Red Apollo, No Compromise 妥協無き二人

ソ連が月へ人間を送るプランを2つ並行に進めていたことは既に触れたが、なんと無駄なことかと改めて思わされる。米国はアポロ一本で月周回飛行と月面着陸を達成したわけだが、そもそも本質的に両者は同じもの。限られていた資源がどちらかに集中できていれば、少なくとも月周回飛行は達成されたのではないかと思われるが、もはやそれは歴史の“もしも”に過ぎない。

コロリョフは、大型ロケット「N1」を複数用いて地球周回軌道へロケットや燃料、宇宙船を運び、組み立て、月を目指すというプランを思い描いていた。これは所謂「地球軌道ランデブー方式」(EOR)と呼ばれるもので、1961〜64年にかけて具体的な検討がなされ、最終的に3機のN1で宇宙船の組み立てを行い、飛行士はソユーズロケットで向かい、移乗するというプランができあがった(開発史22参照)。

ところが1964年8月、突如として、「地球軌道ランデブー方式」から「月軌道ランデブー方式」(LOR)へと変更されてしまった。LORはアポロと同様、大型ロケット一機で飛行士も宇宙船も打ち上げ、月へ向かうというシンプルなもの。ただ、月へ降りるための“着陸船”を別に備え、月へ飛行士が降りている間、別の飛行士は宇宙船で月を周回しながら待っているというものだ。

しかもこれは重要な変更であったにも関わらず、そのきっかけは未だはっきりわかっていない。「上層部がアポロミッションに影響を受けたため」とミーシンは後年語っているが、別の者は、「ミーシンこそ張本人」だという。一方、「いや、言い出しっぺはコロリョフだ」という者もいる。

このような調子で、一体どれが真実なのかわからないのだが、結局のところ、次の2つが大きな要因だろうと言われている。1つは、恐らく上層部から無言の圧力があったのだろうということ、もう1つは単に、資金の問題だろうと…複数のN1を打ち上げるという時点で、金がかかるのは明らかだったのだ。

ただいずれにせよ、ソユーズ宇宙船と、そしてなにより、スーパーブースター「N1」の完成があって初めて達成されるものであったのは間違いなかったが、技術的な困難も多かった。ソユーズが困難を極めたことはこれまでも度々触れてきたが、N1についても触れておかねばならない。

1956年1月30日、コロリョフは将来予定している大型ロケットのスペックとして、重量2000トン、ペイロード150トンという数値を提示しているが、これがいわばN1の源流となった。その後もデザインは検討が続き、1962年5月の段階で示されたものは、重量2160トン、ペイロード75トンの5段ロケットというものだった(右)。各段の名称とは次の通り。

第1段 「ブロックA」 (「NK−15」エンジン 24基)
第2段 「ブロックB」 (「NK−15V」 8基)
第3段 「ブロックV」 (「NK−19」 4基)
第4段 「ブロックG」
第5段 「ブロックD」

正確に言えば、「N1」とは第1〜第3段の3ステージを指し、第4,第5段の2ステージは「L3」に属する。「A、B、V、…」は、ロシア文字アルファベットの昇順。第5段「ブロックD」は、7K−L1プランで月遷移軌道へ投入する際のエンジンとして流用されたあれである(開発史23参照)。燃料系は全段、液酸・ケロシン。興味深いのは、軍事的用途として、メガトン級の水爆を17発搭載する案も組み入れられていたことだ。極端な話、この“N1弾道ミサイル”1発で、米国を破壊することができる。だが冷静に考えれば、やはり無茶なオプションであったことに間違いないし、コロリョフもそれはわかっていたようである。

ただ、ここに落ち着くまでには果てしない、正に“消耗戦”と言うに相応しい激論と罵り合いが続いた。


1961年1月までに、N1のアウトラインはほぼ定まりつつあった。機体の形状に関しては、大成功を収めていたR−7のスタイルとは異なり、アポロのような凸凹のない、スマートな形で皆合意していた。R−7は初段が脇腹に付く格好になっている…これらはいわば補助ブースターだが、N1にはそのようなものは備えないということだった。

