どこまでも運のいい男
その男・レオーノフ。「宇宙飛行士には強運も必要なのかもしれない」
彼のエピソードは、そう語りかけるように思えてならない。
1965年3月18日、旧ソ連は2人乗り宇宙船「ウォスホート2号」を打ち上げ、搭乗していたアレクセイ・レオーノフ飛行士が人類初の宇宙遊泳を果たした。宇宙遊泳とは、そう、人間が宇宙船の外に出て活動すること。“spacewalk”といった表現に“遊泳”という訳を当てはめてしまったのが語源となっているが、ある意味、失敗。現在では“船外活動”と呼ばれることが多い。
今では国際宇宙ステーションの組み立てや修理などで普通に行われるこの活動(右写真)も、最初は何が起こるか全く予測不可能の、命がけのものであった。「安定した浮遊ができるのか?」結果としてレオーノフの挑戦は成功裏に終わったが、ただ、不審な点も残されてきた。ソ連は当時、成功した事実と僅かな数の写真のみしか公表せず、それ以外の情報は殆ど伏せていたのである。
「実は、きわめて危険な状態にあった」ことの詳細が明るみに出たのは、ソ連がペレストロイカの一環で情報公開を始めた矢先の1986年だった。レオーノフ自身も、真相を語り始めた。彼はいったい、何を体験したのが?今回は彼のミッションを振り返り、新たなる謎に迫る。
◇
1964年、米国の激しい追い上げに焦りを感じ始めていた当時の書記長・フルシチョフは、史上初となる3人乗り宇宙船の発進を命令、宇宙船「ウォスホート1号」が同年10月打ち上げられ、米国を驚かせた。だがこの政治色の強い計画が、命令したフルシチョフ自身の失脚という結末で歴史に刻まれたのは、皮肉な話である。(宇宙開発史(2)参照)
しかも、後継のブレジネフ書記長は、宇宙開発に対してはこれまた、フルシチョフと同じような性格の持ち主であった。「ソ連宇宙開発の父」と呼ばれたセルゲイ・コロリョフ(宇宙開発史(4)(5)参照)からは、スポンサーがブレジネフに替わった後も、頭痛の種は消えなかったのだ。
「3人乗り宇宙船の後に続くのは、何か?」これに関しては、ブレジネフを頂点とするソ連の政治指導部と、現場責任者で宇宙開発を主導していたコロリョフとの間には温度差があった。ブレジネフはやはり、米国の新型宇宙船が気になっていた。3人乗り飛行を成功させたとはいえ、「ただ飛んだだけ」といえばそれだけであり、米が追いつくのは時間の問題であった。しかも米は、運動能力の高い宇宙船を保有しようとしていたのだ。
また、"うわさ"の類も多くなり、「米は宇宙遊泳も計画している」ということが、まことしやかに囁かれるようになった。そうすると、政治的優位に立つには、米に先立って宇宙遊泳を行う必要がある。
宇宙遊泳(以下、「船外活動」)自体は、コロリョフの発案だった。しかもこれは「米に勝つため」という政治的な目的ではなく、将来必要とされる技術の取得のためであり、計画もウォスホート1号の建造と平行して行われていた。人間が宇宙船から出て活動を行うことが、より高度なミッションを成すには必要とされるからだ。
このように、ブレジネフとコロリョフとの間には目標に多少差違があるとはいえ、船外活動を行うという点での合意は早かった。
◇
レオーノフの証言によると、計画は1964年2月に政府に了承された。翌3月には候補として選ばれた20人の宇宙飛行士達の訓練が開始され、平行して、宇宙船・ウォスホート2号の建造が始まった。これは3人乗りのウォスホート1号と同型であるが、今回は2人乗りである。そのため、船自体の建造に時間はかからなかったものの、1つ大きな問題があった。「どのように飛行士がカプセルの外へ出るか?」である。
もはや改めて言うまでもないが、宇宙空間には空気はない。真空だ。一方、宇宙船のカプセル内には空気が満たしてある。従って、普通にハッチを開けると、船内の空気が一気に外へ流れ出してしまうことになる。勿論、大変なことだ。
では、そうならないためにはどうするか?1つの方法として、船内を真空にしたあと、ハッチを開けるというやり方がある。しかしそうすると、中で待っている飛行士も宇宙服を着用する必要があり、また、そもそも船内の各機器が真空仕様に設計されておらず、真空にさらした際に正常に作動するか否かの保証がなかった。
そこで彼らが採用したのは、「エアロック」と呼ばれる小部屋を装着し、それを通して内と外とを行き来するという方法だった。これは、実によくできている。
右がウォスホート2号の詳細である。ピンときた方もいらっしゃると思うが、カプセルの側面に取り付けられた煙突状のものがエアロックだ。直径約1.
