月面争奪戦!
テクノロジーやサイエンスの発達や工夫とは、ギリギリの状態から生まれるものなのだろう。では、ギリギリの状態を生み出すのは、何であろうか。ひとつは、自然に対する人間の飽くなき探求心か。複雑に見える自然現象の裏に潜む単純な法則、あるいは、単純に見える現象を裏打ちする複雑かつ深遠な真理…人間が、その知性をもってして、どこまで挑むことができるのか。あるいは、厳しく立ちはだかる困難を、どこまで克服できるのか。研究者達は日々、実験場や研究室で自然に対するバトルを繰り広げていると言える。
そしてもうひとつは、人間どうしの競争である。これは研究者同士の場合、企業間の場合、様々だ。当然、国家間の競争もあるが、その最も露骨な例が、宇宙開発であろう。
ソ連が人工衛星を打ち上げ、それが米国をロケットレースに引きずり込むと、両者の大きなゴールとして月が選ばれるのは当然の成り行きだった。まず、月の裏側はどうなっているのか?月の表面は固い岩盤が露出しているのか、ダストが堆積しているのか?そして、人間を送り込むのはどちらが先か…?
序盤戦はソ連がリードしていたのは、前回までにご紹介した。最初に月面に人工物を送り込んだのはソ連だったし、初めて月の裏の姿を撮影したのもソ連の衛星だった。しかし一方では、米国の追い上げ凄まじく、実はソ連はギリギリで切り抜けていたということも明らかとなった。
月の裏の撮影を行ったルナ3号は、姿勢制御といい、遠距離通信といい、写真撮影といい、総半導体化といい、新機軸の盛り合わせだった。よく考えるほど、ルナ3号の成功は奇跡のような気がする…目的は単純だが、どれもこれも新開発で、それをほぼ一発勝負に近い形で、しかも短期間で成し遂げた。この成功の背景には、やはり競争意識と、現場の意志の統一、そしてこれが重要なのかも知れないが、若い、生き生きとしたエンジニア達の頑張りがあったと言える。
◇
さて、次の目標としては、当然、月への軟着陸がある。先にルナ2号が月面一番乗りを果たしたが、これは硬着陸、即ち激突させただけの、正に“特攻”(開発史19参照)。衛星はバラバラに壊れ、中からソ連国章ペナントが飛び出し、フルシチョフが喜んだという話だったが、科学的に意味があるのは勿論、軟着陸である。機材を安全に月面に降ろし、写真撮影などを行うことで、月面の真の姿を知ることが出来、これがまた、将来人間を送り込む際に極めて有益となるのだ。
ところがこれがなかなか難しいものとなった。詳細は後述するが、衛星そのものよりも、打ち上げロケットに問題が多く、まともに月へ向けて飛ばす段階で苦行の日々が続いたのだ。結局ソ連が月へ衛星を軟着陸させたのは、1966年になってからであった。
一方、米国は何をしていたのか?勿論、ルナの立て続けの成功を、黙って指をくわえて見ていたわけではない。やや暫しの混乱の後、1959年1月、「レンジャー計画」と名付けられた月探査計画を打ち出していた。
レンジャー計画の目標は、ルナ2号のように探査機を月面へ“投げつけ”、衝突の直前までカメラを作動させ、月面のクローズアップ画像を得ること。当時、月面の状態、特に固さを巡っては議論が分かれており、それに決着をつける意味もあり、また、今後の惑星探査機のデザイン候補として性能をチェックする目的もあった。
レンジャー計画は1961年8月から65年3月にかけ、計9機が準備され、計画初期と末期でやや目標が異なり、それに合わせて機体の形状も異なっている。これまた奥が深く、全てを記述するのは無理だが、ソ連との比較対象として、概要をまとめておこう。
レンジャー1号 (1961年8月23日打上)
