Red Apollo, Never Reached

N1ロケット、それにL3システムの開発は共に困難を極めていた。特に重量の問題は厳しいもので、妥当な答えが見つからぬまま、コロリョフは他界してしまう。彼の死は1966年1月のことであったが、この後1年間、重量問題に関しては何の進展もなかった。

この時点で、N1−L3システムの安全性云々という以前に、2人の人間を乗せて飛ばし月面に立たせること自体が無理だったのだ。

だが、もう後戻りはできない。このままとりあえず作ってしまおうという流れがあったに違いなかったが、一方では、N1の更なる増強型の検討も行われようとしていた(N1の初段と第2段の増強を行い、月面に2人着陸させるプランも検討されていた)。

しかも、このような状況下にありながらも、上層部の要求には厳しいものがあった。1967年2月1日、今後のN1−L3ミッションに関して、次のようなタイムラインが決定された。

最初のN1−L3フライト   1967年9月
最初の有人月面着陸    1968年9月

コロリョフの死後、まだ混乱が収拾しない1967年の内に、N1の初フライトをやるというのだ。そしてその翌年には有人月着陸をやるというのである…これはどう考えても、無理な要求だった。

また、3日後の2月4日、今後予定されるN1のフライト目標とデッドラインが定められた。

シリアルNo.      目標         予定年月
  3L     システム全体の完成    67年 9月
  4L          予備
  5L     LOK/LK搭載 無人飛行   67年12月
  6L          同上          68年 2月
  7L      有人LOK/無人LK      68年 4月
  8L          同上          68年 6月
  9L       有人LOK/無人      68年 8月
          無人LKの月着陸
 10L        有人月着陸       68年 9月
 11L         予備
 12L         予備

これまたどうみても、現実的ではない。68年に入ると2ヶ月おきにN1を飛ばし、秋には有人月着陸をやってしまおうというのだ。この時点で、N1のフルスケールモデル「1M1」はほぼ完成に近かったが、実機は予定よりもかなり遅れていたのである。

空軍将校で宇宙飛行士の監督たるカマーニンは、「日記」67年3月15日付に、このように書き残している。

「…このタイムラインは、全くもって、現実的ではない。」

1968年1月15日に行われた会議における、宇宙服の開発状況に関するセヴェーリンの報告は、空気を更に重苦しくするものだった…満足な宇宙服の開発にあと2年は要するという見通しが報告されたのだ。そしてその原因が厳しい重量制限にあったことは、皆が理解していたことだった(開発史25参照)。

同年9月18日、一般工業機械省大臣セルゲイ・アファナシエフは、N1ミッションを統括する国家委員会の会合を設けた。この会合には各設計局から100名を越えるチーフ・デザイナーとその補佐達、戦略ミサイル軍や空軍、政府関係者が出席し、5時間に及ぶ話し合いが行われた。この会合では、共産党中央委員会で決定された3つの項目がまだ達成されていないこと、1M1モックアップは完成したこと、などが確認された。

アポロ8号のフライトまであと3ヶ月という段階で、ソ連はなお多くの問題点を抱えたままの状態だった。アファナシエフはN1の最初のフライトを2ヶ月後の11月末、2度目を69年2月に設定したが、これもまた、現実的なタイムラインではなかった。


1967年から69年にかけて、米ソの熾烈な「ムーン・レース」はフルパワーを迎えていた。米国は情報をオープンにし、トラブルはあったものの、着実に成果を揚げている。一方ソ連は、殆ど全てを鉄のカーテンで覆ったままだった。

米国は写真偵察衛星による画像でサターン級のロケットの存在を認知し、そして、ロシア人が明らかに月を目指していることに確信を持っていた。当時のNASA長官ジェームス・ウェッブは1967年8月、議会小委員会にて、「ソ連は巨大なロケットを建造しており、まもなく … 私が思うに68年にも … サターンを上回るロケットを飛ばすであろう」と発言している。

だが、この発言には疑問を抱く者が多く、重要視されることはなかった。物的証拠が不十分であるというのがその理由だったが、ロケットに関してはほぼ素人に近い政治家達にとって、理解が得られないのは無理もないことであった。それに多分、写真を始めとしたCIAの報告書も、ホワイトハウスとNASA上層部止まりであったことだろう。

ちなみにCIAは、「ソ連の有人月飛行は早くて71年〜72年頃であろう」と推測していた。恐らくホワイトハウスはそれに従っていたであろうと考えられるが、一方、ウェッブとフォン・ブラウンはあらゆる可能性を想定していたとされている。

ところで。意外にもロシア人は、彼らの有人月飛行に関し、その存在を強くほのめかす発言をしていたのである。それは、宇宙飛行士達の口から出たものであった。

ソ連の飛行士らは、国外を訪問する機会がたびたびあった。勿論、プロパガンダ宣伝が第一目的であったが、その他の事に関しても、思いのほか比較的フランクに語っている。当然、内容には厳しい制限が課されており、しかも、KGBの護衛がぴったりくっついていた。それは飛行士らの安全を確保するためではなく、彼らの亡命を阻むためであった。

1965年4月12日、ガガーリンの有人飛行を祝った記念式典にて、同年3月にレオーノフと共に宇宙飛行を成功させた(開発史3参照)ベリャーエフ飛行士は、「(月飛行への)準備はフルスイングで進んでいる。米国はアポロの進行状況を広く公開しているが、我々もだらけているわけではない。誰が一番乗りになるか、見物となるであろう」と語っている。彼は翌年も、「宇宙船と、月面活動用の宇宙服の開発がフルスイングで進んでいる」と発言している。一方、1966年4月、レオーノフがハンガリーにて、次のようなことを語っている。

「私は、ソ連宇宙飛行士の準備状況について、隠し立てをしようとは思わない。私は、まもなく月に人間が降り立つ様子を目の当たりにすることになると信じている。それがいつかは言えないが、しかし、現5ヶ年計画内であろう。」

ただしそれらは、時期や人員といった定量的なスペック、政治的方向性については一切触れず、第三者的立場での希望的観測に終始している。それ故どうしても曖昧さが残ってしまい、彼らの発言がハッタリなのかマジなのか、西側の人間には判断がつかなったのだ。

