Red Apollo - Low Price, High Risk

ソ連の有人月着陸計画は、慢性的な資金不足の中で行われているものだった。今一度認識すべきは、1960年代中盤以降、ソ連はウォスホートやソユーズなども平行して進めていたことだ…もちろん、ソユーズは月計画でも用いるものでもあるが。ソユーズ宇宙船への取りかかりはそもそも早かったのだが、ウォスホートで予想以上に手こずり、第1設計局の人材も資金もそちらに吸われた結果、開発ペースが鈍くなったということも忘れてはならない(開発史6参照)。

この辺は、まっすぐ月を目標にしていた米国との大きな違いである。ソ連のウォスホート2号が宇宙遊泳のためだけに作られたものだったのに対し、米国のジェミニは“月への道”を走る一連の宇宙機で、米国初の宇宙遊泳も、その途中のちょっとした道草に過ぎなかった。

アレクセイ・レオーノフは、煙突型のエアロックに入り、外へ飛び出し、膨らんだ宇宙服と格闘、命からがら戻ってきた。だが、エド・ホワイトは、船内のエアを抜き、ハッチを開けて外に飛び出しただけだったのだ。

ソ連の有人月着陸計画が「月軌道ランデブー方式」という、アポロ計画と同じスタイルに変更され、N1ロケットに大幅な仕様変更が行われたことは前回述べた。当時の予算状況では年に4機のN1を打つのが精一杯で、複数のN1を用いて軌道上でロケットを組み立てる「地球軌道ランデブー方式」では間に合わなかったのだ。

その辺の経緯を、もう少し補っておこう。

月軌道ランデブー方式は、N1の大幅な増力を要求した。再計算の結果、最低でも100トンのペイロードを打ち上げるパワーが必要と判明したが、ペイロードを95トンに抑え、初段を30基とし、更に飛行トラジェクトリを工夫することで対応可能と判断したのは、コロリョフだった。

だが、N1の上に乗るL3ステージの開発を始めて間もなく、95トンでは甘かったことが明らかになった。第1設計局では議論が続いたが、ミーシンは「とにかく作ってみよう」という主張で一貫していた。彼は、ミッションがうまくいこうがいきまいが、将来の宇宙開発を見据えると、やること自体に意義があると考えていたようである。

一方、N1の第2、第3段を液酸・液水に変更すべきだという主張する者もいた。しかし、当時のソ連にはそれらを扱う技術が存在せず(ソ連で最初の液酸・液水のテストは1967年6月)、また、着手しても間に合わないと判断された。もちろん、ヒドラジン燃料への妥協も提案されたが、あっさりと却下されている。

この時点で最も深刻になったのは、そう、重量の問題であった。「マズイ…どうやって重量を減らそうか…」 コロリョフが部下に頭をひねらせ、懸賞金までかけたのは、追いつめられていることの表れでもあった。さすがの彼でも、増強型N1でもパワーが不足することを、いまさら上層部に報告できなかったのだ。

だが、1966年1月、難しい“宿題”を後進に残し、コロリョフは他界してしまう。親方を失った現場は最初の数ヶ月は混乱し、後継者がミーシンと決まったものの、誰もが慣れない状態でギクシャクしていた。重量問題はもちろん解決せず、ダラダラとした検討が続いていただけだった…。

その、N1の上段に載せるL3ステージについて簡単にまとめておこう。



ソユーズ7K−LOK

ソユーズ7K−LOKは飛行士らが乗り込んで月へ向かうための、いわゆる母船であり、アポロ計画でいう「CM」(Command Module)に相当する。これはソユーズ宇宙船の派生型の中で最も大型のものとなり、いくつかのブロックに分かれているが、以下は主なものを簡単にまとめたものである。
            
SU/DOK
月着陸船(後述)とドッキングする部分で、3本の金具が飛び出しており、これで月着陸船の天井(網目構造)にささり、中で広がりロックする。極めて単純な仕組みだが、ガッチリと両者を繋ぐことができる。また、この周囲には24基のスラスターが取り付けられており、地球周回軌道から月遷移軌道へ移行する際などに吹かされる。6基の球形タンクから燃料が供給される。

