癒し系の男

戦略ミサイル軍初代司令官・ネデリンの死で終わったR−16ミサイル爆発事故。160名を越える命が奪われた、この史上最悪の事故後、書記長・フルシチョフは面会したヤンゲルに対し、痛烈な皮肉を浴びせた

「何でオマエは生きているのだ?」

しかし、事故責任は誰にも課されなかった…責任を負うべき人間は皆、死んだからだ。生きて責任を被るなら、開発を担ったヤンゲルはその1人だが、不問にされた。彼なくしては、ミサイル開発が進まないからだった。(写真は火災が消し止められた直後の様子)

この大惨事は、直接関係は無かったコロリョフの有人宇宙飛行プログラム「ボストーク計画」へも暗い陰を落とした。国家を揺るがす大事故であったのは勿論だが、計画を管理・主導する国家委員会の委員長が、至近距離で爆死したネデリンだったことも要因である(開発史(7)参照)。

だが、大惨事であったにもかかわらず、約2週間後には計画遂行が再開された。ボストーク計画の新しい委員会委員長にコンスタンチン・ルドネフ、戦略ミサイル軍司令官にキリル・モスカレンコという男たちが任命された。

彼らには、時間がなかった。米NASAは61年初春に有人初飛行を目指していた。そしてそれに先んじるために練られた、「1960年12月までに人間を宇宙へ飛ばす」というタイムラインは既に、非現実的なものとなっていた。しかし、この時点ではまだ、辛うじて米に勝つ余地が残されていた…コロリョフらは、ボストーク宇宙船のテスト機打ち上げ許可を政府に求めた。


1960年12月1日、テスト機が打ち上げられた。これは立て続けに行われているテストの一環で、2匹の犬、プシェルカとムシュカが乗せられていた。打ち上げは順調で、予定通り周回軌道に乗り、「コラブル・スプートニク3号」と命名された。予定では24時間飛行し、その後、地上に帰還することになっていた(写真:宇宙船内の2匹。右側に足が2本見える。これはCIAが傍受し、再生に成功した画像という。詳細はSven氏のサイトを参照)。

だが、地球周回は順調だったものの、帰還の際に必要な逆噴射ロケットが、またまた、不具合を起こしてしまった。噴射時間が短すぎたため充分な減速ができず、ソ連領を飛び越え、更に1周半した後、国外へ着地する軌道を辿っていた。もし非友好国に不時着、回収でもされようものなら大失態である。技術を露呈してしまうのだけは、避けねばならない…2匹の犬を乗せたまま、爆破された。

次のテスト機が12月22日に打ち上げられた。これにもコメタとムシュカという2匹の犬が乗せられていたが、3段式ロケットの第3段の燃焼が不十分で、軌道に達することができないことが判明した。

ロケットは高度214kmまで上昇、その後、落下軌道に入った。野球で言えば、正に「超特大アーチ」を描いたフライ状態。カプセルはきちんとパラシュートを開き着地したが、3500kmも離れたシベリアの、ツングース川の傍の無人地帯だった。

そこは、氷点下60度を下回る極寒の地だった。「犬たちは無事なのか?」回収チームが組織され、現場へ急行、24日、2匹の無事が確認された。しかし、犬たちはカプセルから射出され、パラシュートで着地する予定だったが、その機構がうまく働いていないことが判明した…時間は無いのに、宇宙船も、それを打ち上げるロケットも、今なお完璧が保証されなかった。


ハードウェアはまだまだ問題が多かったが、一方、選抜された20人の宇宙飛行士達の訓練は順調に進んでいた。「コアグループ」である6人の仕上がりには問題なく、年が明けた61年1月には一区切り付こうとしていた。同月中旬には最終テストが行われ、最初の飛行士として誰が適任か、3人まで絞られた。

彼らの名をそれぞれ、ユーリ・ガガーリン、ゲルマン・チトフ及びグリゴリー・ネリューボフという。

(写真:前列左から4番目がガガーリン、中列左から6番目のしゃがみ加減がチトフでその右隣がネリューボフ。ちなみに、ガガーリンの右隣にコロリョフがいる)。

ユーリ・ガガーリン、26歳。彼は早い段階から、有力候補だった。モスクワ郊外に生まれた労働者階級の出身で、1949年に中学校を卒業後、いくつかの技術学校へ通い、1955年、オレンバーグ高等空軍学校に入学した。飛行士選抜前は北極圏にある基地で、次席パイロットを務めていた。彼は非常に好感が持て、また、知性に富んだ男であった。1960年代中頃、コロリョフは最初に彼と出会うが、その際並々ならぬ「良さ」を感じ取ったようである。空軍医の1人は、彼のことをこう記録している。

