“東方”という名の宇宙船(1)

2003年から続けている当連載。そもそもふとした思いつきで始めた自己満足レポートであり、それは今でも変わらず、筆者の個人的興味の度合いで内容に大きなムラがある。今改めて前を読み返すと、手直ししたいところもかなりある…大体、「ロシア宇宙開発史」と大袈裟に銘打っていながら(これも気の利いた表題が思いつかず、適当に付けただけなのだが)、ボストークをまとめていないのはおかしいだろうと、筆者自身、以前から気になってきた。

勿論全くないわけではないが、連載の前半で触れたそれはあくまで宇宙飛行士の選抜過程に主軸をおいたものであった。そこで改めてボストーク、その成立過程からガガーリン初飛行の詳細、我が国での報道、チトフからテレシコワまでの各ミッションの概要を計3回程度にわけて振り返ってみることにしたい。


有人宇宙船の具体的なコンセプトは、戦後間もない1940年代後期には第1設計局で描かれていた。それは「RD−90」とプロジェクトコードが付けられたものであるが、当時念頭に置かれていたのは弾道高空飛行であった。1955年、ソ連宇宙開発を主導していたセルゲイ・コロリョフは5つの宇宙船デザインを披露し、「最初にロケットで飛ぶ人間はソ連人である、そして、宇宙へ飛び出すのもソ連人である」と言い切っている。

この翌年には、R−5ロケットで有人弾道飛行を行うことが検討されている。しかも医学生物研究所のアブラム・ゲーニン、V・シェリャピンおよびイェ・ユーガノフの3名が挑戦者として志願していたほど、具体的なものであった。

一方、R−7ロケットが形を帯びてくるとコロリョフは、一気に地球周回飛行を実行できる可能性を感じ始めた。1957年3月には第1設計局内にプロジェクトセクションを立ち上げ、そこでは様々な人工衛星と、有人宇宙船の青写真が描かれた。また、R−7に上段ロケットを乗せると、低軌道に5トンのペイロードを運ぶことができることもわかった。

検討作業は迅速に進められたが、そう一筋縄ではいかないことも明らかになるにつれ、有人飛行は弾道飛行から始めるべきだという主張も出てくるようになった。だがコロリョフは、弾道飛行の割愛を決断、1958年5月1日、それに関する全てのプロジェクトを破棄した。人間を周回軌道へ飛ばして、そしてそれを無事に回収する…スプートニク1号や2号とは全てにおいてスケールが違う。生命維持装置や姿勢制御装置は言うまでもなく、何より大気圏突入に耐えるボディや形状、熱対策を施さねばならない。

先行く道に待ちかまえるのは困難だったが、しかし、コロリョフの決断は設計局の士気を高めたと言われる。彼は力強く、覚悟と方向性を示したのであった。

ボディの設計には複雑かつ大量の数値計算…今で言うところの数値シミュレーション…を要するが、これを実現したのはコンピュータである。「BESM−1」という大型コンピュータが使用されたが、これは1953年に誕生したもので、5000本の真空管と大量のダイオード、リレーを組み合わせて作られた巨体。当時、欧露一の演算速度を誇ったという。

宇宙開発を支えているのは材料開発やコンピュータ技術であるが、逆に目標達成のために、新素材や半導体技術が発展していく。互いが互いを引き上げながら成長していく姿が、そこにある。そうして出来上がった技術は、様々な分野へ波及していく…大きなスケールで言えば、国力増強シーンがそこにある。

現場の技術者や科学者は試行錯誤を繰り返しながら先端技術を習得していくが、これは子供が様々な失敗や成功を繰り返しながら成長していく様と重ね合わせることができる。そしてそれこそが、第1設計局で繰り広げられていたのであった。


コロリョフは1957年12月、有人宇宙飛行を検討する担当チームを組織したが、そこに集められたのはごく一部を除き、非常に若いもの達ばかりであった。大学を卒業したばかりのものも多く、コロリョフはこのチームを「幼稚園」と呼んでいたのである。

その“幼稚園児”たちは活気に満ちた元気いっぱいな若者ばかり。アイディアは溢れ、議論は尽きず、衝突することもしょっちゅう。そしてその中にいたコンスタンチン・フェオクチストフという若者が、すぐにチームの中心人物となる。自身、後にウォスホート1号で宇宙を飛ぶことになる彼である(開発史2参照)。

性格は温和で声を荒げることは決してなかったが、非常に強情な男だったようで、コロリョフをヒートアップさせること一度や二度ではなかったようである。そんな彼もまた、波瀾万丈な人生を歩んだ一人であった…余談になるが、少々触れておこう。

1926年2月7日、ロシア西部のボロネジに生まれたフェオクチストフは、10代後半を赤軍兵として過ごした。この地は対ドイツ最前線として激戦を極めた場所。1942年、ドイツ軍の捕虜となり銃殺執行を受けるも、ライフル弾が喉をかすめただけに終わる。死体の間で死んだふりをした彼は、ドイツ兵が去った後に逃げ出すという、奇跡の生還を果たしている。

