造が極めてわかりやすい)。

                

それは、彼らを驚愕させるには充分だった。想像を遙かに凌ぐ規模を、目の当たりにさせられた…「ソ連はモンスター級のロケットを保有している」そう結論づける他なかった(地図は1961年9月21日にCIAが提出した報告書に記載されているもの。カプースチン・ヤール(Kapustin Yar)とチュラタム(Tyuratam)の場所が示され、発射ミサイルの最大飛行レンジが描かれている)。

     

1966年、チュラタムはレニンスクと改名されたが、1995年末にバイコヌールと再改名され、ここに名実共に一致し、現在に至る。基地は拡張を続け、現在、愛知や福岡県に匹敵する広さを有し(約5000平方キロ)、これはフロリダのケネディー宇宙センターのざっと9倍。文句なしに世界最大である。

なお、ミサイルとしてのR−7運用は1968年に終了している。そもそも打ち上げ準備に約2日かかるなど即応性に秀でていないといった欠点から、兵器として適したものではなかった。

to be continued..