チーフ・デザイナーの素顔

「貴様、これが何だかわかっているのかっ!」
「オマエはクビだ!!」

コロリョフの物語を読めば、その活躍に熱いものが込み上げてくる。波瀾万丈な人生もさることながら、そのプロデューサーぶり…読者が彼に寄せるのは理想の上司像か、はたまたヒーロー像か…しかし現実のコロリョフは、もっとドロドロとした、人間臭い男であった。

冒頭は、彼の怒鳴り声である。彼は時として、相手が半泣きになるまで罵倒することがあった。しかしそんな彼の素顔を知るにつれ、より興味深さが増していく。当連載でも随所に彼の活躍や行動、言動を散りばめてきたが、ここで改めてまとめて眺めてみることにしよう。


セルゲイ・コロリョフが1908年1月に生まれ、小さい頃から飛行機に興味を持っていたことは既に述べた。きっかけは、6歳の夏、広場で飛行機の実演が行われた時のことだった。

「お母さん、シーツを2枚ちょうだい!」
「何をするの?」
「足と腕に結んで煙突に登るんだ。空を飛ぶの」
「そんなことしたら死んじゃうじゃない!」
「いや。鳥は飛んでるじゃないか」
「鳥はしっかりした翼を持っているのよ」

これは、この時のセルゲイ少年と母マリアの会話として、コロリョフ家に伝えられている伝説だという。コロリョフの空への原点とも言える。

彼は17歳の時キエフ工科大学へ通い始め、グライダー製作に没頭。後にモスクワ高等技術大学へ転籍するが、そこではツポレフに従事した。ツポレフは「中央流体力学研究所」(TsAGI)と呼ばれるロシア航空工学のメッカで死ぬまで飛行機を設計し続け、「ツポレフ」としてその名を航空機に残す大家である。彼は後年、コロリョフに関してこう回想している。

「コロリョフは、そう、“簡易学位学生”の一人だった。私は彼と接してすぐ、彼が将来どんな男になるのかを悟ったよ。彼にはほんの少し、ちょっとしたアドバイスを施してやるだけで充分だった。人格的にも、その実力(設計力)にも、常に素晴らしい印象を受けたものだ。自分の仕事とアイディアに、際限なく献身することのできる人間だったよ。」

当時、エンジニアの育成を急務と判断した政府は、エンジニアリング教育に直結した講義と試験、卒業制作のみで学位を与えることを決定しており、そのカリキュラムに従って学位を取得した学生のことを“簡易学位学生”と呼んだ。筆者は詳細を知らないが、恐らく文系教養科目などは殆ど削られたのだろう。コロリョフは微積分が苦手だったということを聞いたことがあるが、工科では必須のそのような科目すら、だいぶ簡略化されていたのかも知れない。


ところで、筆者が彼の人生を辿っていてかなり考え込んだのは、彼を宇宙へ誘った直接の理由は結局何だったのかということである。空に対するコロリョフの原点は飛行機であり、ロケットでも星でもない。彼自身は自作のグライダーに熱中したわけだが、ゴールは大空を飛ぶことにあり、大気圏を飛び出し月や火星を目指すことではなかった。ちなみにグルシュコの場合ははっきりしている。幼少期に読んだジュール・ベルヌの物語がきっかけで宇宙飛行の虜になったのであり、そういう意味ではグルシュコの方が、筋が通っている。

そう、「ソ連宇宙開発の父」と呼ばれる男であるのに、彼が宇宙を志すようになった肝心のきっかけが曖昧なのだ。

筆者はコロリョフに興味を持って以来、複数の文献に目を通してきたが、彼が宇宙への魅力にとりつかれた動機について、納得いく説明をしたものを見ていない。どれも端折って言えば「幼少の頃は飛行機に強い関心→青春期はグライダーに没頭→GIRDに入る→逮捕・強制収容所へ→釈放・ドイツへ視察→…」という流れで話は続き、いつの間にか宇宙を目指すようになっている。当連載の「メチタ・男の夢()・()」もその流れで描いてみたが、実際はどうだったのか?