戦後、名門バウマン・モスクワ工科大学を修了し、後に物理学で博士号を取得。コロリョフのチームに加わったときは31歳であったが、頭脳だけでなく統率力にも秀で、いつの間にか“幼稚園児”達を仕切る存在になっていたようだ。

右はその彼のポートレイトである。この写真はだいぶ年齢を重ねてからのものであるが…俳優にもなれそうな美男子だ。若い頃の、はにかんだ写真も残されているが、ガガーリンの癒し系の笑顔(開発史8参照)に負けず劣らず、これまたいい表情をしている。

彼は女性にかなりモテたに違いない…事実、結婚は繰り返すこと3度、そして宇宙飛行士達の訓練監督であるニコライ・カマーニンもその日記に時々、フェオクチストフの女性問題について書き残しているのだ。仕事ができて、憤ることはなく、その上イケメンときたら…女がほっとくはずがない。

この「温厚だが、押しが強い男」は、公私共にとても面白い人物だったようである。それ故か、衝突することがあってもコロリョフのよきパートナーの一人だった。彼はボストーク、ウォスホート、ソユーズと続く、ソ連有人宇宙船開発の中心に居続けたのである。


R−7に上段を乗せ、有人宇宙船を飛ばすという構想が具体的に描き始められたのは1958年の1月。その後10ヶ月間にわたり担当チームは設計と分析を続けたが、最大の問題は周回軌道からの帰還であった。物体を軌道に打ち上げることは既にスプートニクで実現されており、そう難しい話ではない。しかし軌道を離脱し、ぶ厚い大気層の抵抗にうち勝ち、中の人間を生かしたまま地上に降ろすことは、全く別次元の話だった。

大気圏突入時、宇宙船は強烈なGと激しい高温に見舞われる。高温もさることながら、まずクリアすべきはGの問題だった。機体が燃えなくても、中の人間が耐えられなかったら意味がない…様々な形状が検討された結果、強い揚力を生じる有翼型がGを最も押さえることができることが判明した。ところが代償としてボディ底部が物凄い高温に包まれ、それは当時の断熱材の耐久を遙かに超えるものだったという。

続いて検討されたのは、現在のソユーズ宇宙船で使用されている釣り鐘型だったが、これもなかなか手強い相手だったようである。だが打開策は、別の方面からもたらされた。1958年4月、遠心加速器による加速実験で、生身の人間が10Gまで問題なく耐えられることがわかったのだ。

このことは、強いGにさらされる弾道突入でも構わないことを意味する。開発速度も加速した…同年春、別の担当チームが球形を提案。揚力を生まなくて済むのだから、最もシンプルな球体で構わない。

1958年4月から5月にかけ、形状について最終候補が3つ残っていた。それは「円錐型」「半球型」「球型」であったが、フェオクチストフらは最後の球型を選択した。これは、「大気圏突入時の姿勢を考慮しなくてよいこと」(複雑な姿勢制御システムが不要)、「内部容積を最大に取ることができる」、「熱膨張・収縮によるストレスが低く抑えられる」という3点が理由だった。

同年年8月までにはほぼ基本コンセプトが出来上がり、同18日、ドキュメントがまとまった。プロジェクトコードは「OD−2」である。計画の中心となるのは、コロリョフ、フェオクチストフを含めた4人。9章立ての本文にはフライトの概要や宇宙船の形状、振動・熱防御の問題など、有人宇宙飛行に必要とされる要素が全て明らかにされていたが、この時デザインされていた宇宙船は、後に実際に飛ぶことになるそれとはかなり異なる。人が入るコックピットは球形であるが、それにスプートニク3号のような円錐型をした機械部がくっつき、全体としてスプートニク2号のような形をしたものだった。要は、スプートニク2号でライカが入っていた缶が、球形カプセルになったと言ってもいい。

帰還は逆噴射エンジンにより減速、大気圏突入を行い、所定の高度で飛行士は座席ごと射出、カプセルと飛行士はそれぞれパラシュートを開いて地上に降下するというやり方とされた。

飛行士とカプセルを別々に降下させるのには、理由があった。パラシュート降下とはいえ、着地の瞬間は強い衝撃がカプセルを、そして中の人間を襲う。だがカプセルにこれ以上、逆噴射ロケットやショックアブソーバーなどを取り付けるのは難しく、開発にも時間がかかる。したがって代案として、飛行士は射出座席に乗り、適切な高度でカプセル外に飛び出し、パラシュートを展開するという方法が選択された。ちょうど、戦闘機の座席が緊急時にエスケープするのと同じ類で、むしろその技術がそのまま生かせる。座席の下には固体燃料ロケットが装着されており、ハッチが開いた2秒後に点火、外へ飛び出すようになっていた。