ところが。1966年7月、日本を訪問していた飛行士ウラジミール・コマロフの発言は、本国で物議を醸すことになった。

「有人月飛行を急ぐ必要はありません…重要なのは、いかに安全に全てを遂行するかということです。しかし私は、月レースにおいてソ連は米国に負けないと断言できます…。」

彼はこの時、1年後には月着陸を達成するだろうとまで発言している。彼の発言は少々政治的過ぎた…帰国後、カマーニンから激しい叱責を受け、共産党中央委員会でも取り上げられ、“不祥事”として扱われることになった。

このような“リーク”のため、ソ連が月を目指していること、そしてそれが米国とのレースを意識していることはほぼ間違いないと西側の人間も確証しつつあった。しかし具体的なことについてはやはり殆どわからず、物的証拠は相変わらず不十分であったため、断言できない状態が続いていた。


結局、ソ連はL1・有人月周回ミッションも達成せぬまま、68年のクリスマス、米のアポロ8号に先を越されてしまう。この時点でソ連は、LOK宇宙船のモックアップすら完成させていなかった。ソ連の敗因を、カマーニンは次のように分析し、日記にこう残している。

「この敗北の責任は上層部の全ての人間にある…すなわち、マリノフスキー、スミルノフ、ウスチノフ、ブレジネフだ。この国には、宇宙開発計画を統括するマネジャーがいない。ケルディッシュによって率いられる組織は宇宙開発活動をプランニングするはずのものであるが、ここ4,5年全く機能していないのが実体だ。統括された軍事的宇宙開発組織も存在しない。」

「米国に負けた理由はまだある。いま例えば、ウスチノフに『なぜアポロ8号に負けたのか?』と聞いたとしよう。彼はそれをケルディッシュになすり、そのケルディッシュはミーシンを擁護するのは目に見えているが、しかし、ミーシンは任務を遂行するに足りる人物ではないのだ。いや、ミーシンはいないことすらある!」

カマーニンは、日記の中では名指しで非難する(そして、彼に非難されなかったものは、これまたいない)。特にコロリョフ亡き後のミーシンに対するイライラは頂点を極め、糾弾の限りを尽くしている。これまでも度々記したが、ミーシンは酒を飲みながら指揮を執ること多く、(恐らく仮病もしくはアル中で)会議を欠席すること頻繁で、その上指導力と決断力に甚だ欠けていたのだった。そのくせ、宇宙飛行士の訓練を空軍、すなわちカマーニンの手から取り上げようとするなど(開発史25参照)秩序をかき乱そうとするのだから、これほど面白くないことはない。

1969年に入ると、ソ連はいよいよ追いつめられた。年始からこの年は、月計画では最も多忙を極めた年になった。別に進められていたYe−8−5サンプルリターン計画の前倒しが命じられ、また、N1−L3に関しても、大幅な見直しと削減案が提出されるようになった。例えば月着陸船LKの地球周回軌道上におけるテストの省略や、予備のLKと月面車(Ye−8)を予め送り込んでおくというプラン自体の見直しなどである。

一方、LOKとLKの重量問題に関しては、この時点でそれぞれあと5kgずつオーバーしていたため、バイザーなどを取っ払う案が提出されている。

この時、多忙を極めたのは、米国も同じであった。そう、「ムーン・レース」は最高潮を迎えていたのだ。

1969年1月9日、アファナシエフは、アポロ8号に対するリベンジプログラムを検討する一連の会議とは別の会合を設け、N1の最初の打ち上げを2月18日と設定した。もちろん、この厳しいタイムラインに反対する者もいたが、アファナシエフやミーシン、それに他の国家委員会のメンバーらの圧力でその声は封じ込められてしまった。

(下・在りし日の関係者達。左から2番目がワシーリ・ミーシン、その右隣がアファナシエフ。両者とも赤旗を模したバッジを着用しているが、ソ連時代、党や軍の幹部達がこのような身分・階級章をつけた姿はメディアでもお馴染みだった。)

      

第1号機となるN1/3L の準備は、1月中旬から始まった。関わった人員は2300名を数え、燃料を輸送するタンカーは50台を越えた。人員の中には、各地から集められた、若い、平均35〜40歳の兵士らも多数含まれていた。

2月3日、全ての準備は整い、いま正に、射点への移動の瞬間を迎えつつあった。


かつてソ連は、有人月飛行計画の存在を言明することはなかった。

「ムーン・レースは存在しない」と、米国へ宛てた祝電で言い放ったこともあった。

だが、もし当時に帰ることができるのであれば、黙って彼らに見せてみたいものがある。

下の写真だ。

巨大工房で造られたそれは100mを優に超え、アポロ・サターンXに迫る。

直径16mの底に植え並べられた30基のエンジン。ひねり出すのは、サターンを1000トンも上回る大推力。

サターンは巨大で力強く、リフトオフの迫力は何者にも優るが、同時にクールな優等生らしさも感じさせる。

しかし、N1、その姿が放つのは、ただただライバルを叩くためだけに作られた、荒々しい“怪物”の臭いだ。

工房で横たわるその姿は、“眠れる獅子”でもある。

これがまた、独特の魅力を醸し出し、今なお、多くの人々の心を惹きつけてやまない。

組み立て工房に轟音が響き渡る。それは、クローラーを押す機関車のエンジンだ。運転士らは、ぴったりと息を合わせている、そしてそれを、多くの関係者らが見守る。

巣をゆっくりと這い出したN1は、射点へと向かう…。

さあ、怪物様の、お出ましである!