ここでひとつ考えられるのは、「コロリョフがツィオルコフスキーに会って、インスピレーションを受けた」という可能性だ。通説によると、1929年22歳の時、ツィオルコフスキーを訪問、そこで授かった話に感動したのがきっかけだったという。しかもこのことを、コロリョフ自身が後年語ったことがあるのだという。

だがこのエピソードは、コロリョフの捏造である可能性が高いと多くの研究者は考えている。日本のコロリョフ研究の第一人者・富田信之氏もこの辺の分析を詳細に行っており、当時の状況とタイムライン、後年のコロリョフの行動などからやはり否定的な結論に限りなく近いという見解を導き出している(脚注参照)。

しかも、1931年に成立したGIRDにコロリョフは参加するが、当時の彼はロケットを、グライダーの推進機関として認識していたのだ。主体はあくまで飛行機であり、それに取り付けたら大気圏をより高く、より速く飛べるのではないかという程度の発想であり、宇宙へ飛び出すことまで考えてはいなかったようである。

GIRDを主催していたツァンダーは宇宙を目指して一本道であったが、では、彼と議論を進めていくうちに宇宙への関心が芽生えていったのだろうか?1933年、液体燃料ロケットの実験飛行に成功し、コロリョフがその興奮をGIRDの会報に記したことは既に述べた。「ソビエトのロケットが必ずや、宇宙を征服する」という一文が入ったもので、この時既に宇宙を意識していた可能性がある。ところが一方では、38年に逮捕されるまで、彼はずっとロケット付き飛行機(ロケットプレーン)の開発に力を入れ、宇宙に関心を寄せるそぶりはなかったとも言われる…矛盾している感じがするが、一体どういうことなのか。

これは、以下のように考えればつじつまが合いそうだ。実はツァンダーは有翼型、つまり飛行機型宇宙船の優位性を強く主張していた人物であった。それゆえ最終目標は異なっていたとしても、この“飛行機”という点でコロリョフと気が合ったと考えるのは自然であろう。GIRDの会報を執筆しながらコロリョフが想像したのは、ロケットエンジンをつけた飛行機が大空を飛ぶ姿であり、この時宇宙はオマケだったのかもしれない。この二人は、そういう意味では同床異夢だったのかもしれない。

そして、そもそも飛行機に熱中したのは、最初に見たのが“たまたま”飛行機だったからで、時代が違い、初めて見たのがロケットだったら、初めからその虜になっていたのかも知れない。幼少期の彼はひとつ没頭したらそれしか見えなくなる、傑物にはしばしばありがちなタイプの子供だったのだろう。本当はもっと広い世界があるのだが、子供ゆえにそこまで頭が回らない、気づかない。そしてその原初体験のみが原動力となったため、青春時代に突入しても、宇宙をおぼろげながらに意識はしつつも、結局のところ飛行機しか見えていなかったのではないか。

時系列で言えば、ここで逮捕投獄され、数年間研究はストップする。だが保釈後、彼は考えを以前とは全く異なるものに転換してしまう。

例えば、コロリョフが強制収容所から戻され、兵器研究に関わり始めた頃、兵器としては弾道ミサイル(=ロケット)と巡航爆撃機(=爆弾を搭載し目標へ突っ込んでいく飛行機型ミサイル)のどちらが優位かをスターリンから問われた際、前者と答えている。この頃既に、翼は必ずしも必要ないという考え方が強かったのではないか。

さらに興味深いのが、1946年、ドイツへ視察に訪れた際、ロケットの加速を強くしていけば、最後は地球を回る人工衛星を実現することができると熱く語ったことである。投獄前には一切衛星の話は出さなかった彼が、どこで発想を転換したのか。

