メチータ・男の夢(上)

1966年春まで、本名は伏せられたまま、「チーフ・デザイナー」(Chief Designer = 主任設計員)という肩書きだけで公にされていた男がいた。彼はソ連のロケット工学全般を指揮し、世界最初の人工衛星や有人飛行を達成させただけでなく、大陸間弾道ミサイルやスパイ衛星といったものも先駆的に開発した男である。

彼の名は、セルゲイ・パブロビッチ・コロリョフ(Sergei Pavlovich Korolev = Сергей Павлович Королев)。1966年に死去するまで、旧ソ連のロケット開発現場を指揮し、数々の「世界初」を達成させた。写真がその、彼のポートレイトである。この一見優しそうな、穏やかな表情の男に、実は不屈の、鋼鉄の精神が漲っていたことを、どれほどの人々が感じ取るであろうか。ソ連宇宙開発を知る上でどうしても避けて通れない彼の物語を、2回に分けて辿ってみることにしよう。

セルゲイ・コロリョフは1907年1月12日、現在のウクライナの首都キエフ市の近郊の町で、高校教師であった父パーヴェルと専業主婦の母マリアの間に生まれた。暖かい家庭に恵まれた誕生、の筈だったが、早くも暗い陰が落ちようとしていた。

父パーヴェルの父、つまりセルゲイの祖父の死後、家庭内の複雑な人間関係のため、セルゲイが3歳の時、母マリアは彼女の妹の家に移り住み、別居状態となる。マリアは生活の基盤を作るため、学校へ通い、手に職をつける決心をしたのだったが、そのため、セルゲイは160キロも離れたマリアの父母宅に預けられることになったのだ。祖父母の優しさが彼を包む毎日ではあったが、両親が不在という状態は、決してよい状態とは言えなかった。また、彼と同い年の子は周囲には殆どおらず、一人で遊び、考え、辛い時に甘えることのできる両親はおらず、代わりに強い精神力だけが宿っていった。泣くこともなく、仮に泣いてもその涙を見る者はいなかった。

彼は小さい頃から記憶力が抜群で、算数は早い時期から得意だったようである。彼が6歳の頃、近くの広場で、飛行機の公開ショーが行われた。これは彼に、強烈なインスピレーションを与えることとなった。

エンジンを積み、自力で飛行する飛行機が世界史に登場するのは1903年12月のことで、米国のライト兄弟により達成されたのはよく知られている。それから10年後、セルゲイ少年が目の当たりにすることになるわけだが、フランスで行われたヨーロッパでの公式飛行でさえ1908年であり、その2年後にウクライナの田舎町に飛行機がお目見えするのだから、急速な広がりと言える。当時世界は飛行機ブームで、実用もさることながら、ショーとしての要素も強かったようである。ちなみに我が国では、1910年(明治43)12月に動力飛行機の初飛行が行われている。

「将来はパイロットになろう!」

彼のその大きな目の奥に輝く瞳は、そう誓ったのであった。ちなみに1914年に第一次世界大戦が勃発すると、飛行機の重要性が決定的となり、その技術開発とエンジニアの育成は急務となった。それが結果的に、コロリョフの将来に有利に作用したのは言うまでもない。


彼が9歳の時、母マリアはバラーニンというエンジニアと再婚する。コロリョフの義父となるわけだが、バラーニンは教育熱心な男で、コロリョフにマナーや勉強のやり方について徹底的にたたき込み、また、技術者の血なのだろうか、コロリョフの飛行機に対する良き理解者でもあった。1920年代に入り、世の中が落ち着くと、コロリョフは学校へ行くことになる。セルゲイ・コロリョフ、15歳であった。

彼が入学した学校はいわゆる職業訓練校のような学校で、そこではまず、屋根葺きとタイル張りを訓練されたという。ただ彼の頭には常に飛行機の事しか無く、大工仕事には不満を持っていたと言われるが、彼の生まれつきの器用さは群を抜き、やがてアルバイトで屋根の雨漏り直し等で小遣いや学費を稼げるようになった。

