天気予報物語 

〜気圧の発見からスパコンまで〜   初版: 07.01. 2012

昔から欧米では「英国人ほど天気に関心の高い民族はない」と言われる。英国の天気は変わりやすく、生活にも深く影響を与えてきたからであるが、それは日本を知らなかった欧米人ゆえに、である(笑)。世界で最も天気に関心の高い民族は恐らく日本人であり、それが多彩な四季の変化に根付いていることは言うまでも無い。民間気象会社が主催する一般からの“お天気報告”や、Twitter等における天気にまつわる投稿数の半端なさもそれを象徴している。

日本人が日常生活で鍵の戸締まり並に最も気にする事柄のひとつが、天気予報である。そんな天気予報は、どのように始まり今はどのように行われているのか?天気予報の歴史を黎明期から現代まで一気に駆け抜けてみよう。

1幕 気圧の発見“バロメータ”

日本では江戸時代初期の1643年、あのガリレオの弟子であったイタリアの科学者E・トリチェリ(1608−1647)は、一端を閉じた長いガラス管を水銀で満たし、水銀を入れた器の中に逆さに立てると、液面から76センチのところで水銀が静止し、それより上に真空ができることを発見した(図)。もともと、井戸の水をポンプで10メートル以上吸い上げることができないことを説明するために行った実験であり、彼はこの現象を、空気の重さが76センチの水銀柱の重さと等しいためと考えたのである(水だとそれが10メートル)。言い換えると、空気は有限であり、その重さを“発見”したのであった。

彼の理屈で言えば、高いところへ登ればそのぶん空気の重さは軽くなるはずで、これを実際に確かめたのがフランスの科学者B・パスカル(1623−1662)である。彼はトリチェリと同じ装置をパリ郊外の山に持って行き、水銀柱が低くなることを確かめたのであった。彼らはこの後「パスカルの原理」、「トリチェリの原理」を発見、圧力の概念がきちんと認識、定義されることになった。現在使われている圧力の単位(Pa/Torr)としてその名を残した彼らは、奇しくも同じ39歳という若さでこの世を去った。

トリチェリは、水銀柱の高さが日々刻々と変化していることにも気づいていたという。いまでいうところの高気圧と低気圧による気圧の変化ということなのだが、当時そのようなものは全く知られていなかったことに注意しよう。彼の実験は多くの科学者の興味をひき、やがて天気の変化と水銀柱の上下には相関があることがわかり、水銀柱を見れば天気の予測ができるのではないかと気づき始めた。程なくそれは“晴雨計”(バロメータ)と呼ばれることになり、時は大航海時代、天候に特に神経を使った船乗り達がこぞって船に持ち込んだと伝えられる。

空気の圧力が天気と関係あることが認識されると、もっと広範囲での気圧の違いを調べてみようという動きが出るのは自然なことである。特に、大きな被害を出す嵐の全容把握は必須課題であった。嵐の正体が謎だったこと自体、現代の我々からすると何とも違和感があるが、それを最初に行ったのは英国のJ・ジュリン(1684−1750)である。

2幕 天気図の発明

日本では“暴れん坊将軍”こと徳川吉宗が「享保の改革」をやっていた1723年、元々医学者であったJ・ジュリンは科学界に呼びかけ、気象現象の国際一斉観測を実施した。“国際”と言ってもヨーロッパであるが、恐らくこれが、史上初の組織だった気象観測である。観測項目は気圧、気温、風向風速、天気など、今と変わらぬ内容であった。通信技術のない当時、記録は後日回収され、学会誌にまとめて掲載されたが、それは一覧表の形式であり、今みる天気図のように、地図に書き込んだものではなかった。彼そして科学者の多くは気象観測の重要性に気づいてはいたものの、それを地図にするまでの発想に至っていなかったのである。

ちなみに当時は、力学の基礎を築いたニュートンがまだ生きていた(この3年後に他界するが)。その力学のおかげで気体や液体といった流体に働く力の仕組みも理解され、「流体力学」としてまとめられていった。特に「オイラーの公式」で有名な数学者L・オイラー(1707−1783)は流体の研究も精力的に行った。流体力学の大家としても歴史に名を残した彼は、気象観測の重要性と組織化にも高い関心を払っていたと伝えられる。

