ババキンの傑作(2)

サンプルリターン機に引き続き、ルノホートについて見てみよう。

ルノホート「Ye−8」

ルノホート“луноход”とは、直訳すると「月面車」となる(「луно」=「月の」、「ход」=「車」)。下の2台がそうだが、洋式便器にも似たその独特のフォルムは非常に印象的である。子供向けの図鑑にも描いてあることがあり、どこかで見た記憶がある人も多いのではないだろうか。

左はルノホート1号であり、右はルノホート2号である。よく見ると相違点もいくつかあり、とても興味深い。2号に見える“便器のフタ”の裏側は太陽電池になっており、これは1号も同様である(写真は閉じた状態)。

  

これが形になるまでには、これまた興味深い流れがあった。その辺の話も辿りながら、この車の特徴と活躍をまとめてみることにする。


ルノホートが本来、有人月探査において用いられる重要なサブシステムであったことは以前にも述べた(開発史25参照)。有人月着陸機「LK」を送る前にあらかじめ送り込んでおき、ビーコンを発信、LKがそれを目標にすると同時に、着陸したLKのチェックを行うなどの任務があった。

元々月面車のデザインはコロリョフの第1設計局にて、1960年という早い時期に行われていた。この時の設計は非常に重いもので、最低でも600kgに達するというものであった…これは、軽乗用車に匹敵する。当然だが打ち上げるロケットにもパワーが必要であり、R−7やその派生型であるモルニアでは無理。コロリョフは代わりに、N1ロケットで打ち上げることを考えていたようである。

コロリョフは1963年3月、月面車の開発を正式にスタートし、任務を「農業機械製作研究所」に依頼した。しかし同所での開発ペースは遅く、危機感を抱いたコロリョフはプロジェクトを取り上げ、同年末、今度はレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)の「VNII−100トランスマッシュ」(モービル・ビークル・エンジニアリングユニット)という、軍用戦車などを開発する部局に依頼した。

開発にあたっては、この部局にいたアレキサンダー・ケマルジャンというエンジニアがその才能を発揮した。彼はホバークラフトなどのビークル、ひいては宇宙機、特に他の天体上で活動するラジコンカーに可能性を感じていたようである。またこのことが、コロリョフへの理解に繋がったとも言われている。何はともあれ開発チームは、僅か半年後の64年4月、基本コンセプトをたたき台に乗せる状態にまで仕上げたのであった。

だが、問題はすぐに浮上した。特に悩ましかったのは、土壌の性質に関するものだった。

当時、月の表面には砂が深く、パウダー状に積もっているという説が優勢であった。その真偽を確かめるべく米ソは争うように月へ探査機を送ったが、初めて軟着陸に成功したのは66年1月のことである(開発史21参照)。土壌の推測では多くの専門家が集まり、検討が重ねられ、65年9月に一応の決着がついた(ちなみにこの時の土壌に関する推測は、後に明らかになった実際の状態に近いものであった)。

1965年7月、月面車のプロジェクトも他の月・惑星探査計画と同様、ラボーチキン設計局へと引き渡された。ケマルジャンはババキンとのチームワークで、コロリョフの夢を仕上げていったと言われている。

より具体的な設計が65年末から66年にかけて行われたが、大きな問題の1つが車輪をどうするかということだった。トラクター型や脚による歩行型、ジャンプ型、キャタピラー型や4輪車型なども検討されたという。

車体に関しては当初、戦車のようなドーム型が考案され、重量も900kgに達するものであった。しかしN1の完成が大幅に遅れることがわかると、打ち上げをチェロメイのプロトンロケットに変更、それに合わせたサイズダウンが図られた。

デザインが決定したのは1967年で、150kgの試作車が作成された。カムチャッカ半島に運ばれ走行テストが行われる一方、車輪を回転させるモーターや変速ギアなどが「ルナ11号」や「ルナ12号」などに乗せられ、月周回空間での機能テストが試みられた。また、ツポレフ104航空機の落下飛行による弱重力下での土壌走行テストも実施されたという。

(右は試作車のテスト走行。モスクワから6000km近く離れた極東のカムチャッカが試験場に選ばれたのは、半島にある火山の麓が月面の状態に近いと考えられたからであった。)


最終的に出来上がったのは、車輪を含む全長222cm、横幅160cm、重量756kgの車であった(この値はルノホート1号に関して。以降、1号のスペックを中心にまとめることとし、2号については相違点を後述する)。直径51cmの車輪を8輪備え、それぞれの車輪が独立したモーターで駆動する。車輪は軽量化のためメッシュ構造になっており、月面をしっかり蹴るようチタンブレードが取り付けられている。また、モーター故障などで動かなくなった場合に軸を爆破、空回りさせるための爆薬が仕込まれている(片側2輪の故障までOK)。速度は0.8km/時もしくは2km/時の2段階で、バックもできる。

進路変更は左右の車輪の速度を違えることで行い、最小ステアリング半径は80cm。ディスクブレーキを備えており、停止の際にはしっかりと車輪を固定する。20度の傾斜を上ることができ、左右の傾斜は40〜45度まで耐えられる。ジャイロで傾きを検出、無理な走行をしようとすると自動的に運転を停止するようになっている。