17歳の時、キエフ工科大学航空学部へ進学し、グライダーの制作に没頭する。好きな事を、存分にできる時がやっときたのだ。勿論、新聞配達や屋根直しで生計を立てながら…。

1926年夏、彼は更に、モスクワ高等技術大学への入学許可を受ける。そこはロシアの航空学のメッカで、学生達は必然的に設計制作に関わることになった。彼はここで、アンドレイ・ツポレフを師と仰ぐことになる。ツポレフとは、その後50年に渡り、ロシアの航空機を設計し続けた天才。コロリョフは飛行艇の開発チームに入れられたが、次第にロケットへの関心が強まっていった。


「ロケット」と「飛行機」の違いを今一度、ここで確認しておこう。飛行機は自身が積んだ燃料を空気中の酸素で燃やすことにより推力を得、飛行するものである。一方ロケットは、酸素をも自身の機体に積み込み、エンジンで燃料と酸素を混合し燃焼、吹き出すことにより推力を得る仕組みになっている。強制的に酸素と混合させることで飛行機よりも強い推力を得ることができ、何より、酸素を自蔵しているため、空気が無いところも飛行することができる。つまり、真空の宇宙を飛ぶためにはロケットでないとダメなのだ。

1920年代後半から30年代にかけて、世界各地でほぼ同時にロケットが現実味を帯びてきた。1926年、米国のロバート・ゴダードが世界初の液体燃料式ロケット(写真)を飛ばすことに成功し、また同じ頃、ドイツでは「宇宙旅行協会」が設立され、ロケットの研究が行われていた。宇宙飛行自体がまだ夢であったこの時、「宇宙旅行」という言葉が冠された協会が設立され、ロケットが研究されていたのは興味深い。

一方、ソ連ではGIRD(反動推進研究グループ)という組織が結成されていた。コロリョフは当時、師匠・ツポレフの開発していた爆撃機に関する仕事をしていたが、週末をGIRDで過ごし、そしてそのひとときが一番楽しかった。また同じ頃、後にコロリョフのライバルとなるバレンティン・ペトロヴィッチ・グルシュコがレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)より呼び寄せられ、チームに加わる。グルシュコはエンジン工学が得意分野であった(写真)。

GIRDは1930年代、様々な航空機やロケットの実験を続け、実績を作っていった。コロリョフは機体設計を担当し、グルシュコがエンジンを開発する。彼らは互いの能力を認め合い、尊敬していた。その素晴らしい連係プレー…彼らが次世代のソ連の航空・ロケット開発を担う巨人となることは、誰の目にも明らかだった。

しかし、その「最もよき日」は、長続きしなかった。当時のソ連指導者・スターリンの大粛清の渦は、そこまで迫っていたのである。


1917年、ロシア革命で成立したソビエト連邦を指導していたのは世界史でもよく知られるレーニンであるが、彼が1922年死去すると、その後を継いだのがヨシフ・スターリンだった(写真)。だが、スターリンが後を継ぐのを最も恐れていたのが何をかくそう、レーニンだったのは皮肉な話である。生前、「スターリンだけは、トップに就けてはならない」と周囲に漏らしていたのは、彼に潜む凶暴性を見抜いてのことだった。しかし彼はレーニン死後、ライバルを蹴落とし、さっさとトップに躍り出てしまう。

近代ロシアの歴史の中で、最悪の時代を迎えつつあった。このスターリンという男はとにかく猜疑心が尋常でなく、少しでも自分に反抗を見せるような人間は容赦なく収容所へ送り、処刑した。それは年を重ねるごとに強さを増し、死ぬ間際など、「もう自分も信じられなくなった」などとつぶやいたとも言われている。

彼は秘密警察を組織し、少しでも彼へ、体制へ疑問を抱くような人間を捜し出しては、収容所へ送った。また、密告も奨励された。非常に嫌な世の中である。無実の人間も、収容所へ送られた。逮捕された人間が、自分の命と引き替えに、別の関係ない人間を告発する事も平然と行われた。スターリンの凶暴性は、そんな極端にひずんだ監視社会の実現という形で表れたのだった。



