ブラック・マンデー
前号までご紹介してきた、旧ソ連最初の宇宙飛行士達はどのように選ばれたのか?史上初の有人飛行を達成したガガーリンを含め、一連の流れを2回にわたって振り返ってみよう。平行して、その陰には大惨事が隠されていたことも明らかとなる…。
旧ソ連政府が、人間が宇宙を飛ぶことを具体的に協議し始めたのは、1959年春のことだった。同年5月に軍、科学部門及び設計局からの代表が集い、どのような人物を選択すべきか協議された。彼らは“宇宙飛行士”として、空軍、海軍、ロケット各部門、及びカーレースといった分野のエース達を想定した。中でも空軍や医療関係者達は、高圧、高G訓練やパラシュートといった訓練には空軍兵士達が慣れているので、彼らが適していると主張した。
ただ、飛行士達の選択に、“ライバル”である米国の動きが影響を及ぼしていたのも間違いない。米国は同年4月、後に「ライト・スタッフ」と呼ばれることになる7人の飛行士達を空軍から抜擢、いわゆる「マーキュリー計画」をスタートさせていた。興味深いのは、世界初の人工衛星を打ち上げたのは旧ソ連であるにもかかわらず、宇宙飛行士の選定の段階では僅かだが、米国に先を越されていた点である。ソ連が焦りを感じ始めていたのは間違いなかった。
宇宙開発を主導していたセルゲイ・コロリョフは、飛行士の選定にあたり、まず、男のみに限定。その上で「年齢25〜30歳、身長170〜175センチ、体重70〜72キロ」という厳しい条件を課した。これは、開発中だった宇宙船(右下写真のサイズを考慮した結果だった。また、医学的見地からの選定が優先されたため、健康で完璧な身体が要求された。それを反映するのか、年齢の条件は、米国のライト・スタッフ達と比べるとひと回り程も若い。医療機関の主導の下、飛行士の条件が最終的に採択されたのは1959年6月だった。
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この条件を満たした男達を探して、各空軍部隊、特にロシア西部方面における調査が開始された(中央から近いからか?)。医療関係者が各基地に送り込まれ、また、各部隊の従軍医師らも協力、8月までにスクリーニングを終えた軍人の数は、3000人を上回った。しかし彼らの大半は初期選別の段階でふるい落とされた…身長、体重、それに通院歴などである。気管支炎、喉頭炎、胃炎や大腸炎、腎臓疾患等々…中には虫歯で落とされたものもあるという。
9月に入り、残った兵士達の更なる調査が開始された。今度はメンタル面のチェックに重きが置かれ、健康状態、気分、生活の充実度や人生での目標、といったものに関するヒアリングが行われた。
ちなみに、この段階にきても、彼らには"真の目的"は告げられなかった。しかしながら、何のためにそこにいるのか全くわからなかったものもいる反面、目的に気づき、家族に相談することを願い出るものもいたという…しかし、それらは完全に禁止された。彼ら自身での決断が、求められていたのだった。
この段階までに残ったのは、200人程だった。彼らはモスクワの中央科学病院(Central
Scientific-Research Aviation Hospital)に送られ、更なる試験が科せられた。それは、座席に座わったままでの回転、圧力を下げた低圧室、及び、遠心加速器におけるハイG状態での体の変化を調べるものだった(遠心加速器とはいわゆる、カプセル内に人を閉じこめ、高速で振り回す装置)。
厳しいチェックの結果、当初7、8名程が残されることになっていたが、最終的に残ったのは20名だった。というのもコロリョフが、米国よりも数の多いチームを作りたかったからだと言われている。彼らは、次の命令が下るまで部隊に戻るよう言い渡され、解散した。