1820年(文政3年)、ドイツの数学者H・W・ブランデス(1777−1834)は、1783年3月の観測データを基に天気図を描いた。(詳細は割愛するが)彼の描いた図は今日のものとは異なるものの、当時欧州に吹いた嵐が、差し渡し数千キロに達する巨大な低気圧であったことを明らかにしたのであった。嵐の正体が「気圧の低い空気の塊=低気圧」であることを初めて明らかにしたことにも注意したい。

ブランデスの描いた図は世界初の天気図と言われている。ただし同じ気圧の地点をつないだ“等圧線”は引かれておらず、しかも40年近く前の気象データを使ったもので、おおよそ天気“予報”とはほど遠いものであった。ただ、同時観測のデータを地図に描けば嵐の位置や様子を知ることができることを明らかにした意義は、非常に大きい。

ちなみに、ブランデスが天気図を描いた当時、運動する物体に作用する「転向力」は発見されていなかった。これは地球の自転に起因する見かけの力だが、1831年、フランスのG・G・コリオリ(1792−1843)がこの力の存在を発表、やがて大気の運動に極めて重要な力であることが明らかとなったのである。すなわちここに、数学・物理学の問題として気象現象が扱える土俵ができあがったのであった。

科学者の関心の高まり、そして物理学の発達と共に、天気予報の試みも現実のものとなってきた。天気予報の実用化を初めて試みたのは英国の海軍軍人R・フィッツロイ(1805−1865)である。彼は「種の起源」で有名なダーウィンのビーグル号・第2回航海の船長を務めた人物。船乗りとして気象の重要性を早くから認識しており、特に1859年に発生した嵐による蒸気船沈没事故は彼を目覚めさせ、1860年、天気予報を初めて試みたのであった。それは毎日の予報であり、しかも新聞に掲載され、「天気予報」という言葉がメディアで用いられた最初のケースとなった。嵐が近づきそうな時は、港に警報を知らせる旗を掲げたりした。彼は多数の気圧計も製作し、船に備えさせたという。それはよほど徹底していたのであろう、20世紀に入っても、彼の天気に関する格言が気圧計に刻印されていたほどであったそうである。

余談だが、彼の“気象警報の旗”を船主達は嫌っていたという。これが出ると船が漁に出ない=稼ぎが出ないというからであり、船主(支配階級)が船乗り(奴隷が多かった)の人命を如何に軽視していたかが伺える。

ただし、フィッツロイは天気図を使用しなかった。そもそも天気図を描くことができなかった…観測データを素早く集める通信手段がなかったためである。天気図の重要性はとっくに認識されていたものの、それを不可能にしていたのは通信手段の欠如であった。刻々と変わる気象状況を一気に集めるには、高速かつ大規模な通信インフラが必要だったのである。有線モールス通信は実用化されていたが、ごく限定的な利用に限られていた。

だが、1876年、米国のG・ベルが電話を発明し、その20年後の1896年、イタリアのG・マルコーニが無線通信を発明すると、状況は一変する。特に無線は画期的であった。広範囲からの即時情報収集が可能になったことで、毎日の天気図作成が現実のものとなったのである。

3幕 「本日は晴天なり」

さて、我が国での話である。維新直後の1871年(明治4)は近代国家として様々な制度が一気に定められた年であったが、この年の7月、工部省(明治政府省庁のひとつ)の傘下に測量司という国土測量を行う部門が設置された。この測量司の長と副長は共に英国人で、副長のH・B・ジョイネルが気象観測の必要性を主張し、2年後、測量司は気象台の設置を決定、明治政府は観測機器を英国に発注したのであった。余談だが、この時、日本に地震計も持ち込まれたのは特筆すべきことである。「日本は地震が多いと聞く。測量では観測点が動いては困るのであり、地震の観測も行うべきである」という声が背景にあったのであった。“地震国日本”が外国人に、近代科学的に理解された最初のケースと言えよう。

持ち込まれた観測機器は1875年(明治8)までに内務省地理寮構内(現在の東京港区虎ノ門2−10ホテルオークラ付近)に据え付けられ「東京気象台」が開設、同年6月1日から観測が始まった。現在の気象記念日(6/1)はこれを記念したものである。ちなみに余談だが、日本で最初の気象観測所が設置されたのは、実は函館である。1872年(明治5)に開所された函館気候測量所(現在の函館海洋気象台)がそうであり、上述となんだか矛盾する話だが、これには歴史的背景があった。幕末の開国で函館に外国人が定住するようになったが、彼らは自分たちの必要性から独自に気象観測を行っていた。維新後、その設備を北海道開拓団が引き継ぐことになり、東京に先駆けて観測所を設立したというわけである。