「ダンダンダンダンダンダン!」

1938年6月7日早朝、コロリョフの住むモスクワのアパートを激しくたたく者がいた。当時31歳の彼は結婚し、娘を1人授かっていたが、そんな静寂を打ち壊して入ってきたのは、秘密警察の連中だった。

当時、秘密警察がやってくるのは午前4時だったという。ドアを叩く烈しい音が、隣の住まいからであることに胸をなで下ろす人々は後を絶たなかったと言われている。

「オマエに逮捕状が出ている!」

そう告げると、有無を言わさず彼を連行した。妻のキセーニャは彼に着替えを与えることも許されず、彼には、まだ眠っている娘にさよならを言う猶予も与えられなかった。容疑は、「ドイツにおいて反ソビエト団体と共謀している」というものだった。

彼はそもそも政治には無関心であり、共産党員でもなかった。大体、普段はロケットの事しか頭になかったのだ。それなのに、反政府活動に荷担しているというのである。濡れ衣以外、何者でもなかった。(右は逮捕直後のファイル)

しかもそれがなんと、エンジンの天才・グルシュコの讒言によるものだった!グルシュコ自身、コロリョフの1ヶ月前に逮捕され、8年の禁固刑が言い渡されていた。

1936年から1938年にかけ、スターリンの粛清は頂点に達し、多くの人間が逮捕、投獄された。かなりの数の学識経験者も投獄され、その多くが帰らぬ人となった。研究者の世界は比較的リベラルな風土で、それ故かえって標的とされた、され易かったのである。

9月27日、コロリョフには10年の強制労働が言い渡され、東シベリアのコリマ地区にある収容所に送られた。コリマには金山があり、金の採掘をやらされることになったのだ。

そこでの生活は、悲惨を極めた。食事も衣服も満足に与えられなく、建物はすきま風が入り、まともな空調など無く、その上で重労働をやらされる。季節は秋から冬へと向かい、寒さは極限に達した。ここは、シベリアでも最も冷える土地である。

「コリマ」は「地獄」の代名詞だった。

多くの人間が命を落とした。事実、「コリマへ送られたら生きて帰れない」と言われていたのである。収容所には監視塔も柵もなかった。仮に脱走しても近隣に村はなく、生きのびることなどできなかったからだ。スターリンの時代、収容所で命を落とした人間は1500万人とも2000万人とも言われる。コロリョフも例外ではなく、看守の暴行であごは砕かれ変形し、栄養失調から壊血病になり、血を流す歯茎からは歯が抜け落ちた。心臓も弱り、生きているのが不思議なぐらいであった。いや、彼は「死んだ」も同然だった。

コロリョフがコリマへ送られたのは、ありもしない容疑を認めず、また、誰かを陥れるような告発をしなかったからだろう。もし、無実の罪を認めていたら、処刑されていたに違いない…事実、GIRDのメンバーには処刑された者がいる。讒言で「命乞い」をしたグルシュコは禁固刑で済んだのだ。コロリョフは、正義の男だった。

そしてその彼を救うべく、命がけで訴え続けた男がいた。コロリョフの師・ツポレフ、その人だった。彼自身囚われの身であったが、その卓越した才能をスターリンは理解し、囚人科学者を集めた研究所を設立させていたのだった。ツポレフはコロリョフを、そこへ呼び寄せようとしていたのである。1939年6月、コロリョフは再審議の結果、収容8年に減刑され、翌年9月、モスクワへ移送された。だが、モスクワ行きの列車に乗せられたとき、彼は半死の状態だったという。