年が明けた1960年1月、訓練のためのトレーニングセンターの開設が正式決定された。それは「宇宙飛行士訓練センター」と命名された新機関だったが、勿論、空軍の医療部門傘下にあり、同軍が監督する形が採られていた。モスクワ近郊に設立、係員は250名を数え、彼らは一人の軍人の監督下に置かれた。その将校の名を、ニコライ・ペトロビッチ・カマーニンという。「カマーニンの日記」(開発史(6)参照)で有名な、彼だ。引退するまでのその後10年、ソ連の飛行士で彼の世話にならなかった者は、いない。
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2月25日、カマーニンは正式に20人を宇宙飛行士候補としてノミネートした。彼らのプロフィールを簡単に眺めてみると…
まず、20人のうち5人は、当初の年齢制限を満たしていない。最年長はウォスホート2号で飛行した(開発史(3)参照)パベル・ベリャーエフの34歳。彼は20人中、戦闘機での飛行時間が最も長い男だったが、それでも900時間と、パイロットとしては短いほう。また、ソユーズ1号で墜落死する(開発史(6)参照)ウラジミール・コマロフ、32歳。彼は新型戦闘機のテストパイロットとしての経験があり、それを買われての抜擢だった。
一方、史上2番目に宇宙飛行を体験したジャーマン・チトフが24歳で、最年少が23歳のバレンティン・ボンダレンコ。ちなみに、史上初の宇宙飛行士となるユーリ・ガガーリンは25歳であった。彼ら「若き獅子」達は2月下旬、トレーニングセンターへ移り、本来の所属基地から除隊、正式に宇宙飛行士要員として再登録された。
やがて、設備の限界のため、20人が一度にトレーニングを行うと充分な内容をこなせないという医師団の心情に配慮し、コロリョフやカマーニンらは、グループを2つに分けることを発案した。具体的には、6人編成の"コアグループ"と残りの14人のグループで、コアグループが優先的に訓練を受け、その後を14人が続くというスタイルである。暫くの選考の後、7月末までに、ガガーリンやチトフを含む6人が出そろった。
ところで、飛行士が搭乗する宇宙船の開発も着々と進められていた。実のところ、宇宙船に関しては早い段階から作業が進んでおり、コロリョフは1958年2月にはプランを具体化、同11月には政府で開発が正式認可されていた。
写真がその宇宙船で、「ボストーク」(ロシア語で「東方」を意味)と名付けられた。上の球形部分(カプセル)に人間が乗り、下部に各種装置が納められている。カプセルの直径は2m程で、3つの丸い窓があり、内部には空気が満たされている。ちなみに総重量は4500〜4700kg前後。
ただ、有人飛行計画は、軍用偵察衛星の開発と合わせる形で認可されていた…度々述べてきたが、宇宙開発は軍用第一主義であった。有人飛行など、軍部にとっては“単なる民間人のおもちゃ”に過ぎなかった。彼らは、人間の代わりにカメラを乗せることを強く期待していた。
「コロリョフは、夢物語ばかり考えている」…軍関係者の苛立ちは、日を追うごとに増していた。しかし彼は、有人飛行が如何に米ソ競争において有益かを主張、ソ連共産党の中枢である政治局を揺さぶり続けていた。
1960年1月、共産党・軍事工業委員会議長であったウスチノフという男は、コロリョフ率いる第一設計局に於いて、担当者達を前に「現時点で、偵察衛星開発よりも優先されるものはない」と強く言明している。そもそも彼は、宇宙開発には一定の理解を示していた、コロリョフの“支持者”であったが、その時の発言は、明らかに彼へ向けられたものであった。だが…最終的には、コロリョフはそれを押し殺した形を取った。無視したわけではないが、優先順位を強引に有人飛行へと覆したのだった。勿論、それが両者の関係へヒビを入れる結果ともなったが。