2m、長さ2. 5m、肉厚のゴム製で、打ち上げ時には小さく縮められている。内部に空気を自由に出し入れできる仕組みになっており、使い方は、こうだ。
[資料] ウォスホート2号 エアロック使用手順(上から見た図)
飛行士が外へ出る場合、 |
一方、船外活動用の宇宙服もデザインされた。それまで飛行士達が着用していた船内用をベースにしたものではあったが、強烈な太陽光線を浴びるなど、極限の環境に耐える仕様のものであった。ただ、制作段階に入ったのは打ち上げ予定の9ヶ月前だったといい、テストに要する時間があまり取れなかった。平行して、飛行士の選定が行われ、最終的にアレクセイ・レオーノフ(写真右)とパベル・ベリャーエフ(写真左)の2名が選ばれた。人類初となる船外活動の任務は、レオーノフに与えられた。
◇
年が明けた1965年2月22日、コスモス57号と名付けられた人工衛星が打ち上げられた。当時これは、「高層大気調査のための科学衛星」と公式発表されたが、実はエアロックと宇宙服をテストするための無人宇宙船だった。
しかし。衛星は無事に打ち上げられ軌道に乗ったものの、テストを開始して暫く後、通信が途絶えてしまった。当初は何が起こったのかわからなかったが、調査の結果、コマンドの送信ミスで、宇宙船が非友好国に着地しようとした際に起動する自爆システムが作動してしまった事が判明した。
この結果、エアロックに関するデータは満足行くものが得られたものの、宇宙服の充分なチェックができなかった。なお、翌月に打ち上げられたコスモス59号で、エアロックの接続リングが、大気圏再突入時の障害にならないことが確認されたが、宇宙服の再テストはできなかったようだ。
(右写真はカプセルにエアロックを取り付けているところ。この伸縮型エアロックは小さく縮められており、軌道上で2mの長さに展開する。カプセルのハッチの周囲に、接続リングらしきものが見え、エアロックの外部ハッチは閉じている。なお、船外活動終了後レオーノフがカプセルへ戻ると、エアロックは切り離され廃棄されることになっている)
服のテストには、レオーノフらが実際に搭乗する予定のウォスホートを用いる他なかった。米国に船外活動で先を越されるのを恐れたブレジネフ書記長は「レオーノフの飛行を遅らせる必要はない」と指示したというが、対するコロリョフは啖呵を切り、ブレジネフにテストを認めさせたという。
しかし再テストを行うと、本番は1年以上先となり、米に先取られるのは確定的となる。いや、それ以上に、宇宙開発プログラムに大幅な遅れが出てしまい、科学とは別次元の、望まれざる政治的判断が作用するとも限らない。なにせスポンサーは、宇宙開発に対する理解が不安定なブレジネフなのだ。常に安全第一であったコロリョフもかなり悩んだのは間違いなかった。そこへ、
「大丈夫です、飛ばせてください。訓練は積みました。非常事態があっても、対処できるはずです!」
そうコロリョフに詰め寄ったのは、レオーノフらだったという。コロリョフは渋々だが、打ち上げにゴーサインを出したといわれる。
だが一方、宇宙服の信頼性に関し、担当チームの責任者であるセヴェーリンという天才エンジニアに判断を一任したと言われる。勿論、責任を転嫁したわけではない…セヴェーリンに全幅の信頼を置いていたのだ。巨人コロリョフの信任に感動した彼は僅かなデータと地上での試験結果を基に、宇宙服は充分に機能するという結論を出した。
もし、セヴェーリンが「ニエット」(ロシア語でNO)の判断を下していたら…レオーノフらの直談判は実らなかった、かもしれない。
◇
かくして、1965年3月18日、2人の飛行士を乗せてウォスホート2号は飛び立った。世界時午前7時(日本時間午後4時)だった。
今回の飛行は、レオーノフの船外活動が目的である。周回軌道に乗るやいなや、レオーノフはバックパック(酸素タンク)を背負い込むなど、準備を始めた。打ち上げの時既に彼は船外活動用の宇宙服を着込んでいたが、中で待っているはずのベリャーエフも着用していた。もし、レオーノフが船外からエアロックに戻れなくなったときは、彼も外へ飛び出し、レオーノフを救助するためだった。
下の地図に、その飛行航跡(1周目)が示されている。
[資料] ウォスホート2号 船外活動(EVA)
“Voskhod 2 launched from Baikonur at 0700UT”とある地点が、ウォスホートが打ち上げられたバイコヌール宇宙基地を示し、曲線が宇宙船の航跡を示す(ちなみに"UT"は「世界時」を意味
日本時間−9時間)。 等間隔でつけられた○と脇の数字は、通過地点とその時の時刻(時:分:秒)である。地球は丸く、西から東へと自転しているため、平面の地図に航跡を描くと、少しずつ左(つまり西)へずれていく。 |
ベリャーエフはエアロックを操作し、内部に空気を注入した。エアロック内部の圧力がカプセル内と等しくなったとき、レオーノフはハッチを開け、エアロックへと乗り移った。彼のブーツが完全にエアロックに入った時、ベリャーエフはカプセルのハッチを閉じた…たった今まで横にいた男が、いなくなった。相棒はまさに、宇宙空間へ飛び出そうとしている…ベリャーエフはどう感じただろう?