なお、“9番目の車輪”が後部に取り付けられている。これにはモーターはついておらず、地面を転がることで走行距離を計測する。

円筒状をした“便器”を連想させるボディは直径215cm、高さ135cmで、内部は窒素が封入され、1気圧が維持されている。その“フタ”の裏側には太陽電池が貼り付けられており、約1キロワットの電力を生成、蓄電池へと導かれる。車体後部には放射性物質ポロニウム210が約11kg積まれており、その熱で最高660ワットの予備電力を発電する。(下はルノホート2号の全体図。1号とは若干の相違点があるが基本形は変わらない)

           

(1)磁力計 (2)半指向性アンテナ (3)高利得指向性アンテナ (4)アンテナ駆動モーター (5)太陽電池 (6)フタ (7)パノラマカメラ(上下方向及び左右方向1台ずつ) (8)放射性物質格納部 (9)月面サンプリングデバイス (10)アンテナ (11)車輪 (12)車体 (13)X線スペクトロメーター (14)ステレオカメラ (15)コーナーキューブ (16)カメラ

月の1日は地球の1ヶ月、つまり昼夜が15日ずつ続くが、夜間はフタを閉じて行動を停止。この間、内部の温度はポロニウムの熱により維持される。一方、昼間はフタを開いて活動するが、車体の天井(フタが被さる面)はラジエターになっており、内部の熱を逃がして一定温度を保っている。

(右はルノホート後部のポロニウムコンテナ。円盤状の“盾”が車体への熱放射を防いでいる。下の方には走行距離を測るための小さな車輪が見える。)

複雑なのが、カメラだ。ルノホート2号には正面に3台のカメラ((14)及び(16))があり、車体側方・左右に2台ずつ(7)計4台取り付けてある。

正面のカメラ(ビジコン管)(左下)は走行用のものである。ルノホート1号では(16)に相当するカメラがなかったが、実際の運用で視野をもっと広く確保した方がよいことが判明、2号で追加された。1フレームの走査線は250本で、毎秒約10本ずつ走査することができたといい、これは約20秒ごとに一枚の映像を取得することを意味する。

(注:以下の拡大画像は、模型を撮影したものです。詳細に関しては末尾の謝辞をご覧下さい。)

一方、側面のカメラ(右下)は足下や周辺を写すもので、水平、垂直方向を独立して撮影する。カメラと言っても実際はスキャナーであり、月へ初めて軟着陸したルナ9号に搭載されていたものの改良版である。1つは180度の水平パノラマ(500×3000ピクセル)を取得し、もう一方は上下に360度回転可能で、垂直パノラマ(500×6000ピクセル)を取得する。この垂直画像には星空も写し込まれ、方角の確認などにも利用される。カメラの下にはフライパンの裏側のような模様をしたインジケーターがあり、映像と共に写し込まれる(このインジケーターが前方と後方の境界を示す)。

   

地上とのコミュニケーションの要となるアンテナは3種類搭載している。強い指向性を有する大型ヘリカルアンテナ(下画像・左)と指向性がブロードなコニカルアンテナ(中央)、それに4本のロッドアンテナ(右)だ。大型ヘリカルはモーターで向きを変えることができ、常に地球を追尾する。ヘリカルの仰角は約50度。

ソ連宇宙機で普通に見かけるコニカルアンテナは、他の宇宙機同様、テレメトリーやコマンドの送受信が主目的であったと考えられるのに対し、大型ヘリカルは画像データの大量送信が主務であったと考えられる。ロッドアンテナはわからないが、テレメトリーの類であったと思われる。これら3種類が互いに目的を共有していたか否かは定かでないが、共有可と考えるのが自然だろう。ただ、もし大型ヘリカルが不具合を起こしていたら、画像の送信は制限され、従って走行距離もかなり短いものになっていたに違いない。



ルノホートにはいくつかの科学機器が搭載されており、それらは「X線スペクトロメーター」、「宇宙線検出器」、「X線検出器」、「ペネトロメーター」及び「コーナーキューブ」であった。宇宙線検出器のキャリブレートには、金星・火星探査機により得られていたデータが非常に有益だったと言われている。

左下は「ペネトロメーター」である。距離計測輪と構造体を共有しており、ルノホートミッションでは重要な科学機器の1つ。長さ4cmの検針棒で、先端に4枚の“羽”がついている。これを月面に押し当て回転させることで、土壌の固さなどを計測する。中央は「X線スペクトロメーター」で、土壌の組成分析などを行う。



一方、特徴的なのは、重さ3.7kgの「コーナーキューブ」だ(右上)。フランス・アエロスパシアル社製で、14個の小キューブを並べたものである。コーナーキューブは、光がどのような方向から入射しても、それを元来た方向へと折り返す反射プリズム。これを目掛けて地球からレーザーを放つと、その帰ってくるまでの時間を測定することで月までの距離を逆算することができる。

ソ連は60年代半ばからフランスと宇宙開発で協力関係にあり、コーナーキューブもその一環であった(補足1参照)。ただし、秘密主義のソ連故、フランス技術陣に対して見せたのはキューブを取り付ける金属金具だけで、使用目的も「月探査機に乗せる」と伝えただけだったという。