BO
「居住モジュール」と呼ばれる部分で、通常のソユーズ宇宙船では「軌道モジュール」と呼ばれる部分。軌道モジュールと異なるのはそのサイズで、球が潰れ、細長い形状をしている。前方には丸いのぞき窓が着いており、月着陸船とドッキングする際に相手を直視できる。また、このモジュールは飛行士が外へ出る際のエアロックの役割も果たす。

SA
「帰還モジュール」であり、これはL1計画(ゾンド)で用いられたものとほぼ同型である。ただ、底部耐熱シールドが若干厚く、また、ハッチが2つあったことが、L1カプセルとは異なっている。2つのハッチのうち1つは飛行士が出入りするためのもので、もう1つは直接外宇宙とアクセスするためのものだったと考えられている(L1では、この2つ目のハッチの部分には補助パラシュートが備えられていた)。

2人の飛行士が両端に座り、中央には追加の生命維持装置、月面で使用する宇宙服が備えられた。月面で採取した岩石などを格納する容器もあった。

PO
ここには姿勢制御スラスターに加え、通信機器やガイダンスシステムが格納されていた。特にガイダンスシステムはデジタルコンピュータが導入され、L3システム全体を統括していた。

Block I
後部エンジンモジュールで、「ブロック I」と呼ばれる部分。ここには2種類のエンジンが備えてあり、1つは月周回軌道から地球遷移軌道へ移行する際に吹かすもの(S5.51エンジン)と、細かい姿勢制御を行うための小型エンジン(S5.53エンジン)であった。

燃料はヒドラジン/四酸化二窒素で、直径1.9mの大型タンクに積まれていた。また、16個の小型スラスターが底部に備えられていた。

ブロック I の底部には電源装置が格納されていた。この宇宙船には太陽電池が見あたらないが、実は燃料電池で電力が供給されるようになっていた。この辺もアポロと同様で、LOKの場合、1基70kgの電池が4基備えられ、合計で27V・1.5kwの電力を500時間生み出せるように設計されていた。必要とされる酸素と水素は計600kgで、生じた水は飛行士らの飲用水として利用された。

ちなみに、ソ連/ロシアの宇宙開発シーンで燃料電池が用いられたのは、この時と、1980年代のソ連版シャトルの時だけである。

月着陸船 LK

「LK」とは、“Lunniy Korable”(lunar craft)の略で、アポロ計画の「LM」(lunar Module)に相当するもの。パッと見ると形状は似ているが、なにぶんN1の能力がサターンXの7割程度のため、徹底した軽量化が図られ、アポロLMの約3分の1の重量しかない。この小さなサイズでは、飛行士は1人しか乗ることができず、また、アポロのようにドッキングトンネルをつけることもできなかった。それ故、天辺に金網を取り付け、これにLOKの先端が刺さるという単純な方法でドッキングする以外無かった。

当然だが、飛行士はLOKとLKの間を宇宙遊泳で移乗する。LOKからLKへ乗り移る場合は、まず居住モジュールから外へ出てL3フェアリングまで辿り着き、ハッチを開けて中へ入り、LKに乗り込む。逆に、月面から離陸し、LKからLOKへ帰る場合は、LOKの先端にドッキング後に外へ出て、居住モジュールへと乗り移る。

かなり面倒なやり方だが、こうする他なかった。これがアポロだと、ドッキングトンネルで貫通しているので、行き来は自由なのである。

なお、1969年1月に行われたソユーズ4号、5号のドッキングと宇宙遊泳による乗員移乗は、このLKへの乗移プロセスのチェックの意味もあったという。本来これは1967年1月、ソユーズ1号と2号の間で行われる予定だった(開発史6参照)。だが、ソユーズ1号のトラブルと墜落により計画は大幅に遅れ、1969年になってしまったのである(開発史11参照)。