 

N1/3Lは、初段と第2段が濃いグレーで、第3段以上はホワイトで塗装されていた。このカラーリングが更なる迫力を増す。射点に到着すると、巨体は2基の大型ジャッキでリフトアップされる。



最終的な打ち上げ日時は2月20日と定められたが、当日は天候不良のため、翌21日に持ち越しとなった。

ちなみに、この時ペイロードとして搭載されていたのはL3宇宙船システムではなく、ゾンドL1宇宙船の改造バージョン(7K−L1S)であった。


快晴で、冷え込む朝を迎えたバイコヌール宇宙基地 … 気温、−41℃。我々には到底、想像もつかないような極寒の中、多くの関係者らが射点に集合し、グラスを配り合った。全員に行き渡ると、シャンペンがクローラーにぶつけられ、全員で打ち上げの成功を祈った。

ミッションの開始から丸4年…ついに迎えたこの日だった。

巨体に寄り添う整備塔の所々からは、白煙が吹き出している…気化した液体酸素によって冷却された水蒸気だ。液体酸素の沸点は−186℃。タンク内でも常に沸騰・気化を続けており、安全弁から外へと逃げ出している。液体酸素の供給は打ち上げの直前まで行われるが、その間に気化する量は、ざっと20トンを下らなかった。

1969年2月21日12時18分7秒(モスクワ時間。日本時間では同日18時−)、ロケット史上、空前の推力を誇るN1ロケットの初段に火がついた!30基のエンジンがたたき出す推力は合計4590トン、全てはKORDシステムによって制御されている(開発史24参照)。

「ブォォォゴコーーン!!」 

点火と共に射点に響き渡る轟音。一気に吹き出した高温ガスが、排気抜けとして掘られた3本のチャネルを吹き抜けていく音だ。めくれるようにわき出した黒煙に続いて真っ赤な火炎がチャネルから吹き出し、白煙が横に広がり、高々と舞い上がり、濛々と辺りを包み込んでいく。だがまだ離陸はしない!

エンジンパワーが増していく。そして猛烈なる地響き。それは、怪物の足音だ!

10秒そこらが経過すると、ゆっくりと、巨体が宙に浮かんだ!

最大推力!!

現場に居合わせた関係者の1人は、こう言い残している。

「ソユーズロケットの打ち上げに何度立ち会っていたとしても、このN1のリフトオフには興奮を隠しきれない。それは比類無き姿だった。周辺のものは全てガタガタと振動し、吹き放たれる強力な火炎に、誰もがじっとしていることができなかった。よし行け、そら行け、舞い上がれ!!」

           

しかし、この時早くもトラブルが発生した。KORDシステムに無用なエラーが生じ、No.12及びNo.24エンジンの2基を停止してしまったのだ。だが、エンジン系は4基の停止まではカバーできるように設計されている。残りのエンジンは順調に燃え続け、全ては滞りなく進むかと思われた。

(下は離陸直後の3L。脇のタワーをクリアする間もなく、やや病的とも言える角度で傾いているが…?)

     

打ち上げ25秒後、最大空気抵抗(Max Q)を迎えるため、推力が大きく絞られた。これは予定通りであったが、打ち上げ40秒後、予定よりも早く最大推力に戻されてしまった。このため機体に烈しい振動が生じ、液体酸素パイプを破壊、火災が発生した。すぐさまそれは周辺に飛び火し、複数のエンジンが吹き飛び始めた!

テレメトリーを見ていた者達は、恐らく息が止まったことだろう。数値が示す温度上昇は、明らかに火災を示唆するものであった。

打ち上げから70秒後、KORDは全エンジンの停止信号を発した。もちろん、予定よりもかなり早いシャットダウンである…この時、機体は高度27km、力を失ったロケットは落下を始めた。ただ、先端のエスケープロケットは正常に起動し、切り離されたL1Sは射点から約30kmの地点にパラシュートで降下した。

一方、残りは射点から50km離れた地点に墜落した。冷戦後に流れてきた噂だが、この墜落地点で91人が犠牲になったという話がある。あくまで噂の域を出ないが…。

記念すべき最初の打ち上げは、失敗に終わった。しかし、関係者らの間に落胆の声は少なかったと言われている。なにせ、初段の30基を同時に点火したのは初めてのことで、この結果に一応の満足を表明したものも多かった。テレメトリーから不具合に関する貴重なデータも採取され、改良すべき点も明らかになるなど、それなりの結果が得られたためだった。

実はこのロケット、第2段以上はテストスタンドが造られ燃焼試験が行われていたが、初段に関しては、まさしく“ぶっつけ本番”…そのテストスタンドを造る金も無ければ、時間もなかったためだ。

大きな問題点は、KORDシステムそのものにもあった。実際の飛行に耐えられるほどの信頼性を確保したにはほど遠い状態であり、燃焼試験を伴うテストが必要だということもわかっていたが、これもやはり、金も時間もなかった。

一方、ソ連政府にとっては、これで、ムーン・レースに自力勝利する可能性は限りなくゼロに近づいた。アポロ計画がなんらかの致命的な失敗を犯さぬ限り、勝つ見込みはない。この屈辱的結果は到底受け入れがたいものであり、1969年4月、書記長・ブレジネフはミーシンを呼び出すと、「コロリョフの死後3年半、一体何をやってきたのか」と、きつく問いつめた。様々な問題点を並べるミーシンの姿は痛々しいものであったが、ブレジネフは言い訳としか聞かなかっただろう…。

1969年5月29日、2日間に渡る国家委員会の会合で、N1/3Lの失敗原因と、5Lのフライトに関する確認が行われた。次の飛行となる5Lでは、例えばKORDシステムが火災の影響を受けないよう、その配置を変更するなど、3Lの失敗を活かした改良が施されていた。

この会合では、ウラジミール・バーミンがKORDに関して1つの提案をした。彼はN1射点建設の責任者だが(開発史24参照)、リフトオフから15〜20秒程度はエンジンをシャットダウンしないように設定すべきだと主張した。それは、もしリフトオフ直後にエンジンが急停止でもしようものなら、射点で大爆発を起こし、壊滅的破壊を引き起こしかねないという懸念からだった。だが、これも時間と予算の問題から5Lには間に合わず、次の6Lで可能であればということで片付けられてしまった。