「そのジョークのキレの良さから、高い知性を備えているのがユーリには見て取れる。彼は自身を極めて客観的に捉えることができる。イマジネーションもいい。クイックなリアクションと用意の良さ。天体の動きを理解し、数学を理解している。生きる、ということを他の誰よりもよく理解していることがわかる…」

ゲルマン・チトフ、25歳。アルタイ地方に生まれ育った彼は1953年、カーチャ高等空軍学校に入学した。57年に卒業すると、レニングラード(現・サンクトペテルブルグ)配属になった。彼もまた優秀であったが、1959年の選抜におけるいくつかの質問に、「ばかげている」と反抗的であったことが記録されている。

グリゴリー・ネリューボフ、26歳。彼は多分、最も能力が高い人物であった。クリミア地方に育ち、高等空軍学校を卒業後、ミグ戦闘機乗りとして黒海艦隊と共に行動していた。ただ、宇宙飛行士に選抜された直後から度々、自身が如何に優れているかを宣伝し、しかもそのような行動に行き過ぎた部分が多かった。また、いわゆる「ゴーイング・マイ・ウェイ」であった。飛行士達を訓練する監督だったカマーニンも「彼の優秀さは、その態度でチャラになってしまっている」と評価していた。どこの世界でも、我が道を行くヤツは嫌がられる、ということか…?

なお、飛行士達の選抜と合わせて、宇宙船を追跡する地上の施設も大幅に追設された。ソ連は広大な領土を抱えていたが、それでも勿論、地球全体をカバーしていたわけではない。宇宙船が領土外を飛行しているときも通信がスムーズにいくよう、「中継船」を建造し、世界の海へ浮かべた…ソ連友好国、いわゆる「東側の国々」への通信設備建設は、あまり乗り気ではなかったようである。


1961年3月2日、有人飛行に関する詳細な仕様が、第一設計局の技術者達…コロリョフの部下達…によってまとめられた。それはミッションの各段階における詳細な手続きのみならず、緊急の際の手順なども含まれたものであった。また、飛行士の宇宙船に対するアプローチも定められた。簡単に言うと、「飛行士は座席に座っているだけで、基本的な操舵は地上からの指令とオートメーションによっておこなわれる。ただ、マニュアルによる船体制御も可能とする」というものであったが、後にコロリョフらによって「完全なる外部&自動制御で、飛行士は座っているだけ」と制限をより厳しくされた。

とにかく何が起こるかわからない初飛行である。飛行士は、ただただ、無事に帰って来さえすればよかった。無用な操作を入れることで万一帰還不能にでもなったら…「人間は、過ちを犯す」このような信念が強かったのも色濃く反映されている。

ところが、これに反発したのは、カマーニンだった。以前の号でも述べた(開発史6参照)が、飛行士を訓練したのは彼とその部下だ。そりゃ、訓練した側からすれば、面白くない。「ミスするわけないだろう!」暫しの議論の後、マニュアル操作の余地が残された。

3月9日、更なるテスト機が打ち上げられ、「コラブル・スプートニク4号」と命名された。この宇宙船にはチェルニューシカという名の犬1匹と小動物や植物、それに、マネキンが乗せられた。マネキンが乗るのは、今回が初めてである。これには使用予定の宇宙服も着せられ、本番さながらのチェックがリアルモードで可能なように設定されていた。また、宇宙船からの音声がきちんと受信できるか確認するのも重要な目的の1つだった…これに関し、同時の技術者の興味深い証言がある。

「数字をカウントダウンする案は、却下された。なぜなら西側に傍受され、極秘に人間を打ち上げたのではないかと思われたくなかったからだ。また、歌を流すのも不採用となった。飛行士のアタマがおかしくなって歌い始めた、と思われたくなかったからだ。それで我々は、コーラスを流すことにした。宇宙船のマネキンからコーラスが聞こえてくるのだ…思わずほくそ笑んでしまった」

このテスト機の飛行は、パーフェクトだった。カプセルは無事帰還し、犬も小動物も、そしてマネキンも無事だった。計画に、一気に弾みがついた。

…はずだったがまたしても、歴史はそう簡単に造られなかった。

      ・・・   ・・・   ・・・  

3月23日、最後のテスト機が打ち上げられようとしていた2日前のこと。20人の宇宙飛行士グループで最年少のワレンティン・ボンダレンコ(24歳)は、減圧室で「孤独訓練」の最中だった。減圧室とは、外部より僅かに圧力を下げられた気密室。しかも、外の音は全く入ってこない。ここで1人、長期間生活をする…宇宙船にたった1人で長時間乗り込むことへの影響を調査するのと、孤独へ耐えるための訓練が目的だ。外へは出ることができず、食事から何から、全て自身でこなさねばならない。