この仕組みは、緊急脱出シーンでもそのまま用いることができる。宇宙船を覆うフェアリングの側面は大穴が開いているが、これは打ち上げ時に非常事態が発生した際、ハッチが飛び、座席が飛び出せるようにするためである。(補足1参照)

ついでに、パラシュートを広げて降下するという点に関して興味深い話がある。コロリョフは本来、パラシュートを嫌っていたというのだ。彼は元々、ヘリコプターのようなローターを取り付け、それを回して地表に降下することを思い描いていたといい、これは先に述べた「RD−90」の中で示された5つのデザインの中にも入っていたものである(補足2参照)。勿論、そんなことは不可能に近いうえ、時間もなかったことから、パラシュート降下に渋々同意したと言われている。

さらに付け加えると、巨大な傘を広げて降下するという代物もあった…そんな奇抜なアイディアは全て破棄されたのである。

ところでこの有人宇宙船計画と並行して、第1設計局では別の無人偵察衛星計画が進められていた。これは1956年にコロリョフが中心となりスタートしたもので、「OD−1」とコードネームが付けられていた。政府上層部にとって宇宙開発は軍事優先だったわけであるが、この衛星計画は上層部の公式承認を受けていなかった…当時はミサイルとしてのロケット開発が中心にあり、偵察衛星までは概念になかったのだ。軌道から敵の領土を撮影することなど夢物語とすら思ったかも知れない。ただ一方では、非公式ではあるが軍部がサポートしていたのも事実であった。

だが有人宇宙飛行が実現性を帯びてくると、コロリョフの心は大きく揺れ出した…彼としては、偵察衛星よりも有人宇宙飛行に全力を注ぎたかったのだが、しかしだからといって、軍部の要求を無視するわけにはいかない。これには設計局内でも賛否が分かれたようで、フェオクチストフは後年、「何ヶ月にもわたって、設計局内でバトルが繰り広げられた」と回想している。

コロリョフへの追い風は皮肉にも、米国から吹いてきた。1958年10月、米航空宇宙局(NASA)が設立されたのである。米国の動きは素早く、翌月末には「マーキュリー計画」が始動。ソ連政府も、この動きを無視するわけにはいかなかった…同11月には、有人宇宙船の優先順位を上げる動きが強まっていた。

1959年1月5日、ソ連共産党中央委員会は、有人宇宙飛行へ向けた準備を公式決定する法令「No.22−10ss」を採択した。今なお機密指定となっているため詳細はわからないが、この法令がソ連において成文化された形で初めて下された、有人宇宙飛行へ向けた公式ゴーサインとされている。この4ヶ月後の5月22日には2つ目の法令「569−264」が採択された。タイトルは「偵察衛星および有人宇宙船に関する作業について」とされたが、そう、「有人宇宙船」という言葉を盛り込むことに成功したのである。

これは、建造許可を下した法令であった…準備のゴーサインから数ヶ月の開きがあるが、これは軍部が抵抗したからである。しかし今やお墨付きが得られたコロリョフらは、宇宙船の開発を更に加速させた!


ここで、船の形状を大きく変更する決定が下された。上述したように、スプートニク2号のような格好をしていたのだが、主たる機器は真空中にむき出しのままであった。だが確実な動作を保証するためには、機器も与圧カプセルに格納した方がいいという結論に達したのである…後に「ボストーク宇宙船」としてお目見えすることになる姿が、このとき決まった。

また、偵察衛星計画にも変更が加えられた。フェオクチストフは有人宇宙船計画に「OD−1」を取り込んではどうかと提案したのである。つまり、「OD−2で人を乗せる代わりに、カメラを乗せるだけでよいではないか」と。これだと人的・物的資源の集中も計れる。この提案はコロリョフを喜ばせ、独立していた偵察衛星計画「OD−1」は破棄されることとなった(補足3参照)。

一連の修正の後、それまで用いられていた「OD−2」というコードは廃止され、新たに「オブジェクトK」というコードが与えられた。この“K”はロシア語で「船」を意味する「コラブル」の“K”である…そう、宇宙船をより強く意識したものであった。この「オブジェクトK」計画では4種類のミッションが立案されていた。それらは「1K」、「2K」、「3K」、「4K」とコードの付けられたもので、「1K」は宇宙船システムのプロトタイプ、「2K」および「4K」は偵察衛星、「3K」は有人宇宙飛行であった。

ところで、肝心の「ボストーク」という名であるが、これは1960年のある時期に決まったようである。命名については設計局内で意見が集められたと言われており、当初は「シャリク」(шарик・球体)という名も候補に挙がっていたという。ところが候補の1つ「ボストーク」をコロリョフは非常に気に入り、それがそのまま宇宙船の名称になってしまったようである。

「ボストーク」(восток)とは、「東方」を意味する。ではなぜ「東」であるのか?