だが、バーミンの懸念が現実のものになろうとは、この時点では誰も知らない。

6月18日、ミーシンとカマーニンは、飛行士の候補を選定した。そこには8名が並んだが、筆頭はレオーノフだった。ロシア人として月面に最初に降り立つ人間は彼でほぼ決まりだったが、“全人類の代表”となるのはもはや不可能だった。ミーシンは1970年末には着陸を果たしたいと考えていたが、カマーニンはそれを無理だと思った。

N1/5Lの打ち上げは、7月3日の夜に設定された。それはアポロ11号の打ち上げの、ほぼ3週間前であった。また、前倒しで急がれていたYe−8−5サンプルリターン機の初飛行が同年6月14日に行われたが、プロトンロケットのブロックDの点火に失敗、機体は大きくアーチを描いて太平洋の藻くずと消えた。

この時点で、Ye−8−5の在庫は4機。最速で準備すれば翌週にも新たな打ち上げが可能であったが、現場の士気は低下していた…何せこれで、連続5度目のプロトン打ち上げ失敗だったからだ。誰もが悪い方向へ考えないよう努力したが、しかし、簡単には盛り上がらなかった。


N1/5Lが組み立て工房からはい出した。正確な日時はわからないが、6月下旬と思われる。そもそもミーシンは、ロールアウトを5月30日に予定していた。6月中旬のロンチウィンドウに合わせたものであったが、作業は遅れ、日程はずれ込んでいたのである。

巨体がゆっくりと運ばれる…機関車4台が力強く、クローラーを押す。裾の方が大きいため、先端側から眺めると下のような迫力ある格好になる。

           

            (右画像・2機のN1のうち、手前がN1/5Lで、奥はモックアップ1M1)
 

真っ先に気づくのは、N1/5LのカラーリングがN1/3Lと異なる点だ。5Lは初段と第2段共々、殆ど白で塗装されている。打ち上げ時期が夏であり、内部の温度上昇を防ぐためだったと言われている。

7月2日、モスクワ発の非公式情報が駆け回った。「ソ連が何かスペクタクルなことを企てている」というものであったが、続く情報は「10日にサンプルリターン機を打ち上げるのではないか」という推測であった。

実際この時、Ye−8−5の準備も急ピッチで進められていた。担当するババキン設計局は、激務のピークを迎えつつあった。

一方、西側があらゆる憶測を巡らしている頃、バイコヌール宇宙基地は大勢の関係者でごった返していた。勿論、そのような出来事が進行していることなど、西側の人間は誰一人として思い描かなかっただろう。「その時の様子はまるで大戦時の戦場のようだった」と、基地に居合わせた1人は語っている。

打ち上げ準備は、モスクワ時間・2日午前6時に始まった。その9時間後、燃料の注入が始まり、約2時間後に完了した。また、ペイロードである宇宙船への燃料注入が完了したのは、モスクワ時間・19時であった。

作業は滞りなく進められ、全てが完了すると、射点設備の作業員達には待避壕への避難が命じられた。飛行士やその他政府高官らの見学は、7kmほど離れた見物ポストで行われた。


運命の夜を迎えた。

1969年7月3日23時18分32秒(モスクワ時間。バイコヌールは明けて4日の未明)、30基のエンジンに火がついた!

関係者一同が固唾を飲んで見守る。もはやアポロに勝つことはほぼ絶望的とわかっていたものの、このテストフライトは成功させなければならない。闇夜に舞い上がろうとするN1、アポロに追いすがる怪物!

しかし。点火の僅か0.25秒後、エンジンNo.8の液体酸素ポンプが破裂、同エンジンは停止。僅かな時間をおいて、KORDシステムはエンジンNo.7、19、20を、さらに、No.9を停止した。

そしてついに、KORDは1基(No.18)を残して全てシャットダウンしてしまったのだ!

下はその時の映像。全ては順調に進んでいるように見えるが、離陸から14秒ほど経過したところで爆発的な火炎を一吹きした後、ほぼ全てのエンジンが急停止してしまう。注目すべきはエンジン停止直後の底部で、明らかにあり得ないはずの場所が輝いている。これは、内部で生じた爆発のために側面に穴が開いた結果と考えられる。(動画をみることができます・下記「補足」参照)



くすぶっている僅か一基のエンジンでは、重力に勝てない。1,2秒ほど惰性で飛び上がった後、一瞬静止、そしてゆっくりと落下を始めた。高度は200m程度であろうか。

バランスを崩した巨体は、先端がゆっくりと傾斜を始める…。

その直後、エスケープロケットが起動、フェアリングごと宇宙船を抱えて、彼方へと飛び去ってしまった。

だが、悲劇はここからだった。

ほぼ満載の燃料に火が回り、爆発が始まった。

それは、為す術もなく崩れゆく怪物の悲鳴。断末魔の叫びが、闇夜に響き渡る!



機体は地面にたたきつけられ、大爆発を起こした!

巨大な火球が、周囲を昼のように明るくする。地響きは大地を揺るがし、爆風は2kmも離れたところにある車をひっくり返した。機体の破片は10kmも飛び、400kgの燃料タンクが7kmも先に落下した。衝撃波は40kmも離れたところのガラス窓を割ったと言われている。

バイコヌールには、そこで勤務する多くのスタッフ達の住むアパートが何棟も建っている。現在ではその殆どが廃墟だが、当時は大勢の人々でそれは賑やかだったことだろう。

N1射点からバイコヌール市街地まで、直線で約40km弱。その夜、誰もが目を覚ましたのは間違いない…衝撃波でガラスが割れた部屋も多かった、かもしれない。

爆発は小規模の核爆発に匹敵する、TNT換算で250トン規模であったと言われ、地響きは世界中の高感度地震計でキャッチされたという。

大勢の関係者は、どのような面持ちで一部始終を見ていたであろうか…関係者の1人は、こう言い残している。

「皆、射点の方向を向いていた。そこには高さ100m級のピラミッドがそそり立つ。」

「点火だ!火炎がエンジンから吹き出し、ロケットはゆっくりと地上を離れ始めた。だがしかし、突如として火の玉ができた。誰もが皆、何が起こったのか理解できなかった。黒紫色のキノコ雲が立ち上がったが、そう、それは大量破壊兵器のそれによく似たものだった。」