ここに、有人飛行計画、いわゆる「ボストーク計画」と呼ばれるものが、本格的に始動した。1960年初夏には計画を遂行する国家委員会も設立され、その委員長にミトロファン・イヴァノビッチ・ネデリンという男が任命された。彼は1959年12月に新設された「戦略ミサイル軍」の司令官でもあり、このことは「有人飛行もあくまで軍部傘下」であることを色濃く反映している。コロリョフもやりにくかったに違いないが、むしろ当然と言えば当然、であった。
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1960年4月、完成の域に達したボストーク宇宙船のテスト飛行へこぎ着けようとしていた。5月15日、その第一機目が打ち上げられ、これは「コラブル・スプートニク」という名で発表された。「コラブル」とは、ロシア語で「船」。世界に発表するにおいて、命名に関しコロリョフは、「コラブル」を用いることを示唆したという。話し合いの席上、「海にも川にも、船がある。今度は宇宙の船だ!」と語ったとされる。多分、当時は斬新な発想だったに違いない。だが、「コラブル・スプートニク」は直訳すると「人工衛星船」…何とも奇妙な名前に落ち着いてしまった。
この宇宙船は当然だが、それまでの人工衛星と違い、非常に複雑な構造になっていた。特に帰還の際に用いられる逆噴射ロケットは仕組みが複雑で、問題点も多いままだった。このコラブル1号はそれらをチェックするために打ち上げられたものだったが、案の定、逆噴射システムに異常が発生。逆噴射・減速・大気圏へ突入するはずのものが逆に、更に高空へと船を“押し上げて”しまったのだ。
1960年7月28日、改良が加えられた2機目のコラブルが打ち上げられた。今度は、チャイカとリシーチカという名の2匹の犬が乗せられた…コロリョフは特に、リシーチカがお気に入りだったと言われる。だが、打ち上げロケットR−7の異常で、発射から28秒後に爆発。犬達を乗せたカプセルは脱出装置で放出されたものの、爆風をもろに受け、助からなかった。
この出来事は、非常脱出装置への大きな懸念を起こすことになった。しかし、現行の脱出システムを少し見直す程度で、根本的なシステムの置き換えは成されなかった…というのも、「時間が迫っていた」からである。米国はマーキュリー計画において、1961年夏までに人間を宇宙へ飛ばすことを公言していた。米国より先に人間を飛ばすために、残された時間は僅かだった。
8月19日、3機目のコラブルが打ち上げられた。これにもベルカとストレルカという名の犬たちが乗せられ、それ以外にも、12匹のネズミや昆虫、植物や種、細菌類などがゴテゴテと積まれていた。総重量は4600kgで、コラブル・スプートニク"2号"と名付けられた…爆発した7月のコラブルは“なかったこと”にされた。
コラブル2号は打ち上げから1日後、一部のシステムに異常が生じたものの、無事帰還した。犬たちも無事で、彼らは地球を周り、無事に生還した最初の生物となったが、同時に、新たな懸念も生じた。というのも、打ち上げから暫く、犬たちに元気が無かったのだ。
送られてくる映像だけを見れば、犬が生きているのか死んでいるのかわからなかった…生きているのは間違いなかったが。しかも、周回4周目に入る頃、ベルカは嘔吐してしまった。この結果を踏まえ、最初の人間飛行は、地球を1周するのみと決定された。無重力が生体にどのような作用を引き起こすのか本当にわからず、それ故、恐れられていたのも事実だった。
9月、コロリョフ以下、関係者達は連名で、有人飛行に関するレポートをまとめ上げた。そこで強調されたのは、安全性だった…宇宙船のエレクトロニクス部分だけで、241本の真空管と6000個を越えるトランジスタ、56個のモーターと800個のリレースイッチ、880を越えるコネクタとそれぞれにつながるケーブルが850もあったのだ!故障しない方が、不思議な程であった…レポートでは、更なるコラブルの打ち上げを年末に行い、有人飛行を年明けに行うことが提唱された。これで、米国に勝てる!