筆者は学生時代、ロシア語を少々学んだことがあったが、その際、ロシア人が圧倒的に好む方角は東だと聞いたことがある(日本人の場合は南)。ロシア人にとって歴史的に、東という方角は特別な意味を持ち、その影響が今なお強いのだという。帝政時代、広大な東方へ領土を拡大することは壮大な夢であり目標だった。極東の、日本海に面した軍港に「ウラジオストク」があるが、この名には「東方を支配する」という意味がある。

村や町、地区、時計メーカー…など様々な対象に付けられているボストークだが、その最たる例はロシアの南極基地「ボストーク基地」だ。子供の頃、図鑑で知ったその名に、「なんで宇宙船の名前と同じなのだろう」と思ったことがあったが、なるほど、東方=征服すべき対象と捉えると、そのネーミングは至極納得できる。

若い日、「ソ連のロケットが宇宙を征する」とGIRDの会報に興奮気味に記したコロリョフ(開発史17参照)。ボストーク…長年の想いを全て詰め込んだ、パーフェクトな名前だったことだろう。それは、一般のロシア人の心にも響く…「シャリク」などという無機質なネーミングに比べ、社会に与えるインパクトが格段に違う。ひょっとしたら、コロリョフ自身が早くから「ボストーク」を意中に秘めており、部下の提案がそれに合致し狂喜したのかも知れない…?

下は、ボストーク宇宙船と打ち上げロケット「8K72K」の模式図である。「8K72K」はR−7の上に「ブロックYe」(液酸/ケロシンエンジンRO−7)を乗せたもので、ブロックYeが宇宙船を更に加速する。宇宙船には、下のイラストには描かれていないが、更に複数本のアンテナが伸びている。上部・搭乗カプセル部の直径は230センチで重量は2.46トン。下部・機械部は直径243センチ、高さ225センチで、重量2.27トン。搭乗カプセルと機械部はワイヤーで結ばれており、帰還の際これを切断、カプセルのみが大気圏突入時の高温に耐え地上に降下する一方、機械部は燃え尽きる。

           
(1)コマンド受信アンテナ (2)VHF交信アンテナ (3)アンビリカルコネクター (4)ハッチ (5)宇宙食格納箱 (6)固定バンド (7)短波帯交信アンテナ (8)逆噴射エンジン (9)テレメトリーおよびTV画像送信アンテナ (10)機械部アクセスハッチ (11)機械部 (12)電気系ワイヤー固定ハーネス (13)窒素および酸素ボトル(計16個) (14)射出シート (15)無線装置、モールスキー及び姿勢制御装置グリップ (16)ブゾール (17)ハッチ (18)TVカメラ (19)耐熱シールド(カプセル全体を覆う) (20)電子機器パック

機械部はアルミ合金でできており、与圧内部には様々な機器が納められていたが、最も幅を効かせていたのは逆噴射エンジン「TDU−1」であった。これを中心に蓄電池、無線およびテレメトリー装置などが詰め込まれていた。機械部の下半分表面はシャッターになっており、ラジエターの役割を果たした。

真珠のネックレスのように取り囲む球形タンクには窒素および酸素ボトルであるが、窒素ガスは姿勢制御スラスター(8基)用も含まれる。また、逆噴射エンジンの傍には太陽センサー(光電素子もしくは太陽電池)が備えられており、これは逆噴射シーケンスで重要な役割を演じる。

その逆噴射シーケンスは、ミッション全体における最大の山場だった。軌道を飛行する際、エンジンは後方を向いているが、地球帰還の際には船を180度回転させ、エンジンを進行方向へ向けなければならない。この方法には、初めて月の裏側の撮影に成功したルナ3号の方式(開発史20参照)と同様の方法が採用された。すなわち、太陽を基準天体としたやり方である。

下図で示されたように、逆噴射エンジンを吹かすタイミングを、宇宙船が夜の域から抜けるタイミングにぶつけるのだ。夜の域から抜ける際、宇宙船はちょうど太陽へ向かって飛行をしている。この時センサーを起動させ、太陽を認識するまでスラスターを噴射させると、エンジンを進行方向へ向けることができるというわけである。

        

一方、飛行士が入るカプセルは、その重心の低さから、大気圏突入を始めると自然に背中側を下にするようになっていた。直径1mのハッチが3つついていたが、1つはパラシュートコンテナ、1つは機器へのアクセスハッチで、3つ目は飛行士の出入りするそれである。また、3つの円形窓がついており、1つは足下にある「ブゾール」と呼ばれたそれで、ガラスには照準目盛りが描かれていた。あとの2つは飛行士の頭上、左右に1つずつあったが、この2つにはシャッターがついており、強烈な太陽光の侵入を防ぐことができた。

カプセル外層は全面が耐熱材に覆われていたが、背中側の11cmの厚みに対し、上部は3cmしかなかった。勿論これは、背中側を下にして突入するため、上部は薄いもので大丈夫という判断からだった。ただ1つ問題だったのは、ガラス窓の耐熱策をどうするかということで、窓穴の外を耐熱カバーが覆うような仕掛けを作ることも検討された。