LKの開発プロセスを少し眺めてみよう。

N1−L3ミッションは、第1設計局にはとても大きすぎるプロジェクトだった。そこで第1設計局は全体のマネジメントを担当し、いくつかの部署に仕事を振り分けることになった。例えばLKの「ブロックE」(後述)はヤンゲルの第586設計局、という具合だ。

N1−L3のデザインがまとまったのは1964年12月30日で、翌65年1月26日、16セットのL3ステージとN1の建造許可が下りた。具体的な進行は、66年に4セット、67年に6セット、68年に6セットというものだった。最初のN1打ち上げは66年の第一四半期が予定され、最初の月着陸は67〜68年にかけてが設定された。

ところが。当初のスペック見積もりに致命的なミスがあることが判明する。

担当していたチームは若い、生き生きとした技術者達であったが、若さ故に非現実的な仮定を行い、それに基づいた計算をしていたのだ!例えば軟着陸に必要なΔVとして、実際は200〜300m/sが必要であるところを、設定値は僅か30〜40m/sだった。また、ブレーキアングルとして30°を見積もっていたが、これでは高度計が地表を検出できないのだ。

どうしてもっと早く、誰か気付かなかったのだろう。

この誤った数値を基に、LKは重量2トン・2人乗りと設計されていた。だが現実には、5.5トン・1人乗りになってしまったのである!この痛恨のミステイクが、後々まで尾を引くことになった。

繰り返しになるが、これが、コロリョフに懸賞金という策を引き起こさせた。

そしてこのミスは、あらゆる方面へ影響を及ぼした。例えば着陸レーダーの開発は、最初に克服しなければならない課題だった。LKがLOKから切り離され、ブロックDにより減速、さらに同ブロックを切り離した後の高度計測は正確に行われねばならないもの。高度データがエンジンのコントロールを左右するからだ。

この正確なエンジンコントロールは、これまた繰り返しになるが、燃料の節約すなわち重量の軽減へと結びついている。

とにかく、減量、減量、減量、搭載重量の削減が至上命題だった。

その他、様々な問題を克服せねばならなかったが、中でも気を遣わねばならなかったのは、重心の位置だった。狭い空間にゴテゴテと器機を詰め込み、それに、人間が入る。エンジンスラストの中心が僅か30ミリずれても、安定した飛行の保証ができなかったという。特に重量を食う電池、それに燃料タンクの配置やその形状までもが細かに検討されたと言われている。

さて、こうして出来上がったLKの仕様を簡単に列挙してみよう。

右はLKを正面から見たものだが、上半身がキャビンで、下半身が着陸脚(上で載せた図も参照)。月面から帰る際は上半身だけが離陸するのだが、そのとき下半身は発射台の役割を果たす。このあたりはアポロと全く同じだ。

そのキャビンの重量は、月面離陸時に約1130kg。このキャビンを上昇させるエンジンが「ブロックE」で、このブロックのみの重量は2670kg。従って、離陸時の機体の全重量は約3.3トン。キャビン内部は約0.74気圧のエアで満たされ、加圧・減圧は飛行士が独断で行うことはできないようになっていた。

当初、キャビンを純酸素0.4気圧で満たす案があったが、火災などの懸念により、混合気体0.75気圧に変更された。だが、これは2倍の厚さの壁も要求し、大きな重量増の一因となった。

飛行士はキャビンの中央に立って乗り込む。重要な操作は右手で、そうでないものは左手で操作できるようにパネルも配置されていた。飛行士は立ったままの状態を維持しなければならず、それゆえ、フットスイッチなどが使えなかった。必要なコントロールは全て手元で行わねばならず、ハンドルやスイッチ類のレイアウトは試行錯誤がかなり行われた。

キャビンの中央には、やや下向きに円形の窓が取り付けてあり、これを通して飛行士は月面を目視する。また、その上方に小さな窓もつけてあるが、これは、離陸・LOKに接近、ドッキングする際に用いるもの(下写真)。

           