一連のきっかけを、そして彼が宇宙の虜になったきっかけに対する答えを、筆者はドイツにおけるV−2の試射実験と考えている。「メチタ・男の夢(上)」で述べたが、終戦直後の1945年10月、見学会に参加を許されたその実験だ。それがものすごいスピードで飛び去っていった姿は、6歳の時に見た飛行機以来の衝撃、いやそれ以上のものを彼に与えたのではないか。そしてもはや子供ではない、判断力と決断力の速い大人の彼…時代はロケットに移ると確信し、あっさりと飛行機を捨ててしまったのではないか。並行して、ツァンダーを初めとした仲間達が熱心に語っていた宇宙飛行のことも頭を過ぎったことだろう。V−2の飛翔は、それが現実のものとなりうることを気づかせた…もともとフロンティア精神のある彼だ、世界観は一気に宇宙へと拡大したのではないか。

彼の見学会参加を巡っては、「そもそも彼は誘われず、この時たまたまそこへやってきただけだった」という説もある。仮にこの説に従ったとして、その上、もしも彼がこの場に居合わせなかったら…その後の米ソロケット競争もだいぶ違ったものになっていた、かも知れない。

まとめると、「もって生まれた素質の上にGIRD時代の体験が塗られて下地が出来上がった。だが、収容所での経験で、飛行機への情熱は一旦リセットされた。勿論、欲求やアイディアを忘れることはなかったが…。その素地の上で、再び外の世界で彼が最初に見たものは、V−2だった。この衝撃が、彼を宇宙飛行へ覚醒させたのではないか」と、筆者は考えている。


コロリョフが収容所に入れられた時のこと、そしてそこで経験したことは殆ど知られていない。生前人前で殆ど口にすることがなかったからだが、詳細を聞かされた人物が2人いる。それは、ガガーリンとレオーノフだ。66年1月、死の直前に催された誕生日パーティでのことであり、レオーノフはその時のことを詳しく証言している(以下、斜体文)。

宴も終盤に入り、招待客達も帰途についたのは深夜0時だった。ガガーリンと私はレインコートを着ているところだったが、セルゲイ・パブロビッチは近づいて、こう言ったのだ。「まだ帰るな。もう少し話がしたい。」

(彼の妻である)ニーニャが更に食事を用意してくれた。私たちは飲みに飲んで、食べた…それは4時まで続いた。コロリョフはマガダンで経験したことを話してくれたが、それはとても心に傷む話だった。それは、こうだ。


投獄された彼は、ひどく殴られた。一杯の水を求めると看守は水道の蛇口に彼の頭をぶつけ、人民の敵だと罵倒したという。

ある日、「今日がオマエの裁判日だ」コロリョフはそう言われると、長い廊下を引きずられて、検事の部屋へと連行され、尋問を受けた。

「起訴状を見せてみろ」彼はそう言われたが、「持っていない」と答えた。すると、「手をだせ!これを見ろ!」彼は紙を一束持たされた。「この起訴事実を認めるか!」こう言われたコロリョフは「私は何も罪を犯していない」と答えた。

彼は怒鳴りつけられた…「貴様のようなブタ野郎は誰も罪を認めないんだ!強制労働10年!出て行け!次っ!」


この時、もし無実の罪を認めていたら銃殺だった。実際、GIRDのメンバーで、この尋問で認めてしまったために銃殺された者たちがいる。レオーノフの話は続く(右・逮捕直後のコロリョフ)。

彼は東シベリアのコリマ地区に送られ、強制労働に従事させられた。しかしモスクワから呼び戻しの決定が届くと、荷造りをし、ベーリング海に面した港町マガダンへと向かった。季節は晩秋の頃で、コリマを出るときは仲間達が衣服を準備してくれたという。

マガダンから船に乗り、ハバロフスクへ向かう予定だったが、最終便が出た後だった。しかし後日知ったことだが、その船はシケで遭難したのだという。彼は、マイナス50℃にも下がるマガダンで越冬することになったのだ。


(中略)

ハバロフスクに着いたとき、彼は半死の状態だった。そこへ一人の古老が現れたという。

「君を楽にしてやろう」古老はそう言うと、彼を日の光の当たる木の下に寄りかからせ、その場を離れたという。「私が目を開くと、何か羽ばたいているものが見えた。それは蝶だった…この地上で生きているものが…そして美しかった。私は生きていたのだ」コロリョフはこう語ったのだ。