だがそれは技術的にも時間的にも難しく、結局ガラス窓をカプセル壁の奥深いところに取り付けるという策で妥協することになった(右は断熱材の貼られていないボストーク。丸いのはブゾール窓で、ガラスが奥に埋め込んである)。

窓の熱対策にはコロリョフも不安を隠しきれなかったようで、個人的に、耐熱性の高いガラスを求めて探しまわったと言われている。

射出座席には非常食や飲料水を込めたサバイバルキットの他、無線機、高空射出に備えた酸素ボトル、着水した場合の膨張型救命ボートなどがセットされていた。座席の全重量は800kg。(上に掲げた模式図で、飛行士は左手をグリップにかけているが、これは脱出起動ハンドル。座席は打ち上げ時に異常事態が発生した場合、自動的に飛び出すようになっていたが、飛行士が手動で起動させることができるようにもなっていた。)

飛行士の目の前にある計器は、非常にシンプルなものであった。なぜなら重要な操舵は、全て地上からのコマンドで行われるようになっていたからである…飛行士はただ、座っているだけでよかったのだ(この辺の背景は開発史8参照)。下写真の左2つは主たる計器板である。メインコントロールパネル(中央)には飛行ポジションを示す地球儀が目立っており、“宇宙船らしさ”がたっぷりだ。ただしこの地球儀は時計仕掛けで動くものであり、センサーが地上を捉えて正確にポジショニングするものではない、あくまで目安程度のものだった。メインパネルには他にも船内気圧、温度、湿度、組成や窒素等ガスタンク圧力などを示すメーターが付けられている。

一方、長方形の黒い箱(左)はメインパネルの左側に取り付けられており、逆噴射エンジンを操作するパネル。スイッチの詳細はわからないが、細長い透明プラスチックカバーの下に起動スイッチがあるのだろう。その上に並んだ6つのボタンは、各々に1〜6の数字が記されており、自動制御モードを解除するためのボタンと思われる。自動モードの解除は6つの数字を組み合わせた暗号で行われる。順序に従ってボタンを押し込むようになっていたのか…想像は尽きない。

ちなみに飛行士に大きな自由度が与えられていた米のマーキュリー計画では、宇宙船カプセルには物凄い数のスイッチとメーターが並んでいた。

       

グリップハンドル(右上)は、船体の姿勢を手動制御するためのハンドルであり、右手の傍に取り付けてあった。グリップを前後に動かすとピッチ、左右に倒すとヨー、左右ひねりがロールであったが、ヨーとロールのコントロールが航空機の操縦桿と逆であるのが特徴的だ。航空機の操縦桿の場合、グリップを左右に倒すのがロール(機体前後方向軸まわりの回転)で、ひねりがヨー(機首を左右に振る)である。

これには理由があった。ボストークの場合、飛行士はブゾールを通して地球を真下に見る…この時宇宙船の機首(進行方向)を向くのは顔ではなく頭頂部だ。この姿勢で飛行した場合でヨーとロールの反応を航空機と同じにすると、窓から見える風景の変化が意志と合わなくなってしまう…このような混乱を起こさないよう設計されていたわけだが、飛行士達は訓練の際、適応するまでだいぶ難儀したようである。

カプセル内は大気と同じ組成(窒素79%、酸素21%)で1気圧が保たれるようになっていたが、これもマーキュリー宇宙船と大きく異なる。マーキュリーでは純酸素・3分の1気圧とされていた。ボストークで地上大気と同じ空気組成が選ばれた理由は簡単であった…火災の危険性を避けるためである。湿度は50%前後で温度は15℃〜25℃の範囲、二酸化炭素は1%以下に抑えられた。

カプセルの気密が万一破れた場合に備えて、飛行士は宇宙服を着用する。この宇宙服は「SK−1 ソコール」と呼ばれたもので(右)、第918プラントで開発された。モスクワにあるこのプラントは戦闘機のエスケープシートを開発する傍ら、犬の弾道飛行実験の頃から宇宙用耐圧服の研究にも関わってきた部署。ソ連の宇宙服は現在まで、全てここで製造されている。

もともと第1設計局では、「宇宙服不要論」が主流であった。「カプセルが完璧な上になぜ人間が気密服を着用しなければならぬのか」という声が大方であったのだが、これに異を唱えたのが、当時第918プラントのトップであったセミョン・アレクセイエフという男だった。有力な医学関係者の支持もある彼は、万一に備えて宇宙服を着用させるべきだと主張、結局コロリョフも折れたとされる。

SK−1を開発したのは同プラントに結成された若手チームで、リーダーはゲイ・イリイチ・セヴェーリンという男。セヴェーリンは当宇宙開発史でも度々登場する宇宙服のプロフェッショナルで、彼もまたフェオクチストフと同様、若くしてその才能と統率力を発揮していた。

