サーカス・サーカス
宇宙開発レースで“ロケットスタート”をきった旧ソ連だったが、次第に米国の追い上げを無視できなくなっていった…
1957年10月、旧ソ連(以下、ソ連)は史上初の人工衛星・スプートニク1号を、更にその1ヶ月後、犬を載せたスプートニク2号を打ち上げ、世界にその力を見せつけた。1961年4月には初の有人宇宙船・ボストーク1号を打ち上げ、搭乗していたガガーリン飛行士が「地球は青かった」と語ったのは有名な話である。その後、1963年6月までにボストークは計6機打ち上げられ、合計6人のロシア人が宇宙を飛んだ。しかも6人目は、これまた史上初、女性の宇宙飛行士であった(開発史(1)参照)。これに平行して他の天体、特に月への無人探査機も多く打ち上げ、その裏側の写真を撮影、地球人に初めて月の裏を見せつける等、宇宙開発の“金メダル”はソ連の独断場だった。
ただ実のところ、ソビエト共産党はあまり宇宙開発には理解を示さず、あくまで戦略ミサイル開発の一部、という位置づけのままだった。当時の指導者であったフルシチョフ書記長も、打ち上げ成功の報を受けた時は就寝の前だったといい、「そうか、おめでとう」と淡々と答え、側近に「コロリョフがロケットを打ち上げたんだと」と話したに過ぎなかったという。因みにコロリョフとは、「旧ソ連の宇宙開発の父」と呼ばれる男で、当時、彼のチームがロケット開発を主導していたことが知られている。
ところが。翌日、西側のメディアが大騒ぎしていることでやっと事の重大さを悟った男、ニキータ・フルシチョフ。休暇に出ていたコロリョフを電話でモスクワへ呼び戻し、絶賛した。
「いや〜、アメリカより先に衛星を飛ばしたとは、君の仕事はすばらしい、コロリョフ君!」
無愛想だったくせに、なんと調子の良い男だ。
「そこでだ、11月3日の革命40周年記念日に向けて、何か目立つものをあげてくれないか!」
この1ヶ月後、ロシアの犬が宇宙を飛ぶことになる。
世界史の舞台では様々な解釈があるが、フルシチョフは一言で言うとかなり強引な男だった。しかも彼には「電話」がつき物。コミュニケーションには必ずと言っていいほど電話が出てくる(歴史家が持ち出すのか?)。キューバ危機(1962)の際は、米ケネディ大統領との我慢比べに世界を巻き込み、後にこれが米ソ首脳間の直通回線「ホット・ライン」の創設へとの繋がった。
ロケットが共産党と自分の宣伝になると考えた彼は、現場を無視した命令を下すようになる。ハイテクの“ハ”の字も知らないオーナーが口を挟むという悲劇の始まりだった。
◇
この時、ライバルであった米国は何をしていたか?実は、米にも早い段階からロケットを打ち上げようという計画はあったが、陸軍と海軍が別々に主導していた。1958年1月にどうにか米初の衛星を打ち上げたものの、当時の大統領アイゼンハワーの認識が曖昧で、方向性もはっきりせず、迷走を続けている有様だった。
数年のロスタイムのあと、「宇宙開発は非軍事で」という方針を採択、米航空宇宙局(NASA)を設立し開発を1本化、本格的なロケットと有人飛行へ向けてスタートを切った。アイゼンハワーから大統領を引き継いだケネディが「60年代内に月へ人間を送る!」と言った“大風呂敷”演説(61年5月)が、米国のスタンスを決定づけたのはよく知られている。ただ、その後の米国の追い上げには目覚ましさがあり、1962年2月にはジョン・グレン飛行士が宇宙船・マーキュリーで地球を3周し、無事に帰還。その後も順調に続き、次世代型宇宙船(やがて「ジェミニ」と呼ばれる)の建造計画が発表された。(図左:マーキュリー、右:ジェミニ宇宙船)