「ステップの大地はグラグラと揺れ、空気は響き渡り、兵士も職員も皆、凍り付いてしまった…。」

飛行士の1人、ニコライ・ルカビシニコフは、よりリアルに語っている。

「射点でロケットが爆発するのが見えたが、音は聞こえなかった。しばしの“死の静寂”…やがて、エンジンスタートの轟音と、そして、大爆発が轟いたのだ…。」

エンジンの点火音が見物ポストに到達する前に、爆発が起こったのである…なんと惨い。

夜が明けて彼らが見たものは、がれきと化した射点施設とロケット。あたりにはケロシンの臭いが立ちこめていた。幸い、人的被害は出なかったものの、周辺のステップには鳥や動物の死骸が散らばっていたという。

高さ145mの整備棟は大きく仰け反り、180mの照明タワーの1基は完全に崩壊していた。5階層の地下施設は、その半分が崩落していた。ただ、もう一方の射点がほぼ無傷だったのは幸いだった。

「打ち上げから暫くはエンジンが停止しないようにすべきだ」そう進言したのはバーミンだったが、その懸念が現実のものとなってしまったのである…。

事故現場を視察した彼は、射点を作り直すよりも修理した方が時間も費用もかからないとはじいた。しかし結局、完全修復には2年を要することになったのである。

アファナシエフらは早朝より国家委員会を招集し、8ミリ映像とテレメトリー記録を見ながら、失敗原因の検討を行った。彼はまた、ブレジネフ書記長ら党幹部へ電話をし、事の始終を報告した。当然だが、彼らの反応は厳しいものだった。

4日、カマーニンは「日記」に、次のように書き記した。

「昨日、N1の2回目の打ち上げが行われた。私はそれが飛ばないであろう事を確信していたが、しかし同時に、成功への望みを微かに感じ始めていたのも確かだった。だが我々は、今や、数日内に米国が月着陸を果たすであろう事に絶望を感じている。全ての希望は、僅か5秒後の大爆発で跡形もなく吹き飛ばされてしまった…計画は、1年半かそれ以上後退することになるだろう…。」

1ヶ月後、米国の写真偵察衛星「KH−4 コロナ」が上空を通過、撮影を行ったところ、そこには焦げた地面と倒れたタワーが映し出されていた。CIAの内部資料では「J−ビークル」と呼ばれていたN1が大爆発をしたのは、明白だった。

後日、引き金となったNo.8エンジンのポンプ破裂は、配管に取り付けられたセンサーに関する金属片が外れ、吸い込まれたためだったことが判明した。

もはや、ソ連に残された希望は、サンプルリターン機しかなかった。


無人サンプルリターン機「Ye−8−5」の準備が進められた…このミッションは、成功させねばならない。これが成功すれば、いち早く月の土を手にしたとしてソ連は大いばりできる。

「人間が月へ行くという危険行為を犯さなくても、こうして資料を手に入れることができるではないか!」

…そう、うそぶくこともできるだろう。しかも、アポロ11号が失敗すれば、尚更だ。

ババキン設計局はフル回転で準備を進めていたが、しかし直前になって、やっかいな問題に直面した。Ye−8−5(右)の地球帰還ステージ(上段)の重量が、設計では512kgのはずだったのに、実機は513.3kgだったのだ。

なんと、Ye−8−5まで、重量問題に呪われていたのである。

この約1.3kgのオーバーをクリアするため、ババキンは補助の送信機を外すことを決めた。バックアップ送信機無しという状態は通常あり得ないことであるが、もはやそんなことを言っている余裕はなかった。

7月13日午前5時54分41秒(モスクワ時間)、バイコヌールよりプロトンロケットが打ち上げられた。それまで連続5回の失敗に、関係者はみな不安を隠しきれなかったが、今回はパーフェクトに進み、Ye−8−5は予定通り、月遷移軌道へと投入された。ソ連はそれを「ルナ15号」と命名、月周辺環境および重力場、月面岩石の調査が目的であると発表したが、「岩石を持ち帰る」等とは一言も言わなかった。

しかし、その発表の不自然さにいち早く気づいた連中がいた。あの、ジョドレルバンク電波天文台だった!

たびたび述べたように、彼らはソ連の衛星シグナルを漏らさず傍受していた。このルナ15号も例外でなく、彼らは早速追跡を始めたが、すぐにそのドップラーシフトが過去のルナよりも小さいことに気づいたという。

シフトが小さい、すなわち速度が出ていないのだ。周回軌道投入の燃料を節約するためと彼らは結論づけたが、これは衛星本体の重量が重い、つまり、複雑なマシンであることを意味した。また、17日に周回軌道へ入った際、それまでのルナとは違い、月面に非常に近い楕円軌道を描いていることに気づいた。しかも、これまではミッションごとに軌道の概要を発表してきたが、今回は何ら発表をしなかった。

そして決定的だったのは、それが送信してくるテレメトリーデータ量が、かつてなく大量であったことだった。

このようなことから、ジョドレルバンクを始め西側は、ルナ15号を新型機と結論づけた。この月の上旬には噂があったこともあり、彼らはソ連がサンプルリターン機を飛ばしたものと確信したのである。

だが、世界の目は、ソ連に全く向いていなかった。3日後の16日、アポロ11号が地球を出発したのである。


ここに、ついに実機によるムーン・レースが始まった…焦点は「どちらが先に月の石を持ち帰るか」という点にある。この時点では、ルナ15号の方が僅かに早く、地球に帰還することができるプランであった。無理矢理とはいえ、多くのトラブルを抱えながらも間に合わせたソ連技術陣の能力とチームワークは、さすがと言わざるを得ない。

17日、ルナ15号は月周回軌道へと入った。その後2度の軌道修正が予定されており、1回目は18日に近月点16kmの軌道へ、2回目は19日、着陸地点の経度を定めることだった。特に1回目は正確さが要求され、投入軌道が高ければ逆噴射燃料が足らず、低ければ減速不十分で月面に激突してしまうことになるのだった。