ちなみにセヴェーリンは、フェオクチストフと同い年の1926年生まれ。コロリョフの直接指揮下にはなかったが、彼もまた将来が楽しみな“幼稚園児”であり、事実、1964年に38歳で918プラントから独立して設立された宇宙服開発局「ズヴェズダ」の長に就いて以降、今日まで宇宙服の開発現場を仕切り続けてきた。フェオクチストフやボリス・チェルトックと並ぶ、ソ連宇宙開発黄金期を知る生き証人であるが、2008年2月7日、81歳でこの世を去っている。

SK−1には強くかつ軽く、柔軟性が求められた。だが軽いと言っても、重量は23kg。ヘルメットだけでも3kgある。設計から製造、テスト、完成まで僅か半年という短期間で作り上げられた。気密服自体は5層で、一番内側はセンサーの取り付けられた下着で、その外側にゴムや強化ポリエステル繊維層が重ねられている。センサーやヘッドセット(マイク/ヘッドフォン)などのケーブル、酸素パイプなどは腹側から通っており、通信機器や生命維持装置に繋がっている。

一番外の保護ウェアは国際救難色であるオレンジとされた…ソ連領のみならず、世界中どこに降りても目立つ。なお、ミッションパッチはSK−1には装着されなかった。

飛行士は、打ち上げ時と帰還時にバイザーを閉じ、周回軌道上では開けておくことができた。ただし眠る際(実際に飛行士が眠ったのはボストーク2号以降)には閉じることが義務づけられていた。食事や水分の補給は、バイザーを閉じていてもヘルメットのあごの部分に付けられたバルブを通して行うことが可能であった。

カプセルの気密が破れるなどで減圧が生じた際は、酸素の追加供給が始まるようになっていた。供給が漏れに追いつかず圧力が0.8気圧を下ると、バイザーが勝手に閉じる。更に圧力が低下し0.4気圧に達するとヘルメットには純酸素が供給され始め、更に低下すると船内循環ファンが停止、気密服は完全な孤立系となり飛行士を守る。

なお、宇宙船には1週間分の酸素と窒素、食料と水が供えられていた。1週間は、仮に逆噴射エンジンが起動しなかったとしても、空気抵抗(極希薄ではあるが空気が存在する)による自然落下を待つに充分な時間であった。

ヘルメットの「CCCP」という赤文字は、「ソビエト社会主義共和国連邦」を意味するロシア語の頭文字を並べたもので、国籍を明確にするためのもの。何せ事前発表無しに行う有人宇宙飛行…宇宙飛行士のことなどソ連国内でも一般人にはわからなかった訳だが、これが書かれたのは何と、ガガーリンが宇宙服を着込んだ時だったというから驚きだ。描いたのは918プラントのビクトル・ダヴィドヤンツというテストエンジニアで、「国籍をはっきりさせるために書いておこう」と、思いつきに近い形でバタバタと行われたようである。これ以前の訓練風景では、ヘルメットにCCCPは描かれていない。

食事、いわゆる“宇宙食”はタンパク質や脂質、炭水化物を適切に計算の上で食材を調合、ピューレ状にしたもので、アルミのチューブに詰められていた。「宇宙食=ねり歯磨きのチューブを加えてしぼり出す」というイメージは今やバージョンが古すぎるが、当時こそ、それそのものであったのだ。だがボストーク計画も後半では、乾燥固形食も取り入れられていたという。水は袋に詰められており、ポンプでチューブへ吸い出され、それをくわえた飛行士がすするようになっていた。

一方、排泄物の処理も重要な問題だった。大は受け止める器具が服の中に仕込まれており、使用ごとに抜き取り、専用ケースに密封して地上に持ち帰るようになっていた。拭き紙も用意されていたというが、しかしどのように使用するのか…宇宙服にはそのための口がきちんと用意してあったというが、ケーブルやパイプの繋がった身動きの苦しい宇宙服と座席…かなり難しかったに違いない。排便処理中に気密が漏れたらどうするのだろう…幸いそのようなことは起こらなかったが。

小のほうは、エアで吸い取る方式であった。器具で受け止めた液体はエアと共にホースを通して吸い出され、いくつかのフィルターを使って完全に吸収される。ちなみにエアフローは、最終的にカプセル内へと拡散する…フィルターを通ってきれいにされているとはいえ、潔癖症の人には耐えられないだろう(?)。風呂は言うまでもなく、ひげそりや歯磨きもできなかった。

生物を、人間を生かしておくということがどんなに大変なことなのか、改めて思い知らされる。しかも備えられたのは最低限必要な設備のみであり、快適性など二の次であったのだ。

(右・ボストークの製造ラインを収めた一枚。多くの技術者が丁寧に組み立てていく。動画があるのだが、しかし、そこでは結構おおざっぱな扱いも見受けられる。例えばクレーンで吊ったカプセルを機械部の上に載せるシーン、降ろす速さがかなり早く、下で見守っていた作業員が慌てて手を振り、あわや激突かというところで静止する場面がある。)