だが、歴史はそうすんなりと造られはしなかった。
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10月24日、月曜日。この日夕刻、モスクワにいたコロリョフは、2000km離れたバイコヌール宇宙基地からの至急電に頭を痛めていた。矢継ぎ早に送られてくる報告は、極めて情報統制されたものであったが、それ故、ただならぬ事態が起こっていることを予感させるには充分だった。風雲急を告げる宇宙基地…彼はついに、部下を現地へ急行させた。夜から未明にかけ、断片的とはいえ入電する続報に、かつて無い大惨事が発生していることが明らかになっていった。悪夢の始まりだった…。
コロリョフがモスクワにいるこの頃、バイコヌールでは新型の大陸間弾道ミサイルR−16(写真)の初飛行が行われようとしていた。このミサイルはミハイル・ヤンゲルというデザイナーが設計したもので、コロリョフのR−7ロケットと異なり、極めてスマートな形をした、2段式ミサイルだった。ちなみにヤンゲルは、コロリョフのライバルの1人。当然ながら彼は、コロリョフの最大のライバル、グルシュコ(開発史(4)参照)と仲がよく、軍部ウケもよかった。同時に当然ながら、コロリョフは、R−16開発にはノータッチだった。
ヤンゲルは、冷戦の“次の一手”として、書記長・フルシチョフに、新型ミサイルを“プレゼント”することを表明していた。そしてそれを、戦略ミサイル軍司令官・ネデリンも大歓迎していた。
勢い勇んだ彼らだった。不完全なところが多かったにもかかわらず、9月にはテストに入り、10月には試射が決定された。様々な欠陥と格闘しながらも、10月20日、ミサイルの完成が宣言された。実際は、信頼度への疑念が払拭できていないにもかかわらず…。
翌21日朝8時。サイト42と呼ばれるテスト場の脇にある組み立て工場から搬出されたR−16は、1時間後、発射台に据え付けられた。初期チェックは順調に進み、23日に完了、その日のうちに燃料の充填も行われた…何という慌ただしさだろう。燃料を注入している間は、関係要員以外は退避することになっていた。だが、その“安全基準”を破っていたのは誰をかくそう、ネデリンとヤンゲルだった!ボス達がいるのに、部下だけ退避するわけにはいかない。発射場の周辺には150人が残ったままだった。
ネデリンは、自分の仕事、そして立場に、格別のプライドを持っていた。第二次大戦ではドイツにさんざん痛めつけられたが、今は、核ミサイルが祖国を守る…そんな、誇り高き戦略ミサイル軍の初代司令官。胸には党から贈られた金メダルをぶら下げ(上写真)、共産党、そして祖国に尽くす忠臣だった。
彼は燃料充填の間、ガスマスクを装着していなかった。しかも、至近距離にいながら、である。無謀なこの行動は、彼にとっては忠誠を体現している事に他ならなかった…周りは迷惑だったにもかかわらず。
しかし。充填が完了するやいなや、タンクから漏れだしていることが判明した。それは、1分間に145滴ほどの割合であったという。つまり、毎秒2滴。ポタポタと落ちるその速さは、決して無視できるレベルではなかったに違いない。しかし、エンジニアは「大丈夫、補修できる」と判断、修理と平行して準備は続行された。
悪いことは、続く。準備が続けられているうちに、他の部分にも欠陥や異常があることが判明した。それは燃料系統にも、電気系統にもあった。しかも燃料系の問題で、打ち上げは2日以内に行わなければならないことが判明した。これはつまり、仮に他の修繕に数日要するとしても、不可能となることを意味する。
この段階で、「燃料を一端抜き、改修を行うべきだ」と主張するものも出てきた。しかしこれは、ミサイル発射が大幅に遅れることを意味する。これを聞いたネデリンは、「(実際の)核戦争の時に、そんなことが言っていられるのか!?」と一蹴したと言われている。だが結果論だが、燃料を入れた段階で、その後の運命は決まっていた。なぜなら、なんと、一度入れた燃料を、ミサイルから抜き取る術が無かったのだ。夕方6時、作業は一端打ち切られた。
