ヤー・チャイカ!
2003年6月16日、ロシア共和国首都・モスクワ。ここで、御年66歳の女性が、ロシア副首相を始めとして多くの、いや、世界中の関係者から盛大な祝福を受けた。
彼女の名はヴァレンティナ・テレシコワ。この日、人類初の女性宇宙飛行士として彼女が地球を飛び出してから、ちょうど40年を迎えた。彼女は旧ソビエト(現・ロシア)で6人目の、米ソあわせても10人目に宇宙を飛んだ飛行士である。しかも、単身で飛んだ女性は今だ、彼女だけだ。
ソ連は1961年、世界初の有人宇宙船“ヴォストーク”1号を打ち上げ、無事に回収することに成功した。搭乗していたガガーリン飛行士が「地球は青かった」と語ったとされるのは、よく知られた話。その後同国はヴォストークでたて続けに飛行士を打ち上げたのだが、その6番目にあたるのが、彼女であった。
ちなみにこの船だが、これは、セルゲイ・コロリョフという男とその仲間たちが設計したもの。彼は「ロシアのロケット開発の父」とも称される逸材で、世界最初の人工衛星“スプートニク”を製作したのも彼とそのチームだ。
写真がその、ヴォストーク宇宙船である。上部のカプセルに飛行士が乗り、下部には各種装置が収められている。カプセル内には空気が満たされていたが、万一、カプセルに空気漏れなど生じたときに備え、飛行士は宇宙服を着用して搭乗していた。
さらにこの船は高度に自動化されており、飛行から軌道離脱、大気圏突入まで全て地上からの指令で行われていた。つまり、飛行士はじっと座っているだけでよかった。
地上に帰還するのは球状のカプセルの部分だけであったが、しかし、当時はまだカプセルの軟着陸技術が確立しきれず、飛行士は高度7000m付近で船外へ射出され、パラシュートで帰還するようになっていた。
テレシコワは1937年3月、Maslennikovoという小さな町で生まれた。父はトラクターの運転手であったが、第二次大戦中にこの世を去り、母手一つで育てられる。大戦直後の1945年、働きながら学校に通い始めた。
彼女はかなり早くからパラシュートでの降下に関心を抱いていたといわれる。当時、女性では珍しい部類だったに違いない。地元の飛行クラブに所属し、最初のジャンプを果たしたのは22歳の時。その直後、彼女自身がパラシュートクラブを立ち上げているから、その行動力と実現力は、既に人目を惹くものであったろう。2年後にはコムソモール(青年共産主義同盟)の委員にもなっている。
1962年2月、彼女は女性宇宙飛行士の候補として選ばれる。彼女を含めて候補は5人であったが、皆、男性と同じトレーニングを積み、教育を受けた。体力トレーニングには120回のパラシュート降下と戦闘機飛行などの訓練も盛り込まれていたが、彼女は難なくこなした。ただ、ロケット理論と宇宙船工学は難しかったようだ(パラシュート降下に力が入れられていたのはやはり、帰還がそれによるものだったからであろうか)。
1963年2月までには最終的に彼女が選ばれ、飛行プランも作成された。それは、ヴォストーク5号と6号が共同飛行するというもので、6号に彼女が搭乗するというものだった。
彼女が選ばれたのは、「穏やかな性格と、報道インタビューに、“共産主義者らしい”受け答えをするから」だったと言われる。女性が飛ぶことは、ソ連、特に当時の“ドン”であったフルシチョフ書記長にとっては“プロパガンダ”(宣伝)の意味しか無かったのだ(写真・宇宙服に身を包むテレシコワとコロリョフ(右端))
かくして、その日は来た。1963年6月16日日曜。整備塔にあるエレベーターでロケットの先端に向かう彼女。飛行士の脈拍や血圧は、乗り込む前の段階から計測が始まっている。彼女が整備塔の天辺でまさに乗り込もうとしているとき、脈拍は140に達していた。
発射場にアナウンスが轟く。世界時午前9時29分(日本時間午後6時29分)、塔がロケットから離れ、メーンエンジン点火!天地を引き裂く轟音と白煙を残して、一気に大気圏を駆け上がっていった。ちなみに5号にはビコフスキー(Valeri
Bykovskiy)飛行士が搭乗し、2日前に軌道に乗っていた。“共同飛行”と言ったのは、両者は至近距離接近(ランデブー)するわけではなかったからだ。
無事に軌道に乗ると彼女は、「ヤー・チャイカ、…」と交信を開始する。“チャイカ”とは、交信時の彼女のコードネームで、直訳は“カモメ”。勿論、ニュアンスとしては「こちら、チャイカ。どうぞ!」といった感じだ。ここで、ソ連当局が発表した当時のフライト記録を簡単に眺めてみよう。彼女は結果として、4日間飛行した。
・16日日曜 打ち上げ。全てのミッションは順調
・17日月曜 殆ど寝ていた。飛行に関するテスト少し
・18日火曜 順調に飛行
・19日水曜 全てのミッション終了。帰還
…あからさまに、これはおかしい。“3泊4日の旅”の2日目に「殆ど寝ていた」など、普通あり得ない。実はこの時、当時既に囁かれていたことだが、彼女は大変な状態に陥っていたのだ。
月曜日に入り、地上管制部は明らかに苛立っていた。というのも彼女はその頃、“宇宙酔い”に苦しんでいたのだが、苛立ち、その上八つ当たりを始めていたのだ。そしてついに、交信不能に陥る。
管制部は、彼女を繰り返し呼び出した。5号からも呼びかけたが、応答は無かった。一方、彼女の方も、両者を呼んでいた(一連の交信は当時、アマチュア無線家でも簡単にキャッチでき、世界各地で傍受されていた)。「ヤー・チャイカ」を連発する彼女。このフレーズは「私はカモメ」と解され、可憐なイメージが世界中を満たした。
しかし、現実の彼女はこの時、可憐どころではなかったのである。
(写真:船内のテレシコワ。顔を見上げるようにカメラが設置されていたため…残念な映り具合ですね(^^;
)
これはどうやら、彼女が無線機のチャンネルを間違えるなど、初歩的なミスを犯したためだったようだ。交信が再開したのは、約6時間後であった。
他にも、暴れて窓ガラスにヒビを入れ、挙げ句にはコロリョフを呼び出し、罵声を浴びせる始末。理性的であった彼もさすがに、予定していたミッションの一部を諦めざるを得なかった。彼女には任せられない、と判断したのだ。
6月19日、テレシコワは無事に帰還する。この時も、大気圏突入にあたってのチェックがいっさい彼女から送られず、地上はハラハラしっぱなしだった。
結局、この様な彼女の一連の振る舞いは「女は宇宙には向かない」という印象を決定づけてしまい、数年後、女性飛行士チームは解散させられてしまった。彼女自身も、二度と飛ぶことは無かった。
このような有様であったが、今日、彼女のことを悪く言う者は、いない。彼女に対する敬意の念も、変わることはない。彼女は当時、26歳。本当に命がけで宇宙を飛んだ、最初期の人間なのである。(写真は近年の女史)
【Encyclopedia Astronautica © Mark Wade/ Energia】