古老は戻ってくると、出血する歯茎にハーブを当て、マッサージをしてくれたという。翌日には気分がよくなり、一週間後、モスクワ行きの列車に乗ることができたのだった。


以上のようなコロリョフの体験談は、幻覚的な箇所も含め、一部は歴史家の間で信憑性が疑わしいと考えられている。しかしコロリョフに忠義を尽くすレオーノフは、直接聞いたこの話を信じて疑わない。

細部の真偽に疑わしいところがあっても、しかし、彼が受けたひどい扱いは決して曲げることのできない事実である。

ところで非常に理解しがたいのは、そのような扱いを受けたにも関わらず、国家に忠誠を誓っていた点である。この点についてレオーノフは「私の父も収容所に入っていたが、その口から党を糾弾する言葉を聞いたことがない」と語っている。

これまた非常に理解しがたいことだが、個人は体制に対する忠誠と自身の感情を、全く切り離して意識していたというのである。銃殺されるもの達の多くは、スターリニズムに染まっていた。処刑の直前、「スターリン万歳!」と叫んでいたのである…理解不能…これこそを狂気というのだろう。


コロリョフゆかりの人たちの多くが、初めて彼に出会った時のことをよく覚えている。彼らに共通しているのは、「コロリョフは強烈な眼光で真っすぐ私を見た」と語ること、そして“オーラ”という言葉で形容される、その存在感だ。部屋で人々が語らいでいるところへ彼が入ってくると、一斉に私語が止んだと言われる。漲るエナジーはそのような迫力となって、周囲に放たれていたのであった。

彼は非常に人の使い方が巧かった。アメとムチの使い方が巧かったというべきか…褒めるべきところで褒め、懸賞をかけて部下達を競わせ、叱るべきところでは叱る…しかし裏を返せば、非常に気難しい性格であったと言えなくもなく、実際そうだった。

ある時、コロリョフが側近を連れて開発工房を歩いていると、奥の方から何かを殴る音を耳にした。ハッとした彼はその音の方向へ駆け寄ると、そこで見たのは、若いエンジニアが月着陸船の脚をハンマーで殴っている光景だった。

「オマエ、何をやっている!?」

怒鳴られた青年は、びくびくしながら答えた。

「ネジがうまく入らないので、叩いてみようかと…」

これを聞いたコロリョフは顔を真っ赤にした。「機械は敬意をもって扱われるべし」と考えていた彼にとって、それは到底許されないことだった。

「貴様、これが何だかわかっているのか!これは宇宙船だぞ!いいか、宇宙船だ!スペースクラフトだぞ!!オマエはクビだ!…!…!!」

必死に詫びたがコロリョフの怒りは収まらず、最後は半泣きになるまでそのエンジニアは怒鳴られたという。
 頭に血が上った時の彼の凄まじさといったら、半端なかった。それは怒号というより罵倒と言った方が妥当だった。

「貴様はクビだ!」
「このくそったれが!」
「さあ、明日からパン工場で下働きかな!?」

…等々。口には出せないような下品な言葉で罵ることも数知れず、特に「クビだ」はよく言い放っていた。だがそのヒートアップはホンの一瞬の、持続性の無いものだった。朝、怒鳴り散らしていたかと思うと昼には何事もなかったかのように、にこやかにしていたり…。新人など、クビと言う言葉を聞いたり言われたりする度に非常に怖がったという。しかし実際にクビになったものはいなかった。

話が少し逸れるが、面白いエピソードが残っている。ある時コロリョフが車で外出する際、運転手の運転が荒かったことに腹を立て、降車後、側近にこう指示した。

「何だアイツの運転は。どこの部署のものか。あの男はクビだ!」

しかしクビになることは無く、それどころか、後日その運転手を第1設計局に引き抜いたと言われている。

ではそのコロリョフ自身の運転はどうかと言えば、これがまたひどいものだったというから笑ってしまう。「車の運転に人の性格は表れる」とよく言われるが、コロリョフの場合も、その性格が運転によく体現されていたようである。側近の一人、ボリス・チェルトックは、コロリョフの運転に同乗した際、その余りの乱暴ぶりに恐怖を感じっぱなしだったという。人が大勢いる通りの真ん中を、お構いなしに、全速力で突っ走っていたのだ。

