スペースシャトルスキー(1)

1988年11月15日。当時学生だった筆者はこの日の夕方のTVニュースをはっきりと覚えている。それは私にとって、衝撃的であった。この日、ソ連はソ連版スペースシャトル「ブラン」の打ち上げと初飛行を成し遂げたのだ。

思えばそれまでソ連の宇宙開発というと、詳しい情報を載せる本は殆ど無く、スプートニクもガガーリンも、レオーノフもルノホートも、私にとっては全て図鑑の中の世界だった。ソ連のハレー彗星探査計画「ベガ」は国際ミッションであったゆえ状況は度々報じられ、「ベネラ」の成功も(既に載っている)図鑑の中の続きというイメージで、ともに新鮮さはあったものの興奮とまではいかなかった。しかしブランは違う…突如出現したシャトルに筆者は衝撃を受け、釘付けになり、強烈な印象として今なお鮮明に残っているものなのだ。

常々、「ソ連はスペースシャトルを作らないのだろうか?」と素朴な疑問を抱いていたものだったが、ついに目の前に表れた。しかもそれは、米国のスペースシャトルとウリ二つだったのだ!

「こらぁ、アメリカのマネたい!」

私の祖母がそう言い放ったのを覚えている。そう、それは言わば「スペースシャトルスキー」だった。画像はブランである…細部を見ればかなりの違いがあるのだが、素人目にはスペースシャトルと区別がつかないだろう。左翼に「CCCP」、右翼にソ連国旗がペイントされているのが印象的だ。

しかしブランは、ソ連が国防の命運を賭け、国家と共に崩壊した哀しい宇宙機である。それは筆者には、ソ連末期をよくも悪くも体現した象徴であったように感じられる。そこで当連載の最終章は、ブランの誕生から、時代に翻弄され名実ともに"崩壊"したその最後までを振り返ってみたい。


ソ連で最初に有翼宇宙船のコンセプトを発表したのは、コロリョフらが集ったGIRDを設立したフリードリッヒ・ツァンダーであり、1924年の事であった。ツィオルコフスキーと同時代を生きた彼もまた偉大な理論家で、翼を備えた宇宙船の方が普通のロケットよりも優れていると主張したのであった。

収容所に入る前のセルゲイ・コロリョフは飛行機に熱心で、特にグライダーに夢中になっていたことは既に記したが、彼もまた飛行機型ロケットに興味を示した一人だった。R−7ロケットを実用化させた後の1958年、有人宇宙船開発を政府に提案し、その直後、複数のタイプの宇宙船の検討に入ったが、その中に有翼型も含まれていた。
彼は、グライダーの虜だった1930年代からの同志であるパベル・チュービンという男に設計を依頼した。チュービンはII−88研究所でミサイルの研究に携わった後、ミコヤン設計局(後述)で空対艦巡航ミサイルの開発に携わり、1955年に新設された第256設計局のチーフとなっていた。

チュービン設計局がコロリョフの依頼で設計した有翼宇宙船は「PKA」("グライディング宇宙機"を意味)と呼ばれていたが、それはスリッパに似た格好をしていたため専ら「ラポトック」(ロシア語で農夫が用いるスリッパ型の履物)と呼ばれていた。詳細は割愛するが、この宇宙船は非常によくできていたものの、風洞実験で底部の温度が想定以上に上昇することが判明、それに耐えられる耐熱材を当時の技術では用意することができなかったため却下されてしまった。

チュービン設計局はその後、ウラジミール・ミャシシェビッチという男が率いる設計局と合併するが、そのミャシシェビッチ設計局がチェロメイ設計局に吸収されようとした際、チュービンはコロリョフ設計局へと戻った。チュービンはこのようにしばし"放浪"したわけだが、後に、エネルギア・ブランシステムの開発で大きな働きをすることになる。

ちなみに彼は、「チーフ・デザイナーの素顔」で掲げたコロリョフ返信の、宛名の一人に挙げられた男である。

ところでミャシシェビッチもまた、航空部門で活躍する男であり、有翼宇宙機に興味を示した一人だった。彼の第23設計局はこれまたよい宇宙船をデザインし、1960年3月、新しい宇宙輸送機として政府からゴーサインを頂戴していたのである。