この日、ボンダレンコは気密室へ入ってから10日目を迎えようとしていた。1人ポツンと過ごす気分はどんなものなのだろう…昔聞いたことがあるのだが、部屋に孤立させられると、まず眼球の動きが素早くなり、次に、鼻歌を口ずさんだりするそうである。独り言も増えるという…彼はどうだったかわからない。そんな孤独との闘いが続いていたが、ただ、それももうすぐ終わろうとしていた。

体には、脈などを測定するためのセンサーが取り付けられていた。テープで固定されているため、はがした後は勿論、赤みを帯びているのは言うまでもない。それをふくための脱脂綿とアルコールも用意されていた。

メディカルチェックが終わった後、彼はセンサーを外し、アルコールをしみこませた脱脂綿で跡をふき取った。それを、しかし、よく周囲を確認せずに部屋の脇へ放り投げた…ホットプレートの上に落ちた…この電気プレートは、料理のために置いてあるもので、スイッチがオンのままになっていた!

減圧室は、圧力が下げてある分、酸素が大気(20%)よりも高め(50%)に設定してあった。だがこれは、些細な火花でも一気に広がる可能性が高いことを意味する。それが、現実となってしまった。

脱脂綿についた火は、瞬く間に燃え広がった。彼は当初、警報を鳴らす前に自分でそれを消そうとしたが、衣服に燃え移ってしまった。外の担当者も火災に気づき、慌ててかけつけたが、内部の圧力を元に戻さないとハッチが開かない。圧力回復に数分かかったが、その間に、部屋の内部は殆ど焼けてしまった。

大惨事が起こってしまった。救急隊に担ぎ出された彼は、辛うじて生きていた。だが、悲惨というのはこのことだろう…彼は全身大やけどで、髪も顔面も焼けただれ、生きているのが不思議なくらいだったという。救出直後、「オレのせいだ、オレが悪かった」とつぶやいていたという…治療もどうしようもないまま、彼は8時間後に息を引き取った。

このことが、他の飛行士達にすぐ伝えられたのか、それとも暫くたってから伝えられたのか、正確なところはわからないという(当時、傍にはガガーリンがいたという言い伝えもある)。

ただ、この惨劇があったにもかかわらず、計画は遂行されていった。本来なら事故調査がおこなわれ、その間は中断するであろうに…重苦しい雰囲気であったに違いない(なお、上の集合写真は、ガガーリン初飛行の直後に撮られたもの。勿論、ボンダレンコの姿はない。また、事故の事実はトップシークレットになった…ボンダレンコという男の存在自体、ソ連崩壊まで世に出ることがなかった)。


ボンダレンコの死の2日後、3月25日。予定通り、最後のテスト機「コラブル・スプートニク5号」が打ち上げられた。これにも1匹の犬と小動物、それにマネキンが乗せられ、有人初飛行の完全リハーサルを行う目的で、地球を1周して帰還することになっていた。

これも全て順調で、パーフェクトであったが、着地したところが天候不良で雪が深く、回収に手間取ってしまった。しかもその間、付近の村民に回収現場を見られてしまった!

彼らは、明らかに疑いの目で回収チームを眺めていた。「密かにけが人を回収しているのではないか?」しかし、村民達は皆、マネキンを見せられると納得したという…勿論、このことは絶対に口外しないように厳命されたであろうが。

(写真は回収されたマネキン(「イワン・イワノビッチ」と呼ばれた)。"MAKET"とは、ロシア語で"ダミー"(模擬)を意味する。また、ヘルメットには「触るな・すぐに地元の役所に届け出ろ」と書かれていた。これはコロリョフ直々の命令でなされたという)。


一連のテスト機の成功を受け、28日、コロリョフはモスクワへ帰った。彼は国家委員会で一部始終を報告、次の宇宙船を本番とするべきことを進言した。また、この委員会には国家保安委員会、いわゆる“KGB”(秘密警察)の副議長が出席した。ボストーク計画のミーティングにKGBの上級幹部が出席するのは初めてだった。

この会合では、共産党中央委員会へ提出する、有人飛行許諾書の内容が煮詰められた。その内容では、6人の飛行士達が訓練を仕上げていること、初飛行は地球を1周して帰還するということに加え、トラブルが発生した場合の対処に関しても細かくまとめられた。「もし、海外に不時着した場合、飛行士は適切な処置で外国人に接する。非常時に備え、予備の食料と水と通信機器を搭載する。自爆装置は、備えない…」などである。