だが、ここまで来て予定外の事態に遭遇した。高度計の値が落ち着かない…それを見る限りでは、地表はおよそなめらかとは言い難い状態と考えられるのだった。

仕方なく、あと3日ほど周回し、目標とする地点の情報収集に全力を挙げることになった。エンジニアらは高度計のデータを頼りに、全てを定めていった。19日、注意深くマニューバが行われ、翌20日、近月点16kmの予定軌道への投入に成功した。

この時、アポロ11号は月周回軌道にあった。さすがにもう、メディアはルナ15号を無視しない。むしろ、格好の素材として扱った。

「アポロ11号からはライブ中継が行われ、アームストロングとオルドリンは着陸プランについてカメラの前で話し合っているというのに、あの無人機は月を回っているばかりである。ひょっとしたらソ連機は、11号に有事が生じた際、救援に舞い降りるのではないだろうか、とすら思われなくもない。このドラマ、TVプロデューサーにとっては喜ばしいことだ。」

…ある英国のメディアはこのように伝えた。

しかしドラマの当事者であったNASAにとっては、全然喜ばしいことではなかった。ルナ15号とアポロの軌道が不用意に交差しないかという懸念があったのだ。だが幸いにも、この時ちょうどソ連を訪問していたフランク・ボーマン飛行士がモスクワで収集した情報により、不安は大きく軽減されることになった。

7月20日、最後の軌道修正をルナ15号を行ったが、世間の関心は集めなかった。アポロ着陸まで残り6時間を切っており、人々はメディアが映し出すライブに釘付けになっていたのである。


7月20日午後20時17分(世界時)、モスクワ時間では午後23時を回った深夜、アポロ11号は「静かの海」へ着陸した。だが、ルナ15号はまだ周回を続けていた。予定ではアポロ着陸から2時間もしないうちに着陸するはずであったが、未だに月面の状況を完全に把握しきれておらず、結局、あと18時間延期することが決定されたのだ。

もちろん、ソ連がイライラしている間に、アームストロングとオルドリンは月面活動を着実にこなしていった…。

21日午後18時47分(モスクワ時間)、ルナの逆噴射エンジンにコマンドが送られた。ルナ15号はなめらかに降下を開始した。着陸は、降下開始から6分後が予定されていた。

この時、アポロクルーが月面を離れるまで残り2時間を切っていた。

しかし。降下開始4分後、それまで順調に送られてきていたビーコンが突如、停止した!月面まであと3kmを残すだけの段階だった…その後、二度とシグナルが受信されることはなかった。

後日の考察では、想定外の山腹に激突した可能性が最も高いと結論づけられた。インパクトポイントは北緯12度、東経60度。皮肉にも、そこは「危機の海」と呼ばれている地域だった。

タス電は、「ルナ15号は全てのミッションを完遂し、月面の予定されていた場所に到達した」と発表した。“到達した”という言い回しは、こうしてみると苦しい言い逃れである。

ただ、もし仮に18時間の周回延長を行わず、予定通りの降下、サンプルリターン、地球帰還、全てが完璧に進んだとしても、ルナ15号の地球帰還はアポロ着水の2時間後であったことがわかっている。


N1/5L事故の調査と原因究明は、70年7月までかかった。射点は修復が行われたが、次のフライトが行われたのは2年後の71年6月だった。

N1は、全部で4機がフライトに挑んだ。3機目(N1/6L)は1971年6月26日、4機目(N1/7L)は1972年11月23日に打ち上げが行われたが、共に初段燃焼終了前に分解、爆発を起こしてしまった。

もはやムーン・レースという視点に立つと、この辺の興味は急速に薄れる。ここでは各ミッションをごく手短に要約しておくにとどめ、詳細はまた別の機会に扱うことにしよう。

1971年6月26日(N1/6L) 失敗
それまでの機体と異なり、かなりの改良が加えられていた。燃料ラインにはフィルターが挟まれ、余計な金属片などがエンジンへ行かないように施されていた。底部の形状に変更が加えられ、エンジンルームを低温に保つための換気装置と冷却装置が追加された。機体の外装は白で塗装されたが、これは5Lと同様の温度対策だった。

離陸直後、エンジン後方でのスリップストリームにより回転が発生。やがて補正できないほどのロール回転が生じ、MaxQフェーズで分解してしまった。打ち上げから 50.2秒後のことで、機体は安全地帯に落下した。全てのエンジンは正常に機能し、分解直前までシャットダウンは起こらなかった。

1972年11月23日(N1/7L) 失敗
6Lで発生した回転を止めるためのステアリングエンジンが追加されるなど、更なる改良が加えられた。離陸後106.9秒後に爆発したが、これは燃焼終了の7秒前だった。振動により燃料ラインへ加わる過負荷を避けるためのプログラムが作動し複数のエンジンが停止し、その上、No.4エンジンが爆発した。

この4号機はデジタルガイダンスシステムが搭載された。「S−530」コンピュータが搭載され、N1のみならずLKやLOKも制御下においた。テレメトリーも膨大な量で、32万チャンネルを14の周波数で送信。総レートは毎秒9.6ギガバイトで、そのハイスピードには米国の傍受衛星も追いつくことができなかったと言われている。

また、ペイロードとして実機のLOKが載せられていた。この飛行で宇宙空間におけるLOKの性能チェックが行われる予定であった(LKについては脚注を参照)。

− −

詳細は割愛するが、ミーシンは1970年、N1−L3システムとは異なる「N1−L3M」プランを正式に提案している。

L3Mはそれまでの月軌道ランデブー方式とは異なり、直接月面へ着陸し、帰還時には上段のみが離陸するという方法を採った。これは、コロリョフが初期の頃に考えていた「L−3」プランに似ている(開発史22参照)。つまり、古い方法に後戻りしたのだが、彼は、N1上段を液酸・液水エンジンに置き換えることで実現できると踏んでいた。

月軌道を周回しながら、着陸船(LK)のみが降下する月軌道ランデブー方式を断念したのは、1969年10月に行われたソユーズ7号と8号のドッキングミッションを評価した結果だった。ドッキングと飛行士の移乗に成功したものの(開発史12参照)、それそのものが既に大仕事だったのである。

