スペース・ドッグ 〜犬の話〜

ウェブサイト管理人の大半は、自身のサイトの来訪者がどのような検索ワードで辿ってきたのか、よくご存じだと思う。当サイトも記録が残っているが、キーワードで最も多いのは「シャトル」、「宇宙開発」といったものではなく、実は「ライカ犬」、「スプートニク2号」の両者だ。これらは他を圧倒しており、それほどまでに関心が高いのか、と驚かされる。

どうやら映画の台詞や楽曲の歌詞に関連フレーズ(他、アニメのオープニングのワンシーン)が出ているようで、これが気になって検索している人が殆どのようである。犬好きな方も多いようだ。

 「地球を最初に周回した生物は何か?」

宇宙ファンには基礎中の基礎であるこの問に、殆どの人は答えることができない。だが、もう50年も前のことだ…学校の教科書にも出て来ないし、むしろ当然だろう。ただ、年配の、スプートニク2号の打ち上げ報道にリアルで触れた世代はほぼ正答だが…。

スプートニク2号で飛行したライカ犬は、回収されなかった“特攻”であったため、ソ連は世界中の愛犬家達の非難の矢面に立たされた。そしてこれは今なお、一部の犬好きの間で続いている。

犬という人間に一番なじみ深い、知能も高い動物を実験台にしたこと、そしてそれが特攻であったこと、これらが、“ライカ犬伝説”が息の長い理由の1つだろう。これがサルだったら、伝説になっていたか…?

ソ連は宇宙開発初期、犬を使って様々なテストを行っていたことが知られている。当サイトの「宇宙開発史」(7)(8)でもガガーリンの飛行に先立った“テストドッグ”達をご紹介しているが、ここでは特に、ライカ犬以前の犬たちについて、簡単にまとめてみることにしよう。


ソ連の宇宙開発を主導していた“チーフ・デザイナー”こと、セルゲイ・コロリョフ(写真)は終戦間もない1948年の末、世界でも名高い航空エンジニア、アンドレイ・ツポレフ(Andrey N. Tupolev)に対し、人間の宇宙飛行に関する構想を語っている。

コロリョフはその際、ツポレフから一人の青年を紹介され、コンタクトをとるようにアドバイスを受けた。その青年の名をウラジミール・ヤツドフスキー(Vladimir A. Yazdovsky)といい、中央アジアのタシケント医科大学出身で、モスクワにある空軍医学研究所で働いている男だった。

年が明けた1949年1月、コロリョフは早速、ヤツドフスキーに電話をかけた。

「ヤツドフスキー君かね?私は国の機関で“特別な装置”を開発している者なのだが…突然の電話を申し訳ない。」

上の語りは筆者の想像だが、コロリョフが“特別な装置”と発したのは事実で、当時、ミサイルなどの軍用フレーズを電話で語ることは禁じられていた(他、「コロリョフ」の名を語るのも禁じられていたのではないか)。

彼はヤツドフスキーを医学研究所の傍の公園に誘い出して、こう語りかけた。

「アンドレイ・ニコラエビッチ(ツポレフ)同志が、君にコンタクトを取るように勧めてくれたのだ。将来、宇宙船に生物を乗せるプログラムを練っているのだが…私は、ぜひ君に協力して欲しいのだ。私はその分野(生物)に関して、現在、そして過去に、どのような研究が行われてきたのかわからないのだ…」

突如降りかかったヘッドハンティングに、ヤツドフスキーはしぶったという。そりゃ当然だ…いくらツポレフの同志とはいえ、見ず知らずの素性もよくわからない男から、いきなり協力してくれと言われるのだ。しかも、仕事の内容も初耳のものばかり。「コイツ本当かなぁ」と疑うのが普通だろう…ツポレフに確認を取ろうとしたかもしれない。