しかしその"よき日"は余りに短く、60年10月、チェロメイの傘下に収められてしまった。これはフルシチョフが進めていた設計局の再編計画の犠牲になったもの。フルシチョフはR−7の成功すなわち弾道ミサイルの完成と同時に通常兵器を軽んじるようになり、大規模な軍備削減に乗り出そうとしていた。「弾道ミサイルで核爆弾を直接アメリカへたたき込めるのならそれ以上何がいる?」という素人な発想である。それに伴い、航空関連の設計局も再編の対象となっていたのであった。

ちなみにこれが、フルシチョフ失脚の遠因のひとつとなったことは言うまでもない。

ところで、ソ連史上も有名な航空機設計士であるアンドレイ・ツポレフのことも忘れてはならない。半世紀に渡り航空機設計に携わり、コロリョフが収容所に入った際にはその救出に尽力した彼である。

ツポレフも有翼宇宙船を設計し、ミャシシェビッチのそれとよく似たものをデザインした。「ズヴェズダ」と名付けられたそれはテスト機も作られ、性能試験では良好なデータが取得され、実機飛行の間近までたどり着いたという。

しかし残念ながら、1963年に計画は打ち切られた。その理由は未だ明らかになっていない。

次に登場するのはチェロメイ。元々巡航ミサイルが専門の彼は有翼宇宙船にも力を注ぎ、1958年から1959年にかけて「コスモプラン」および「ラケトプラン」という2つの計画を始動させた。コスモプランは本格的な有翼宇宙船であり、月や他の惑星への往復輸送機として使用するものである。一方ラケトプランは弾道飛行を行い、旅客や貨物を最速で目的地まで運んだり、あるいは兵器として爆弾を積んで敵に打ち込んだりするための飛行体である。

1960年には政府から正式な開発決定が下され、コスモプランは「オブジェクトK」、ラケトプランは「オブジェクトR」と命名された。ただしチェロメイはこの呼び名を決して用いることはなく、あくまで「〜プラン」と呼んだ。というのも、「オブジェクト〜」という呼び方はコロリョフの計画で同様に用いられており、それと被るのを嫌ったからであると言われる。

これらのプランも非常によく出来ていたが、予想以上に開発が難航することが判明。チェロメイはこの時、プロトンロケットや有人月宇宙船の開発も抱え込んでおり、全体の作業は遅れ、コスモプランは早々に打ち切られ、ラケトプランも軍用に限るという憂き目に遭ってしまった。そのラケトプランも程なく、チェロメイの後ろ盾であったフルシチョフの失脚と共に幻に消えてしまったのである。

このような乱立の中、実用化寸前までこぎ着けたのは、ミコヤン設計局で開発された「スパイラル」である。ミコヤン設計局を率いるアルチョーム・ミコヤンは卓越した男であり、ソ連/ロシアを代表する「ミグ戦闘機」の"ミ"は、ミコヤンのミである。

彼らの仕事は非常に早く、1966年7月には有翼宇宙船を設計し、「スパイラル」と名付けた。スパイラルは全長38メートル、両翼巾16.5メートルで、後部に2段ロケットを有する。このロケットは液酸・液水が当初想定されたが、後にフッ素・液水の組合せに変更された。フッ素は極めて危険な物質であるが、液酸・液水に比べ性能(比推力)がよく、体積も小さくて済む。この組合せはグルシュコも開発を続けており、これがいずれ完成することを織り込んでの採用だった。

スパイラルの開発は続けられ、搭乗する飛行士も選定、訓練を受ける段階まで来ていたが(筆頭はヴォストーク2号で飛行したチトフ)、あまりにも資金がかかることが災いし、開発ペースは遅くなっていった。また上層部の考え方の相違もあり、1960年末には殆ど"死に体"になっていたと言われる。フッ素燃料もついに実現しなかった。

ただし正式に打ち切られることはなく、このことが別の形での復活へと繋がっていくのであった。

続いて、米国のスペースシャトルに対するアプローチを交えつつ、ソ連のそれを振り返ってみよう。


米国が、アポロ11号がまだ月へ着陸する以前の段階でアポロ以後の宇宙計画を練っていたことはよく知られており、具体的には「火星への有人飛行」、「地球周回軌道への宇宙ステーション建設」「再使用型往復宇宙船の実現化」などが盛り込まれていた。これは1969年夏に公表されたが、しかし、世間の反応は厳しかった。先の見えないベトナム戦争での戦費拡大と絡めて、膨大なNASAの予算もやり玉にあがったのである。