なお、キャビンが樽のような形をし、不自然な凹みが加えてあるのは、打ち上げや軌道修正などの際のGに耐えるための工夫である。

天辺にはドッキングのための金網と、L3シュラウドから抜け出すためのスラスターなどが装着されている。

次に、エンジン「ブロックE」はキャビンの底部につけられており、着陸の最終局面、および、離陸時に活躍する。ブロックEの全重量は2950kgで、うち燃料は約2400kg。燃料消費は着陸時に280kg、離陸時に2100kgが設定されていた。使用エンジンはRD−858を1基(第1エンジン)とRD−859を2基(第2エンジン)。着陸時、全てのプロセスが正常の場合、第2エンジンを切り、そのままゆっくりと月面に降りる。だが、何らかの異常が発生しアボートとなった場合は第1エンジンを切り、第2エンジンで離脱、帰還コースに入る。

ちなみに、各エンジンノズルにはフタがとりつけられており、着陸の際に巻き上がったダストがエンジン停止後に入らないよう、すぐさま閉じるようになっていた(写真・右上)。

一方、下半身の着陸脚であるが、長さ2.5mで、質量中心軸から30°の角度で開くようになっている。下半身には、帰還時には不要となる装置が全て載せられている…例えば高度計、地球に画像を送るパラボラ、電源の一部それに冷却システムの水タンクなどである。また、脚には小型固体ロケットが装着されており、着陸の瞬間に噴射し、ショックを和らげるようになっていた。

これらL3ステージ一式をアポロと並べてみると、その違いがよくわかる。

            

やはり、アポロの方がシンプルで機能的に見える。アポロLMはよく知られているように、打ち上げ時は機械船の下に格納されており、軌道上で引っ張り出す仕組みになっていた。米国は、米国の飛行士らは、既に高度なマニューバとランデブー技術を要していたためにこの形が実現できたといえる。


打ち上げから月面着陸までのプロセスも簡単に見ておこう。

バイコヌール宇宙基地から発射されたN1は、高度220kmの地球周回軌道へL3ステージを乗せる。

続いて、N1のブロックGに点火し、月へ向かう軌道、即ち月遷移軌道へと乗る。ブロックGはその後切り離し、軌道微修正などを行いながら月を目指す。軌道修正はブロックDの噴射で行われる。

打ち上げから4日後、月に近づくと再びブロックDに点火、減速、その重力に捉えられ、月周回軌道に入る。

続いて、LOKからLKへと飛行士の1人が宇宙遊泳で移乗する。器機をチェックし異常がないと確認された後、LKとブロックDはLOKから切り離される。

    

上は月面へアプローチする際のプロフィール((C)MarkWade)。ブロックDは全力噴射を行い、100m/sまで減速する。ブロックD燃焼終了時に、月面から高度4km。

終了したブロックDは切り離され、月面へ激突する(図・水色ライン)。高度が3kmになった時点でレーダーで地表を確認、ブロックEの噴射を開始。フルスラストでブレーキをかけながら高度100mまで自動降下を行う。その時点で、ホバリング態勢に。

もし、降下中に何らかのトラブルが発生しアボートとなった場合は、着陸を諦め、帰還する(図・オレンジライン)

ホバリングからは、マニュアルで機体を操作。この間に予定ポイントにまっすぐ降りるか、或いはその周辺に降りるかを判断し、船を操る。ただし、猶予された時間はホバリングも含めて1分に満たなかった。

月面着陸後、約4時間をそこで過ごす。飛行士はLKを出て月面へ降り、国旗を掲げて声明を読み、ごく少数の科学器機を並べ、土と岩石のサンプルを採集し、写真を撮影することになっていた。これを1人でやり遂げる…宇宙服の酸素は約90分しか持たなかったため、結構慌ただしい作業が強いられることになったに違いない。

月面での活動が終わると、飛行士を乗せたキャビンが離陸し、月を周回しているLOKを目指す。LKはLOKに接近、その先端に金網を突っこんでドッキングをすると、飛行士が再び宇宙遊泳でLOKの居住モジュールに戻る。飛行士が帰還モジュールに戻ると、LKとドッキングした居住ブロックは切り離され、破棄される。