収容所での彼の生活は、未だによくわかっていない。収容所で経験したことを殆ど口にしなかったからだ。ただそれは、彼の体に生涯染みついて取れないものとなっていた…

後年、彼につけられた秘書が金の装飾品を身につけているのを見て、執務室から秘書を追い出したという逸話がある。

彼は食事の際、出されたスープをペチャペチャと音を立てながら猛スピードですすり込み、最後はパンの切れ端で皿をなめ回すと口の中へ放り込んでいたという。初対面のゲストなど、マナーも何もないその姿にあっけにとられたと言われるが、コロリョフに収容所経験があると聞くと、以後笑うことは無かったと言われる。

…彼の経験したことは、想像を絶するものであったことは間違いない。

彼が収容所に入れられている間の1939年9月、ヒトラーがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。圧倒的な空軍力を誇るドイツの電撃作戦は瞬く間に欧州全土を制圧し、ついにソ連へと進軍を開始した。ドイツ航空機の充実ぶりには、スターリンも圧倒されたに違いない。彼のテクノロジーへの理解は、そのような感じであっただろう。収容所へ送った技術者達を集め、兵器の研究に携わることを許可したことには、そのような背景もあるのかもしれない。いずれにせよ、コロリョフは囚人ではあったが、航空兵器の研究に従事することを許された。ただ、ロケット研究は、寝る前の僅かな自由時間に許されたに過ぎなかった。


大戦末期の1944年9月、ドイツは秘密兵器の実戦使用を開始した。それは「V−2」と呼ばれたミサイルであった。“V”はドイツ語の“Vergeltung”の頭文字で、「復讐」を意味する。このミサイルは戦後米国に渡り、後にアポロロケットを実現させることとなる、フォン・ブラウンという天才が主導して完成させたものだった。

V−2は、ロンドンを恐怖のどん底にたたき落とした。それは主にドイツ北部のペーネミュンデという地区から発射されていたが、精度が高く、当時としては大型の爆弾を搭載できるほど強力なものであり、終戦までに1500発が打ち込まれ、数千人の犠牲者と建造物への甚大な被害を出した。しかし、この“最終兵器”も1945年3月までが限界だった。ドイツにはもう、国力が残っていなかった。

第二次大戦も末期になると、米英ソを中心とした連合国間に、戦後を見据えた野心が見え隠れするようになる。米英軍がドイツ本土に進軍すると、ペーネミュンデのV−2基地を独り占めされることを恐れたスターリンは、1945年4月には調査チームを派遣し、8月にはコロリョフも到着した。しかし、そこで彼が目の当たりにしたものは、彼に落胆にも似た驚愕を与えるには充分過ぎるものだった。

ドイツの作り上げていたV−2は、コロリョフらの技術の10年は先をいくものであった(写真は米国で再現されたもの)。極めて完成度の高いそのフォルムはドイツの工作レベルを体現し、特にエンジンの性能は目をこすらせた。より遠くへ、より重いものを飛ばすには、強力なエンジンを要する。そしてそれが実現されていたのだ。

1945年10月、米ソの代表団立ち会いのもので、接収されたV−2の試射が行われた。それにはコロリョフも立ち会ったが、しかし、彼は柵の内側に入ることは許されなかった。行動はまだ、制限されていたのである。

彼らはそこで、V−2の部品や出来損ないを集め、ソ連へ持ち帰る事となったが、スターリンは、ドイツ人技術者達の連行も命令した。数千人のエンジニアとその家族らが、瞬く間に連れ去られたのである。それは文字通り強制連行ではあったが、彼らドイツ人はロシア人技術者よりも破格の待遇を与えられた。スターリンは1946年5月、ソ連版の弾道ミサイル開発を指示し、8月にはモスクワ郊外のカリーニングラードという街にNII-88と呼ばれる科学研究所が設立された。


コロリョフに、本格的なロケット開発の命令が下された。未だ行動が制限された身ではあったが、その卓越した能力と統率力を評価した当局は、彼をチーフ・デザイナー(主任設計員)に任命した。「R−1」と名付けられたミサイルを制作するのが最初の任務として与えられたが、しかし、R−1はV−2の完全コピーであった。