だが、“コロリョフゼリフ”の真骨頂はここからだった。独特のオーラを発しながら、語っただろうか。

「あぁ、どうか来てくれないか…!君は自分のキャリアを、医学の研究だけで終わっていいのか?私は君に、もっとスゴいチャンスを与えようとしているのだよ!」

確かに、人生で一度あるか無いかのチャンスだ。しかし、ヤツドフスキーはまだ、事の重大さに気付いていない。

 「ロケットなんて見たことがない」

ヤツドフスキーはなおも反発する。だが、コロリョフは続ける。

「そうか…だが、ひとたびその飛翔を目の当たりにしたら、君は残りの人生をロケットに捧げることになると思う」

なんと、一度見に来いというのである。しかも、その魅力に絶対、虜になると言い切っているのだ。

ただ、ヤツドフスキーがどう言おうと、彼の運命は決まっていた。コロリョフは強引な男だった…数日以内に国防大臣に働きかけ、ヤツドフスキーの現在の仕事全てを別の者に振り分け、有人宇宙飛行に向けた生物学的リサーチの任務を与えるよう、取りはからってしまったのだ!

国防大臣の命令には、さすがに逆らえない。いや、それ以上に、“謎の男”の力を気味悪がった、かもしれない。

まるで映画のワンシーンのようなスカウト劇の後、コロリョフの下で仕事をすることになったヤツドフスキーには、部下として一握りの小グループが割り当てられ、生物部門を担当する研究チームが発足した。この時、ヤツドフスキー、35歳だった。

近未来の有人飛行を見据えた当面の目標は、生物をロケットで飛ばし、それが与える影響を調べることに定まった。


ところで、当時ソ連には、宇宙医学に関する書物は皆無に等しかったため、彼等の最初の仕事は、米国で行われた関連研究のテキストを翻訳することだったという。ただ、米国すら満足な研究は行ってなかったのではないかと筆者は思うのだが…いずれにせよ、殆ど全てが手探りだったのは間違いないのだろう。

詳細な分析の結果、ヤツドフスキーは認識すべき重要ポイントとして、以下の3項目を明らかにした。

(1)真空、放射線、厳しい温度変化、及び微少隕石の存在する環境
(2)飛行中における振動、騒音、及び無重力の存在
(3)極小閉鎖空間に閉じこめられる影響

これらを総合した上で、実験に用いる最も適切な動物として、サルと犬が候補に挙がった。だが、1950年の末までには、犬を用いることに固まっていたという。というのも、サルは風邪をはじめとして病気にかかりやすく、また、その落ち着きのない、荒っぽい動きは体に取り付けたセンサーを引きちぎってしまうだろうという懸念があったからだ。犬はしつけがたやすく、飢えに強いといったのも大きな特徴だった。

ちなみに、犬はマヌケ面のサルと違って、見栄えがよいというのも理由だったようである。将来、新聞の一面を飾るのに、お行儀が良くないと世間ウケしない。

1950年12月、犬の使用が正式に決まり、この“生物打ち上げプロジェクト”を監督する国家委員会(実行委員会)も設立され、議長にソ連科学アカデミー会員であるアナトリー・ブラゴンラホフ(Anatoliy A. Blagonravov)が任命された。

また、より細かな条件の選定が開始された。だがこれには、ロケット技術側と、生物リサーチ側の、両側からの要求があり、ヤツドフスキーらは多くの障害を乗り越えねばならなかった。

生体研究者達は、1機につき2頭以上乗せるように要求した。これは、複数乗せてデータを取らないと、比較対象ができないという理由からだった。それゆえ犬たちは、殆ど身動きが取れないような狭い空間に“詰め込まれる”ことになった。

当然だが、妥当な犬のサイズは極めて小さくなる。体重6s以下、身長35cmを越えないということが設定された。しかも、白もしくは明るい色の毛を持つ犬がよしとされた。犬を撮影する映写機が積まれており、明るい色が動きをはっきりと際だたせるという理由からだった。耐久力に優れ、しつけに従順な犬、という条件もついた。