彼はおもむろに、エアロック内の空気を抜き始めた。一方レオーノフは、自身の身体が流れてしまわないよう、身体とエアロックを約5mのワイヤーでしっかり繋いだ。打ち上げからちょうど1周し、2周目にさしかかろうとしていた世界時8時30分、レオーノフはエアロックの外部ハッチを開き、「いくぞ!」そう言い残して外へ泳ぎ出た。とその時、ベリャーエフは悲鳴とも歓喜ともとれるような声をあげた。
「に、人間が宙に浮かんでいます!!」
地上で固唾を飲んで見守っていた関係者達の間に、大歓声が起こった。「やった、やったぞ!レオーノフが泳いでいる!」彼の身体は、フワフワとまさに"泳いで"いた。
彼の船外活動は約10分ちょいの予定であった。上図を見るとおわかりいただけると思うが、画像が受信できる間でよかったからで、予定では8時40分過ぎにはエアロックへ戻る事になっていた。ところが、結果として彼がエアロックに戻ったのは約24分後の8時50分過ぎだった。
彼は船外活動を開始して暫くすると、ある異変に気づいた。「宇宙服の調子が、地上でのテストの時と明らかに違い始めていた」 彼は近年、そう語っている。宇宙服が膨張を始めていたのだ。
全く予想外の事態になった。服が、内部の圧力でパンパンにふくらんでしまったのだ。例えるなら、風船の中に人間が入っているようなもので、それが写真でも見て取れる。グローブもパンパンで、指の間の隙間が無くなり、曲げることができなくなってしまった。彼は腹に付けたカメラで宇宙船の写真を撮影する予定だったが、それもできなかった。しかも左右の肩幅が190cmにも広がってしまっていた。
…これが何を意味するか?エアロックの直径が1.2mなのを思い出して欲しい。つまり彼は、戻れなくなってしまったのだ!
◇
彼は極限の緊張状態にあった。全身からは汗が噴き出し、体温が1.
8℃も上昇したことが記録されている。やや考えた後、1つの決断を下した。「服の中の空気を抜くしかない」
宇宙服の中は0. 4気圧に設定されていた。この数値は、高さ6000m程の高山における気圧に匹敵する。これを更に下げる訳で、急激な気圧の変化による圧力障害(いわゆる潜水病)の危険性が高かった。
これは、独断による決断だった。管制部の指示を仰いでいる余裕は無く、仮に仰いでも、出る結論は同じだろうと判断したという。
彼は非常用の圧力バルブを何とかひねり、少しずつ、内部の圧力を下げた。幸運にも、体に異変は起こらなかった。服が縮み始めたところで、彼は足からエアロックに入ろうとした。しかし、入れなかったため、頭から突っ込み、中で足を引っ張りあげるように滑り込んだ。ところが、狭いエアロックの中で身体を折り曲げ、180度回転しなければならなかった。というのも、外部ハッチを閉じなければならないからである。身体をねじ曲げ、手を伸ばし、全身汗だくでハッチを閉じたときの彼の気持ちは、それまで体験したことのない安堵感であったに違いない。だがこの時の彼には、その後更なる困難が待ち受けている事など、想像すらつかなかった。
不要となったエアロックが廃棄された後、暫くして、カプセルのハッチが完全に閉じていないことが判明した。ごく僅かだが隙間があり、そこから空気が抜けているのだった。この対策として、圧力確保のため、船内は酸素50%の状態に保たれた。これは実は、非常に危険な状態である。スイッチから出るような些細な火花でも周囲に広がり、火災が起こる危険性が高いからだ。
約24時間後、彼らは地球を17周したところで逆噴射エンジンを点火・減速し、大気圏へ突入、カザフの平原へ着地する予定になっていた。一連の作業は地上からの指令で行われ、彼らはじっとしているだけでよかったが、予定時刻にコマンドが送られても、エンジンが点火しなかった。自動システムが故障していたのだ!
