親父の背中

打ち上げ前日の11日、ガガーリンとチトフの2人は、発射場の近くに設営された小屋に入った。夕刻、彼らはカマーニンと共に軽い食事を取り、21時半には床についた。

ところで、彼らには就寝の段階で、脈などを測定するセンサーが取り付けられていた。しかも、医師団は彼らに内緒でベッドにも細工を施し、寝返りの回数などを記録するセンサーを取り付けていたという…医者というのは、コワいものである(笑)。

なお、ガガーリンは何と、朝まで「爆睡」していた。コロリョフは隣の小屋でベッドに入ったものの、

「明日の打ち上げは、それまでのテストから考えて、成功する確率は約50パーセント…」

不安だらけで、一睡もできなかったといわれる。


12日午前3時、発射場での作業が始まり、6時には完了が報告された。7時半、ガガーリンらも目覚め、軽い食事とメディカルチェックの後、宇宙服を着込み、移動用のバスに乗り込んだ。バスには他の宇宙飛行士らや関係者、それに、全てを記録する2人のカメラマンも同席した。

車中、ガガーリンは普通に振る舞い、ジョークも飛ばし、緊張感は無かったという…ただ、物思いにふける瞬間はあったが(上写真:前がガガーリンで後ろがバックアップのチトフ)。

発射場へ到着すると、2人はコロリョフやカマーニン、戦略ミサイル軍司令官・モスカレンコや国家委員会委員長・ルドネフらの出迎えを受けた。コロリョフは、明らかに疲労の表情を隠せなかった…積もる不安に加え、この頃既に、日頃の健康状態、特に心臓があまりよくなかった。

彼はガガーリンに、送別の言葉をかけた。写真(下)は、そんなワンシーンを切り取ったものである。左にガガーリン、右で帽子を被っているのがコロリョフ、中央に立ち、穏やかな表情で2人を見つめるのはモスカレンコ。

ちなみにこのシーン、私が一番気に入っているものの1つだ。なんと感慨深い瞬間であろう。ガガーリンの自信に満ちた顔、そして、コロリョフの不安そうな姿勢…表情は殆ど伺えないが、その横顔と頭の傾き加減、その背中に漂う哀愁は、我々に彼の気持ちを想像させるには充分すぎるものを与えている。まるで旅立つ息子を見送る「親父の背中」だ。

「最初に宇宙を飛んだガガーリンは、偉大だった」長年言われ続け、今でもそうだが、コロリョフの仕事が明らかになるにつれ、「ガガーリンよりもコロリョフが偉大だった」という見方も増えてきた。

なるほど、そうかもしれない…ガガーリンを見出したのは、コロリョフだ。だが、ガガーリン無くして、コロリョフの気持ちが燃えただろうか。彼は日頃から、ガガーリンに全幅の信頼を置いていた。死ぬ直前に会って話をしたのも、ガガーリンだった。どちらが上か、という議論はナンセンス…この二人が出会ったということが、全くもって「歴史の奇跡」と言えないだろうか。

加えて、この一枚からは、冷戦時代に積み上げられた“恐ろしいソビエト”の臭いが全く感じられない。敢えて言えば、ヘルメットの上に書かれた「CCCP」(ロシア文字で“ソビエト社会主義共和国連邦”を意味)の文字ぐらいか。中央のモスカレンコは、核ミサイルを管理する戦略ミサイル軍司令官。肩書きと職内容だけを聞くとと怖々しいが、写真で見る限り、「ただの人の良さそうな爺さん」である。勿論、軍トップに上った男だから、それなりにオモテもウラもあるのだろう。だが、「ソビエトとは一体、なんだったのだろうか?」そんな、悲哀に似た疑問が、ソ連宇宙開発を知るにつれ、オーバーラップしてくる…。


最後の挨拶が終わった後、ガガーリンは宇宙船へ乗り込むためのエレベータへ誘導された。そこで、皆に向かって大腕を振り、力強く旅立ちを誓った。チトフはこの段階で残された…その後の二人の運命が分かれた瞬間だった。

午前7時10分、ガガーリンは宇宙船に乗り込んだ。これから打ち上げまでの約2時間、彼は待ち続けるのだが、退屈だったようである。管制部の「音楽でもかけようか?」という問いかけに対し、「うん、頼む」と答えている。

コロリョフに対しては、特製の部屋が設けられた。そこに置かれたテーブルには緑のクロスがかけられ、その上には通信機と、赤い電話が1台置かれた。もし打ち上げの際ロケットに異常が生じた場合、ガガーリンは(戦闘機の緊急脱出のように)船外に放り出され、パラシュートで救助されることになっていた。電話は、その指令(パスワード)を送るためのものだった。ちなみにこのパスワードは、コロリョフを含めて3人しか知らなかった。