最後には、「メス犬に限る」とされた。これは犬に着せるスーツや排泄の際の姿勢などに関して、オスでは問題があるからだった。

さて、このような犬をどこから連れてくるか、であるが…これは単純に、野良犬を集めただけであった。よく、「モスクワの街路地をさまよっていた犬たち」と言われるが、別に“モスクワ在住の犬”に限ったことではなかったようである。何せ条件が厳しいため、見合いそうな野良犬がいればそそくさと連れ帰り、プールされていたようだ。探しに行く下級職員の中には、

 「更なる上には、青い目をして、ハ長調で吠える犬でも探してきましょうかね!」

…と、おふざけを言う者もいたというほどなのだ。まるで映画(笑)。

こうして連れてこられた犬たちを遠心加速機に乗せて加速テストを行うなど、ヤツドフスキーらは厳密なるチェックを進めていった。ちなみにこれらはモスクワにある空軍施設で執り行われたが、そこはロシア革命以前はホテルだったところ。勿論、中で何が行われているかは極秘だった。


ところで、犬たちを打ち上げるロケットの開発も進められていた。これには、ソ連が大戦後にドイツから接収したV-2ロケットを模造した“R-1”ロケット(開発史4参照)の改良版が用いられることになった。最高高度付近では数分間の無重力が生じ、犬を積んだ先端は切り離され、所定の高度でパラシュートを展開、地上に帰還する仕様になっている。

R-1ロケットの改造が正式に始まったのは1949年12月30日のことで、当然、担当するのはコロリョフ設計局(OKB-1)だった。1950年から51年にかけ、ヤツドフスキーらの要求に応えるべく推力アップなどの大幅な改造が加えられ、完成したロケットは“R-1B”ないし“R-1V”とコードがあてられたが、もはや初代のR-1とは大幅に異なる姿になっていた(右図)。

R-1B/V は直径1.65m、長さ17.5m、総重量13.4トンで、飛行到達高度は約100kmに達する。これで「弾道飛行」と呼ばれる、いわば超特大アーチのフライ飛行をおこなうのだ。

当然ながら、犬の脈などのデータを送信するテレメトリーシステムも搭載され、誘導装置もより精度の高いものになされていた。先端部には犬を入れたコンテナや各種器機が積まれ、更にパラシュートも詰め込まれるなど、かなりギュウギュウだったに違いない。


1951年夏、ブラゴンラホフを議長とする国家委員会のメンバーや、ヤツドフスキー率いる生体研究チーム、コロリョフと第1設計局のメンバーらが、打ち上げ場のあるカプースチン・ヤールに入った。ここは黒海沿岸・クリミア半島にある一地方だった。

犬は“初期メンバー”として9頭が選択され、うち8頭の名をそれぞれ「アルビナ」、「ボビク」、「デジク」、「コザーフカ」、「リサ」、「マリューシュカ」、「スメラヤ」及び、「ツガン」という。ヤツドフスキーは記念すべき初飛行に搭乗する犬として、デジクとツガンの2頭を選んだ。

1951年7月22日早朝、犬たちを乗せたR-1Vロケットが打ち上げられることになった。

作業が開始されたのは午前4時だった。空は淡い灰色に染まり、いま暁の中を、歴史的なロケットが飛翔しようとしている…静寂な空気が一面を覆ってはいたが、チームは興奮を隠せないでいた。

皆、犬たちを囲んでいた。2頭には特製のスーツを着せられ、体にはテレメトリーセンサーが装着されている。ミルクとパンが与えられ、彼等はそれを美味そうに食べた。

ヤツドフスキーは2匹を、ロケットの先端に運び、特製のケージに入れた。その空間では自由な身動きはできなかったが、だからと言って、すき間もないほどではなかった。彼は犬たちを入れると、鼻の頭をなでながら声をかけた。

  「 Удачи !」

日本語では「成功を祈る!」という意味になる。ただ、「無事に帰って来いよ!」という願いも込められていたのではないだろうか…ヤツドフスキーはきっと、いろんな想いを巡らせていたに違いない(右:このような飛行で用いられていた特製のケージ)。

関係者達は皆、ぞろぞろと後方へ退避する。地平線の彼方は白み始め、光の筋が東の空を奏でつつある…正に空気が澄み渡るこの瞬間、エンジンのスタートボタンが押し込まれた!