「セルゲイ・パブロビッチ、運転は気をつけられた方が…」

この進言に対する返事は、「私は免許を2つ持っているから大丈夫だよ」の一言だったという。2つとは、ひとつは車の免許だが、もうひとつは飛行ライセンスのことだ…ただ呆れるばかりである。

話を戻そう。接し方に問題も多かったとはいえ、彼が部下を愛していたことは間違いなかった。そこには常に技術者を敬う心があり、時には公私を超えたものがあった。

例えばある時、若い部下が移籍したいと言い出した。しかも移籍先はコロリョフのライバル、ヤンゲルの設計局だという。当然コロリョフは引き留めたが、それが不可能だとわかると快く送り出した。その時の送別の辞が、これだった。

「エンジニアとしてよい仕事するのだぞ。もし帰りたくなったらいつでも帰ってこい。」

ライバルの下へ行くという彼を憎むことなく、逆にいつ帰ってもよいと言葉をかけたのだ。これは社交辞令ではなかった…結局彼が帰ってくることはなかったが、その後も何かと気にかけ、アドバイスを与えていたのである。コロリョフにとって彼は、惜しむべき、相当楽しみだった人材だったのだろう。

また、自分の設計局を守るためには、時として汚い手も使った。失敗の責任を他の部署になすりつけるため、書類に手を加えていたある日、その現場を別の人間に見られてしまった。彼はこう罵られたという。

「セルゲイ・パブロビッチ、君は卑怯者だね!」

ちょうど「ちびまる子ちゃん」の永澤が、藤木に向かって「君は卑怯者だね」と呟く場面を想像すればよいのだろう。しかしそんなことを言われても、恐らく痛くも痒くも無かったに違いない。奇しくも“コロリョフ”(колорёв)その言葉は、ロシア語で“キング”を意味する。彼はまさに、名実ともに王様だった。

コロリョフは、人材育成の何たるかもきちんと理解していた。それは入り口の所から徹底していた。

第1設計局が設立され、ロケット開発に邁進し始めていた頃、彼自身もそうだが、その部下達も若者が多かった。彼はその若者達をこれまた口悪く“幼稚園児”と呼んでいたが、数多くの経験を積ませることでその幼稚園児達を育成していたのであった。その姿勢は、恐らく彼がそうだったからだろうか、理論よりも実践を重視していたように感じられる。このことは、ヴォストークが飛び立つようになってからも同じだった。

とにかく優秀な若者を集めるために、大学に出かけ、宇宙開発の魅力を語ることもあった。学生にしてみれば、ロケット開発のドンが直接講義を授けてくれるのだ…こんなに胸ときめくことはない。スプートニクの成功以来、宇宙開発は大々的に扱われている上、このような努力の甲斐もあって、この業界は就職先として花形となったのであった。

花形となれば優秀な学生は自然と集まってくるものだが、彼は手を抜くことなく、青田買いに余念が無かった。あるエンジニアを例に挙げよう。彼はモスクワ工科大学在学中の22歳、コロリョフの面接を受け、最後にこう言い渡された。

「いや、君は連れて行かない」

宇宙開発で飯を食いたかった彼にとって、この一言に、一気に凹んだという。しかしコロリョフは続けた。

「誤解しないで欲しいが、君だけでは連れて行かないということだ。来週までに君のクラスから優秀な人物を何人かチョイスしておいてくれたまえ。」

この言葉に彼は、翌週、13人を連れてコロリョフに会いに行った。面会したコロリョフは、「13はいい数字だ」と喜んだというが、13は不吉な数字であるから、この言葉は皮肉混じりのジョークだ。こんなジョークも彼は好きだった。