地球周回軌道に投入し、今後の月探査における各システムと戦略をチェックするために組み上げられた工学試験機。打ち上げは順調で、地球周回軌道には乗ったが、エンジン再点火に失敗、より高空へと移行することができなかった。
搭載科学器機はライマンα検出器、磁力計、静電気センサー、中エネルギー検出器、宇宙線センサー、宇宙塵検出器、太陽X線シンチレーションカウンタ、など。この重装備は2号も共通。
レンジャー2号 (1961年11月18日)
1号と同様の工学試験機。宇宙線や地磁気、放射線やダストなどを計測する目的も兼ねていた。打ち上げは順調で地球周回軌道には乗ったが、ジャイロの不具合でエンジン再点火に失敗、地球脱出軌道への投入はできなかった。
レンジャー3号 (1962年1月26日)
いよいよ月面を目指す。搭載器機も1、2号とはやや異なり、激突10分前から月面撮像を開始し、地球へ電送する一方、レーダーにより表面のレーダー反射率などを測定する。また、月震計を格納した小型カプセルを搭載し、これは小型バッテリーにより約1ヶ月間独立駆動する。他、ガンマ線検出器を搭載。
機体は打ち上げ後、軌道修正を1度行い、直撃コースへと投入され、一方、カプセルは適切な高度で切り離され、逆噴射ロケットで軟着陸を果たし、観測を開始する手筈だった。しかし、打ち上げロケットのシステムミスで加速がつき過ぎ、逆噴射指令は返って姿勢に混乱を招き、結局、2日後月面から約37000kmの地点をかすめて通過した。
レンジャー4号 (1962年4月23日)
3号と同様の目的。打ち上げは順調だったが、内部タイマーのエラーなどで太陽電池の展開に失敗、打ち上げ10時間後にバッテリーが切れた。しかし、カプセルから発信される微小電波を追跡、打ち上げ3日後、月面の裏側にインパクトしたことが確認された。米の衛星で初めて月面に達したもの。
レンジャー5号 (1962年10月18日)
3、4号と同様の目的。打ち上げは順調だったが、原因不明の故障のため、8時間44分後バッテリーがアガり、信号が途絶えた。月面から725kmの地点をかすめた。
この時点で、完璧と呼べるミッションはまだ達成されていなかった。5号の終了後、検討会議が行われ、そこで指摘されたことは「搭載器機が多すぎる。撮影に特化すべし」ということと、「殺菌処理のためのガスが、電気系統の絶縁を劣化させている」ということだった。
レンジャー3〜5号には、125℃の加熱と、一酸化エチレンガスによる滅菌が行われていた。これは、地球の微生物が月面を汚染しないようにという配慮からであったが、このエチレンガスがリード線の絶縁を劣化させ、その結果、打ち上げ時の振動などに弱くなった可能性が高いことが明らかになったのだった。
レンジャー6号 (1964年1月30日)
月面激突コースを辿り、高解像度カメラで月面の連続撮影を行う。6台のテレビカメラ(ワイド2、ナロー4)を搭載しているが、その他の科学器機は積まれておらず、撮像に特化した機体。打ち上げ以後、マニューバは順調に行われ、月面の「静かの海」の東端に激突したが、カメラの電源が最後まで入ることなく、したがって、画像は1枚も送られてこなかった。カメラ電源部のショートと考えられている。
右はレンジャー6号であるが、以後9号まで同型。
レンジャー7号 (1964年7月28日)
6号と同様、目的はただ一つ、月面へ特攻し、直前まで写真撮影を行うこと。全てはうまく進み、衝突18分前から撮影を開始、得られた画像は全部で4308枚。最後のものは解像度50cmであった。激突時の速度は秒速2.62km
レンジャー8号 (1965年2月17日)