その後、あと1日を月周回軌道で過ごした後、ブロック I に点火、LOKは地球遷移軌道へと乗る。地球までは約3日半の道のり。

最後は、LOKはバラバラになり、帰還モジュールだけが帰ってくる。南極上空で大気圏突入し、減速、一旦大気圏外へ飛び出した後、再び大気圏突入、ソ連領内に着地する。これは、L1と同じやり方である。


ついでに、月面で飛行士が使用する宇宙服も見ておこう。宇宙服は2種類開発され、「Orlan」、「Krechet 94」と呼ばれた。写真左端が「Orlan」、中央が「Krechet 94」である。両方ともよく似ているが、端的に言えばOrlan はKrechet 94のソフトタイプであり、動きやすさに力点が置かれている。ちなみに“94”は、L3ミッションで使用する宇宙服を開発するプロジェクトナンバー“11F94”から採られたもの。

   

写真で明らかなように、頭の先からつま先までワンピースになっている。背中は冷蔵庫の扉のようになっており、飛行士はそこから中に入る(右端)。そのバックパックであるが、Orlanのそれは「Seliger」、「Krechet 94」のそれは「Kaspiy」と呼ばれていた。フル装備でOrlanは60kg弱、Krechet 94は100kg越の重量になった。

また、Krechet 94の胸の部分に見える弁当箱のような箱は、酸素や二酸化炭素などのインジケーターや、バックパックの器機の制御を行うスイッチが並んだパネルであり、手前に傾けて使用する。さらに、奇妙なキャスターが装着されているが、これは月面での安定歩行を保証するために取り付けられた支えである。重力が弱く、また、深いダストで覆われていた場合など様々なことが考慮に入れられた結果だが、最も懸念されたのは、転んだときに起きあがれないのではないかということだった。

服の開発を担当していたのはZvezda(ズヴェズダ)と呼ばれていた開発部門。責任者はゲイ・セヴェーリンという男で、コロリョフの信頼厚い人間の一人。ウォスホート2号ミッションでは、宇宙服の設計における微妙な判断をコロリョフに一任され、感涙した忠臣だ(開発史3参照)。

両者は1967年から試作が始まり、様々なテストが行われていった。Orlanは重量が軽いというメリットがあるが、むしろソフトタイプは横にかさばり、スペースのマージンが厳しい状況では扱いにくい可能性があった。逆にKrechet 94はハードタイプで引き締まっており、宇宙線プロテクトも高いというメリットがあるが、動きにくく、とにかく重い。

ちなみに、“宇宙飛行士の監督”であるニコライ・カマーニンは服を視察した際、どちらも重すぎると感じ、代わりにレオーノフが船外活動で用いた服を改造したものでどうかと考えたようである。だがズヴェズダもカマーニンもそのような決定を下す立場にはなく、また、カマーニン自身、そこまで重量を気にしているわけでもなかったので、このアイディアはいつの間にか消えてしまった。

飛行士はLKの中でも終始、宇宙服を着用する。月面に着陸し外へ出るときは、船内のエアを抜いてハッチを開けるが、この辺はアポロと似ている。

余談だが、Orlanは月計画打ち切り後も生き続け、現在もなお、船外活動用の宇宙服として用いられている。米国のそれが数人の介助がないと着込めないのに対し、これは“冷蔵庫”のフタを開けて入ればそれでOKなので、非常に使い勝手がよい(フタは誰かに閉めてもらわないといけないでしょうけど…)。


以上、手短に全体像をまとめてみたが、かなり複雑なプロセスであることがわかる。これを実現するために必要なハードウェアはどれもハイレベルのもので、当然だが、開発ペースも鈍いものとなった…特に、LKとブロックD、I は、L3宇宙船の開発よりも難航したという。もちろんこれは、ライバルの米国も同様で、アポロLMの開発は困難を極め、アームストロングは試乗で危うく死ぬところだった。だが、予算規模も人員も、ケタが違う…ソ連はギリギリの予算とチームで、アポロに近いことをしようとしていたのだから、その困難がアポロどころではなかったのは想像に容易い。