1970年、ニクソン大統領は計画を大きく縮小し、往復宇宙船のみを残すことを決定した。「往復宇宙船、いわゆるスペースシャトルは科学や防衛、それに民需すべてに適った宇宙機であり、宇宙開発に関わるコストを削減することができる」というのが主たる理由であった。

しかしこの低コスト実現には、相当数の打ち上げ回数を必要とすることが明白だった。NASAはそれまでの、いわゆる使い捨てロケットで打ち上げていた全ての衛星を手中に入れるべく各方面へと働きかけたのである。NASA関連は言うまでもなく、軍部に対して軍事衛星、民間に対して通信や政府関連の衛星などをシャトルで打ち上げさせてくれるよう、頭を下げて回ったのである。

このことは、軍部にとって悪い話ではなかった。NASAが打ち上げてくれるのであれば、打ち上げロケットのコストを削減することができる。通常、軍事衛星を1つ打ち上げるのには、その衛星の開発・製作費と打ち上げロケット代をメーカーなり関係機関なりに支払わなければならい。しかしロケット代を負担しないでよいということであれば、国防省の財布から出て行くのは衛星代だけということになるのだ。

国防省は参画を表明し、具体的な要求も定めてきた。例えば打ち上げ場所としてカリフォルニアのバンデンバーグ空軍基地を指定した。ここは軍事衛星が周回する極軌道(南北に地球を周回する軌道)への打ち上げ場として軍が運用する基地である。また、シャトルのサイズにも具体的な要求を出した。

話はこうして盛り上がり、結果、ニクソンがスペースシャトル開発にゴーサインを出したのは1972年1月5日のことだった。


さて、ソ連である。実はこの国、少なくとも現場の設計局は、米国のシャトル計画発表に殆ど関心を示さなかった。当時、ソ連の宇宙開発現場ではソユーズ宇宙船、宇宙ステーション「サリュート」、「アルマズ」、それにN−1/L−3計画が同時に走っていたのである。輸送機関としてはソユーズを初めとした宇宙機があるし、軍用の宇宙ステーションもある。改めてシャトルを必要とはしないし、資金的、人的にもそれにかまっている余裕は無かったのだ。

しかも厄介なことに、宇宙開発を担当する設計局は一般工業機械省の傘下にあったが、航空機関連のそれは航空工業省の傘下にあるという、行政上の縦割り問題があった。シャトル開発となると宇宙船と航空機と両方の技術を要する。お互いに干渉したくないというのが本音だった。

だが、やがてシャトルシステムの開発へ一歩を踏み出すべきではないかという雰囲気が出始めたのも事実。「ライバルである米国が作るのだからうちもやらないわけにはいかないだろう」というようなものかも知れないが、動きは確実に出来ていった。

1970年11月27日に採択された宇宙開発に関する次期5ヶ年計画では、72年に関連機関が共同で草案を練ることが盛り込まれた。これは恐らく、ソ連のシャトル開発に関する最も古い政府決定事項である。

1972年4月、ミーシンやチェロメイ、グルシュコを初めとする幹部連が集い検討会議を催したが、そこではっきりしたことは非常に興味深い。彼らは、スペースシャトル型の往復宇宙機はコスト的に全然合わないという結論に達していたのだ!

このことは特筆すべき事である。今では米国のスペースシャトルが、初期の構想とは全く正反対に、巨額の打ち上げ費用を要することがわかっている。加えて安全性の問題もあり、2011年に全機退役することも決定されている。ソ連では、スペースシャトルが理想通りの乗り物ではないことに最初の段階で気づいていたのだ。


この時点でソ連政府は、米のスペースシャトルが軍事的脅威になるということを考えもすらしていなかったが、軍部および民間(非軍部という意味)から計6機関が集まり、米シャトルに対する対抗策の協議を続けていた。これはシャトル型に限らず幅広い可能性が検討されたものであった。

1974年6月、彼らはひとつの重要な結論に達した。それはシャトルタイプの場合、年1万トンのペイロードを打ち上げるレートでないコスト的に割に合わないという具体的な数値だった。年1万トンは、単純な話、1回に100トンの荷物を週2回打ち上げると言うことを意味する…一体何を宇宙に持って行くというのだ。

しかしこのような全く現実離れした結論に達したにもかかわらず、一方ではシャトルタイプに対する関心が高まっていたのも事実だった。離陸や帰還時のシステムや技術を工夫することでコストはいずれ克服できるという可能性も提出され、開発が進めば多数の賛成が得られることになるだろうという見込みにまとまったのである。