ところでこの操縦であるが…なんと、5人がかりでやるものだった!彼らはそれぞれ「指揮官」、「ドライバー」、「ナビゲーター」、「エンジニア」および「無線オペレーター」と、役割が分担されていた。

指揮官は全体の状況を見ながら適切な指示を繰り出す監督だ。ドライバーはナビゲーターの指示に従い車を走らせるが、ナビゲーターはカメラの映像などに気を配りながら、ドライバーに状況を伝える。エンジニアはテレメトリー全般の監視が任務で、各部の状態を常に見守っていた。無線オペレーターは通信任務を担うが、彼の重要な仕事のひとつが、ルノホートの大型ヘリカルアンテナを常に地球へ向けておくことだった。このアンテナは、自動で地球を追尾するものではなかったのだ。

勿論、大まかなルートはその都度打ち合わせが行われ、決定されていった。

(下はその一コマ。クリミアの大型パラボラアンテナの近くに設けられたこの管制室が、いわば“操縦室”だ。左の2枚は操作卓を違う角度から眺めたもので、うち下段のものはガラス越しに外から撮影されたものである。背後から「同志、そのまま前進だ」などと聞こえてきそうだ(笑)。右はルート・ミーティング。周辺の様子などを検討しながら走行ルートが決定されていった。撮影された映像はかなり大きく引き延ばされていたことも伺える。)

    

(この3枚中に見える操作卓とその周辺の物品を見比べると、ミーティングはこの管制室で行われていたようである。だが会議の様子では、中央にあるはずの操作卓がテーブルになっている。操作卓は隅へ押しやられたか…?)

このクルーも正規クルーとバックアップクルーが選抜されるなど、まるで宇宙飛行士さながらだった。志願者を募り、反応速度や記憶力、画像判断力や集中力などがテストされた。選抜が行われたのは1968年だった。

後年(冷戦後?)、この時の詳細が明らかになった。クルーは戦略ミサイル軍所属の者のみで、「トップクラスのエンジニア。若いが経験が豊富。スポーツ好きで健康状態が良好であること」が募集要項であったという。25人が選抜されてモスクワの医学生物学問題研究所で精査を受けることになったというが、この時にはミッションの目的は教えられていなかった。

グループはその後14名まで絞られたが、うち3名は責任を果たす自信がないとして辞退を申し入れた。残りは7名ずつ2グループに分けられ、一方はレニングラードのVNII−100トランスマッシュへ派遣され、もう一方はラボーチキン設計局へ配属された。そこでルノホートについてみっちり教育を受けた後、クリミヤに設営された模擬フィールドでその操縦訓練を受けた。

彼らは秘密厳守を誓わされ、その訓練内容もハードだった。最初は宇宙飛行士の訓練をやらされているのではないかと思ったそうである…自身が月面に行かされると思った、かも?

最終的にこの14名から、5名一組のクルーが2組作られ、予備人員が1名選ばれたのであった。

肝心の操縦性能であるが、なにせ映像が20秒毎にしか来ない上、月まで光速で1秒ちょっとというタイムラグがあるため、快適走行からはほど遠いものだった。極めてノロノロした走行を余儀なくされ、ルノホート1号の活動開始直後は平均時速2.3メートル(!)、最初の2週間の走行距離は190mであった。時間が経つにつれクルーも慣れていったが、それでも300m程度であった。

そして、この車を月面へ無事に着陸させる下降段が、「KTステージ」と呼ばれたそれである。これはサンプルリターン機の下降段とほぼ同じタイプのものであるが、車が降りるためのランプウェイが左右に取り付けられている(左下は組立の最終段階で、「KT」の上にルノホートが乗った状態がよくわかる。右は月周回軌道からの降下フェーズを描いたもの)。

     

打ち上げはプロトンロケットによって行われ、離陸から軌道修正、月周回軌道への投入、そして着陸までは、サンプルリターンの場合と殆ど同じであった。

では、実際のミッションはどのようなものだったのか、見てみよう。


月面で活動したルノホートは2台だが、実はルノホート1号の打ち上げの前に1台存在する。この“幻のルノホート”は1969年2月19日に打ち上げられたのであったが、これまたプロトンロケットの不具合によって失敗したのだった。

この日付にピンと来た方もいると思うが、これはちょうど、N1初飛行の2日前であった。これまた度々述べたが、熾烈なムーンレースの終盤、自力優勝がなくなったソ連としては、サンプルリターンとあわせて月面車の走行でアピールする他なかった。この月面車はN1の飛行とセットになっており、月面に降り立った車を、N1のペイロードである7K−L1S宇宙船(無人)上から撮影することになっていたとされている。

打ち上げられたのはモスクワ時間・2月19日午前9時48分だった。打ち上げは順調だったが、51秒後、突如ペイロードが分離、ロケットも爆発してしまった。この一部始終はババキンを始めとした関係者一同の目の前で起こった出来事で、彼らに与えたショックは大きかった。

機体は射点から15km離れた地点に墜落した。残骸を調査した結果、月面車用に設計されたフェアリングに問題があり、振動が大きくなって分解を起こしたことがわかった。

余談だが、残骸の回収に当たり、どうしてもポロニウム210容器を発見することができなかったという。これは噂であるが、バイコヌールを警備する兵士がそれを持ち帰り、暖を取るために使用したという話がある。さてこの話の真偽と彼のその後は…?