マーキュリーは1人乗りで単に地球の周囲を回るだけのもので、飛行士の意志で軌道を変更したり、また、他の宇宙船とドッキングする能力はなかった。そしてこれは、ソ連のボストークにも当てはまることだった。63年の飛行を最後に、米ソの有人飛行は一息をつき、その後1年以上、有人飛行ゼロという"停戦"を迎える。
◇
将来に備え、より高性能の宇宙船を開発する必要性は、ソ連、いや、誰よりもロケットを理解しているコロリョフも痛感していた。ボストークを打ち上げ、様々なテストを繰り返しつつも、高い運動能力を備えた宇宙船(「ソユーズ」と呼ばれる)の開発に着手していたのである。
ところがそこに、米が同じような性能を持った、しかも2人乗りの宇宙船「ジェミニ」を計画しているという情報が入る。これは、米政府の公開プランに明記されていたものであり、これを知って焦ったのは、フルシチョフだった。
ただ、コロリョフも飛行ゼロのギャップは望まず、一連のボストーク計画の延長のようなプランを練っていた。ソユーズ完成は、早くても64年の年末になりそうだったからである。そんな矢先、フルシチョフはコロリョフに電話で次のような命令を伝えたといわれる。1964年2月4日の事だった。
「3人乗りの宇宙船を、直ちに発進させよ!」
勿論、米国の2人乗り・ジェミニ宇宙船をもろに意識してのことで、鼻息は荒かった。フルシチョフはスプートニク1号以来、事あるごとに米国を愚弄に近い言い方でこき下ろしてきた。しかしまさに今、ご自慢のロケットが、米国に追いつき追い越されようとしているのだ。
これをコロリョフがどう感じたかは、様々な言い伝えがあるが、一説には「チャンス」と思ったらしい。3人乗りを達成させる見返りに、大幅な予算増を見いだそうという考えが働いたというのだ。いずれにせよ彼は承諾し、計画を立案。4月には政府に正式了承され、9月には飛び立つことになった。了承から僅か半年ほどで打ち上げるという、かなり慌ただしい計画がスタートしたのである。
右がその宇宙船で、「ウォスホート」と名付けられた。(ただこの写真は、実際に3人載せて飛んだウォスホート1号ではなく、結局打ち上げられなかったウォスホート3号)。因みにウォスホートとは「日の出」の意。この姿、実はボストークと見た目何ら変わりはない。それもそのはず、ウォスホートはボストークを改造しただけだからだ。
まず、帰還時の着陸システムが大幅に変更された。1人乗りのボストークでは、大気圏に再突入後、飛行士が高度7000m付近で射出され(戦闘機の緊急脱出のように)、パラシュートで着地するようになっていた。ところが今度はそれができない。上の球体(カプセル)部分に飛行士が乗るのだが、直径2m程しかなく、3人を吐き出すためのシステムを構築するのは不可能だった。したがって彼らをカプセルに入れたまま地面に着地せざるを得ないため、パラシュートに加えて、タッチダウン寸前で噴かす逆噴射ロケットがカプセルに装着された。
また、内部はせいぜい、軽自動車の後部座席ほどのスペースしかない。そこに大の男が3人入るのだから、当然宇宙服を着ることはできなかった。ボストークの時には、飛行士は宇宙服を着用した。勿論カプセル内には空気が満たされてはいたが、万一、漏れた場合のことを考えてのものだった。ところが今回はそれができない。コロリョフも悩み、宇宙服無しには反対だったという話もあるが、結局、その選択を選ぶほかなかった。行きも帰りも命綱のない、まるでサーカス!