話を戻そう。東京気象台では当初、ジョイネルが1日3回の観測を行っていたが、同年9月から日本人も弟子として加わり技術を学び、観測に加わった。やがて彼らは全国に設置された観測所へと散り、1883年(明治16) 3月1日、東京気象台で初めて天気図が作成され毎日の配布が開始された。この時は天気図の配布だけであったが、翌1884年6月1日、日本最初の天気予報が発表された。

「全国一般風ノ向キハ定マリナシ、天気は変ワリ易シ但シ雨天ガチ。」

「全国的に風の向きはバラバラで、天気は変わりやすいが、雨になる可能性が高いだろう。」という具合に読める。現代のものからするとなんともおおざっぱなものだが、日本の天気予報の歴史はここから始まったのである。気象に興味のあるファンなら誰でも暗記している一文だ(笑)。

図は、この日の天気図である。日本の主要地点には測候所が置かれ、集められたデータが地図の上に記されている。しかし大陸方面や洋上の観測データは皆無であり、極端なデータ不足は否めない。等圧線の概念はすでにあったが、本州南岸に長いものが1本、対馬海峡に短いものが1本どうにか引けるレベルである。

                 

ただ、左上のタイトルには注目しておきたい。右から左に「内務省地理局気象臺」(気象臺=気象台)とあり、その下に英文で「大日本帝国気象台」と書かれている。近代国家建設を始めた日本が、当時持てる精一杯の技術と誇り、気概を込めて世界へ掲げた一枚と言っても大げさではないだろう。内容は貧弱とはいえ、敬意を払うべき入魂の仕事である。

その国家建設が進む中で気象観測態勢も発展を続け、1887年(明治20)、東京気象台は中央気象台と改称し、天気予報技術の向上が続けられていった。

ちなみに、当時最大のネックは、やはり通信網の貧弱さであった。では欧米はどうだったかというと、実は欧州・ロシアは整備を早くから整え、1871年(明治2)の時点で欧州からシベリアを越え、極東までのケーブル敷設が完成し、更にそれは海底ケーブルで長崎まで到達していたのである(この時代にすでに海底ケーブルがあったのだ!)。ロンドンからの国際電信も長崎までは数時間で到達したのが、そこから東京までは郵便で1週間かかるという皮肉な始末。ただし当時の日本は行動が迅速で、数年で長崎から東京まで、さらには主要都市までケーブルを引っ張りまわしている。だがそれでも、気象観測網の整備には十分とは言えなかった。ここで興味深いのが、中央気象台は既存とは別に“独自の”無線通信網構築に着手し、1920年代(大正末〜昭和初期)までにそれを完成させたことである。独自の予算が用意され、その整備が独立して行われたことに気象観測への意気込みが感じられるし、気象ひいては科学技術の支配が、近代国家のステータスのひとつ=優先事項であったことの現れとも言えよう。ちなみに誰でも一度は耳にしたことのある、

「アー、アー、本日は晴天なり。ただいまマイクのテスト中」

というフレーズの中の「本日は晴天なり」は元々、この通信網のテストで使用されていた言葉である。もっと遡れば、これも英語でいう“It’s fine”(問題なし)のfineを晴天と訳したという説もあるが、定かではない。

我が国でのメディアへの普及であるが、天気図が新聞に初めて載ったのは1924年(大正13) 8月21日、ラジオで天気予報が始まったのは翌年3月22日である。それまでは役所の掲示板に掲げられていただけだった。ただしそれも戦争に突入すると、すべて非公開となった。天気の情報は戦局を左右する重要情報と位置づけられ、軍事機密とされたのである。ちなみにもうひとつ余談だが、そのような戦時下にあっても、ラジオから突然、天気予報が流れることがあった。それは海外向けラジオ放送によって行われ、例えば、こんな具合だ。

「天気予報をお伝えします。シンガポールは西の風、晴れ」

これは勿論本物の予報ではなく、軍部が用いていた暗号のひとつで、遠く離れた外地へ命令を伝えるためのものだった。

4幕 計算で天気を予想する…手計算からエニアックへ

天気図の毎日の作成により、天気の変化と天気図との間にいくつもの相関関係が発見され、それは予報の技術として蓄積され始めた。観測網も欧米では列強各国が、アジアでは日本が整備を続け、データの収集も充実していった。