打ち上げ15分前、彼はグローブをはめ、5分前、ヘルメットのバイザーを閉じた。ガガーリンには、緊張はなかった…コロリョフらは緊張の極を迎えようとしていたにも関わらず。8時41分、カマーニンは呼びかけた。

 カマ「こっちの声は、聞こえるか?」
 ガガ「はい、よく聞こえます。こちらはどうですか?」 
 カマ「君の脈は64で、呼吸数は24だ。普通通りだな」
 ガガ「了解。私の心臓が動いていることの証ですね」

…ジョークを言う余裕もあったようである。だが、打ち上げ直前、彼の脈は157まで跳ね上がったことが記録されている。


今、関係者が緊張の時を迎えた。多くの技術者、政府関係者達の漲る汗と涙の結晶が、まさに実ろうとしていた。セルゲイ・パブロビッチ・コロリョフ…空を飛ぶことに憧れ、航空宇宙の志を抱くも、収容所へ放り込まれ、奇跡の生還を果たし、優しい顔とは裏腹に、その強すぎる意志は国家をも煽り、スプートニクを打ち上げ、米国をロケットレースへ引きずり込んだ男。ついに、人間が宇宙を飛ぶ…彼とその仲間達の、若き日の夢が叶おうとする瞬間だった。

R−7ロケットのターボポンプが起動、メーンエンジンに燃料が送られ、火がついた。最初は小さな炎だったが、すぐに力強い火炎に代わり、ぐんぐん推力を増していく、巨大な白煙がもうもうと立ち上がる。一端火がついたらもう、止まることを知らないロケット。やがて、巨大な機体が発射台から浮かび上がろうとした!

1961年4月12日午前9時6分59.7秒(モスクワ時間)、ガガーリンを乗せたボストーク1号は天地を切り裂く轟音と共に、ゆっくりと発射台を離れた。この、歴史の歯車が動き始めた瞬間、彼は叫んだ

   「パイェーハリ!」

日本語に直すと「しゅっぱーつ!」「それいけー!」という意味になるだろうか。

いや、某アニメではないが、「いきまーす!」の方がいいだろう(笑)。

一方、コロリョフは緊張と興奮の極にあった。ロケットに何か事が起こったら…とにかく、無事に地球を周回する軌道へ達することだけを願っていた。

と、その時だった。ロケットの状態をリアルタイムで知らせる、いうなら心電図に相当する信号が、数字の「3」を打ち始めた。これは、正常なら「2」、異常が生じたら「5」を発するようになっていた。「3」などあり得ないはずだった…数秒後、元の「2」に戻ったが、その一瞬は、関係者の寿命を縮めたに違いない。

ロケットの加速に伴い、ガガーリンは強い「G」を感じていた。最大で5G程度を感じたという…これは、体に体重の5倍の力を受けたことを意味する。9時10分、コロリョフは話しかけた。

 コロ「全ては順調だ。どんな気分だ?」
 ガガ「地球が見えます。気分は良好です」
 コロ「いいぞ!よくやった!全て順調だ」
 ガガ「雲が見えます。陸も…美しいです、なんと美しい!」

打ち上げは順調に進み、R−7ロケットは切り離され、約10分後、宇宙船は無事、周回軌道へ到達した。地球を約90分で1周する軌道である。

無事に軌道へ到達すると、当初の手順通り、全世界へ発表することになった。それを受け、打ち上げ成功の暗号連絡が国営タス通信へ送られた。しかし…その後の手違いのため、発表が遅れてしまった!宇宙基地の皆は、ラジオがなかなか発表しないため、不安を募らせていた。だがついに、打ち上げから55分後、ラジオから高々と打ち上げが宣言された(写真:船内のガガーリンを映したモニター)。

「世界初の有人宇宙船“ボストーク”が飛行士を乗せ、ソビエト連邦より打ち上げられた。飛行士はソビエト社会主義共和国連邦市民、ユーリ・アレクセイビッチ・ガガーリン空軍少佐である!」

彼は、もともと中尉であった。この時点で、少佐に特進したことになる。これは南米沖を飛行中だったボストークにも連絡され、ガガーリンはそれを喜んだ。

だがこの時点で連絡が行われた真の心は、彼が生還できなかった時を考えての配慮だったと言われている。

ちなみに、米国はこの発表の前、すでに有人宇宙船が打ち上げられたことを察知していた。打ち上げ20分後、アラスカで無線が傍受され、船内のガガーリンの姿も映し出されていたのである。


彼の任務は、窓から地上を眺め、また、宇宙船の計器をチェックすることだけだった。特別な実験などのミッションは組まれておらず、とにかく、無事に帰ってくればそれでよかったのである。