これも、目的はただ一つ、特攻写真撮影。全てはうまく進み、衝突23分前、高度2510kmから撮影開始、得られた画像は7137枚。最後のものは解像度1.5mであった。
レンジャー9号 (1965年3月21日)
レンジャー6〜8号と同様の目的。全てはうまく進み、衝突19分前、高度2365kmから撮影開始、得られた画像は5814枚。最後のものは解像度30cmであった。
なお、この衝突劇は全米TVネットで中継された。
レンジャーの機体製造は、ボディがフォード社で撮像カメラがRCA社というのは知られている。ミッション全体をマネジメントするのはジェット推進研究所(JPL)で、探査機に本格的に関わるのはレンジャー計画が最初。JPLは現在も惑星探査のメッカのような研究所だが、その源流はレンジャーにあるといえる。
また、レンジャー初期の機体は明らかに装備過剰だった。例えば月までの、比較的短距離の飛行であるにもかかわらず、広い太陽電池が搭載されているという点である。月までなら、バッテリーのみでもどうにかなる距離だ。だが、特質すべき点は、「これらは全て将来に備えた試験も兼ねているのだ」とJPLが主張したことにある。JPLはこの頃、レンジャーと平行して惑星探査機「マリナー」のデザインも始めていたのであった。
本来、目的一本に特化した衛星を作成するのが筋というものだ。しかし、時間と予算の問題もあるし、特に宇宙開発初期は“節約”と“奮発”のかねあいが難しいフェーズであろう。いや、そもそも、新たなチャレンジも平行しながら新天地を開拓していくことに、宇宙開発の醍醐味があるのかもしれない。探査機は常に、新たな技術獲得への工学試験機でもあるのだ。
余談だが、レンジャー1〜5号の仕様から、月をあくまで科学探査の対象として捉えているのがはっきりわかる。ただただ、「人間を月へ送る」という一つ目的のアポロ計画とは対照的だ。当然予算も別で、アポロ優先だったため、レンジャーを含む他のミッションは逼迫していたという話もある。
「とにかく月へ人間を送るのが先だ」、「いや、もっと科学的調査の側面を重視すべきだ」… 初期の段階に、政府も巻き込んで激論があったと言われている。JPLの技術陣や科学者はあくまで科学優先だったというのが、搭載器機から感じられる。
ただ、レンジャー後期(6〜9号)ではもう、そう言ってもいられなくなっていた。とにかく「始めにレースありき」なのだ。先述したが、5号機までのデザインは「無駄に冗長」と指摘され、カメラ以外の科学器機が降ろされたのだった。
レンジャー9号では、全米ネットで中継が行われた。宇宙開発がテレビ画面を通した“ショー”となり得ることを一般市民に示した、初のケースといえる。ついでに、RCA社にとっては、優秀なカメラのよき宣伝となっただろう…?
右は、レンジャー7号が撮影した2枚目の画像である。かつてルナ3号が撮影した月の裏側の写真よりも、画質がよいのは明らかだ。米国はレンジャー4号で初めて月面へ踏み入れたが、それはルナ2号から遅れること3年で、さほど注目を得なかった。だが、この7号の画像の優秀さは、アメリカの技術力を見せつけるには充分だったであろう。
確かに、ソ連もカメラの改良は続けており、急速に飛躍していくものの、リアルタイムに耐えるものはまだなかった。“カメラ競争”という点では、この時既に、ソ連は負けていたと言える。ソ連技術陣の多く、特にカメラ部門は、米の技術に鳥肌を立てたかもしれない。
ただまあ、当然といえば当然である。米では50年代にはカラーテレビが実現しており、映像は商業的ニーズの観点からも、層が分厚かったのである。
◇