では、ボストークの飛行を振り返ってみることにしよう。ボストーク1号に関しては、その大まかなあらすじは開発史(9)「親父の背中」でまとめた。そこでここでは、公表されている飛行中の交信記録などを追ってみることにしたい。


ボストーク1号 搭乗: ユーリ・アレクセービッチ・ガガーリン

ボストーク計画国家委員会がフライトを正式承認したのは1961年4月8日で、その2日後の10日夜、ガガーリンが搭乗者として正式に任命された。バックアップはゲルマン・チトフ。ボストークロケットが射点に運ばれたのは11日早朝(現地時)であった。

打ち上げ当日の12日。午前7時半(現地時)に目を覚ましたガガーリンとチトフは軽い食事を摂り、宇宙服を着用した。その後バスに乗り込み移動を開始、射点に到着したのは打ち上げ2時間半前であった。到着したガガーリンはすぐにロケットへ向かい、エレベーターで先端へ上り、カプセルへと入った(右・エレベーターに乗り込む直前のガガーリン。両手を振って、別れの挨拶…この後エレベーターに入ろうとするが、振り返り、再度手を振って名残を惜しむ)。

通信機の電源を入れ、地上との会話や音楽などを聞いて時間を潰すガガーリン。打ち上げの1時間半前にはハッチが完全に閉じていないことが判明し、オープン。約20分後、再度閉じられている。

午前9時07分(モスクワ時間・以下同)
コロリョフ :エンジン点火
ガガーリン:了解
コロリョフ :出力が出てきた…まだまだぁ…よぉし…リフトオフっ!
ガガーリン:いきまーす!
コロリョフ :よい飛行を願ってるよ、全て順調だ。
ガガーリン:グッバイ、すぐまた会いましょう!みんなにもよろしく!
コロリョフ :グッバイ、すぐ会おう!
ガガーリン:震動が繰り返されてます。ノイズがちょっと増加しました。

午前9時08分
コロリョフ :打ち上げから70秒経過
ガガーリン:了解。気分は良好、飛行を続けます。Gロード増加、全ては順調です。

午前9時09分
コロリョフ :100秒。どんな気分だ?
ガガーリン:気分は良好です。そちらからはどうですか?
コロリョフ :速度も時刻も全てノーマルだ。君はどう感じている?
ガガーリン:自分は順調に感じてます。
コロリョフ :すべて順調、マシンはきちんと動いているよ。

午前9時10分
コロリョフ :フェアリング分離。すべて順調だ。気分はどうだ?
ガガーリン:フェアリング分離を確認…地球が見えます…Gが増しました、気分は絶好調です。

午前9時11分
コロリョフ :いいぞ、すばらしい!全てはうまく進んでいる。
ガガーリン:雲が見えます…陸地…なんと美しい…美しい!聞こえますか?
コロリョフ :きれいに聞こえているよ。飛行を続けよう。
ガガーリン:飛行を続けます。G増加、ゆっくりと回転を始めました。全ては順調です。気分も絶好調です。ブゾー
       ルから見える地球は雲が広がっています。
コロリョフ :全て順調だ。君の声はよく聞こえているよ。

午前9時12分
ガガーリン:第2段が分離しました。
コロリョフ :第3段点火だ。全て順調。
ガガーリン:こちらでもエンジン点火が聞こえました。気分は最高です。地球が見えます…気分は爽快、G増加、
       気分は最高です。

続いて、コロリョフに代わり、カマーニンがマイクに出る。

9時13分
カマーニン:全て順調だ。聞こえるか?気分はどうだ?
ガガーリン:とてもよく聞こえます。気分は最高で、フライトも順調です。地球が見えます。全てがはっきりと、一
       部は積雲に覆われています。飛行を続けます。全てはノーマルです。
カマーニン:いいぞ、よくやった!その調子で続けてくれたまえ。

9時14分
ガガーリン:全ては完璧に動いています。

9時15分
カマーニン:気分はどうだ?
ガガーリン:交信シグナル信号が弱くなってきました。気分は爽快、順調に飛行を続けます。全ての機器は問題
       なく作動しています。

この後、地上局がバイコヌールから極東のハバロフスクに切り替わり、ガガーリンはそこの担当者に気分や機器の状態を報告している…この後も、気分と機器の状態報告をひたすら続けている。しかしガガーリンも、自身の船がどのような状態なのか知りたかったのだろう、船の様子を問う質問を幾度となく投げかけている。第3段の燃焼が終了し、無重力飛行に移ったはずだった。

ボストークはカムチャッカ上空を抜け、太平洋へと入っていく。興味深いのは、この前後、アラスカで通信が傍受されていたことだ。ソ連はまだ公式に世界へ発表していない。だが米国はいち早く、ソ連が宇宙船を打ち上げたこと、そしてその中に、確かに人間が乗っていることを確認したのだ!