ただ、問題は、燃料とそれに関連するエンジンだった。

コロリョフは、液酸・ケロシン系の“信者”だった。これは、「宇宙飛行の父」として今日知られるコンスタンツィン・ツィオルコフスキーが指摘した、最も効果的な組み合わせの1つであったからと言われている。そもそもコロリョフ自身、自分こそがツィオルコフスキーの正統後継者と思っていたに違いない。最終ゴールは液酸・液水系を実現することであるが、その手始めとして液酸・ケロシンを飼い慣らすことが当面の目標であり、それ故、R−7の開発でもケロシンを譲らなかったと言える。

ところが。エンジン業界最大手のグルシュコは既に、四酸化二窒素・ヒドラジン系の“虜”になっていた。有毒ではあるが、長期保存が利き、そして何より、じゃじゃ馬なケロシンよりも安定した燃焼が実現できる…グルシュコには、燃料はヒドラジンで行くべきだという信念があった。

しかも、燃料に関して宗派が違う上に、感情的な対立がそもそもあった…コロリョフは、グルシュコの告発のために自分が収容所送りになったことを、死ぬまで忘れなかった。加えて、己をツィオルコフスキーの後継者と考えているそぶりをグルシュコがちらつかせることに不愉快だった。

1961年7月、コロリョフはプライベートにグルシュコを訪問した。それは、エンジンについて再考して欲しいと願い出るためであった…コロリョフにとって、感情的に色々あるとはいえ、やはり、エンジンにおいてはグルシュコの右に出る者はいない。グルシュコの協力があってこそ、開発は加速し、有人月着陸を実現できるのは間違いなかったのだ。

最初は和やかな雰囲気で始まった話し合いだった…が、それも最初の僅かだった。そこには、テンションは高ぶり、声高になっていく二人の姿があった。

グルシュコは、ヒドラジンの優位さを説きつつ、コロリョフのケロシンN1プランを“道楽”と吐き捨てた。彼は、1950年代初頭、ついに断念せざるを得なかったR−3ロケットのことをコロリョフに投げつけた。R−3は、ケロシンエンジンの開発がうまくいかず断念したあれだ(開発史4参照)。グルシュコはこの無駄足が、祖国のロケット開発を大きく遅らせることになった根源だと主張した。

一方、コロリョフは、例のR−16ミサイル爆発事故の悲劇を持ち出した…ヒドラジンは危険極まりない化学物質だと。コロリョフは常に、対立あるごとにこの大惨事を持ち出すのだが、そこには、あたかもグルシュコが殺人者であるかのような言いぶりもあった、かもしれない。仮になかったとしても、グルシュコはそう感じた、かもしれない。この事故では100名を越える人間が犠牲になった。開発を進めていたのはミハイル・ヤンゲルだったが、グルシュコも強力にバックアップしていたのだ…つまり、「お前も同罪だ」と。

この日の喧嘩を境に、ただでさえ悪かった関係は、もはや後戻り出来ない方向へ向かっていく…。


1961年12月、グルシュコはコロリョフに対し公式の書簡を送り、N1の燃料をヒドラジンにするよう申し入れた。今ではこれが、コロリョフに対する“最後通告”だったと言われている。グルシュコはその中で、フルシチョフの支持を得ているような書き方をし、コロリョフを挑発している。

ただこれには、別の事情もあった。この1ヶ月前、チェロメイのUR−500ロケットが承認されたことである。エンジンはグルシュコが供給することになっていたが、勿論、ヒドラジン。もしN1でケロシンを用いることになったら、グルシュコは並行してケロシンエンジンの開発も進める事態となるのだ。これを彼は非常に懸念していたという。

燃料系の問題に関しては、科学アカデミー議長ケルディッシュを長とする燃料委員会も設立され、調整が図られることになった。だがグルシュコは当初、ケルディッシュに対してもけんか腰だったという…ケルディッシュがコロリョフ案に好意を持っているという裏情報を得ていたためだった。

1962年2月10日から21日にかけ、公式の会合が開かれることになったが、これはもう、修羅場に近いものだった。クレムリンで催されたこの会合には国防関係者やその他の設計局長らが出席していたが、二人の対立は、そんなことはお構いなしだった。

コロリョフとグルシュコ、ソ連宇宙開発シーンでは欠くことの出来ない存在だった。ただ、二人の心の内には、微妙な違いがあった。コロリョフにはむしろ、グルシュコは必要な男だった…エンジンデザイナーは他にもいるが、N1のエンジンを成し遂げるのは、やはりグルシュコしかいなかった。ところがグルシュコには、コロリョフは必ずしも必要はなかった…ロケットを開発できるのは、他にチェロメイがいる。チェロメイは当時、UR−500をひっさげて上げ潮に乗っていたのだ。