話をソ連に戻そう。ソ連は1959年のルナ3号成功の後、暫く月面から遠ざかっていた。これは当時、有人宇宙船・ヴォストークのミッションが大忙しだったこと、そして、火星や金星探査にも力を割いていたことが理由として挙げられる。ソ連は米国と対照的に、政府の支持が得にくかったため、限られた予算とマンパワーであらゆる事をやっていたのである。
月・惑星探査も、有人宇宙船も、全てコロリョフ親方率いる第1設計局が担当していたことを忘れてはならない。
さて、月の裏側の撮影に成功したルナ3号に続くミッションとして、彼らは月面軟着陸を選び、「Ye-6」ミッションと名付けられた。確かに米も同じことを考え、レンジャー3、4号では着陸カプセルも搭載されたが、その後軟着陸よりも表面の至近撮影が優先されたのは上述した。ソ連は、しかし、そのような至近撮影は考えず、着陸機にカメラを搭載することで全てを一度にやろうとした。
まず、打ち上げロケットに大幅な改良が加えられた。ルナ3号は上段に小型加速ロケットを追加して打ち上げられたが(開発史20参照)、もう、そのようなものでは無理になっていた。ルナ3号は重量280kg程度であったが、開発中のYe-6衛星は1トンを越えるのだ。これを月まで放り投げるには、大きな力が必要となる。
8K72 8K78 |
そこで、ロケットは更に1段追加され、4段ロケットとなった。図は左がルナ3号の時のもので、右が4段ロケット(断面図)。1段追加されているのが極めてよくわかる。このロケットは「モルニア」(符号8K78)と名付けられ、その後、通信衛星の打ち上げでも大いに活躍することとなった。
また、飛行軌道にも大きな工夫が行われた。ルナ1〜3号まではダイレクトに月へ放り投げるというものだったが、Ye-6の場合、一旦地球周回軌道(「パーキング軌道」という)に乗せ、その後、第4段エンジンを吹かして月遷移軌道へ投入するというやり方である。この方法だと、“パーキング”と呼ばれるように、軌道上で待機する間に細かい軌道修正を行うことで、衛星の精密誘導が可能となるのが大きな利点だ(下に詳細図)。
ただ、工学的に克服しなければならない問題も多い。その1つが、宇宙空間でのエンジン点火だった。
パーキング軌道では、無重力になる。するとそのままの場合、上下がはっきりしない故、タンクから液体燃料が配管へ誘導されない事態に陥るのだ。地上では重力方向へ上下が決まっているので意識しなくてもよいファクターだが、無重力では深刻な問題となる。
これを克服するための工夫として、次段のエンジン点火を、前段の燃焼終了前に行うという手がある。エンジンが燃焼している限り推力が生じ、その慣性力が重力のように、燃料に上下をはっきり認識させることができるというわけだ(ちなみにルナ1〜3号の第2段と第3段の繋ぎ目がトラスになっていたのは、第2段燃焼終了前に第3段を点火することになっていたためで、いま述べた背景がある)。
ただ、パーキング軌道から月遷移軌道へと移る際に吹かす第4段エンジンの場合、無重力下での点火であったため、燃料にタンクの出口を教えるために必要な小型固体ロケット(BOZ)が4基取り付けられていた。第4段点火の前にまずこの小型ロケットを吹かし、軽く推力を作り燃料を配管へと導いた上で、第4段へ点火する。あとは自ら推力を生じるため、停止しない限り燃料は配管へ導かれていくという流れだ。
以下に、Ye-6ミッションの概要をもう少し詳しく見てみよう。レンジャー計画でもほぼ同様のルートが採用されている。