彼は、面白くなかった。ロシア人エンジニア達のデザインしたロケットがドイツのものよりも性能は上だと確信し、また、完全コピーという「猿まね」をすることを、感情が許さなかったのだ。だが結果としてR−1の復元は、多くの経験と新しい知識、そして技術をもたらすこととなった。確かにコロリョフらのデザインは優れてはいたが、それを実現するための満足な工作機械がなかったのである。

ところでスターリンは、ある意味うまいやり方を考えた。技術者同士を競わせる、というのである。連行してきたドイツ人チームに新たなロケットを開発させる一方、それに対抗できるようなものをコロリョフのチームに要求したのだ。1947年から48年にかけ、V−2を改良したR−2の設計を指示し、同じような要求はドイツチームにも与えられた。当局は双方を検討した結果、ドイツの方を評価したのだったが、それに反発したのは勿論、コロリョフだった。

彼はねばり強くロシアチームの設計の優位性を主張し、最終的には評価を覆すことに成功したが、フラストレーションの連続だったのは間違いない。このような開発がR−3、R−5と続いたが、技術的に自力開発が可能な水準に達しつつあったのも確かだった。


1950年4月、コロリョフはNII-88に設置された「第一設計局」(OKB-1)の責任者に任命された。また、1951年春にはドイツ人エンジニアらの解放が始まり、53年までには皆、ドイツに帰還した。

1953年4月、ソ連政府はコロリョフが提出したR−7ロケットの開発を承認した。このロケットは、射程7000kmに達する大陸間弾道ミサイルで、49年に完成していた水爆を搭載して飛ぶものだった。「猿まね」から丸7年、彼らは大陸を越えた跳躍をするロケットの開発にまでこぎ着けようとしていたのである。

ただ、新たな問題が生じつつもあった。コロリョフとグルシュコの間に亀裂が生じていたのだ。コロリョフは、グルシュコの讒言のために地獄を味わったことを、忘れなかった。しかも、45年に行われたV−2試射の際、柵の外でコロリョフは、グルシュコがソ連代表の一人として中にいるのを見つけたのである。

「何でアイツが…」

視線の先のグルシュコは、緊張した面持ちの中にも、満足があった。人一倍ロケットへの思い入れが強いコロリョフゆえ、飛び上がったV−2の姿よりも、自分を陥れたグルシュコの姿を追い、拳を握りしめた。

一連の「Rシリーズ」の開発では、グルシュコのエンジンが、必要とされる性能を出し切れないのにイライラしていた。それは、設計は満足だが工作技術が追いつかないのか、設計が不味いのか、あるいはグルシュコの故意なのか、わからなかった(下・「補足」参照)。

一方、グルシュコは、自分がエンジンの「下請け」扱いにされつつあるのが気に入らなかった。コロリョフ主任はいつも、エンジンを「要求」した。技術者としては対等の筈なのに。しかも、エンジンのテクニカルな内容にまで口を挟むようになってきた。エンジンに対する自負が強いグルシュコにとって、これほど面白くないことはない。

…巨人らの確執は、死ぬまで続くこととなる。(続く

※補足

グルシュコのぶち当たった困難は、R-3ロケット(ミサイル)の開発だった。このミサイルは射程3000kmを目標とし、3トンの核弾頭を搭載して飛翔する中距離核ミサイルであった。機体設計においてコロリョフは、グルシュコにエンジン開発を依頼したが、それは思うように進まなかった。

グルシュコが苦しんだのは「ポゴ効果」と呼ばれるエンジン及び配管系全体が振動する現象。液体燃料ロケットにはつきもののこの現象は、燃料の燃焼圧と燃料供給圧のアンバランスから生じる振動。これが機体と共鳴すると振動は増幅し、最悪の場合、機体を破壊してしまう(ちなみにこの現象には、米国のアポロロケット(サターンX)も悩まされた)。

結局、グルシュコのチームはこの困難を克服することができず、R-3開発は1951年10月に打ち切られた。


【Reference】 どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica © Mark Wade http://www.astronautix.com/
「月を目指した二人の科学者」 的川泰宣 著 中公新書