以前の号でも度々述べたが、飛行制御は全て、地上からの遠隔操作と自動装置で行われていた。手動制御の余地は残されていたが、そのためには特別な「ロック」を解除せねばならず、それは6つの数字を組み合わせた暗号になっていた。ガガーリンにはそのうち3つが教えられておらず、代わりに、それらを書いた紙を入れた封筒が渡されていた。地上と連絡がとれなくなるなど、緊急事態の時だけそれを広げて、ロックを解除するというわけである。

帰還後、「地球は青かった」と不滅の言葉を残した彼は、どのような地球の姿を見たのだろう…。




地球1周に達しようとしていた10時25分、船の姿勢が変わり、逆噴射ロケットが作動した…一番懸念されていた逆噴射システムが無事に作動したことで、コロリョフらは胸をなで下ろしたに違いない。それはちょうどアフリカ上空だった。その後、カプセルと各種装置を詰めた部分が切り離され、カプセルだけが地上に帰還することになっていた。だが、最後の最後で、最大のピンチが訪れた。

「逆噴射は正確に40秒続きました。エンジンが止まった後、鋭い衝撃があり、宇宙船は回転を始めました。回転は、1秒間に30度の角速度です。ちょうど、“バレリーナ”のような状態になりました。窓からアフリカが見えたかと思うと地平線が見え、空が見えます。窓からはいる強い太陽光を足で辛うじて遮りました」

カプセルと装置部分は4本の鎖で結びつけられており、逆噴射後、爆薬が起動しそれらが切れるような設計になっていた。しかし、そのうちの何本かが切れず、2つは緩やかにつながったまま、回転を始めたのだった!ちょうど、2つのおもりを紐で結んで回転させながら投げて敵を絡め捕る、忍者の武器のような状態である。

そのままでは加速がつきすぎ、カプセルは熱に耐えきれず燃え尽きてしまう可能性がある。だが、中のガガーリンにはどうすることもできなかった。彼はこの時の様子を次のようにまとめている

「…分離を待ち続けました。しかし、分離は置きませんでした。逆噴射ロケットの停止後10秒かそこらで装置部分は切り離されることになっていました。分離装置起動後、パネルの照明は全て消えましたが、暫くすると再び点灯しました…」

カプセルと装置を繋ぐケーブルが完全には離れていないことを意味している。

「…未だに離れる様子がありません。"バレリーナ状態"は続いています。しかし多分、無事に着地すると思いました。なぜならソ連は広大な領土なので、どこかに落ちるのは間違いないからです。それで、私は"異常なし"の信号を発信しました。」

結局、最終的に分離したのは、約10分後だった。もう少し続いていたら、彼はカプセルもろとも、燃え尽きていたかも知れない(因みにこの事実は、1991年になってから明らかにされた)。彼は大気圏突入の際の様子を次のように振り返っている

「突然、紫色の光が窓から入ってきました。宇宙船は振動し、コーティング(耐熱材)が燃えているのを感じました…徐々に船内の温度があがり、体に重力が加わり始めるのを感じました。…約10Gを感じたでしょうが、これはホンの2、3秒ほどでした…」

高度7000mでカプセルのハッチが開き、彼は外へと投げ出され、パラシュートが展開した。カプセルの方も独自にパラシュートを展開し、降下していった。

「鉄道線路が見える。川にかかった橋、長いボルガ川が眼下に広がる…」

コロリョフは、カプセルの大気圏突入後、書記長・フルシチョフに電話をかけた。「パラシュートが開きました。彼は着地しました。宇宙船はOKのようです!」これに対しフルシチョフは返答した。「彼は生きているのか?彼は信号を送ってきたのか?彼は生きているのか?生きているのか?…」

ガガーリンは、無事に地表に舞い降りた。カプセルもまた、地表に降りたが、ドスンという鈍い衝撃音が走ったに違いない。

フライトタイムは108分。最高高度は約302km、飛行距離は約38620km。

彼が降り立った近くでは、年老いた女性が農作業をしていた。また、彼女の傍には手伝う孫娘と1頭の牛が佇んでいた。

老女は突然舞い降りた、赤い服を着た男に恐怖を感じ、小さな孫娘は背中に隠れてしまった。前年に起こった米国の偵察機「U−2」の撃墜と、そのパイロットであるゲーリー・パワーの拘束事件を老女は思い出し、再び別の米国人が降りてきたのかと思ったという。

「おーい…!私はソビエト連邦の市民です!いま宇宙から帰ってきたんです!」

「怖がらないでください!それから、電話を貸してくれませんか!」

彼は満面の笑みを浮かべながら、そのように叫んだ。老女らは、ラジオで祖国が人間を宇宙に飛ばしたことを聞いていたため、近づいたガガーリンに、本当のことなのか聞き返した。