ちなみに、自爆装置の可否については、協議が長引いたという。度々記したように、それまでのテストでは、外国領へ落ちそうになった際には自爆処理されていた。これは勿論、技術が他国の目に触れるのを阻止するためであったが、いざ人間を乗せて飛行するとなると、爆薬を搭載すべきか否か?委員会のメンバー達は、強く反対したという。そりゃ当然だろう、人間が乗っているのだ。

だが、1人だけ搭載を主張したものがいた…KGB副議長だった。人権が抑圧された、非人道的という暗い“ソビエト”のイメージを造っていたのはやはりKGBだったということが、此処にも現れていると言える。だが、皆の支持が得られず、自爆装置は搭載されなかった。

また、どのようにメディアで報じるかも、注意深く討議された。各自、曖昧さ、ましてウソなど、一切抜きに互いの意見を交換した。それは勿論、飛行士の安全を第一に考えてのものであり、その結果、次のことが決定された。

「宇宙船が軌道に乗った直後、国営タス通信を通して全世界に直ちに発表する。それは第一に、もし救助が必要な事態になった際、スムーズに事が運ぶためであり、第二に、飛行士を“スパイ”呼ばわりされないようにするためである。」

4月3日、党中央委員会は提案を正式に認可し、打ち上げは4月10日から20日の間と決定された。6日、「コアメンバー」6人の飛行士達は宇宙基地へと到着したが、モスクワを離れる前、彼らは家族に「打ち上げは14日に行われる」と告げるよう、仕向けられていた。実際の打ち上げは11日頃に予定されていたが…家族に心配をかけないためだった。

因みにこの時点ではまだ、誰が史上初の宇宙飛行士になるか選ばれていなかった(ただ、7日までには、ガガーリンとチトフの2人に絞られてはいたようであったが)。


最終的に、どのようにガガーリンが選ばれたのか…これにはいろいろな話があり、これを書いている私には、正直なところよくわからない。昔聞いた話によると「パラシュート訓練の時にガガーリンが目立って冷静だったから」といい、また「宇宙船の内部に乗り込む際、ガガーリンが靴下を脱いだのにコロリョフが感動した」とも伝えられる。コロリョフは「機械には敬意を払うべき」という思想の持ち主だったといわれる。

更に別の話では、当初、コロリョフの部下はチトフを推したという。「チトフのほうが2kg軽い」というのが理由だったというが、これに対しコロリョフは「ならば2kg分の荷物を下ろせ。最初はガガーリンだ」と拒否したといわれる。

なお、飛行士の訓練係であったカマーニンは、ガガーリンを評価していたが、最終段階ではチトフに傾きつつあった。「カマーニンの日記」4月5日付には「双方とも素晴らしい。しかし私はチトフの評判を聞くにつれ、彼に傾きつつある。だが彼は、2番目の飛行士として使いたい」とある…揺れる彼の心境が伺える。

いろいろ言い伝えがあっても結局、最後にガガーリンを選んだのはコロリョフだったというのは、間違いないのだろう。彼は、ガガーリンの能力だけでなく「人あたりの良さ」も高く評価していたようである。「笑顔がいい」と語っていたとも言われる。

決して尊大な態度を取らない、いつもニコニコしている“癒し系”の男(写真)。チトフは多少、言うなら“生意気”な一面があり、自意識過剰なネリューボフに至っては多分、始めっから選考外であったに違いない。コロリョフの周囲はただでさえ、口うるさい者が多かった。ライバルや政敵も多く、気が休まる余裕はなかったはず

…ひょっとしたらコロリョフにとって、ガガーリンは数少ない「甘えることのできる」希な人材だったのかも知れない。

なお、この人選は結果として、後々にまで多大な好影響を残したとも言える。もし、史上初の宇宙飛行士が傲慢もしくは横柄な人柄であったとしたら、またそのような片鱗を公に見せていたとしたら…一般世間での、宇宙開発への理解は無かったかもしれない。

4月10日、カマーニンはガガーリンとチトフを呼び、ガガーリンが選ばれたことを伝えた。チトフはガガーリンのバックアップとなった。この件について後年、質問されたチトフはこう答えている

「何でそんなことを尋ねる!辛かったかどうかだと…そりゃ、多少なりとも不愉快だったよ」

打ち上げは12日朝・モスクワ時間午前9時7分に設定された。人間が初めて宇宙へ飛び出し、地球を外から眺めるのは間もなくだった…。

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
NASA website  http://www.nasa.gov
Encyclopedia Astronautica (C)Mark Wade  http://www.astronautix.com/
Videocosmos http://www.videocosmos.com
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Disasters and Accidents in Manned Spaceflight” by David J. Shayler, Springer Praxis, 2000
「月を目指した二人の科学者」的川泰宣著 中公新書(1566), 2000
>朝日新聞1998年1月4日日曜版「100人の20世紀」・ガガーリン編