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翌24日早朝、作業は再開された。ミサイルの周囲に集まる作業員…その中に、ネデリンの姿もあった。しかし、彼のその“勇猛な”姿はやはり、作業員達には迷惑以外、何者でもなかった。「上司が不必要に現場に首を突っ込んだらどうなるか」という、典型ケースと言える。実際彼に、行くべきでは無いことを進言する者もいたが、しかし、彼は無視した。「何を恐れているのだ?私を誰だと思っているのだ!?」などと突っぱねたといわれる。
実のところ、ネデリンには、焦りがあった。改修がなかなか終わらない…発射場の近くに政府関係者が見学する小屋も設置され、いよいよ後に引き下がれない段階になったときに、打ち上げが更に30分遅れるという報告があった。彼は、モスクワから少なくとも2度、しかも多分フルシチョフから直接「いつ発射されるのか?」という電話を受けている。ついに彼は、ミサイルから僅か20mの所に座った…焦りは、頂点に達していた。
そして、運命の時を迎える。
打ち上げ30分前の午後6時45分。約250人の関係者がミサイルの周囲にいた。「ちょっと一服しませんか?」その中の1人、ミューキンという男が、ヤンゲルをシガレットブレークに誘った。二人は、ヘビースモーカーだった。彼らとほか数名が、発射場から離れた待避壕へと入った。ミューキンはネデリンの側近。禁煙することを決意し、最後のシガーを味わうつもりだった。また、後からお供した数名は、日頃からタバコは吸わなかった…ヤンゲルに、打ち上げ中止を進言するつもりだった。
と、まさにその時だった。
「ブゴォーーッツ!!」
2段式ミサイルの上段エンジンが炎を吹いた!
周囲は、漏れて気化した燃料が充満しており、次の瞬間、大音響と共にロケット、いや、発射場全体が火炎で包まれた。
それは、一瞬の出来事で、至近距離にいた大半の人間は、何が起こったか理解する間もなく炎に飲み込まれた。多くの人間が、走った。しかし、全身火だるまの彼らは、力尽きて倒れた。作業塔の上にいた人たちも、逃げようとした。だが…3000℃の火炎が120mの高さまで立ち上ったといわれる。逃げようにも、足場が溶けて為す術がなかった。思わず駆け寄ろうようとしたヤンゲルは、皆に引き留められた。彼は、ミューキン共々、命拾いしたといえる。
写真は、爆発直後の映像である。地面の上で煙を上げる黒い固まり、炎の中の黒い影…もしあなたが、「これは人間ではないか?」と思ったものは、それで間違いない。
※YouTubeに、動画を含むドキュメンタリーがUPされています
http://www.youtube.com/watch?v=ewQqFFSRPs0
身元の確認は、困難を極めた。一番身長が高かった、ということで同定された者もいる。ネデリンは、かつてはメダルであった、金の塊が決め手となった。事故現場は閉鎖され、数年後、慰霊碑が建てられたが、事故の存在自体は、極秘にされた。遺族達にも、絶対に外で口走らないよう、厳命された。ネデリンは2日後、「飛行機事故により死亡」と公式発表されたが、この真実が表に出たのは30年後の1989年だった。爆発直後に死亡したもの、約130名。搬送先で死亡したもの、40名以上。米ソ合わせたロケット開発史において、史上最悪の大惨事となった。
※左写真は現場跡に残されているサイトマップ。六角形の発射敷地内の中央にR16が据えられていた。また、そのすぐ左下の丸い円は、ネデリンの遺骸があったところを示している。サイトマップの左後方に見えるコンクリートの建造物は、待避壕への入り口。右写真は慰霊碑で、犠牲者の銘が刻まれている。
【Reference】 どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!
Sven's Space Place http://www.svengrahn.pp.se/
Russianspaceweb.com
http://www.russianspaceweb.com
Encyclopedia Astronautica http://www.astronautix.com/
“Sputnik and the Soviet Space
Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
「月を目指した二人の科学者」的川泰宣 著 中公新書(1566), 2000
朝日新聞1998年1月4日日曜版「100人の20世紀」・ガガーリン編