1970年11月10日、中央アジア・カザフスタン、バイコヌール宇宙基地。モスクワ時間・午後5時17分44秒、ルノホートを載せたプロトンロケットが轟音と共に上昇を始めた。シーケンスは順調で、ネックであったフェアリングに何の問題もなかった。ロケットは無事にパーキング軌道へ入ると、トラブル続きだった上段エンジンを確実に噴射、月遷移軌道へと入ることに成功した。ソ連当局は「ルナ17号を打ち上げた」と発表した。

打ち上げから着陸までのプロセスは、先述したが、サンプルリターン機とほぼ同じである。15日、逆噴射を行い月周回軌道に投入、2日後の17日午前6時46分(モスクワ時間)、「雨の海」と呼ばれる地域に着陸した。この時の重量は1836kgで、うちルノホートは756kg。月は月齢17を過ぎた頃で、月面では細く輝く地球の姿が見えたはずである。ソ連は4回目の軟着陸に成功したことを発表したが、その時には誰もがサンプルリターンと考えていた。

しかし、実際は違っていたのである。再び驚かされることになろうとは、まだ世界中の誰も気づいていない…。

着陸からの2時間、管制チームは着陸地点の正確な位置やシステムの状態確認などを行っていた。全てが完了すると、カメラのダストフードを外すコマンドが送信され、カメラが目前の撮影を開始した。やがて、画面に現れた月世界…それに誰もが歓喜したことだろう!

映し出されていたのは、月の荒野と下降段であった。周囲には何も障害物がない…彼らはランプウェイを降ろすコマンドを送信した。まもなく送られてきた映像には、きちんと降りた4本のランプが映っていた…いつでも車を踏み入れることができる状態だ!

ルノホートの活動が始まった。真剣な眼差しでモニターを見つめるドライブクルーの5人。ドライバーがレバーを前へ倒す…ルノホートのモーターは前進を開始した。

一連のドライビングコースで、恐らく最も危険なのは、このランプの上を走る時だろう。かなり急角度な坂道(右)…誰もが息を殺して神経を集中させる…20秒に1回の最新画像を見ながら、ゆっくり、ゆっくりと降りていく…。

やがて、車がランプを降りきった…クルー、そしてそれを見守る関係者の間には笑みが浮かんだことだろう。大きなため息をついたものもいたかも知れない。

ルノホートはとりあえず20m進んだ。くっきりとしたわだちが、砂地の上に刻まれていく…人間が作った車が、初めて地球以外の天体を走った瞬間だ!

車は、さらに走り続ける。

別のショットには、取り残された下降段が映っている。

(下・ルノホート右舷のパノラマカメラが撮影した一枚。どっしり座る着陸機と、2本のランプウェイ、上へ伸びたアンテナがくっきり映し出されている。手前に見える、車体から伸びる棒はアンテナ。)



活動2日目は太陽電池で電力をチャージし、3日目は90mを走行、4日目は100mを走行した上、10度の傾斜を登り切った。

すべては完璧に見えたが、しかし、トラブルも発生していた。ブレーキがオンの状態から戻らなくなっていたのである。クルーは色々試みたようであるが、完全にブレーキを解除することができず、その後はやや重い足どりを余儀なくされたようである。

5日目の22日、フタを閉じて迫り来る夜に備えた。ルノホートは下降段から約197mの場所にあり、これから14日間続く月の夜にじっと耐えねばならなかったのである。ポロニウム210が発する熱が、車内の温度を一定に保ってくれるはずではあったが、関係者は不安でもあった…。

ソ連当局は、ルノホートを大々的に公表した。当然だが、世界中が大きな関心を寄せた。サンプルリターンとばかり思っていたら、出てきたのはなんと車だったのだ!月面を走るラジコンカーは、わだち、そして下降段をしっかりと映し出している。確かにアポロも月面車を用意していたが…これは先を越されてしまった。

この快挙に、世界は心から祝福を送った。英新聞「タイムズ」誌は「注目すべき業績」、同「デイリーメール」は社説でルノホートを製作したエンジニアらに賛辞を贈っている。この8輪車はしばらくの間、話題の中心であった。

しかも異例なことであるが、管制室が取材陣に公開された…といっても、ソ連の報道陣だけであったが。これはソ連科学アカデミー議長ミスチスラフ・ケルディッシュの計らいによるものであった。

取材陣は私語を慎み、あちこちうろうろしないことを条件に立ち入りを許可された。だがそんな規則が守られるのは最初だけである…やがてひそひそと小声が聞こえ始めた。しかも、じっとしていない…。

「おい、あのクレーターを見ろよ!」 「あ、アイツ、岩に突っ込んだぞ!」

背後でごちゃごちゃ呟かれたクルーはたまらない。緊張状態に追い込まれ、脈拍が140まで上がった者もいたという。この状況にうんざりしていたババキンは、ついに怒鳴ってしまった。