N1-L3ミッションに対し、皆、考えるほどに不安が増していったことは前回も述べた。コロリョフを中心として続けられた検討は、とにかく人命第一主義を基本としたが、ハードウェアは未熟なものばかりだった。

「もし、LKが月面に着陸した際、壊れた場合?」

「飛行士がLKから降りる前に、LKの状態や周辺状況を確認できないか?」

このような懸念も浮上し、これらを解決する策として、小型の無人月面車をプロトンで予め送っておき、LKが着陸したときにその車がLKや周辺の状態をチェックするというアイディアが固まった。だが、更に生じた不安は、こうだ。

「もしLKに破損が認められたとして、それが、離陸不能をもたらす致命的なものだとしたら?」

これは当然出てくる問題である。これも解決すべき事項として重視され、結局、予め別の無人LKをバックアップとして送り込んでおき、もし有人LKが離陸不能だった場合には、そちらで帰ってくるということに決まった。勿論、バックアップLKも月面車のチェックを事前に受ける。

しかも、両者が同じ所に着陸できるとは限らない。有人LKはバックアップより5km以内に何とか着陸することとし、有事の際は、その数kmの距離を月面車に乗って移動するということになった。

結局、1人の飛行士を月面に降ろすのに、2機のLKを必要とする訳だ。しかも新たに、1人乗り月面車の開発が必要とされた。ついでに、月面を詳細に撮影する周回衛星を飛ばし、ベストな着陸地点を探すことも盛り込まれた。

しつこいが、これも皆、LKに課せられた厳しい重量制限が原因だった…。


話が少し逸れるが、このバックアップ案に、むしろ不安が増した者も多かったのではないかと筆者は考えている。もし、完成度の高いハードウェアばかりであり、その上で更にバックアップを準備するというのなら、安心感に満たされるだろう。だが本命が不安だらけの上に、「もしもに備えてあと一機準備しておきます」などと言われたら、ミッション全体に対する信頼性が大きく揺らぐと思うのだが…それが普通の人間の感覚ではなかろうか。

これを象徴する具体的な例が、近年実際にあった。2005年7月の、シャトル「ディスカバリー」の飛行だ。この飛行は、2003年のコロンビア号墜落事故以来初めてとなる「リターン・トゥ・フライト」であったのだが、コロンビア号墜落の原因となった断熱材剥離の問題が完璧に解決されていない中での発進だった。

この問題をフォローする案として、NASAはシャトル「アトランティス」を緊急救援機として準備しておくことを決定した。だが、この決定にいい顔をしたものはあまりいなかった。NASAの案では、ディスカバリーに致命的な損傷が見つかった場合、それを破棄、飛行士らは国際宇宙ステーションでアトランティスの到着を待つというものだった。しかも全員がアトランティスに乗れるわけではないので、残りはソユーズで帰るという、ロシア頼みも一部入った、面倒くさいものになった。

しかもマスコミを中心に「もし打ち上げの際、アトランティスにも損傷が出た場合はどうするのだ」という、単純だが難しい疑問がわき上がった。この件は結局、確率論でごまかされ、明確な答えが出ることはなかった。まあ、確かに「バックアップのバックアップ」と言い始めたらキリはないのだが、このような議論が起こること自体、誰もが不安に陥っていることの証であると言える。


話を戻そう。重量制限は同時に、月面から持ち帰るサンプルの量にも厳しい制約を課すことになった。政治的には米国人よりも早くロシア人が月に立てばそれでよかったわけだが、“お土産”が殆ど手に入らなかったら、やはりばつが悪い。米国が何十キロというサンプルを持ち帰ったら、一番乗りには勝ったとはいえ、やっぱり自分たちも欲しくなる。

そこで、無人のサンプルリターン機の開発が行われることになった。別ルートで月の土壌を持ち帰ることを画策したのだ。この無人機は「Ye−8−5」と呼ばれることになった。