宇宙基地から打ち上げられた(@)ロケットは、地球をほぼ1周するような格好(これがパーキング軌道)で地球を周回し、その後、第4段エンジンを点火(A)、加速しつつ月遷移軌道へ入る。燃焼終了後、第4段を切り離し(B)、一路、月を目指す。途中、姿勢制御を行い(C)、軌道修正を行う(D)。この軌道修正がうまくいかないと、月面を逸れてしまうことになる(点線の軌道)。
その後再び姿勢を制御し、逆噴射エンジンを月へと向ける(G)。月面まで残り70kmの地点でエンジン点火(H)、減速を開始し、着地の直前でカプセルを月面に放り出す(I)。
探査機は右に示したような形状をなし、全長約2.7m、重量約1.5トン。右上の、ドングリのような物体が着陸機で、これが探査機本体の激突寸前、月面上に放り出されることになっている。逆噴射エンジンはKTDU-5Aと呼ばれるもので、燃料はアミンと硝酸。これで10ないし30m/sまで減速する。
他、姿勢制御スラスターや窒素ガスタンク、レーダー高度計なども搭載されているが、これらは月面まで数kmの地点で投棄される…機体を少しでも軽くし、激突速度を少しでも抑えるためであった。
なお、電源をバッテリーに依存し、レンジャーのように太陽電池でないのは大きな相違点。
次に、着陸機と合わせて、最終フェーズをもう少し詳しく見てみよう。
機体は月面まで約200mのところまで逆噴射を続け、あとは月の重力に従うままに落下していく。機体の、“どんぐり”と反対側の端には長さ約5mの金属棒が取り付けられており、これが月面に触れると“どんぐり”を放り出すような仕組みになっている(上図)。
なお、その“どんぐり”であるが、予めエアで膨らまされている。そう、まさに“エアバッグ”というわけで、時速70km程度で放り出されたそれは何度かバウンスし、月面に落ち着く。その後、バッグが開き、中からカプセルが露出、活動を開始する。
右は中から出てくる観測カプセルであるが、重量約100kgのそれは、なかなか工夫が凝らされている。まず、底部が重くなっており、だるまのように、できるだけひっくり返らないようになっている。花びらのように開いた4つの覆いはまさに「ペタル」(花弁)と呼ばれ、着陸後、バネで展開するようになっている。これはカバーであると同時に、球体が仮に少し斜めに向いていた場合、自然に姿勢立て直しもする。
長く上に向かって伸びる4本の棒はペタルの展開と共に伸びるアンテナで、その中心にあるのがカメラ。これは、フィルム撮影・現像した画像をスキャン、信号化して地球に送ったルナ3号のものとは大きく異なり、視野をスキャンし、光電管で直接捉えた光の強弱を地球に送り返すというもの。対物レンズの焦点は過焦点(hyperfocal)に設定されており、手前から無限遠までピントが合うようになっている。解像度は2mm/1.5mで、スキャンは1フレーム6000ライン。1フレーム送信に100分を要する。
地球に送り返す際の信号はアナログファクシミリ信号が採用された。だが、後にこのことで痛恨の一撃を被ることになろうとは、まだ誰も気付いていなかった…。
余談だが、Ye-6カプセルのデザインは、後にソ連が火星に送った「マルス」着陸機でも採用されている。画像は1971年に打ち上げられたマルス3号の着陸機であるが、設計コンセプトがYe-6と同じであることは一目瞭然だ。加えて言うと、搭載カメラに至ってはYe-6と同じものである。
◇
1960年1月15日、コロリョフは打ち上げロケット「モルニア」の開発を命じる書類にサイン、その2年後の62年3月23日、Ye-6計画が党によって承認され、全てが本格的にスタートした。だが、モルニアロケットの開発に関しては、それは悪夢の日々が続いた…1960年10月から63年11月までの3年間行われた14機の打ち上げのうち、成功したのは僅か3機だったのだ!