「もうみんな、ここから出ていけ!!」

その後の入室は、許可された者だけに限られたという。

筆者が疑問なのは、「脈拍が〜」と伝えられることに関して、クルーには心電図などのセンサーが取り付けられていたのか?まるでホンモノの宇宙飛行士だ(笑)。

なお、運用が始まってすぐにわかったことであるが、20秒に一枚のカメラ画像にはイライラさせられ、その間は直前の映像風景を覚えておかねばならず、当然だが一度の走行距離も限られたものになった(選抜テストで記憶力が問われた背景もこの辺にある)。また、カメラの視点が低すぎて先がよく見えないこと、コントラストが極端で表面の状態把握に苦戦したことなどが伝えられている。満月の前後は影ができないため、岩の大きさなどを把握することが難しく、走行停止を余儀なくされていた。

運用を重ねるに連れてクルーは走行に慣れていったが、そもそもその人選と訓練がよかったのも間違いないようである。


月の夜は地球の時間で約14日続くが、この間月面は−150℃まで温度が降下する。ルノホートは活動しないが、しかし、搭載されたコーナーキューブの出番がこの時だ。ダストカバーが外れて、むき出しになっており、レーザー光をいつでも受ける準備ができている。

12月5日と6日、フランスのピック・ドゥ・ミディ天文台およびクリミアのセメイズ天文台よりレーザー光が照射された。しかし結果は芳しくなく、帰ってきた光はノイズレベルからかろうじて浮き出たものだったという。

この結果は期待を大きく裏切るもので、結局これが最初で最後の照射となってしまった。原因としては、キューブが不適切な方向を向いているか、あるいは砂ぼこりを被っているか…などが考えられたが、正確なことはわからなかった。

12月9日、ルノホートは月面で日の出を見た。朝日を受けた岩々が、細長い影を形作る…そしてルノホートの影も…。管制チームは“目覚め”のシグナルを送信した。それはフタを開くコマンドであったが、ルノホートは無反応であった。そこでもう一度送信すると…今度は応答があった。カメラも作動し、周囲の様子を撮影し始めた!管制室は大喜びに包まれたことであろう…なにせ、極寒の夜を乗り切ったのだ。

その日は丸1日かけて、バッテリーのチャージが行われた。翌10日には行動を開始したが、この日、小さなくぼみにはまってしまい、9時間もの間、前にも後にも動かないというトラブルに見舞われている。


ところで。管制室から報道陣が追い出されたエピソードを先述したが、追い出されていたのはマスコミだけではなかった。実は、科学者も近寄ることができなかったのだ。

科学者とは、具体的に言えば地質学者である。この辺、アポロミッションと状況はよく似ている。アポロはとにかく人間が月へ行けばよかった。ルノホートの場合は、とにかく車が月面を走ればよかったのである。

ところが、探査車どうしを比較すると、米国が火星に送り込んだ「マーズ・パスファインダー」(1996−97年)、「オポチュニティ」「スピリット」(2004年−現在)とは対照的だ。米国のいわゆる「マーズ・ローバー」では、運用チームに地質学者が加わり、画像をチェックしながら、興味あるものには積極的に接近・調査を行っている。しかしルノホートの場合は、立ち止まっていることは良しとされなかったのだ。

「今日の走行距離はどのくらいですか?」

「プラウダ」などのソ連紙がそのような質問を繰り出すことを恐れていたババキンは、ある時、「これはルノホートであって、ルノストップではないのだよ」と周囲に語ったこともあったという。

勿論、ルノホートにはいくつかの科学機器が搭載されている。岩石の分析などは等間隔で行われ、宇宙線がカウンターで計測されていたが、データがリアルタイムで提供されていた訳ではなかったようである。

だが、71年3月、大きなクレーターへ接近した際、ついに地質学者らは「運用に立ち会わせて欲しい」と願い出た。目の前にはゴロゴロと岩が転がっており、クレーターの形成過程に迫る情報が得られる可能性がある。学者らの直訴は認められ、科学的な調査も重視することが決定された。

4月から5月にかけ、目の前に広がるクレーターの調査が実行されたが、それは危険を伴うものでもあった。実際、4月13日には軟らかい土の中にめり込み足を取られてしまい、フルパワーで抜け出さねばならぬこともあった。しかもこれは過剰放電を強いられたようで、この日以降4月の間はチャージのためストップを余儀なくされた。

ただ、これは無理な運用だけが原因ではない。そもそもルノホートは耐久3ヶ月の設計であったのだが、この時既に6ヶ月に達していたのである。バッテリーを含め、ガタが出始めていたのは間違いない…。

1971年9月14日、定常活動中、ポロニウム210電源がダウンした。この時のテレメトリーは、車内の急速な減圧を示していた。気密が破れ、装置が機能不全を起こしたのは間違いなかった。車輪は停止し、カメラの画像も停止してしまった。

翌10月4日、スプートニク1号打ち上げ記念日であるこの日、ミッションの終了が公式に宣言された。


そもそも3ヶ月の活動予定だったのが、実に10ヶ月近い走行を達成しただけでも凄い。走行距離10540m、活動範囲80000平方m。送信画像20000枚で、うちパノラマ200枚。X線土壌分析は25ポイントで行われ、ペネトロメーターによる測定は500ポイント実行された。