ちなみに、上述の月面車は「Ye−8」と呼ばれ、サンプルリターン機はその派生型とされる。ソ連は月にいくつもの無人探査機を送り込み、それらをラボーチキン設計局が担当していたことは以前述べた(開発史21参照)が、それらと同様、月面車もサンプルリターンも、同設計局が担当することになった。

これらは非常に興味深い特徴を備えている。後日、別章にてもう少し詳しく取り上げてみたい。

(右は月面車「ルノホート」。この便器型の走行車は有人月計画で活躍することはなかったが、1970年代、2台が無人で月面を走り回った。)


最後に、飛行士の選定と訓練についてまとめてみよう。

N1−L3で月を目指す飛行士達は、L1/ゾンド計画(開発史23参照)とは別に選択された。1968年から順次選抜されてきた約25人の候補の中から、最終選抜が行われたのは1969年のことで、同年3月28日、ボストーク5号で飛行したワレリ・ビコウフスキーが月着陸チームのリーダーに選抜され、同6月までに、彼を含む8名の飛行士が残された。

この8名は、月面に降りるワレリ・ビコウフスキー、エフゲニー・フルノフ、アレクセイ・レオーノフの3名、月周回軌道上で待っているオレグ・マカロフ、ビクトル・パチャーエフ、ニコライ・ルカビシニコフ、アナトリー・ボロノフ、アレクセイ・イェリセイエフの5名から構成されている。

特に前者の3名はハードなトレーニングを受けた。Mi−9ヘリコプターを改造したシミュレーターによる最終訓練では、最後に胴体着陸をさせられた。レオーノフは後に、こう回想している。

「ヘリコプターで、9種類の全く異なる着陸方法を経験した。エンジンを切るのだが、普通そんなことはしない…大事故が待っているからだ。だが、我々はそれを決行したのだ…そして、完璧だった。」

ただ、全体的に訓練の状況は順調ではなかった。L3宇宙船のシミュレーターなど、必要な設備の完成が遅れていたからだ。この時期、他にもL1やソユーズ宇宙船のシミュレーターなども必要とされていたが、それらも完璧ではなかった。例えば1967年4月、ソユーズ1号が打ち上げられたが、機体が不完全であるだけでなく、搭乗していたウラジミール・コマロフの練度も設備不完全のため充分でなく、ガガーリンを初めとする他の飛行士達が打ち上げ延期を求めたほどだった。

そしてこの状況を、カマーニンは「ミーシンのせいだ」と書き残している。

というのも、ミーシンはシミュレーターを、自分の設計局に備えようと考えていたのだ。そのため宇宙飛行士訓練センターにはシミュレーターは備えられず、そこでの訓練が満足に始められない状態だったのだ。

ミーシンはL3計画を、空軍から切り離して行おうと考えていたらしい。飛行士も丸ごと自分の設計局の下に組み込もうとしていたのである…恐らく、カマーニンを無視して訓練を始めていたのではないだろうか。ところがそれに猛反発したのはカマーニンで、彼は上層部であるセルゲイ・アファナシエフに現状を訴えた。

アファナシエフはカマーニンの訴えを理解し、支持を約束、ミーシンとの交渉に入った。だが、想像以上のミーシンの抵抗に、カマーニンとミーシンの間柄が極めて深刻な状態にあることに初めて気付いたという。アファナシエフは仕切り直して慎重に事を進めようとしたが、なかなか上手く運ばなかった。


ソ連が有人月計画にかけた費用は、アポロ計画のそれの約10分の1という説がある。この辺は議論もあるので誤差幅も大きいと考えられるが、間違いないのは、アポロに比べたら遙かにロープライスだったということだ。ただそれ故、ハイリスクなものになってしまったのだが。

このような状況にありながら、半ば強引に、N1のリフトオフが実行に移されようとしていた…。


【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Russian Spacesuits” by Isaak P. Abramov and A. Ingemar Skoog, Springer Praxis, 2003
“Russia's Cosmonauts - Inside the Yuri Gagarin Training Center”
                  by Rex D. Hall, David J. Shayler, Bert Vis, Springer Praxis, 2005