そんな状態で、会議がすんなり進むはずもなかった。ちょっとしたことですぐ始まる口論。それは議論でも批判でもなく、単なる揚げ足取りと、中傷、罵り合戦だった…例えば、こんな具合だ。

コロリョフが、火薬入れについて話をしようとしていたときだ。グルシュコは遮るように、惚けた嫌みを言う、

「はっ、わかったぞ、君は蒸気機関が好きなようだね!それで自分は宇宙に飛び、残った者は掃除しなさいってわけか!?」

ケロシン(灯油)を燃やすと石炭同様、猛烈な煤(すす)が出る。

グルシュコが、軍用の観点から、ヒドラジン系が即応性に秀でていると主張しようとしたときだ。コロリョフは聴く耳持たず、大声で叫いた、

「いいか、君はやりたくないんだったら、外れてもいいんだがね!君無しでもできるんだよ!!」

この時はさすがに、重苦しい空気が漂い、誰も口を挟むことができなかった。沈痛な静寂の中、時間だけが過ぎていく…もう、会議にはならない。一人、また一人と退席し、あとに残されたのは顔を真っ赤にした二人だけだったという。

かつて、GIRDで活躍する若き二人が、将来のロケット界を担う巨人となるのは、誰の目にも明らかだった。

だが、今やそこにいるのは、妥協を一切許さない、年老いていく哀れな二人の権力者でしかなかった。

この一連の会議の後、結局、燃料委員会は液酸・ケロシン系を最優先とする決定を下した。勿論、グルシュコは激しく抵抗した。多くの高官らが彼を説得しようと試みたと言われているが、頑として動かなかった。一方、コロリョフも素早く手を打った…ニコライ・クズネツォフというもう一人のエンジンデザイナーに対し、開発を打診したのだ。しかし当然だが、そのような大規模なミッションでのエンジン設計は、クズネツォフ設計局には初めてのことだった。


N1の成功は、エンジンにかかっていた。特に、要となるのは初段「ブロックA」であった。

N1のデザインにあたって、初段の設計は大きな問題だった。考え方は、2つある…小推力のエンジンを大量に束にするか、あるいは、少ない数の大推力エンジンで構成するか、だ。ちなみにアポロの初段は、一基790トンの推力を生み出す「F−1」エンジン(液酸・ケロシン)を5基並べたもの。結果としてはこれがよかったのだが、開発までのフォン・ブラウンらの苦闘は、多くの物語で描かれている。

ソ連では、1960年の夏、推力150トンのエンジンを24基並べるか、推力600トン程度の大型エンジンを数個並べるかで揺れていたが、結局、前者を選択することになった。時間、資金、人材あらゆる面で、大型エンジン開発への不安が強かったことが理由だった。こうしてまとまったのが、上で記した全重量2160トン、ペイロード75トンのN1である。エンジンはクズネツォフの「NK−15」(推力157トン/液酸・ケロシン)エンジンが主力とされた。

また、この数のエンジンを同時に制御するシステムとして「KORD」システムが提案された。これは環状に並べたエンジンのどれか1基が不具合等で燃焼を停止した場合、その対角線にあるエンジンも停止させることで、推力のアンバランスを防ごうというものである。だが、このシステムは非常に難しいもので、これまた克服せねばならないエンジニアリングチャレンジの1つでもあった。

しかも、1964年、月軌道ランデブー方式(LOR)への変更によりペイロードが増加する。

当然だが、コロリョフはイライラしていた…仕方のないこととはいえ、彼自身、無茶をしていることはよくわかっていた。彼は64年末から翌年にかけ、L3宇宙船の技術者達に対し、僅かでも無駄な重量を省くように指示を出している。当時のエンジニアの1人は、こう回想する、

「当時我々は、いかに打ち上げ能力の範囲を超えないようにするか、頭をひねっていた。検討は全ての箇所に及んだ。節約できる重量を見つけたら、コロリョフが50〜60ルーブルのボーナスを出すと言ったのだ。若かった我々にとって、それは高額だった…」

中には、「機体の内部を真空にしてはどうか」というアイディアを出した者もいると言われるが、この話の真偽はわからない。ただ、こんな冗談(?)が作られたほど、皆必死になっていたのは間違いない…なにせ、破格のボーナスが待っている。多くのアイディアは丁寧に検討されたが、コロリョフも段々イライラしてきたようである、側近の一人、ボリス・チェルトックに対し「10キログラムを要求しているのはないのだ。私が求めている削減量は、トンなのだよ」とぼやいている。