ロケットは、激しい火炎と煙を吹き始め、一気に上昇を始める。それは、彼等が後年手に入れる大型ロケット・R-7のゆっくりとした、優雅な上昇とは異なり、まるでロケット花火。朝靄の静寂を打ち破り、光輝きながら天を駆け上る銀色の機体。それは歴史の幕開けとして、絵になる瞬間であったに違いない。

ロケットは一筋の白煙を残して舞い上がり、発射から約188秒後、高度101kmに到達、速度は秒速4.2kmに達する。犬たちは約4分間の無重力を体験する。その後、先端が切り離され、落下、高度6kmでパラシュートが展開することになっている。

打ち上げから約20分後、白いパラシュートが降りてくるのが見え始めた…そう、全てはシナリオ通りだった。ヤツドフスキーは当初、犬が着地するまでその場を動かないように申し伝えていたが、パラシュートがゆらゆらと降りてくるのを見ると皆、車に乗り込み一目散!着地地点に到着すると、ハッチを大急ぎで取り外す!

やがて中に見たものは…しっぽをフリフリ、ワンワンと吠える元気な犬たちの姿だった!

ただ、ツガンは着地の際負傷をしていたこともあり、今後は歴史の“生き証犬”として“地上勤務が言い渡され”、二度とフライトすることはなかった。研究員がやってきて体のチェックをするときなど、それまではストラップで叩かれることもあったが、そのようなことも二度となかった。

なにせ、“宇宙飛行士”になったのだから。


ちょうど一週間後の7月29日、2回目のフライトが行われた。だが、成功裏に終わった初飛行とは対照的に、この打ち上げは悲劇に終わった。

打ち上げロケットにはR-1Bが用いられ、犬はデジクとリサの2頭だった。打ち上げプロセスは順調だったが、上昇中、機体の振動によりパラシュート展開装置が誤作動を起こし、パラシュートが飛び出してしまった。当然ながら機体は瞬く間にバランスを崩し、墜落、ステップの大地にたたきつけられた。

関係者達は慌てて駆けつけた…しかし、機体は潰れ、犬たちも助からなかった。データレコーダーだけは何とか回収された。

コロリョフは、犬たちの死をひどく悲しんだという。


2週間後の8月15日、3度目の飛行が行われようとしていた。ところがこの時は、ちょっとしたハプニングが起きた。

飛行予定の犬として、「スメラヤ」と「マリューシュカ」が予定されていたが、前日の14日、スメラヤがふとした隙に逃げ出したのだ!

関係者達は肩を落とした…それは、翌日のフライトがキャンセルになることよりも、スメラヤの運命に、である。ステップには血の気の多いジャッカル(オオカミの部類)が多いからだった。「たぶん、ジャッカルの餌食になるだろう…」現場は暗い雰囲気に包まれた。

しかし。翌朝、元気よくしっぽを振りながら帰ってきたのは、スメラヤだった!他の動物に襲われた形跡もなく、怪我もなかったため、皆大喜び!「よく帰ってきたなぁ!!」きっと、多くの者達は顔を緩めたに違いない。

打ち上げは予定通り行われた。彼等は高度100kmまで上昇し、パラシュートで帰還した。


翌月の9月3日、通算6度目の打ち上げが予定されていたが、またまた犬が逃げ出した。

逃げ出した犬はボビクだった。ボビクはもう1頭の犬(名前はわかっていない)と飛行することになっていたが、打ち上げ場へ向かう途中、逃げ出したのだった。

現場は大騒ぎになった。ヤツドフスキーは代わりの犬を急遽探してくるよう、部下に命じた。

代わりの犬は、近くの食堂のようなところで確保されてきた。どうやら、そこで皆に飼われていた野良犬の中の1頭であったようである。

コロリョフはその犬に“ZIB”(жиб)と仮の名を付けた。これは「逃げ出した犬ボビクの代替」という意味の頭文字と言われている。ZIBは簡単な訓練を受けて、フライトに臨んだ。打ち上げは成功し、ZIBと名無しの犬、2頭は無事に帰還した。