また、当時のソ連の技術では、ドッキング技術自体がまだまだ未熟であったのも理由だった。

L3Mプランは1972年5月に承認され、着陸機はモックアップまで作成された(上図はコンセプトスケッチ。左は構想初期のデザインで、右はその改良版)。

この時、ミーシン設計局は激務の極にあった。ソユーズ宇宙船の改良も並行して続けていた上、N1を飛ばし、更に、L3Mを企てていたのだ。しかもこの上、宇宙ステーションプログラムまで抱え込んでいたことも忘れてはならない。特にN1とステーションを巡っては、設計局幹部を二分するという、分裂状態に陥ったこともあった。

一方、ミーシンに対する包囲網は狭まりつつあった。「一体奴らは、何をやっているのだ!」…巨大ロケットの4回もの連続失敗はさすがに深刻で、1973年2月、一般工業機械省大臣アファナシエフはミーシン設計局の大規模な強制調査を部下に命じた。これは、ミーシンに対する目に見える形での批難でもあった。

更にこの年、ボリス・チェルトックを始めとした設計局幹部達は連名で、ミーシン解任を求める要望書をウスチノフに提出している。


ミーシンは、政治の中枢である共産党政治局に対してアピールを続けていた。彼は、N1ブースターは宇宙ステーション建設にも最終的には有益であるという主張を繰り返していた。また、N1エンジンを担当していたニコライ・クズネツォフと連続失敗の責任を連座することで悪印象を和らげようと画策したが、さほど効果があるものではなかった(クズネツォフに対する風当たりも厳しかったため、連座することで彼を擁護しようと考えたようである)。

1974年3月下旬、彼らはブレジネフ共産党書記長に対し、N1とステーションに関する今後の計画を提出したが、書記長はその評価をウスチノフに委ねた。ウスチノフはグルシュコにそれを見せたが、グルシュコはN1のエンジンがどうのこうの言う以前に、初段に30基も束ねたこのロケット自体に無理があると切り捨て、代わりに別のハイスラストエンジンの提案を出した。

この後、全ては秘密裏に、かつ迅速に進められた。4月のある日、ミーシン設計局のごく少数の幹部が招集を受けた。当然だが、誰もその目的を知らなかったし、ミーシンの姿はそこになかった。

彼らは一室で、テーブルに着席して待っていた。すると突然入ってきたのは、アファナシエフとグルシュコだった。その時居合わせた、ミーシンの側近の1人は、こう語っている。

「我々は全く何も知らされずに集められた。部屋で待っていると突然ドアが開き、入ってきたのはアファナシエフとグルシュコだった。アファナシエフは第一声『おはよう、同志諸君!』、続けて『政治局は、ワシーリ・ミーシンを解任し、ワレンティン・グルシュコがその任を負うことを決定した。また、ミーシン設計局は“エネルギア”と改名する。以上である。諸君、頑張ってくれたまえ。』そう言い放ち、部屋を出て行ってしまった。あっという間の出来事で、我々は何が起こったのか、にわかには理解できなかった…。」


1974年5月2日、全てのN1計画の作業停止が決定された。全てを動かしたのは国防大臣ウスチノフ。彼は他の大臣連に同意を求め、N1の擁護者であったケルディッシュも最終的に同意したのであった。19日、現場に対し作業停止がグルシュコによって指示されたが、その時ミーシンはまだ設計局長だったのが哀れである。

5月22日、ミーシンは正式に更迭された。同時に、彼とグルシュコの設計局が合併され、「NPOエネルギア」としてスタートすることも決定した。グルシュコ、この時、65歳。ソ連のロケット事業のほぼ全てを掌握したのであった。

ミーシンは冷戦終結後、この時のことを次のように語っている。

「全く、私をクビにするという話は、寝耳に水だった。党中央委員会に呼び出され、ウスチノフ曰く、「書記長から『今までご苦労であったと伝えて欲しい。今後の配属先については協力するよ』とのことだ」と聞かされたのだよ…。」

グルシュコの最初の仕事は、全てのN1およびその関連計画に終止符を打つことだった。NPOエネルギアの総帥として下した最初の命令書は、N1−L3計画の無期限停止を命じるもので、6月22日のことだった。無論、事実上の打ち切りであり、現場関係者は全く考えもしなかったことで、激震に打ち拉がれた。N1は確実に向上しており、むしろより強いサポートが得られるものと誰もが確信していたと言われている。

打ち切りの正式決定は8月13日に出されたが、これは党の会議も経ない、グルシュコの単独行動であった。

クレムリン壁に眠るセルゲイ・コロリョフ親方。彼のまぶたの奥に、この日はどう映っただろう…。

かつて、親方の怒鳴り声が響き渡っていた開発工房は静まりかえり、数々のモックアップやできかけの機体の傍では、人々が暗い影を落としていた。配属されたばかりの若い者もいれば、N1と共に人生を歩んできたベテラン達もいる。

「建造中の全ての機体を解体、破棄せよ」

グルシュコの命令に、涙を流した者も多かったといわれている…。


ただ、機体を解体するのはこれまた大仕事であり、全てを実行するのは不可能だった。単体のケロシンエンジンとしては素晴らしい性能であったNK−33エンジン(補足2参照)もグルシュコは廃棄を命じたが、しかしクズネツォフらは“放射性物質マーク”の描かれたシートを被せ、工房の奥の、普段は目につかないところに隠した…隠したといっても、その数は50に上る。一方、LK宇宙船などもほぼそのままの形で隠された。(右はNK−33とクズネツォフ)

ちなみにエンジンは、それから20年も経過した後、工房を視察に来ていた米国のエンジニアらによって“発見“され、広く世に知られることになった。米エアロジェット社は36基を買収し、95年11月に燃焼試験を実施、その目を見張る性能に驚愕したという出来事は、よく知られた話である。

(同社は現在、「AJ26-58」と名称を替えて販売している。また、かつて我が国のNASDA(現JAXA)がGXロケットの開発において、同エンジンの採用を検討していた。)