結局、N1の増強にあたり、次のような変更が行われた。

・初段にエンジンを6基追加し、24基から30基へ
・初段の底部に4枚の安定翼を追加
・スラストコントロールの改良で、ブロックA、B、Vの3ステージ全体で平均2%の推力増強

…など。また、当初はアポロと同様の「3人クルー」が考えられていたが、一人減らし、2人とすることも決定された。これにより、1人がソユーズで月を回って待っている間、もう1人が着陸機で月面へ降り、1人で活動することになった。だが、

「もし、一人ぼっちの月面で何かあったらどうするのだ?」

この危なっかしい案には、時間が経つほど不安が増していったと言われている。


困難は多かったものの、どうにか形を成そうとしていたN1だったが、しかし、ここへきてなお、妨害する者がいた…言うまでもない、グルシュコとチェロメイだ。

もう、ソ連の月遠征プランを巡る駆け引きには、筆者もイライラされられてくる…。

グルシュコは1962年、ヒドラジンを燃料とする大型エンジン「RD−270」の開発に着手していた。これは推力640トンを誇る大型エンジンで、クズネツォフのNK−15の4倍に達するパワー。これをひっさげ、「N1の初段をRD−270に変更すべきだ」と主張を始めたのである。1965年になろうとしている頃だった。

これはまた、アポロ・F−1に対するグルシュコの回答と言ってもいい。

(右・RD−270 推力685トン・比推力322秒で、ソ連/ロシアの歴史では最大のエンジン。直径3.3m、高さ4.85m、重量4470kg)

彼は、国防大臣ウスチノフと一般工業機械省大臣アファナシエフに対し書簡攻勢をかけ、支持を求めた。しかもグルシュコにとって好タイミングだったのは、実は当時、アファナシエフがその職に就いて日が浅かったことだ。いや、グルシュコはむしろ、そのタイミングを形勢逆転のチャンスと嗅いだだろう。キャリアに乏しかったアファナシエフはグルシュコ案に心を動かされ、支持する雰囲気に包まれていく。既に、N1の建造が始まっていたのに、である。

一方、チェロメイはUR−500を更に拡張したUR−700による月遠征計画を練っていた(開発史22参照)が、1965年10月20日、ついにアファナシエフはそれを承認してしまった。もちろん、UR−700のエンジンはRD−270だ。しかも悪いことに、コロリョフの盟友であったはずの人間の中にも、チェロメイ・グルシュコ案に手を挙げるものが出てしまったのだ!

これはまさしく、“謀反”に他ならなかった。ただ、コロリョフとグルシュコのどちらにつくか、散々悩まされた者も多かったに違いない…権力図は不透明だったのだ。謀反人は射場とガイダンスシステムの開発に携わる者であったが、「N−1の設備はUR−700にも対応できるものだ」と茶を濁した弁解をしている。

煮えたぎるはらわたと絶望感の中、コロリョフもまた、書簡攻勢に打って出た。

「何年にも渡り、OKB−456(グルシュコ設計局)は実用的なエンジンの開発を行っていない。この設計局は時代のニーズから孤立し、膨大な資金をつまらぬことに浪費しているのだ!」

実際、RD−270の開発は順調というわけではなかった。40基製造され、テストでまともな成績を出したのは僅か数基だったという。このエンジンが実用化されることはその後もなかったが、資金、資材共に、ここで生じたロスは大きかったに違いない。

成果のでないグルシュコの策は、もはや嫌がらせでしかなかった。


ここで、N1の全体像を眺めてみることにしよう。コロリョフはこのロケットで、サターンに挑もうとしたのだ。

N1は第1〜第3段(ブロックA、B、V)で、右の図ではグレーの部分。この3ステージだけで高さ61.5mに達する。その上の白い部分は第4、5段(ブロックG、D)で、これを合わせた高さは105mで、サターンロケット(110m)より僅かに低い。球形タンクを採用しているため、第1段から上に向かうにつれ径が小さくなり、そびえ立つ塔のようなスタイルになってしまった。そのため底部は直径17mに達するが、サターンのそれが10mであることを考えるとかなり巨大に感じる。