10ヶ月の間、ドライブチームらは9時間シフトで運用に当たり、(コントラストの問題で走行できない)満月を挟んだ3日間は休暇が与えられ、14日間続く月の夜にはモスクワへ帰り資料の分析などを行うという、ハードスケジュールをこなした。

以下、ルノホート1号の全行程を簡単にまとめておこう。

行動期間 走行距離(m) 特記事項
70.11.17-70.11.22 197 バッテリーチャージ、慣らし運転
70.12.10-70.12.22 1522 南方向のクレーターへ
71.01.08-71.01.20 1936 着陸地点へ帰投
71.02.08-71.02.19 1573 北へ向けて走行
71.03.09-71.03.20 2004 最長走行記録樹立
71.04.08-71.04.20 1029 小クレーターにてトラップ。電力を消耗(バッテリーが傷んだ?)
71.05.07-71.05.20 197 クレーターの科学的調査に特化
71.06.05-71.06.18 1559 北へ移動
71.07.04-71.07.17 220 この頃よりパワーダウンが顕著に。走行よりも科学調査に特化と決定。
71.08.03-71.08.16 215 周辺を調査
71.08.31-71.09.14 88 14日、気密漏れが引き金と見られるパワーロスト。機能停止。
71.10.04 - スプートニク1号打ち上げ記念日。ルノホート1号ミッション終了を公式に宣言。








ルノホート1号の活動は、2号機を製作する上で貴重な知見をもたらした。多くの改良すべき点が明らかとなり、それらは確実に反映されている。例えば速度は倍になり、高さ40cmまでの障害や、60cmまでの穴は乗り越えられるように改良された。最大の問題だった撮像スピードは、最速3.2秒/フレームまで短縮された(レートは可変で、3.2、5.7、21.1秒)。先述したが、前方のカメラは1台追加され、高い視点からの視野が確保されている。

加えて、カメラには四角のフードが付けられているが、これは太陽光が直接入射するなどして画面全体が白く飛んでしまい、コントラストが低下してしまうのを防ぐためである。カメラ自体、少々うつ向き加減に取り付けられているのもそのためであろう。

また、観測機器も追加された。紫外線センサーや磁力計がそうであるが、前者は夜間における地球の照り返し(地球照)のレベルを測定したり、後者は磁力の分布を調査したりするものである。これらは有益なデータをもたらすものと期待されていた。

改良と組立には1年以上の時間を費やし、重量は1号を100kgも上回る840kgになった。


ルノホート2号は1973年1月8日、バイコヌール宇宙基地よりプロトンロケットで打ち上げられ、ソ連当局は「ルナ21号」と発表した。

この日程には、相変わらずソ連のしたたかさが見えている。概してソ連はミッションの日程を政治的都合などにぶつけてくるのが得意であったが、これも例外ではなかった。前年末(72年12月)で米のアポロ計画が終了することを、きちんと計算に入れていたのである(注: 単なる偶然だったという意見もあり)。

アポロが12月末のアポロ17号でミッションを終えてから、1ヶ月と経たぬうち、しかも新年早々、月へ探査機を送り込んだのだ。この時米国には、アポロを継ぐ月計画は全く無かった。いや、関心すら無くなっていた。

ついに、月はロシア人の独壇場になったのだ。

月までの飛行は、途中、ヒヤヒヤさせるものがあった。何らかの不具合が発生し、テレメトリーが正常な値を示さず、その上、勝手に“便器のフタ”を開いてしまったのだ!管制部はかなり焦ったと思われるが、しかし、フタを開いたまま飛行している姿を想像すると…笑い事ではないとはいえ、笑いが出てしまう(笑)。もちろん、地上からの指令で閉じられたことであろうが…。

道中そんなハプニングはあったが、ルノホート2号を乗せたルナ21号は、12日、月周回軌道に入った。翌日より軌道修正を行い、16日、月面への軟着陸に成功した。場所は「静かの海」の東端にある「ルモニエ・クレーター」の中で、時刻はモスクワ時間・同午前2時35分(世界時・17日23時35分)であった。

ルノホートは早速、周辺の映像を送信してきた。画面の中には、下降段に取り付けられたソ連国旗が掘られたエンブレムと、 「50周年!ソビエト連邦」のスローガンが入ったプレートも映し出されていた(1973年はレーニン死去50周年)。

その日は約30m走行し、翌日から2日かけて、バッテリーのチャージが行われた。

その後の走行ルートとしては、7km南に見える山脈(クレーターの縁)を目指すことが決定された。全ては順調で、最初の夜を迎える24日までに1260mを走行し、太陽電池パネルであるフタを閉じた。


クルーにとっては、約1年3ヶ月ぶりの月面走行であったが、ハンドルさばきに衰えはなかった。ただ、シフトは2時間交代に改められ、負担が軽くなるよう配慮された。

ルノホート2号は、1号と異なりとにかく走り続けた。2月には約6時間で1150m近く走行した日もあり、また、高度400mの丘の上に登ったこともあった。そのクライミングは車輪のスリップ甚だしく、回転効率が20%しか効いていない状態もあったと言われている。ただ、登り詰めて撮影したパノラマは、東の地平線の上に地球が浮かぶ、それは素晴らしいものであったとされる。