詳細は割愛するが、この時コロリョフは課題を出し、助手として設計局でアルバイトをするよう取り計らっている。しかもバイト代は正職員の半分を出した。その上、学生達の卒業研究のアドバイスもし、学位が取れればそのまま本採用するとお墨付きを与えたのだ!コロリョフが大学と深く関わり、教官の上をゆく力を持っていることも表している。

はぁ、なんという理想郷…。


彼が人々をどのように鼓舞していたか…その片鱗を示す資料がここにある。写真は、コロリョフ宛に送られた電報である。これは業務報のひとつで、掲げたものはロケット実験現場からその結果を報告するものである。

            

タイプ文は、こう報告する。

「最初のロケットは打ち上げ直後、想定していた方向から逸れました。次に打ちあげたロケットは発射台からスムーズに離陸し、軌道が逸れることはありませんでした。ロケットは機体軸に対しゆっくりとほぼ1回転し、正確に飛行を続けました。機体長を短くするやり方は、他の方法よりも安定性がよいです。」

これに対するコロリョフの返信が、手書きの一文である。

「ロケット設計においては、基礎を確立することが肝心であると私は確信している。よい基礎を追求する必要がある。これがしっかりしていれば万事うまくいくというものだ。全ての物事は着実に行われなければならないぞ。コロリョフ」

この返信はチュービン、ローゼンバッハ、ペトロフの3名に宛てて書かれたもので、縦に並んだ宛名の右に「読んだ」を意味する各人のサインが書かれている。彼らは初期の頃からコロリョフと共に宇宙開発を建設してきた者達で、当時この実験を主導する立場にあったのだろう。この一文では実験の詳細はわからないが、ロケットの形状と安定性に関するカットアンドトライを繰り返していたのかも知れない。

コロリョフは常々、報告に対する返信はその上に上書きしており、言葉は簡潔だが力強い。具体的で細かい事柄に口を挟むと言うより、ここで取り上げた例のように、部下のモチベーションと注意を維持させるための諭しであるものが殆どであり、その最後は力強いサインで結ばれている。筆者は数枚見たことがあるが、コロリョフが満足しているときは上のように余白に綺麗に書いているのに対し、納得のいかない報告書には、タイプ文の上に重ねて、しかも斜めに殴り書きするように書いているように感じられる。勘ぐり過ぎかも知れないが、彼は書き方に微妙な差をつけることで、自身の感情を表現していたのかもしれない。

自分の直接支配下にあるプロジェクトにも、そうでもないプロジェクトにも、あらゆる所に首を突っ込んでいたが、距離感を保つことが巧かった。基本的に部下に仕事は任せ、不必要な指図はしなかった…そのことを、この電報は物語っていると言えよう。

例えばある時は、「先日の会議は有益でした。いろいろ問題はありますが、よい方向に進むと思われます…」という報告に対し、「君は事態をナメている。考えられる全ての事案を検討し尽くすのだ」と警告している。

一文から感じられる、事を急がずじっくりやるという姿勢は、彼の信条であった。実際これは新人達にも徹底していたようで、先の青田買いされた学生達も、コロリョフが個人的に設けた卒業パーティの席で、「長く続けて達成された仕事の方が、素早いが大して実のない仕事に勝るんだよ」と薫陶を授かっている。

ところでこの電報には、打電日時と時刻もタイプされている。「07.11.65Г 02часа18мин」とは、「1965年11月7日午前2時18分」を意味するが、まず注目すべきはその日付だ…そう、コロリョフが亡くなるほぼ2ヶ月前だ。死の直前とも言えるこの時期に書かれた熱い返信、少々大袈裟かも知れないが、それは遺言と言ってもよいだろう。