第1段は30基のNK−15エンジンから成るが、24基は環状に植え並べられ、中に6基が配置されている。離陸時の推力は4620トンに達するが、これはサターンの3404トンを1200トンも上回る空前の大推力。ただ、自重が重いものになってしまったためペイロードが90トンと、サターンの120トンに比べると小さいものになった。
   

第2段は、NK−15を高空仕様にしたNK−15Vエンジン6基からなり、総推力は1432トン。第3段は4基のNK−21エンジンからなり、総推力は164トン。全段、燃料系は液酸・ケロシンで、エンジンはクズネツォフ設計局が担当する。

そして、この多数のエンジンを制御するのが「KORD」システムである。上述したが、エンジンの1つが急停止した場合、対角線にあるエンジンも停止し、推力のバランスを維持するというものだ。もちろん、エンジンが停止するとその分全推力は低下することになるが、それを補うため、残りのエンジンの燃焼時間を延長させる。設計上は、2組のペア(計4基)の停止までカバーできるようにされていた。

各段間はトラス構造で支えられているが、これは、切り離しの前にエンジン着火、排気が逃げるようにされていたため。トラスを通して丸い構造物が見えるが、これはケロシンタンクだ。

パッと見、正気とは思えない30基ものエンジンと並んで、このロケットで特徴的なのが燃料タンク。上のカットアウェイを見るとはっきりしているが、液体酸素(青)もケロシン(赤)も球形タンクに詰められており、ケロシンの供給パイプは機体内部にはわせることが出来ず、機体の外に飛び出している。

まるで、市の郊外に立つガスタンクだ。

ただ、これが大きな欠点の1つでもあった。燃料用のタンクを別に備えたことでかなり無駄な重量を生じている。しかも球形であるため、機体内にスカスカの無駄な空間が広がってしまっている。ただ一方では、容積を稼げる割りに表面積が小さいため断熱材を抑えることが出来るという利点もあり、これが球を選択した理由であるとも言われている。

そもそも、ボディそのものをタンクとした「インテグラルタンク」が考えられてもおかしくはない(例えば航空機などに採用され、軽機体に多量の燃料搭載を実現している)。だが、それが選ばれなかった事情があった。

それは、ソ連の工作レベルであった。当時、彼らが製造できるアルミ合金の厚さは13ミリが限界で、インテグラルタンクの場合、更なる厚みが必要ということが判明したという。ちなみに6基のタンクは全てマグネシウム・ニッケル合金で、機体はジュラルミン(アルミ合金)で作られていた。

N1のそびえ立つ姿は、サターンよりも迫力がある。迫力を越えて、不気味ささえ感じる。冷戦時代、もしこの姿がリークされていたなら、“恐ろしいソビエト”の炎にさらに油が注がれたに違いない。いや、あまりのものに、信じない者もいただろう。

だが、正しく評価し、そして味わい、残さねばならないのは、これを作った人間達の血と汗の物語なのだとも、思わずにはいられない。

余談だが、筆者の個人的な印象なのだが、不気味さ満点のこのロケットを更に味付けているのが、底部の4枚の安定翼だ。方形板を“地面と並行に”取り付けているところが目を見張る。

右上の写真でも、足下に水平に張り出しているのが見えている(上の見取り図と下のクラフトも参照)。

このような尾翼は普通、小型ロケットやミサイルに装着されている。右は日本がかつて開発した「カッパロケット」だが、安定翼は地面に垂直に取り付けられている。世界のどこを見渡してもこのような形ばかりだが、それ故N1のような、独特の形が強烈である。しかもあのUR−700にも、同様の板が3枚装着されるようにデザインされていた。

ところでこのような翼は、小型ロケットの飛行を安定させるために取り付けられる。簡単に言えば、姿勢が傾くと大気により元に戻そうとする力が翼に働くため、一直線に飛行できるのだ。これが大型のロケットになると、エンジンの噴射方向を可変出来るため、ジャイロと組み合わせて能動的な姿勢制御が可能となり、尾翼は必要ない。

だが、N1のような取り付け方の場合、どのような原理で働くのだろうか、そしてどの程度の効果があるのだろうか。筆者は専門家でないのでわからない。調べてみたこともあるが、わからなかった。このような配置の仕方だと、かえって空気抵抗が大きくなるだけと思うのだが。