そして実際、導入に前向きな空気は政府内にも高まっていたようである。というのも1973年12月27日、つまり上述の検討会議の結論がまだ出る前の段階で、関係機関を束ねる上層部局である軍事工業委員会が3つの設計局(ミコヤン、ミーシン、チェロメイ)に往復再利用型輸送機関の設計を命じている。「いずれ克服でき、コンセンサスも得られるだろう」という見込みは、政府の要求に沿って出されたものであったのだ。


ところで巨人・グルシュコ(写真)であるが、彼はそもそもシャトル型宇宙船に全く興味を示していなかった。興味どころか、邪魔とさえ思っていたのだ。

1974年、彼は第1設計局からミーシンを追放したわけだが、これで事実上、ソ連の宇宙開発現場のほぼ全てを手中に収めた。グルシュコ設計局はエンジンの開発が専門であり、コロリョフ・ミーシン設計局はロケット機体本体の開発が専門。その両者を手に入れたのだからもはや無敵である。

グルシュコには以前からひとつの夢があった。それは、次世代型の大型・超大型打ち上げロケットのラインナップ(ファミリー)をそろえることであり、「RLA」と呼んでいるものであった。今やエンジンと機体の設計を同時に行えるのである…実現化に大きな一歩を踏み出したと言える。

この構想は、数十トンから100トン、更には250トンに達するペイロードを打ち上げるロケットを各種そろえることである。例えれば、10トントラックから250トントラックをそろえることに等しい。だが250トントラックなんて地上世界では、露天掘り鉱山で鉱石を運搬する巨大トラックぐらいにしか用途がない。こう考えればとんでもない構想であることは明白だが、彼は本気で考えていたのである。

実は彼には、この延長線上に目標があった。それは月面基地の建設、そしてそれを足がかりとした火星への有人飛行であった。ロケットはそのための輸送手段として考えていたものである。

コロリョフの有人月飛行計画では事ある毎に異を唱え、足を引っ張ってきたが、グルシュコは有人月飛行そのものに反対だったわけではない。単にコロリョフの手で実行されることが許せなかっただけである。事実、30基のエンジンを植え並べたN−1の初段をもっと数の少ない高性能エンジンで置き換えるべきだと提案もしているし、60年代末には新型の液酸・ケロシンエンジン開発への興味も示していたのである。

グルシュコがケロシン嫌いで、ヒドラジンの虜だったことは度々述べたが、1969年に転機が訪れる。この年、チェロメイが大型ロケット「UR−700M」の開発計画を提案、その最終目標は火星への遠征であった。このロケットは簡単に言えばUR−500を束ねた、これまた非現実的な超大型ロケットであり、強力なエンジンを要し、どうしてもケロシン燃料を避けて通れなくなった。グルシュコはこの計画を支持し、早くも翌年には開発を始めようとしていた。一説にはこのエンジンをN−1の初段に用いるよう、上層部から命令が下っていたとも言われている。

結局このUR−700M計画は幻となったが、液酸/ケロシンエンジンの開発は1973年、本格的に始まったのであった。

加えて、グルシュコにはもうひとつのエンジン開発も命じられた。それは、液体水素を燃料としたエンジンであった。

彼はRLAファミリーに、液体水素を用いたエンジンの使用は全く考えていなかった。そもそも彼は液体水素を嫌っていた…というのも、密度が小さくタンクが大型化するのが理由だった。N−1の上段にいずれ液体水素を用いるという構想があったが、それにも反対していたのである。だが1974年11月30日、一般工業機械相アファナシエフはグルシュコに対し、水素エンジンの開発命令を正式に下したのであった。

この時点で既に、グルシュコ設計局では基礎研究は始まっていたというが、本格的な試みはまだだった。一方、N−1上段エンジンに関わっていた設計局ではかなり研究が進んでいたが、グルシュコはそれらへの協力を敢えて避けた。彼は結局「化学自動設計局」(KBKhA)という設計局に依頼したが、同設計局では水素エンジンの開発は初めてだった。

こうして、必ずしも自分の思い通りになったわけではなかったが、大型ロケット構想、そしてその先にある月・火星有人飛行は実現化へと大きな一歩を踏み出した。

しかし、そこへ降ってわいたのが、シャトル構想だったのである。

グルシュコを支持していた政治局の軍事担当書記ドミトリー・ウスチノフは、グルシュコが第1設計局を手中に入れた際の演説で、「一番乗りは米国に先を越されたが、我々の月面基地建設は今なお重要な位置づけとして残されている」と月への進出を支持している。そしてその後も様々なハードウェアが設計され、ロケットRLAへの要求もそれに応えるようなものとされていた。

しかし、1975年の上半期までには、そのような支持は急速に衰えていた。科学には理解のある科学アカデミーでさえも支持をしなくなっていた。というのも第一に、コストが非現実的だった…ざっと1000億ルーブルはかかると算出されていたのだ。これは当時のレートで数十兆円に達する!