このミッションでは、米ソ関係のちょっとした“雪解け”もあった。ルノホート2号が月面に着陸した日、モスクワの宇宙科学研究所(IKI)で太陽系探査シンポジウムが催されたのであったが、そこには米国の科学者も姿もあった。会合ではアポロの成果も披露されたが、米国団は、アポロ17号の撮影したパノラマ写真などをソ連側に進呈したのである。

これは、アポロ17号の着陸地点がルノホート2号のそれと近かったためである(補足3も参照)。「役に立つだろう」という米側の粋な計らいであったわけだが、それは実際、大いに役立った。写真にはルノホートが目指している東部地域の詳細が写っており、そこには「Fossa Recta」と呼ばれる細長い谷がある。ここはルノホート2号の目指す場所でもあったのだ。

(左下の図はルノホート2号の全走行ルートの概要。図中、右側に見える細長い楕円の部分が「Fossa Recta」。この谷は幅は300mであるが、長さは16kmにも達する。一方、右下の図はその谷の断面で、傾斜は30度、深さは30ないし50m。)



3月の活動中に、ルノホートは谷の西縁まで到達した。この期間だけで実に16kmを超える走行距離を達成したが、これは1号の全走行距離の約1.6倍に匹敵するものだ。

4月に入ると、地質学者達が大喜びする光景に出くわした。目の前に玄武岩質の岩石がゴロゴロ転がっており、それらは明らかに火山活動で形成されたものであった。しかもそこは非常に深い砂地で、一時は車輪が20cmも沈み込んだのであった。5月に入ってもルノホートは元気で、現場の人間だけでなく、世界中の関係者が、このままずっと走り続けると思っていた。


しかし。終わりは突然だった…6月4日、モスクワ放送が「ルノホートミッションは終了した」と宣言したのである。

しかも、これまたソ連らしく、終了理由が一切明らかにされなかった。昨日までピンピンしていた人間が、今日になって死んだといきなり聞かされたようなものである。世界は驚き、いぶかしがり、首をかしげたが、結局その後も真相は明らかにされなかった。

そんな状態であったから、中には「ひっくり返って動けなくなったんじゃないか!?」と言うものまでいた。確かに、谷の周りをうろうろし、急な坂を登ったりしていたのだから、無理もない。

ところが、ミッションから実に30年が経過した2004年、その真相が明るみになった。

それによると、活動を再開した直後の73年5月9日、ルノホートは幅5mのクレーターへ進入を試みたという。ところがクレーター縁の長い影が中を隠し、実はかなり深いことに気づかずそのまま走ってしまい、クレーターから出ようとした際、“フタ”がクレーター壁をこすり、土砂が中に流れ込んだという。

この土砂が電力低下という障害を招くことは無かったが、夜を迎えフタを閉じた際、土砂が車体の天井、すなわちラジエターの部分に被さった可能性が高いという。夜が明け再びフタを開いた際、土砂がラジエターの機能を低下させ、放熱が充分に効かず、車内が高温になって機能不全を起こしたと考えられている。

クレーター進入を試みるにあたっては、底は浅くすぐ向こう側へ乗り越えられると考えたのだろうか。だがちょっと進んだ時点で、マズいと思ったに違いない。狭い幅で、しかも視野が充分確保されない中でのバックが難しかったのは想像に容易い。ひょっとしたら、スリップも起こす、足場の悪い場所だったろうか。後ろに開いたフタが壁をこすり、土砂をすくってしまった時の緊張は如何ばかりだったろう…クルーの心拍数も高かったに違いない。

ルノホート2号ミッションは、10ヶ月近く続いた1号と比べ、僅か4ヶ月と、あっけなく終了した。だが走行距離は37kmに達し、80000枚を超える撮像画像は誇れるものであった。しかも1号の時と異なり、起伏の激しい土地やクレーター、谷の周辺などといった難しいフィールドを探査したのである。得られた成果も素晴らしいものだった。例えば地球照による月の夜の明るさが、地球の満月の夜のそれの15倍の明るさであることなど、非常に興味深いものもあり、それらは後年、論文として多く発表された。

また、2号のコーナーキューブは1号と異なり、レーザー光をしっかり反射し、現在もなお可能である。

以下、ルノホート2号の全行程を簡単にまとめておこう。

行動期間 走行距離(m) 特記事項
73.01.16-73.01.24 1260 バッテリーチャージ、慣らし運転
73.02.08-73.02.23 9806 南に見えるクレーター縁を目指して走行
73.03.08-73.03.23 16533 クレーター縁である山脈を左手に見ながら、東へと走行。走行距離最長を記録。
73.04.09-73.04.22 8600 細長い谷「Fossa Recta」周辺を調査
73.05.08-73.05.21(?) 800 クレーター縁の麓を走行。この期間の走行は無事終えたが、(次のピリオドを開始する)6月上旬、活動開始直後に機能停止。車内が高温になったことが理由とされる。