設計局長を解任されたミーシンはその後、エネルギアの敷居を跨ぐことすら許されなかった。また、N1ミッションを含む、宇宙開発に関する全ての事柄を公に語ることを固く禁じられた。

暫くは職が無かったが、まもなく、ブレジネフの推薦でモスクワ航空工科大学の教師職に就き、余生をそこで過ごした。彼が再び表舞台に登場するのは、冷戦終結、そしてグルシュコがこの世を去った後の、1989年である。


1960年代、ソ連のGNPは米国のそれの半分弱だった。66年から70年にかけ、ソ連は宇宙開発にGNPの約1.25%、ピーク時には55億ドルが注ぎ込まれたと言われ、N1関連予算はこのうちの約20%を占めていたとされる。

一方、米国はアポロ計画だけに、総額250億ドル以上を費やした。予算に、そして人員にも桁違いの差がある中、ソ連はここまでやったのだから、それは確かに凄いことである。

「もしコロリョフが生きていたら、N1を完成させていたか否か?」

この命題には、意見が分かれる。レオーノフやチェルトックは「最終的には完成させていたに違いない」と語る一方、ニキータ・フルシチョフの息子で、チェロメイの下で働いていたセルゲイ・フルシチョフのように「コロリョフは結局、解任されていただろう」と否定的な者もいる。

ソ連と米国が繰り広げた「ムーン・レース」。このレース、軍配はアポロに上がり、当時の名残はスミソニアン博物館やケネディ宇宙センター、それに、月面に残されている。博物館やセンターに残されたものには多くの解説ボードがつき、ツアーともなると、コンダクターが解説を添える。

月面に残された物品はまだ見ることができないが、今後送られる予定の月探査機が現在の姿を見せてくれるに違いない。その時、「アポロは本当に月へ行ったのだ」と、我々は再認識することになるのかも知れない。

一方、バイコヌール宇宙基地には、今でも所々にN1の姿を見ることができる。しかし、解説ボードなど存在しないし、気に留める者もいない。

見学ポストの屋根に改造された機体の一部。貯蔵庫に改造された燃料タンク。野ざらしにされた残骸。

言われなければ、これが巨大ロケットの一部だったことなど、わかるものでもない。タンクが湛えるのはケロシン、液体酸素であり、雨水ではなかったはず…アポロの好敵手としては余りにも哀し過ぎるこの姿…。

       


※補足1
ここでは取り上げなかったN1/4Lであるが、これはそもそも実機として建造され、1967年5月、射点に移された。だが、直後に初段の液体酸素タンクに亀裂などが見つかったため工房へ戻され、上段はモックアップ1M1に転用、初段は解体された。そもそも4Lが最初のフライトに臨む予定だったが、このアクシデントのため、3Lが初飛行になったと言われている。

※補足2
グルシュコがN1計画打ち切りと全ての廃棄を命じたとき、2機のN1がほぼ完成していた。打ち切りが党のプロセスに乗っ取った形で正式決定されたのは1976年5月であった。完成していた2機のN1は「N1F」と呼ばれた増強型であり、初段のエンジンはNK−15の増強型であるNK−33であった。

※補足3
月着陸船「LK」の宇宙空間における性能チェックは、独立した形で行われた。それは「コスモス衛星」としてプロトンロケットで地球周回軌道へ打ち上げられ、「T2Kテスト」と称し、様々なマニューバテストがなされた。以下はそのリストである。

コスモス379 1970年11月24日
コスモス398 1971年 2月26日
コスモス434 1971年 8月12日

最後のコスモス434は1981年8月22日に大気圏へ突入したが、その4年前の77年、カナダにソ連の原子力衛星が落下した事故があったこともあり、ちょっとした騒ぎになった。突入はオーストラリア上空であったが、その際ソ連は「ムーン・キャビン(moon cabin)の実験機だ」と報じ、かなり曖昧ながら、月を目標にしていたことをほのめかした。

一方、エンジン「ブロックD」のテストも行われた。

コスモス382 1970年12月2日

テストでは月遷移軌道への投入、軌道修正、減速降下などのシミュレーションが行われた。西側は衛星の軌道変更の様子を追跡しており、その特徴から明らかに月を意識したマニューバ試験を行っていることを感じ取っていたといわれる。

※補足4
N1/3Lの打ち上げ動画を以下で見ることができます。
http://www.ninfinger.org/~sven/models/n1video/n1v4.html

N1/5Lの打ち上げ動画は以下で見ることができます。
http://www.mondwettlauf.de/html/mediathek.htm#video
http://www.youtube.com/watch?v=m79UO4HOQmc&mode=related&search=

You Tubeで、“N1 rocket”などのキーワードで検索すると動画を探すことができます。
例えば http://www.youtube.com/watch?v=4Xc87zr9PI4

2006年3月(同年8月に再放送)にNHKで放映されたBBCドラマ「宇宙へ!」第4話。N1の打ち上げ失敗シーンがありますが、その際、ミーシンの脇にあるモニターが映し出していたN1のファールバックシーンやその後の爆発は、5Lの実際の映像を用いたものです(YouTubeにUPされている動画はこちら)。同ドラマはDVDでも販売されています。

※補足5
アメリカでは模型ロケットの打ち上げが盛んで、専用の“花火エンジン”も販売されています。次のサイト「Moon Race 2001」は模型でムーン・レースを再現したパロディですが、その程度は趣味の域を超えています。http://www.moonrace2001.org/

驚くのは、高度1500mまで飛翔することだけでなく、センサーも載せられており、加速度や高度などもリアルタイムで計測されていることです…もはやプロの域ですね(笑)。動画を見ることができます。(注: 9・11テロ以降、エンジン販売に制限が加えられたという話も聞いたことがあり、この趣味界の最近の動向を筆者は知りません…)


【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
Computing in the Soviet Space Program http://web.mit.edu/slava/space/index.htm
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Soviet and Russian Lunar Exploration” by Brian Harvey, Springer Praxis, 2007
「月を目指した二人の科学者」的川泰宣著 中公新書(1566), 2000
“Lunar Exploration” by Paolo Ulivi, Springer Praxis, 2004