だが、天気図を一枚描いただけでは、数時間後や翌日の天気の変化は読めても、それ以上は不可能に近かった。いや、それすら難しいことも多かった。予報官が得ていたのは経験則である一方、天気の変化と出現する天気図の形は多様で、未経験のケースにはどうしても限界があったからである。

一方、流体力学による気象現象の理解は進みつつあった。そうなると、計算で未来の天気図を描くことができないかという発想が出るのは当然のことである。原理自体は、そう難しいものではない。理工系大学生が学ぶ物理法則=微分方程式が基になる。1913年、ノルウェーの気象学者V・ビヤークネス(1862−1951)は、「我々は流体力学の方程式を理想気体に応用することにとどまらないで、観測によって明らかにされつつある実際の大気の流れにも適用しなければならない。たとえ日々の予報が計算の上で数年かかったとしても、私は幸せに思うだろう」と語っている。このビヤークネスは気象学で非常に優れた業績を残しており、今では常識の「前線」の概念や、過去に使われていた気圧の単位「ミリバール」を導入した人物である。そして何より弟子の育成に力を注ぎ、いわゆる「ノルウェー学派」と呼ばれる気象研究集団を組織し、彼らが近代気象学の礎を築いたと言っても過言ではない働きを残している。

彼の時代の時点で、方程式による計算は「理論上は可能であること、ただそれには膨大な計算量が必要であるということ」が認識されていた。シミュレーションを行ったことのある人なら具体的にはどのようなことを実行するのかおわかり頂けると思うが、対象とする領域を方眼紙のようなメッシュに細分割し、全ての点に計算のスタートとなる初期条件を与え、各点毎に少しずつ変化を計算していくのである。細分割が細かいほど精度は上がるのだが、しかしその分計算量が桁違いに増えていくのである。

ところがそれにも関わらず、これを“手計算”でやった男がいた。英国のL・F・リチャードソン(1881−1953)がそうである。彼は元々原子物理の研究者だったが、やがて微分方程式の数値解に関心が移り、その応用形態として数値計算による気象予測にのめり込んだと言われている。第一次大戦が始まると、参加した部隊のキャンプで、手計算による計算を始めたのであった。

彼がやったのは、こうだ。「まず、地球全体を約200キロ間隔の方眼に分割し、上空の大気を数キロ間隔で5層に分割する。次に、運動方程式で決まる水平風を用いて各層毎の大気の変化量を計算する。最後にそれを足し合わせることで、直方体である各気柱の重さ、すなわち地上の気圧を求めることができる」と。もちろん地球全体をやるのは無理なので、欧州のごく狭い範囲に限定して行ったのだが、6時間後の変化を計算するのに1ヶ月以上もかかったのである。基本的な考え方は間違っていなかったのだが、計算手法などに問題があり、2ヶ月を要した計算も結局、6時間で145ヘクトパスカルの変化というあり得ない結果を出すという失敗で終わった。

彼は失敗の原因を、初期条件の精度の悪さと考えた。特に上空の大気の動きは未知に等しく、その初期値をどう決めるかは闇雲に等しかった。気球を上げての高層観測が始まったのは1930年代後半のことである。また、後年明らかになるのだが、彼の計算手法や方程式モデルにも欠陥があったのであった。

リチャードソンは一連の試みを236ページの本にまとめている。失敗はしたものの、計算による天気予報は可能と強く信じており、本の中で「6万4千人の人員をホールに集め、1人の指揮者の下で整然と計算を実施すれば、実際の時間の進行と同程度の速さで予測ができる」と記述している。オーケストラになぞらえて表現したのであったが、勿論実現できるレベルを超越したものであり、彼自身もこれを「夢」と呼んだ。天気予報の歴史上「リチャードソンの夢」として今に伝えられる、有名なものである。

ただ、この夢が現実となる時代はそう遠からずやってくることになる…コンピュータの出現であった。

時代は進み、第二次大戦が終わった直後の1946年、それは出現した。米国・ペンシルバニア大学で開発された計算機「エニアック」…知る人にはもはや説明の必要がないほど有名なコンピュータである(写真)。それまでもコンピュータなものは存在したが、汎用で桁違いの計算を実行できるそれは、真空管を1万8000本近く使用し、総重量は30トン、格納にはビルのひとフロア丸々を占拠したという怪物である。しかもプログラムは無数の配線のつなぎ替えで組み込むというシロモノであった。元々、陸軍の大砲弾道計算のために開発しようとしたものだが、出来上がった時には戦争は終わっていたのである。