下は車体右側方の垂直パノラマカメラが撮影したもの。左右はもともとインジケーターを挟んで一枚続きだが、切り分けてある。左は右前方を、右は右後方を映し出している。右前方の画像の上方には、コーナーキューブの一角とおぼしきものも写っている。一方、右後方には“フタ”とその内側の太陽電池が写っているのが印象的だ。車体の影もよく見えている。

   

下は前方カメラの連続画像の一部。左上の数字はフレーム数であろう。丸いのは時計のようである。フレーム数を見ると、時間の経過は右から左へと進行しているようだが、目の前のわだちを見るとなんかおかしい。恐らく目の前の窪地に入り、一旦バックした後、もう一度前進しているシーンだと考えられる。





ルノホート、そしてサンプルリターン機を、「ババキンの傑作」と賞する人もいる。彼本人もまた、その活躍を目の当たりにして、感慨深いものがあったに違いない。その心内を知ることはできないが、ひょっとしたら「夢をまた1つ実現しました」と、星の世界へ逝ってしまったコロリョフへ報告をしていた、かもしれない…。

ただ残念なことに、ルノホート1号が活動している71年8月3日、ゲオルギー・ババキンは急逝した。ちょうどソユーズ11号の悲劇のほぼ1ヶ月後のことであり、また、3機目のN1打ち上げ失敗とも重なったこともあり、その死が現場に与えた衝撃は大きかったと言われている。

享年56。その早すぎる死は、多くの人々に惜しまれた。

だが、ババキンはその存命中、火星・金星探査計画のデザインコンセプトを完成させていた。そしてその下に集うのは最高の頭脳陣であり、彼らもまた、“夢を継ぐ者”として大活躍を見せたのである。特に金星探査において筆舌に尽くし難い快挙を成し遂げたのは、よく知られている通りである。


※謝辞
ルノホートのモデル写真および詳細について、フランスのVincent Meens氏のご協力をいただきました。氏の素晴らしいサイト http://spacemodels.nuxit.net/ に記載の宇宙機モデルにはそそられます。
Many thanks to Mr. Vincent Meens, for information and permission to use.

※補足1
フランスはド・ゴール政権下の1966年6月、ソ連と宇宙開発分野で協力関係を締結した。ソ連が70年代〜80年代にかけて行った金星探査「ベネラ計画」および火星探査「マルス計画」、80年代中後期の金星・ハレー彗星探査「ベガ計画」などで科学機器を提供したり、「インターコスモス計画」ではフランス人飛行士がサリュート6号を訪問する(1982年)などした。詳しくは以下のサイトへ

“French-Russian space cooperation 1966-2006 - 40 years of cooperation between France and Russia”
http://www.cnes.fr/web/5476-40-years-of-cooperation-between-france-and-russia.php

※補足2
ルノホートには“3号”が存在する。それは「ルナ25号」として1977年に打ち上げられる予定であったが、計画はキャンセルされてしまった。そもそもルノホート2号ミッションが終了した1973年夏、「Ye−8」計画自体が大幅な縮小を受け、今後は既に出来上がっているパーツを利用することに決定されていた。

打ち切りが決定したとき、“ルノホート3号”は完成しており、いつでも打ち上げられる状態だった。現在、その実機がモスクワのラボーチキン博物館に展示されている(下)。車体の前に置かれたボードには「луноход 3」と書かれ、正真正銘のホンモノであると主張している。

    

2号とほぼ同型で、カメラに改良が加えられていると言われている。2号には見ない場所に機器が取り付けられているなど、だいぶ発展させられているようだが、詳細はわからない。

※補足3

「ルナ」や「ルノホート」、および米の「アポロ」や「サーベイヤー」の着陸地点。サンプルリターン機が東半球に集中しているのは、ソ連領内への着陸を可能とする帰還軌道の都合による。仮にソ連が有人月飛行を行っていたとしたら、やはり東半球に集中していたであろう。



【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
Lunar and Planetary Department, Moscow University http://selena.sai.msu.ru/Home/MoonE.htm
Lunar and Planetary Institute http://www.lpi.usra.edu/
Space Model Web Page by Vincent Meens, http://spacemodels.nuxit.net/
Virtual Space Museum http://vsm.host.ru/
“Lunar Laser Ranging and the Location of Lunokhod”, P.J. Stooke, et al., Lunar and Planetary Science ]]]Y(2005) http://www.lpi.usra.edu/meetings/lpsc2005/pdf/1194.pdf
“A possible lunar outcrop - A study of Lunokhod-2 data”, Basilevskii, A. T., Florenskii, K. P., Ronca, L. B., The Moon, vol. 17, Sept. 1977, p. 19-28 http://adsabs.harvard.edu/abs/1977Moon...17...19B
Исследование Солнечной системы http://galspace.spb.ru/
Научно-производственное объединение имени С.А. Лавочкина http://www.laspace.ru/rus/
"Хроника одного путешествия или повесть о первом луноходе"
                http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/gubarev/hronika/obl.html
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Soviet and Russian Lunar Exploration” by Brian Harvey, Springer Praxis, 2007
“Lunar Exploration” by Paolo Ulivi, Springer Praxis, 2004