このうちのいくつかを拾ってみよう。
1960.10.10 火星探査機 1M 失敗
ソ連初の惑星探査機。ロケット上段の振動が原因と思われる故障でコントロールを失い、爆破された。
1960.10.14 火星探査機 1M (2) 失敗
第3段エンジンの点火失敗。バルブの欠陥で液体酸素がリーク、ケロシン燃料が凍結したと思われる。
1961.2.4 金星探査機1VA 失敗
第3段エンジン部で爆発。液体酸素のバルブが閉じず、高温のチャンバーに液体酸素が流れ出したためによると考えられている。
1961.2.12 ベネラ1号 成功
全てはうまく進み、金星遷移軌道へ投入成功。ただ、探査機は地球から200万kmの地点で通信途絶。
1962.8.25 スプートニク19号 失敗
ロケット第3段の作動まではうまくいったものの、第4段に装着された小型固体ロケット「BOZ」の1本が点火せず、不均一な推力のために姿勢を崩した。この衛星はパーキング軌道を離脱することができず地球を周回、「スプートニク19号」と名付けられた。その後、大気圏に再突入。
ソ連は、打ち上げが順調に進んだ後で「ベネラ」などの命名を行い、地球離脱を失敗した衛星などは「スプートニク」や「コスモス」などの名前を後付けしていた。
…と、このように失敗が続いた。ある時は燃焼不足、またある時は液体酸素流出、BOZの起動失敗…などなど、もう目を覆うばかり。1960年〜65年の間に、モルニアロケットの不良は、全打ち上げ数24に対し14を数える。
「モルニア」とはロシア語で「稲妻」の意だが、稲妻のような飛翔はなかなか実現しなかった。
1965年になると打ち上げ成功率は上がるが、探査機の方に問題が生じ、最後までミッションを全うしたものは少ない。Ye-6計画で打ち上げられた月探査機・ルナ4号(63年11月)〜8号(65年12月)は、全て軟着陸に失敗した。この間、米国のレンジャーが高画質画像をもたらしていたのは先述した通り。
この失敗数は、米国よりも多い。難しいことにチャレンジしているとはわかっていても、失敗が続くと責任問題も大きくなる。これだけの失敗を重ねてもなお許されたのは、冷戦下における競争状態だったからだろう。現代だったらあり得ない。
しかし、誰よりも落胆したのは、現場のエンジニア達。そしてそれを一身に背負っていたのは、言うまでもない、コロリョフだった。
◇
1965年末、コロリョフは現場の士気が沈み込んだ空気の中を過ごしていた。この数年間は、“チーフ・デザイナー”としては苦しい日々の毎日を送っていた。有人宇宙飛行ではヴォストークの成功やそれに続く3人乗りボスホート、世界初の宇宙遊泳成功など輝かしい実績があったものの、それらはモルニアの失敗で全てチャラになったと言っても過言ではなかった。しかも、新型宇宙船「ソユーズ」の開発は大幅に遅れるなど、面白い話がなかった。
宇宙飛行士の監督・カマーニンは1965年3月、モルニア失敗の後で日記にこう記している。
「コロリョフは他の誰よりもふさぎ込んでいる。10歳も年老いて見えるようになってきた。」
しかもこの年、コロリョフは仲間を何人も失っている。1月、ルナの第3段エンジンを開発したセミョン・ケスバーグが交通事故死した。ケスバーグは、コロリョフが口説き落とした男(開発史19参照)。彼はモスクワで会議に向かう途中、路面凍結で車がスリップ、病院へかつぎ込まれたものの助からなかった。また、同月、生体医学問題研究所の所長アンドレイ・レベディンスキーの死に接した。この研究所はコロリョフの要請で設立されたものだった。
悪いことは続く。同じ月、今度は第1設計局の若いエンジニア、イワン・ポプコフが自動車事故で他界した。ポプコフはコロリョフが気に入っていた一人だった。この年には、バイコヌール宇宙基地の建設を指揮したゲオルギー・シュプニコフなどもこの世を去っている。
そして、コロリョフ自身の健康も悪化の一途を辿っていた。8月、彼は低血圧で気分が優れないと不満を漏らし、9月には激しい頭痛に見舞われるようになっていた。また、進行性の難聴にも見舞われ、低下を続ける心臓の機能。しかも、相変わらず容赦のなかったのが、グルシュコの攻撃。カマーニンは日記にこう記している。
「セルゲイ・パブロビッチ(コロリョフ)は、グルシュコに関しても不満を漏らしていた。グルシュコは軍事工業委員会の会合の席上、きつい批判…彼(コロリョフ)の設計局に…を向けたという。その批判とは、コロリョフの言葉で言えば、フレンドリーというものからはほど遠く、コーナーへ追いつめるようなものだったという。『グルシュコの考えは、こうだ』