管制部は騒然となったという。明らかに皆がパニックになろうとしていたとき、そこへやってきたのはコロリョフだった。彼は冷静に、各人に持ち場に着席するように指示し、事の次第を報告させた。そしてしばし考えた後、出した結論は「手動降下」であった。あと1周余分に地球を周回し、帰還することが決定された。
◇
緊迫に満ちた指令が船長のベリャーエフへ伝えられた。船は、カムチャッカ上空を飛行中だった。
「アルマヅ、アルマヅ、こちら地上局。自動制御を解除し、マニュアルモードに設定せよ」
“アルマヅ”とは、ウォスホート2号につけられたコードネームである。この指令を受け、彼らは手動降下の準備に入った。一連の複雑な作業を、自身の手で行わねばならない。訓練は積んでいるものの、いざ本番となると勝手は違った。結果、最終段階で手間取り、点火の時間が数十秒遅れてしまった。
宇宙船は速度を落とし、降下していく。どうにか無事に大気圏へ突入し、パラシュートを展開した。ぐんぐん高度を下げるカプセル。しかし、彼らの眼下に迫ってくるのは平原ではなく、タイガ(針葉樹の森林)だった。逆噴射のタイミングが遅れたため、予定していた着地地点よりも2000kmも離れた、ウラル山脈北部の森林地帯に着地しようとしていたのだ。
「ズサササササーッ!」
2人を乗せたカプセルが、森林の中に突っ込んだ。パラシュートが、木々に覆い被さるように引っかかった。強いショックがあったであろうが、彼らは無事だった。時刻は19日、世界時9時2分(現地時間昼過ぎ)。だが、あまりに予定外の地点に着地したため、回収作業に時間がかかるのは間違いなかった。
救助ヘリが彼らを発見したのは4時間後だった。だが、一面タイガの森林でしかも雪が深く、ヘリは降りることができなかった。カプセルから5
km程離れたところに平地を見つけたとき、現地はとっくに夜であったため、この日の回収を断念、レオーノフらはカプセルの中で一夜を過ごすことになった(この時、外でたき火をしていると、周囲をオオカミに囲まれていることに気づき、慌ててカプセルへ逃げ込んだという話もある)。
翌20日早朝、約20人の救助隊が1.5km離れた地点へ降下し、カプセルへ向かった。しかし困難を極め、たどり着いたのは4時間後。その日はカプセルから1.
7km離れた所で木々を切り倒し、ヘリの着地点を確保するのが精一杯だった。
21日、レオーノフらはスキーでそこへ移動し、ヘリに乗り込み、帰還の途についた。途中、飛行機に乗り替え、彼らがバイコヌール基地に帰った時、着地から丸2日が経っていた(ちなみに後でわかったことだが、他にも重大事故につながる可能性をはらんだ欠陥があったという。無事帰還したのは、本当に奇跡に近かった)。
◇
近年、レオーノフは毒薬を持って船外に出ていた事を明らかにした。エアロックに戻れなかった時にはそれを飲み、ベリャーエフには自分を見捨ててエアロックを切り離し、帰還するよう伝えていたというのだ。これは、帰還後の報告書にも書かなかった事だという。
しかし、毒薬をどこに仕込んでいたのだろうか?ヘルメットの中か?仮にそうであったとしても、口に含むことはできないだろう。まさか、バイザーを開いて飲むつもりだったのだろうか?
※補足
レオーノフの証言によると、宇宙遊泳する姿は彼の家族も見たという。その際彼の娘は顔を手で覆って泣き出したこと、目的が宇宙遊泳であることを知らされていなかった年老いた父が「どうしてあいつは非行少年みたいなことをしているのだ!?」と怒鳴ったことなどを、帰還後に知ったという。
また、エアロックに戻る際にトラブルが発生したときから、モスクワ放送はクラシック(モーツアルト)を流し始めた。これはそもそもソ連時代、重要な政府高官が死んだときに行われるものであった。
【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!
Sven's Space Place http://www.svengrahn.pp.se/
Encyclopedia Astronauticac Mark Wade http://www.astronautix.com/
The Chronology EVA http://spaceflight.nasa.gov/spacenews/factsheets/pdfs/EVACron.pdf
The First Spacewalk : The 35th Anniversary http://www.space.com/news/spacehistory/leonov_spacewalk_000318.html
「月を目指した二人の科学者」
的川泰宣 著 中公新書(1566), 2000
「アポロとソユーズ」 デイヴィッド・スコット、アレクセイ・レオーノフ 著, ソニー・マガジンズ,
2005
“Rocket and Space Corporation Energia” English
edition edited by Robert Godwin, RSCE/Apogee Books, 2001
“Russian Spacesuits”
by Isaak P. Abramov and A. Ingemar Skoog, Springer Praxis, 2003
※謝辞:軌道図提供はスウェーデンの旧ソ連宇宙開発史研究家スヴェン・グラーン氏のご厚意によるものです
Acknowledgement to Mr. Sven Grahn for the permission to quote the orbital
chart.