巨体であることに加え、不可解な翼をつけているところが、不気味さのアクセルを深く踏み込んでいく…。

だがそれもまた、N1がサターン以上に魅力を醸し出している理由の1つかもしれない。

(右・ペーパークラフトで作成された初段で、4枚のうち3枚が見えている。このクラフトの詳細に関しては謝辞をご参照下さい)

以下、私の推測なのだが、実は空気抵抗を故意に狙ったのではなかろうか。やや極端な例えだが、軽自動車にF1のエンジンを積んだら、アクセルを踏んだ瞬間ウィリーするか、ひっくり返るかのどちらかだ。これと同様に、エンジンが30基に増力されたことで、パワーと機体がアンバランスになったのではないか。

つまり、かえってひっくり返り易くなると考えたのではないか。機体を落ち着かせるため、故意に足かせをはめて重心を押し下げようとしたのではないかと思うが、どうなのだろう…?

ちなみに、よく知られているように、アポロのサターンXにも尾翼が取り付けられていた。この真の目的は、打ち上げ直後にエンジンが停止するなど緊急脱出が必要となった場合、機体を僅かの間でも垂直に安定させ、先端の脱出ロケットをスムーズにエスケープさせるためであったと言われている。打ち上げ直後は、ロケットもまだ速度を得ておらず、非常に不安定だ。少なくとも横方向への“滑り”を妨げようと目論んだものだった。N1の場合も、もしかしたら、このような目的もあったかもしれない…だがこの辺はもう、筆者の当てずっぽうでしかない。

(追記:安定翼に関し、情報提供がありました。下の謝辞をご参照下さい 05.23.2006)


一方、ロケットの建造と並行して射場の整備も進められていった。1963年12月24日、正式な許可が政府より下り、担当設計局は「GSKB Spetsmash」で、局長はウラジミール・バーミンという男(ちなみに彼は、UR−700に手を挙げた一人)。バイコヌール宇宙基地の一画に整備され、「サイト110」と呼ばれた。また、「サイト112」と呼ばれる組み立て工房も建設されたが、これは、バイコヌール宇宙基地では最も巨大なビルとなった。

射点は直径12mの巨大なホールと各々120°に掘られた3つの排気抜け(チャネル)からなり、これまた巨大なものになった。しかも、それを挟むように地下は5階構造になっており、各種整備工房が造られた。

地上には、高さ145mの整備塔が用意された。この整備塔は打ち上げの直前にロケットから離れるが、これも独特だ…一直線に引き下がるのではなく、円弧を描くように、レールの上を走るのだ(下の画像参照)。また、高さがあるため風の影響ももろに受ける。それを考慮し、200トンの自重に加え、40トンの風圧に耐えるように設計されていた。

射点は2つ並べて建造された。右はその空撮だが、120°配置の3つのチャネルと整備塔、ロケットを搬入する引き込み線が一目瞭然だ。

このような一連のN1関連施設の建設には、ピーク時には35000人もの兵士らが携わり、全ソ連から120の機関が参画したと言われている。

組み立て工房から射点へのロケットの搬送はR−7等と同様、横倒しの状態で鉄道で運ばれ、射点で垂直に立ち上げられるスタイルが採られた。しかし興味深いのは、当初は米国のアポロや今日のシャトルと同様、クローラー(巨大台車)に垂直に立てたままの状態で搬送する方式が考えられていたことだ。だが、高さ100mを越える組み立て工房の建設や、起立した巨大ロケットを安定に運ぶクローラーを造る技術が無かったため、断念されたという。

しかし、横倒し搬送にも困難があった。それがあまりにも巨大であったため横風に弱く、ちょっとした風でも脱線の懸念があったということ、それに、巨体を引き起こすジャッキがなかったという点である。当時ソ連最大のジャッキはUR−500を起こすためのもので、直径1m、長さ9mのシリンダーからなる油圧ジャッキだった。だが、N1にはそんなものは全然歯が立たない…様々な検討が重ねられた結果、そのようなジャッキを2組用いるスタイルが採られることになった。

いわば“ソ連版クローラー”は、キャタピラではなく車輪で、4台の機関車で押される巨大な台車が、18m間隔で平行に走るレールの上をゆっくりと移動していくスタイルになった。僅かなズレも脱線につながることを考えると、鉄道技術の高さも伺える。