この怪物計算機を天気の数値予測に使用できないかと最初に提案したのは、これまた“怪物”であるJ・フォン・ノイマン(1903−1957)である。量子力学、コンピュータ、そして経済学という幅広い分野に首を突っ込み、しかも全てで歴史的業績を残した彼だ。高速で大量の計算を実行させることができそれがコンピュータの使命であるのなら、大砲の弾道計算より遙かに複雑で時間のかかる気象計算の方がコンピュータの仕事にふさわしい、とでも思っただろうか?彼は気象学者J・G・チャーニー(1917−1981)らに声をかけ、取り組みを始めた。まずリチャードソンの著作を詳細に分析、その失敗原因を注意深く調べあげ、それを踏まえて方程式や方眼の幅の改良を行った。一方、この時には上空の観測も進み、大気の運動もリチャードソンの時代より遙かに理解が進んでいた。それらを基にモデルを構築し、彼らは計算を実行した。

1946年、膨大な配線でプログラムを組みあげ、エニアックを走らせた。計算手法に相当の工夫が加えられていたとはいえ、計算量は膨大であり、24時間予想に24時間を要することとなった。いやむしろ、実際の進行と同じ速度で予測計算を実行することができるようになったという意味では、エニアックは凄かったと言った方がいいだろう。「リチャードソンの夢」を思い出して欲しい…彼の夢が実現したのだ。しかも実施された2例の試行のうち、1例では実際の気圧の谷の変化を描き出すことに成功したのである。史上初めて、計算で大気変化の追跡に成功したのだ!

この時、リチャードソンがまだ生きていたのは、幸せだった。彼は死する前に、夢の実現に立ち会えたのだ。ただ、“オーケストラの指揮者”と言うべきノイマンは、この僅か10年後、54歳という若さで他界した。驚異的な頭脳と変人ぶりから、「エニアックと計算勝負して勝った」という“伝説”まで残して…。

この成功は、多方面へ大きな衝撃を引き起こした。米国ではチャーニーが中心となり、数値予報の実用化を図るべく、1955年、米気象局がコンピュータ「IBM704」を導入した。一連の話は我が国にも伝えられ、中央気象台から改称した気象庁、そして東大といった研究機関の間で数値予報の研究グループが立ち上がった。勿論グループ立ち上げの時点では(1954年)、日本にコンピュータはなかったのだが。

しかしそれから僅か5年後の1959年(昭和34)、我が国もIBM704を購入してしまった…終戦から14年が経過していたとはいえ、敗戦でほぼ全てを失った日本にとっては、当時は破格の買い物だったことは意識しておきたい。それは初めて我が家にパソコンやゲーム機、あるいはピカピカの新車がやって来た時と同じ、あるいはそれ以上の興奮で歓迎されたようである。

当時のメディアは「日本最初の超大型計算機」と表現し、見学者も続々と押しかけたという。もちろん、この計算機(写真)は今のパソコンにも到底及ばない性能であることは、言うまでも無い。ただ、1949年(昭和24)の湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞が焼け野原の日本人に大きな希望を与えたように、それから10年、高い買い物だったとはいえ、大型計算機の導入は新たな希望を持って迎えられたのである。

チャーニーらの理論は研究グループに大きな影響を与え、彼らはそれを基に独自の開発を目指した。当然だが、計算モデルはまだまだ貧弱で、大まかな気流を予測するのが精一杯、しかもそれは外れてばかりで、現場の予報官は全く相手にしなかったという。しかしそれでもめげることなく、理論と計算の日々改良が続けられていったのであった。

5幕 スパコンが描く天気予報の未来

筆者(1972−)が高校生だった1988年の秋のある日、夕方のニュースの最後の天気予報にて「今日から週間予報が毎日出るようになりました」と伝えたのを今でもはっきり覚えている。それまで週間予報は火曜日と金曜日の発表だった。1987年(昭和62)に導入された新型のスパコンで計算力が飛躍的に上がった結果であり、そしてこれは後から知ったことであるが、広域的にはこの時点でほぼ正確な大気予測が可能になったのだという。1993年(平成5)、気象業務法が改正され、翌94年より「気象予報士」国家試験が始まり、民間にも条件付きではあるが天気予報の門戸が開かれた背後には、気象庁の出す数値解析予報の精度がほぼ必要水準に達したこともあったという。