1964年初夏、ウォスホートの建造が始まった。建造といっても、ボストークをベースにした単なる改造である。ただ上述のような事情があったため、次第に大がかりなものとなり、当初コロリョフが割り当てていたエンジニアでは手が足らなくなり、ついには彼のチームのかなりの力が注がれることになった。重量もボストークより600kgも重くなり、当然だが、ソユーズ開発の足取りも重くなった。
テストが繰り返された。最大の関門は、パラシュートと逆噴射ロケットの信頼性である。何度も繰り返され、システムの改良が続けられた。うまくいかず、カプセルをつぶしてしまう事もあったが、どうにか全てがクリアされた。ただ、予定はかなりずれ込み、最後のテストが行われたのは10月3日で、これは打ち上げの僅か9日前であった。
またそれと平行して、搭乗する飛行士の選択も進められ、最終的にウラジミール・コマロフ(船長)、コンスタンチン・フェオクチストフ(エンジニア)、及びボリス・イェゴロフ(医師)の3人が内部決定された。それまでと異なるのは、エンジニアと医師が飛行するという点だ。かつてボストーク1号〜6号で飛んだ飛行士達はガガーリンを始め皆、身分は空軍パイロットである。ちなみに、最終的に誰が搭乗するかを告げられたのは、9日だった。
10月6日、コスモス47号という衛星が打ち上げられた。これは8日に無事帰還したが、実は無人のウォスホートだった。勿論、同型機による最後のテスト飛行で、無人といっても、2体のマネキンを積んだものではあったが。
なんと慌ただしいスケジュールであろう。しかも、打ち上げ前日の夜になって別のトラブルが発覚、装置を載せ替える必要が生じる始末。担当者は2時間ほど必要だと言ったが、より深刻な事態になるとも限らない。結果的にこのトラブルは克服されたが、普段はめったに慌てることのないコロリョフもさすがに動転したという。彼は既に、「打ち上げはいつでもOKです」と上層部へ報告していたのだ。
◇
1964年10月12日世界時間午前7時30分(日本時間同日午後4時30分)、3人を載せたウォスホート1号は轟音をたてて宇宙基地・バイコヌールの大地を蹴った。周回軌道に乗るまでの約9分間、ほぼ一直線に大気圏を駆け上がり、予定の軌道に投入された。そしてその1時間後、世界中に打ち上げ成功が“宣伝”された。(右:発射間近の姿。先端に宇宙船が収まっている)
全世界はまたまた、度肝を抜かれた。いきなり3人乗りの宇宙船をソ連は打ち上げたのである。特に米国の反応は早かった。2人乗りのジェミニすら完成していない中、ソ連は3人乗りの宇宙船をあげたのだ!ソ連は大々的に宣伝した。「エンジニアと医師が乗っており、科学的に充実したデータを収集することができる」という。勿論、スポンサーのフルシチョフも満面の笑みで彼らと交信した。「あはは、傍のミコヤンも電話を替わりたがってるよ!」ミコヤンとは彼の腹心の一人である。
だが実際のところ、彼ら3人が軌道にいる間何をしたかというと…何もしなかった。身動きが殆どできない窮屈なカプセルの中で、じっとこらえていただけだった。無事に帰還さえすれば、それでよかったのである。しかも詳細はそれほど発表されず、どのような宇宙船なのかも伏せられたままだった。思いこみのまま、米国陣営は「3人乗りの新型宇宙船」という結論を引き出してしまった。具体的な事が公になったのは、まだつい最近のことである。
打ち上げからほぼ24時間後の10月13日、カザフスタンの草原に着地して、サーカスは終わった。一番懸念されていたパラシュートも、逆噴射ロケットも期待通りの働きをした。ソ連のメディアが正式に成功を発表したのは同日・日本時間午後6時だった。
◇
ところが。着陸地点から約310km離れた地方都市・クスタニへ飛行士らが到着した際、電話によるフルシチョフ直々の“歓迎コール”が無かった。それまでの飛行士達にはおなじみだったのに、である。翌日彼らはバイコヌール宇宙基地へと戻り、祝賀会が催されたが、その夜、モスクワではソ連共産党中央委員会が緊急招集された。「何か、ただならぬ事態がモスクワで起こっているようだ」と、コロリョフの同僚は日記に書いた。
15日、モスクワの共産党書記長の居城であるクレムリン宮殿でのフライト報告会はキャンセルされ、ついにはコロリョフ自身、モスクワへ招集されてしまった。この日、中央委員会は次の決定を下した。
「共産党第一書記(書記長)、ニキータ・フルシチョフ、解任」
農業政策の失敗と米国への譲歩が保守派の反発を招いたというのが世界史の通説だが、それらは全て、彼の強引さが招いた結果でもあった。いつの間にか彼の周りは敵だらけで、クーデター計画は、あの腹心・ミコヤンも知っていたと言われる。何も知らなかったのは、フルシチョフだけだった。
彼のご自慢の3人乗り宇宙船は、確かに世界をアッと言わせたが、自身の解任劇がそれを完全に吹き飛ばしてしまったのはなんとも皮肉な話である。
【Reference】
Sven's Space Place http://www.svengrahn.pp.se/
Encyclopedia
Astronauticac Mark Wade http://www.astronautix.com/
「月を目指した二人の科学者」 的川泰宣 著 中公新書, 2000