ただ、逃げ出したボビクはついに帰ってこなかったようである。


ここまでに6度の打ち上げが行われ、のべ9頭の犬がフライトし、その中の3頭は2度経験した。ただ、4頭の犬が犠牲となっている。

生体データは、充分な量が得られたという。具体的には体温、脈、ケージ内の温度と圧力であり、一方、装着された映写機には、犬の振る舞いが克明に撮影され、映像は極めて有用だったという。また、飛行を前後して、X線撮影や体重の変化の記録なども行われていた。

犬たちが入れられたケージには、本格的な生命維持装置が備わっていた。酸素30%のエアが7リットルを占め、ソーダ石灰が二酸化炭素を吸収し、シリカゲルが水蒸気の吸収剤として用いられた。

また、8月15日の飛行では、初めて生体以外の科学観測器機が積まれていた。これは、高度100kmにおける太陽放射を調べるためのものであり、有意義なデータが得られたという。

デジクとリサが犠牲となった2度目の飛行後、計画を管理する国家委員会議長・ブラゴンラホフはツガンをモスクワへ連れて帰り、自分の飼い犬としてしまった。ツガンは極めて長生きし、しばしばブラゴンラホフと散歩する姿が街路地で見られた。両者の姿は極めてマッチした、ほのぼのとした姿だったといわれている。


このような犬を乗せたロケットの発射はこの後も続けられた。1954年7月から1956年6月までの約2年間に、のべ20頭が飛行したが、犠牲となった犬たちも多かった。

1957年5月にはR-1の後継機であるR-2ロケットによる更なる高高度飛行が行われた。これにはリューザとダムカという2頭が乗せられ、高度212kmまで打ち上げられたが、無事に回収されている。

この後、1957年11月3日、スプートニク2号が打ち上げられ、世界を驚かすことになる。これは地球を周回する人工衛星であり、乗せられた犬は「ライカ」と公表されたが、これはそもそも「クドリャフカ」という名だったのはよく知られた話である。

地球周回軌道からの大気圏突入技術がまだなかったため、特攻を余儀なくされ、世界中から非難を浴びることになったのは、最初に述べた通りである。

ただ、多くの、コロリョフやヤツドフスキーを始めとした関係者達は、犬たちに対してそれなりの敬意を払っていたのは間違いないと思う。デジクとリサが犠牲になったときなど、コロリョフは非常に悲しんでいたのだ。(右:1954年、R-1D ロケットで打ち上げられ、回収された直後の犬を抱えるコロリョフ)

スプートニク2号打ち上げの後、ヤツドフスキーはライカをこう評している。

「ライカは素晴らしい犬だった…素直で極めておとなしかった。打ち上げの前、私は宇宙基地からライカを自宅へ連れて帰り、子供たちに見せたことがある。彼等はライカと一緒に遊んだりした。私はライカのために、何か素晴らしいことをしてあげたかった。だが、諸君が知るとおり、彼女は僅かな間しか生きなかったのだよ…」

ライカを始めとして、犠牲になった犬たちの慰霊などが行われていたのかどうか、その辺は全くわからない。犬たちの普段も詳細はわからないが、ひどい扱いを受けていたわけではないだろう。スプートニク2号の打ち上げでは、ライカが詰め込まれる際、誰もが複雑な、理屈では説明できない感情を抱いていたと筆者は信じる。政治や科学のためではあったが、それ以前に、関係者は人間であったはずだ。

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
Капустин Яр http://www.kapyar.ru/
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Russian space dogs” in encyclopedia.thefreedictionary.com