コロリョフは続ける 『彼は自分がツィオルコフスキーの後継者であり、我々は単に金属の缶を作っているに過ぎないのだ』と…」
「金属の缶」とは、ロケット機体の事を指す。グルシュコは常々、「ロケットを飛ばすのは我々のエンジンだ。コロリョフは金属の缶(機体)を作っているに過ぎない」と侮辱していたのだった。
3月2日、コロリョフはついに、自分の“夢”の一部を手放した。一連の無人月面探査計画と惑星探査計画の全てを、ラボーチキン設計局に引き渡したのだ。
この設計局の局長はゲオルギー・ババキンという男で、コロリョフの盟友であり、特に信頼が厚い一人。そもそもラボーチキン設計局はチェロメイの傘下にあった一部署だったが、この時1つの設計局として独立し、ババキンがその任を負うことになったのだ。
コロリョフは彼に全幅の信頼を置いていた。計画引き渡しの際、「私の夢の一部をやろう。心して携わってくれよ」と語ったと言われる。
勿論、コロリョフがババキンを全面サポートしたのは言うまでもない。ルナの相次ぐ失敗の後など、党の内部ではルナ計画打ち切りの声も高まったが、ババキンの援護射撃をしたのはコロリョフだった。
12月、彼はメディカルチェックを受けた際、直腸にポリープが見つかり、摘出手術を受けることになった。それは年明け1月5日に予定されたが、準備の遅れから延期となった。
彼は、ベッドの上からも指揮を執り続けた。7日、彼の側近であるワシーリ・ミーシンが出席する会議の席上、一般工業機械省大臣セルゲイ・アファナシエフは、省予算の貧窮をブチあげ、辛辣に批判した。「無駄金を食っているのは、誰なのだ!?」などと怒鳴っただろうか、あのムッツリ顔は…彼は口数は少なかったが、発する声はいつも周囲を震え上がらせたと伝えられている(開発史12も参照)。それは明らかにミーシンに向けられたもので、激怒した彼は辞表を書いていた。しかしそれを傍の者がコロリョフに通報、彼はベッドの上からミーシンに電話をかけた。
「何をやっている」
「辞表を書いています。私は主任(コロリョフ)とならどんなにきつくてもやっていけますが、彼(アファナシエフ)とはやっていけません。」
「それを破り給え。大臣は来て大臣は去るというものだ。我々は自身の任務を遂行せねばならない。今辞めるのは、彼らの思うつぼだ。」
◇
1966年1月31日、ルナ9号がバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。全ては順調で、プラン通りのコースを辿り、2月3日午後6時44分52秒(世界時)、カプセルは月面に軟着陸した。そこは「嵐の海」と名付けられた土地だった。その後、カプセルはきちんとペタルを展開、カメラが月面のスキャンを始めた…そう、全ては順調に進んだ。月面上でカプセルは約3日間機能し、7回のコンタクトで通算8時間5分の通信が行われた。
この時得られた画像はつなぎ合わされ、パノラマが作られた。その画質は非常に良好なもので、表面は固く、岩石質であることをはっきりと示した。しかし何より、軟着陸を果たし、目の前に月世界を見せつけたのだ(下・360°パノラマ画像だが、エアバッグや激突したはずの母機の姿は写っていない。どうやらカプセルは傾いていたようで、視野の外になってしまったのだろう。右下はパノラマの右から2フレーム目の拡大。地平線は約1.5km先)。
だが、関係者達の喜びは、半分だった。なぜなら、この快挙を最も喜ぶはずだった人が、もういなかったからである…セルゲイ・コロリョフは2週間前、この世を去っていた。雪降る彼の葬儀の日、多くの者が涙した。
エンジニア達は誰もが、同じ思いだったかもしれない。皆、コロリョフと過ごした日々に思いを馳せた、かもしれない。
「あなたのメチータ(夢)は、ついに軟着陸をしましたよ…」
◇
「世界初!月面軟着陸達成!」そんな公式発表の準備が進められた。しかし発表に至るまでにはお決まりの、官僚機構にありがちな、やや面倒な手続きを踏まねばならなかった。さっさとリリースすればよいものを…。
そうこうしているうちに、思わぬ方向からとんでもない情報が入ってきた。
「大変です!イギリスの新聞に、ルナの画像が掲載されています!」
「なに!?イギリスだと!?…クソっ、あいつら!!」
しでかしたのは、そう、あのジョドレルバンク天文台だった。ルナ1〜3号の時は追跡を依頼していたのだったが、4号以降の追跡は依頼していなかった。しかしこの天文台は勝手に追跡を行い、ソ連が衛星を打ち上げる度にニュースリリースを行うようになっていた。やがてそれはエスカレートし、ソ連の公式発表を先んじるようにまでなった。