1965年の彼が困難を極めていたことは既に述べた。この年の3月にレオーノフの宇宙遊泳を成功させたまではよかったが、11月を目指したウォスホート3号の打ち上げが9月の時点で遅延不可避となった。この飛行では10日ないし15日間の長期宇宙滞在を目指していたが、それに適したハードウェアの確立が遅れていたのである。大体、8月には米国がジェミニ5号で8日間という、それまでの倍の期間の宇宙飛行を達成し、更に12月にはジェミニ7号で約2週間の飛行を行うと目標を掲げていたことは、大きなプレッシャーであった。そこへウォスホート3号の飛行が66年初頭にずれ込むことが決定的となると、コロリョフは、ウォスホート3号での飛行目標を(米国を超える)20日間と設定したのであったが、結局、11月には後続のウォスホート計画全ての打ち切りを口にするようになった。

事を急がないのが持論であったものの、この時は追い詰められ、明らかに方向性を見失っていたようである。彼は部下を鼓舞し続けた…それは電報にも表れている通りである。しかし背負う重圧は増すばかりで、発するオーラには、もはや黄金時代の威光は無かった。不透明になったウォスホート計画、それにソユーズ宇宙船の開発遅延に飛行士達も士気を低下させる中、カマーニンは「日記」66年1月5日付にこう残している。

「全ての飛行士達が未だかつて無く悲観的になっている。彼らがコロリョフに対して寄せていた際限なき信頼は、コロリョフ自身によって払拭されてしまった。彼が訓練センターを訪れ、飛行士達と会っても、今後のフライトプランを明言することができないのだ…」

そしてもうひとつ注目すべきは、時刻だ。午前2時過ぎ…そう、宇宙開発現場は不夜城だった。しかもこの11月7日というのは、ソ連革命記念日であり休日だった(ソ連時代の話であり、現在は休日でない)。そんな大切な日であるにも関わらず、現場は動いていたのである。

まあ、そもそも宇宙開発現場は、人間の生活リズムと一致していない。管制部は宇宙船に24時間付き合うし、惑星探査機の追跡なども昼夜無関係である。ただ、コロリョフ自身のワークスタイルとして、休日だろうが平日だろうがお構いなしに、1日14時間以上仕事をしていたという。そしてそんなスタイルに、当然だが部下達も付き合わされていた…当時の人々は「10時間以上は働いた」と異口同音に言う。面会は夜遅くであったり、設計局に泊まり込んだり、或いは何ヶ月も単身赴任を強いられたり…勿論、休日無しで…等々。設計局で年越しを迎える者もいた。

しかし、「きつかったがあの頃は楽しかった」と回顧する者が多いのも事実。そう、所謂“過労死”した者はいないようである…高給に好待遇、そして高いモチベーションが備われば、人間はどれだけでも働けるのだろう。そしてそれを先頭切って実践し、組織を奮い立たせていたのが、コロリョフ、その人だったと言える。

(下の写真は1957年10月のスプートニク1号の打上成功後、休暇先で撮影されたコロリョフで、その自信に満ちた表情とポーズにオーラが漲っている。モスクワにすぐ戻るようフルシチョフから連絡が来るのだが、恐らくその直前に撮影されたものだろう。収容所での体験がもとで体を痛めていた彼の、体力のピークがこの頃だと言われている。ちなみにこの写真を撮ったのはコロリョフの盟友のひとりであるピリューギンで、右下の走り書きは彼のサインとメモである。)

           


(注)冨田信之氏は宇宙政策シンクタンク「宙の会」の論壇において、「ロシアの宇宙活動」という表題で、コロリョフとツィオルコフスキーの面会有無について詳細に分析されています。連載になっており、とても緻密で説得力のあるものです。

「ロシアの宇宙活動(1)」 http://www.soranokai.jp/pages/russian_space_1.html
「ロシアの宇宙活動(2)」 http://www.soranokai.jp/pages/russian_space_2.html
「ロシアの宇宙活動(3)」 http://www.soranokai.jp/pages/russian_space_3.html

(謝辞)画像の入手ではVideoCosmos社にお世話になりました。http://www.videocosmos.com/

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Бульварhttp://www.bulvar.com.ua/arch/2006/15/443bcc9e1eab4/
“Red Moon Rising” by Matthew Brzezinski, Times Books, 2007
“Korolev” by James Harford, John Wiley & Sons, Inc., 1997
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003