余談だが、1987年の夏、中学生だった私は地方気象台の見学に行った。気象好きが高じて、どうしてもホンモノの現場が見たくなったためであった(笑)。今でこそ行政組織の見学会などは珍しいものではないが、当時の行政側にそのようなサービスは全くと言っていいほどなく、恐る恐る電話でコンタクトを取り、短時間だけ拝見させてもらうというものだった。

そこで私は、気象庁に新型のスパコンが入るという話を聞くことができた。「もっと早く予報が出るようになるのですか?」と問うと、「いや、計算時間はそのままで、計算量を増やすんだよ」という返事。そう、翌年の週間予報の毎日発表化というのは、その結果だったわけである。ついでに、スパコンは日立製ということも知った。それまで家電と「この木なんの木」と「世界ふしぎ発見!」の印象しかなかった私には新鮮であった。

時代は下り、21世紀も最初の10年が過ぎた今日。気象庁には今年2012年、9代目となる計算機「Hitachi SR16000/M1」が導入され、日本時間6月5日午前9時、運用が開始された。それは専用の建屋に収められている(東京都清瀬市)。理論最大性能は847テラフロップスで、8代目(06年導入)のざっと30倍、主記憶容量は8倍の108テラバイト、磁気ディスクは19倍の348テラバイト。気象庁は現在13種類の予報モデルを駆使して各種予報を発表しているが、それらの改善も順次予定されており、準備出来次第、運用開始とのことである(図は8代目までの歴代モデルと計算機。計算機は2代目以降すべて国産・日立)。

      

大気の広域的な予測は大体できるようになった後、ここ15年ほどは、局地予報の向上化と台風予測の高精度化に力が注がれている。局地予報はいわゆるゲリラ豪雨や竜巻に直結するものであり、台風予測は勢力や進路の予想である。詳細は割愛するが、両者とも非常に方眼の幅を狭く(数キロ間隔)しないと現象記述が困難なもので、もう言うまでも無いが、これには計算量の肥大化とモデルおよび初期値の精密化が要求される。気象庁が現時点で取り組んでいる次世代モデルは方眼幅2キロで、複雑な地形をより強く反映した風や気温、降水量の違いの予想を目標としている。これが実現すると、記録的豪雨といった人災をもたらす天災の予測がより正確に出せるようになるのである。

ちなみに、現行の計算モデルもなかなか凄いものになってきた。具体例は、今年(2012)1月23日夜、関東一円に短時間で一気に降ったドカ雪である。夜になると降り始め、それは勢いを増し、八王子などでは2時間で10センチもの積雪を記録したあれである。この現象、実は降雪量と時間がかなり正確に予測されていたのだという。ただあまりにも突飛な結果に見えたので、「さすがにこれはないのではないか」つまり“誤差”との判断で、天気予報では「関東では夜に積雪の恐れ、1〜2センチ」という、やや控えめな表現に抑えられたのだという(計算機はいくつかの予測結果を出し、最終的には人間の判断で予報が出されていることに注意)。このような精密級の予想が当たり始めたことこそ、素晴らしいと言っていいだろう。

また、案外気づかれていないようだが、台風の予想進路、その扇の幅も狭くなっている。つまり精度が向上したのだ。

日本の天気予報は世界一だと言われるようになって久しい。春夏秋冬がこれほどはっきりしているという、ある意味特殊な気候性がもたらす必要性の結果でもあろう。ただし注意したいのは、精密級予想は、現時点ではまだまだ「当たり始めた」という段階である。コンピュータには困難と言われてきた将棋の対戦で、スパコンがプロ棋士に“勝つようになってきた”という例えが妥当だろうか。これがかなりの割合で勝つようなレベルが要求されているわけであり、実現へはまだもう少し時間がかかりそうであるが、楽しみである。

(補足)
ここでは触れなかったが、天気予報の精度を劇的に発展させた最大の出来事に、気象衛星の出現がある。地球の外から雲の動きを見れば天気の変化は丸裸という訳だが、日常の中に溶け込みもう数十年も経過し、当たり前のものになってしまったためか、その重要性があまり認識されていないような場面もあるような気がする。詳細は割愛するが、静止気象衛星から得られる画像から地上観測の無い領域の空気の動きや水蒸気などの物理量も精密に知ることができるようになり、これらは数値予報の初期値に組み込まれている。静止気象衛星を運用する国どうしで連携してデータを収集し、共有化が図られている。