ガガーリンは再びニッコリ笑うと、「本当です!」と答えたという。


ガガーリンは何事もなく、救助隊に収容された。バイコヌール宇宙基地では、無事の一報が基地中に広がっており、大騒ぎの最中だった。関係者の間でシャンペンやウォッカがまわされた…コロリョフは完全に我を忘れた興奮状態で、それまで見せたことのなかったような上機嫌に浸っていたという。

関係者は着地地点へ移動し、カプセルのチェックを行った(右写真)。その後、ガガーリンはコロリョフと面会し、報告した

「全て完璧でした、セルゲイ・パブロビッチ。完璧です」

「息子」の立派な帰還にコロリョフは、感動のあまり、もはや声が出なかったと言われる。

4月14日、モスクワに戻ったガガーリンは、フルシチョフ書記長以下、政府高官らへの報告に臨んだ。勿論フルシチョフはそれらも大いに、政治的に利用した。派手な演出で正に「報告式」が挙行されたのだった。

飛行機で到着したガガーリンを待ち受けていたのは、大観衆の喝采だった。タラップを降りると、長い、長い赤じゅうたんが敷かれ、その上をゆっくりと、優雅に歩いていくガガーリン。先の方ではフルシチョフらが待ち受けており、そこへ到着すると、敬礼、任務を完了したことを報告した。

彼は、世界中も訪問した。行く先々で歓迎レセプションが開かれた。「共産主義の輝かしい勝利!」フルシチョフはご満悦だった。

だが彼は以前、打ち上げ日時を決めるにあたり、イチャモンをつけたことがある。「5月メーデーのお祝いに華を添えることができますが…」という現場の提案に、「大切な日にバタバタ騒ぐのは…」と渋っていたのだ。

本音は、失敗した時に自分のメンツがつぶれるのを恐れていただけである。

「輝かしい勝利」…しかし、こんな指導者の下で、心底そう思っていた人間がどの程度いたのか、私には疑問である。


ガガーリンはその後、再び宇宙を飛ぶことはなかった。1967年、コマロフが事故死したソユーズ1号(開発史(6)参照)のバックアップとして選ばれたことはあったものの、「重要な人間を不慮の事故で死なせてはならない」ということで、67年8月には宇宙飛行士リストそのものからも除籍されている。今後許されるのは飛行機のみで、しかもインストラクター同乗の下、というものだった。

1968年3月27日。その日、彼はミグ15戦闘機に乗り込み、滑走路を離陸した。彼はとにかく、飛行訓練を再開したかったようである。周囲は「おとなしくしていて欲しい」という気持ちで一杯であったにもかかわらず…彼の最初の飛行許可は却下されたが、2度目のそれは、認可された。(写真・ラストフライトの直前)

10時19分、機体は宙に浮いた。その12分後、着地体勢に入った彼らは、そのまま立ち木に向かって突っ込んだ。最後のフライトは、僅か12分で終わった…墜落は、乱気流が原因と言われている。


今日、ソユーズロケットが工場から搬出されるのは、午前7時である。

ガガーリンのボストークがそうだったからだ。

ロシアの男性宇宙飛行士は、発射場へ向かう途中、バスを降りて立ち木(タイヤという話も)に放尿する「儀式」を行う。

ガガーリンがそうしたからだ。

フライトに先立ち、必ず、モスクワにある、ガガーリンが生前使っていた書斎を訪問、献花する。この書斎は彼が死んだ時点のままに保存されている(写真・彼が使用していた机)。日めくりは27日、壁時計は10時31分で固定されたまま…。

彼の死後、宇宙飛行士訓練センターは「ガガーリン訓練センター」と改称されている。毎年4月12日には、モスクワで記念式典が開かれている。

ガガーリンは今なお、ロシア人の心の中に生きているのだ。

補足:一連の流れを動画にしたドキュメントビデオが存在します→ユーリ・ガガーリン フライトビデオ 
ガガーリンがボストークに乗り込むところから始まり、コロリョフの力強い命令やガガーリンの「パイェーハリ!」の声など、見応えがあります!

 注: 当ページ中央に記載の5枚のカラー画像は、近年、国際宇宙ステーションから撮影されたものです。

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
NASA website  http://www.nasa.gov
S.P. Korolev Rocket and Space corporation Energia  http://www.energia.ru/english/index.html
Encyclopedia Astronautica (C)Mark Wade  http://www.astronautix.com/
Videocosmos http://www.videocosmos.com
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Disasters and Accidents in Manned Spaceflight” by David J. Shayler, Springer Praxis, 2000
「月を目指した二人の科学者」的川泰宣著 中公新書(1566), 2000
朝日新聞1998年1月4日日曜版「100人の20世紀」・ガガーリン編