N1は、その周辺設備まで含めて、新機軸の塊だった。だが、搬送には米国のクローラースタイルが当初考えられたことや、次回ご紹介する月着陸船「LK」のデザインなど、米国を模倣したと言われてもおかしくない部分が目立ち始めたのも事実。月軌道ランデブー方式に切り替えた点などもしかり。ボストークやソユーズ宇宙船のような余裕を感じさせるフォルムは、そこにはない。

そして、その無理を最も強く象徴するのが、初段・30基のエンジンだ。「KORD」システムは非常に興味深い、理想的には聞こえのよい内容だったが、しかし、これが裏目に出ることになる…。


※資料1
N1とその射点の姿は当時、米国には筒抜けだった。「コロナ」を始めとする米の写真偵察衛星はその威力を存分に発揮し、多くの情報をもたらし、推測が行われた(上に記載の射点の空撮も衛星による)。CIAなどの内部報告書でN1は「J-vehicle」と呼ばれていた。冷戦後に機密解除となった文書を基にした分析記事がこちらにあります。非常に詳細です。
http://www.globalsecurity.org/intell/library/reports/2004/open-source_imagery_follow-on.htm

※資料2
下は最近のN1射点。Digital Globe社配給・Google Earth提供のもので、右上の偵察衛星(コロナ)による画像と比べると驚異的な画質(上が北)。N1計画終了後はソ連版シャトルの射点として改造が行われて使用されたが、全体の様子は殆ど変化がない。北側には燃料コンプレックスが展開しているが、N1時代には無かった設備に、液体水素供給施設がある(シャトル時代には液酸/液水が実現していた)。

右は射点の拡大画像で、細長い3本の排気抜けがはっきりわかる。ごちゃついた設備が中央に腰を据えているが、これはシャトル用の設備。元々あった巨大ホールは塞がれ、その上に建て増しされたように見える。大きな円弧が見えるが、これがN1整備塔を動かすレールである。



下はサイト110付近の全景。サイト112がN1組み立て工房で、N1計画破棄の後はエネルギアロケット/シャトル計画で使用された(補足1)。



下は、サイト112の拡大映像。2002年5月12日午前、突如、大音響と共に天井が崩れ始め、完全に崩落。中にはシャトル「ブラン」の実機が眠っていたが、完全に押しつぶされてしまった。雨漏りがするなど屋根の傷みは当時既に激しかったが、資金不足のため大改修されずに放置されていた。

     

太陽が高く、がれきに埋まった屋内がよく見えている。外の右上方には2台のクローラーが並んでいる。

※謝辞
N1初段のペーパークラフトは「宇宙機模型製作日記」主宰・chinjyara氏のご好意で記載させていただきました。ソ連機モデルの数々がこちらへ展示されています。N1やボストークなど、見事な作品ばかりです。

※謝辞
宇宙開発史」主宰・桜木氏より、N1の安定翼に関する情報提供がありました。(05.23.2006)

『文中でN-1ロケットの初段の安定翼について疑問をもたれていたようですが、実はあれはただの板ではありません。あれは格子状になっています。あの形状の空力安定装置はロシアが好んで使用しておりミサイルなどにも多様されています。(↓URL参)
http://aeroweb.lucia.it/~agretch/Paris97/lbg97ag_rvvae_a.jpg
http://www.tldm.org/news3/Baltic1.jpg

またこの形状と同じ物がソユーズ宇宙船打上ロケットフェアリングの帰還モジュール部分にも付いています。
http://www.space.gc.ca/asc/img/soyuz-13.jpg

あれも緊急時、ロケット本体から切り離された後に花びらの様に開いて空力的安定をサポートします。要するにあの格子は小さな翼の集合体となっているわけです。何故あの形状かと言うと詳しくは分かりませんが通常の尾翼よりも高速時の特性が良いと言うことだそうです。』

※補足1
当コラム・初版リリース時(06年5月)には地図中の「サイト112A」をサイト112として記載しておりましたが、筆者の勘違いでした。07年12月30日、記事を読み返していて、ふとおかしいことに気づき、きちんと調べなおしているうちにミスに気づきました。そうなんです、あの崩壊した(2002年5月12日)組立棟が、N1の組立棟でもあったわけです・・。


【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
Russianspaceweb.com (c) Anatoly Zak http://www.russianspaceweb.com/
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Lunar Exploration” by Paolo Ulivi, Springer Praxis, 2004
宇宙機模型製作日記 http://blog.goo.ne.jp/chinjyara/
「月を目指した二人の科学者」的川泰宣著 中公新書(1566), 2000