ソ連にとってもはや、邪魔臭いハエでしかなかったのだ。
そしてそのハエが、ついにやってしまったのだ。
ルナ9号が月面に到達する一部始終を、ジョドレルバンクはモニターしていた。カプセルから発せられる信号もキャッチしたが、それがファクシミリ信号であることにすぐ気付いた。この時、天文台にいた一人は言う。
「私はそれがすぐファクシミリだと気付きましたよ。なにせ、以前務めていた新聞社で聞き慣れた、特徴的な信号でしたからね!」
それはコード化されていない、単純なアナログ信号だった。天文台には新聞社「デイリー・エクスプレス」から借りてあったファクシミリがあったため、早速それに繋いで画像化が行われたという。
そして、そこに現れたのは、白黒の月世界だったというわけだ…。
ソ連政府は動揺を隠せなかった。晴れの舞台を台無しにされてしまったのだ。しかも、英国でリリースされたルナの画像は、縦横の尺度が間違っていた。ソ連はこれを鋭く指摘したが、しかし、それはもう、負け惜しみにしか聞こえなかった。
ただ、いずれにせよ、ジョドレルバンクの行為は興ざめである。ルナ9号の成果はあくまでソ連のものであって、彼らは単なるオブザーバーでしかなかったのだ。勝負事には真剣に取り組むのが英国紳士ではなかったのか。この行為は紳士のやることではなかった。やり過ぎた。
ジョドレルバンク天文台は、謝罪すべきだったと筆者は思う。
ちなみに米国でも傍受・画像化が行われていたが、当然だが、リリースされなかった。
ただし、これにはソ連の油断もあった。少し前に完成した32m大型パラボラアンテナが強力な能力を有していたため、信号をデジタル化しなくても受信できるだろうという判断があったという。
せめてもの幸いは、いや、本当に幸いかどうかはわからないが、コロリョフが生きてこの屈辱を目の当たりにすることなかったということだろうか…。
◇付録◇
ルナ9号の軟着陸成功と初期分析に関する記者会見が2月10日、ソ連科学アカデミーの主催で執り行われた。座長は科学アカデミー議長
M.V.ケルディシュ。内容はソ連国営タス通信を通してリリースされ、NASAのファイルにも保管されている。ケルディシュの開会挨拶と3人の関係者による分析報告、記者との質疑応答などはこちらで閲覧することが可能。なお、通信手段に関する質問に対して「通常のアナログFM波だった」と答えている。ジョドレルバンクのリリースを意識しての質問だろうか…?http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19660022599_1966022599.pdf
下はルナ9号に乗せられていたペナント。右は記念切手で、軌道がわかりやすくデザインされている。なお、軌道修正を施さなかった場合の航路がわざわざ点線で示されているのは、正確な軌道制御、それ自体を誇っているのだろう。
※謝辞 ルナのペナント及びパノラマ画像はDon P. Mitchell 氏(Soviet Exploration
of Venus)の
ご好意によります。
Many thanks to Mr. Don P. Mitchell for permission to quote the
picture of Luna pennant.
【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!
Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
NASA NTRS Technical Report Server http://ntrs.nasa.gov/
Jodrell Bank Observatory http://www.jb.man.ac.uk/
The Soviet Exploration of Venus http://www.mentallandscape.com/V_Venus.htm
「月を目指した二人の科学者」的川泰宣著 中公新書(1566), 2000
“Lunar Exploration” by Paolo Ulivi, Springer Praxis, 2004
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University
Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003