そしてそこへ、シャトル。米国はスペースシャトルを年60回近く打ち上げ、一度に30トンの荷物を運搬し、15トンを軌道上から回収して持ち帰るという構想を出していた。これに当初は関心を寄せなかったソ連政府であったが、どう考えても尋常でないこの構想に、今やそこに単なる宇宙開発のみがあるとは考えられなくなっていたのだ。

そしてついに、米国の究極の目標に、大型レーザー兵器の宇宙空間配備があるのではないかという結論を引き出した…何機ものレーザー兵器を配備し、それらを定期的にメンテナンスのために持ち帰る…。彼らはまた、打ち上げ場所にも注目した。カリフォルニアのバンデンバーグから打ち上げたら、そのまま真っ直ぐモスクワ上空に到達することができるということで、これが大いなる脅威を与えたのは間違いないという。


1975年の半ばには、一般工業機械省および国防省は、将来のソ連宇宙開発の中心にシャトルを据えていた。しかしグルシュコはなおもごね続け、開発作業を渋っていた。彼はウスチノフからしばしば呼び出しを食らっていたが、それにも応じず、部下を代わりに派遣していたほどである。

だが、巨人とはいえ所詮一個人。組織の情勢に逆らうことはできず、応じざるを得なくなっていくグルシュコ。75年9月には開発を加速させることが決定し、N−1射点をシャトル用に改造することなども定まった。同年12月21日付ウスチノフ宛の書簡でKGB議長ユーリ・アンドロポフ…後のソ連書記長…は、シャトルの軍事能力を再確認し、その輸送能力が偵察や兵器として有効であることを強調している。こうして国の方向性ははっきりと固まっていった。

1976年2月17日、ソ連共産党中央委員会は政令No.123−51を採択した。これは再利用型宇宙輸送システムの開発を定めたものであるが、これがシャトル開発に対する正式なゴーサインである。この政令では他にもソユーズ宇宙船の改良(後の「ソユーズT」宇宙船)や宇宙ステーションの建設(後の「ミール」)なども盛り込まれ、N−1計画の正式打ち切りも定められた(N−1は、書類上はまだ生きていた)。しかし一方では、別の月飛行計画の初期研究も盛り込まれた。これは恐らくグルシュコがねじ込んだのであろうが、最後のあがき…結局支持を受けることなく、78年に打ち切られている。

以上、シャトルに対するアプローチは米国とソ連で全く異なっていたことが明らかとなった。米国は"ポストアポロ"としてシャトルに全ての力を注いでいたが、ソ連は米国に対する対抗策の一部に過ぎなかった。そのことは、米国がシャトル就航後は他の使い捨てロケットを全て破棄するという方針だったのに対し、ソ連はプロトンやR−7の運用を継続するということからもはっきりしている。また、ソ連にはN−1ほどのせっぱ詰まった状況もなかった。アポロvs. N−1のようなレースは存在せず、それ故ソ連指導部および設計局の決断も遅かったのである。

ただ、今となって言えることだが、ソ連最大の失策は、「米国のシャトルを過大評価し、開発を楽観視し、結局、無理をした」ことだろう。もちろん、コスト的に全然あわないことは既に悟っていた。戦術的にも軍用には役に立たないことはわかっていたはずだ(例えばバンデンバーグから打ち上げればモスクワをすぐ攻撃できると言っても、そもそもシャトルに燃料を充填するだけで何時間もかかる…火をつければ直ぐに飛ぶ弾道ミサイルの方が遙かに効果的である。このことは、R−7がミサイルとしては即応性には全く優れなかったことからも明白だったはずである)。

兵器として配備するのであれば、後述する「エネルギアロケット」と「ポリウス」の組合せで充分で、シャトル建造など必要なかったはずなのである。


【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
Buran Space Shuttle http://www.buran-energia.com/
NPO Molniya http://buran.ru/
"ENERGIYA−BURAN The Soviet Space Shuttle" by Bart Hendrickx and Bert Vis, Springer Praxis, 2007
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003