アラスカ・アリューシャン列島の小島、シェミャ島。ここで傍受されたTV画像には、ガガーリンの顔が映し出されていた。米国は1940年代からこの地に空軍基地を建設、冷戦開始後はカムチャッカを睨む最前線の一角として無線傍受施設を整備し、ロシア語に精通した要員を多数配置していたと言われる(注:右画像は米が傍受した画像ではありません)。

9時21分
ガガーリン:気分は良好です。こちらでみるパラメータは、気圧1、湿度65、温度20、機械部気圧1、…

9時25分
ガガーリン:こちらに報告することはありませんか?

9時26分
ガガーリン:そちらからの報告はありませんか?
地上局  :よく聞こえているよ。機器は異常なし、生体数値もノーマルだ。
ガガーリン:フライトについては?何もありませんか?
地上局  :No.20からの指示は入ってないよ。飛行は順調に推移している。

「No.20」とは、コロリョフのことだ。コロリョフを始めとした関係者は、交信中はコード番号で呼ばれていた。

9時27分
了解しました。フライトの状況を教えてください。それから、「ブロンド」によろしく!

「ブロンド」とは、レオーノフのことを指す。その地上局にはレオーノフが当番として詰めていたのだ。

9時29分〜30分
地上局  :気分はどうだ?
ガガーリン:気分は完璧です。完璧、完璧、完璧なんです。そちらも飛行データを送ってくれませんか!
地上局  :もう一度言ってくれないか、よく聞こえない。
ガガーリン:だからとても良好ですって。とてもとても良好。こちらの状態を送って下さい!
地上局  :こちらは聞こえているか?… VHFでの交信は切れたようだ。

ガガーリンは、明らかに苛立っていたようだ。地上局は一方的に気分を問い、ガガーリンからの問いにはまともに答えていない。きちんと軌道に乗ったかなど、一切ガガーリンには伝えられていない。船の状態や飛行軌道など、彼からはわからないことだったのだ。

地上局は、何よりもガガーリンが正気で飛行を続けているかどうかを常に確認したかったのだろう。それに、西側に無線傍受されることを嫌っていたのも間違いない。公式発表もまだであり、テクニカルな会話は避けたかったのかも知れない(無線傍受は西側各国で行われており、日本でも例外ではなく、ソ連宇宙船の常用周波数が24時間態勢でワッチされていた。だがこの打ち上げは傍受に失敗していたようである…詳細は次号で)。

9時48分
ボストークは西経170度上空で赤道を横切り、南太平洋へと入っていった。交信は短波で行われた。ガガーリンは伝える…「定期レポートを送ります。フライトは順調に継続しています。コックピットの圧力は1、湿度65 … …。」

ボストークは夜の域を飛行している。「闇の中を飛んでいる」とガガーリンはレポートし、地上局も確認した。

9時51分
ガガーリン:太陽センサーを作動しました。
地上局  :了解。

ガガーリンは、ボストークの太陽センサーをONにした。

9時53分
地上局  :No.33が、送信機をオンにするよう言っている。フライトは正常で、軌道も確かだ。

「No.33」とは、カマーニンのことだ。

9時55分〜57分
ガガーリン:フライト正常。気分も爽快。現在アメリカ上空。
地上局  :了解。

「アメリカ上空」という報告が面白い。この時、実際は南太平洋・チリの遙か沖を飛行していたのだ。しかもまだ夜の域を飛んでいたわけであり、地上がよく見えるはずがない。ひょっとしたら目の前のおおざっぱな地球儀がアメリカ大陸を示しており、それを見たまま伝えた可能性も考えられる…?いろいろ想像すると面白い。

10時00分
ボストークは南米最南端・ホーン岬と南極半島の間を通過しつつあった。この時刻、モスクワ放送はボストークを打ち上げたことを全世界に伝えた。

原稿を読み上げるのは、名アナウンサー、ユーリ・レビタン。腹の底から力強く響き渡る、透き通った声のレビタンは、その声で第2次大戦中はソ連国民を鼓舞し、同じく声で人々を煽動していたヒトラーはその影響力に脅威を察し、個人的な宿敵と位置づけていた。ヒトラーは対ソ開戦の1941年、モスクワ放送局舎の爆撃を実行、ドイツ放送は「レビタンは死んだ」と報じたが、爆弾は不発、ドイツ発表の15分後にレビタンの声がラジオから流れ始め、ソ連国民は喝采したという。

レビタンもまた、“大祖国戦争”立役者の一人であった。終戦後も彼の役どころは変わることなく、政府の重大発表は必ず彼が受け持っていた。

「ガバリッ・モスクバッ!(こちらはモスクワ放送局)ソビエト全土の送信所よりお伝えしております」

「世界初の有人宇宙船“ボストーク”が飛行士を乗せ、ソビエト連邦より打ち上げられた。飛行士はソビエト社会主義共和国連邦市民、ユーリ・アレクセイビッチ・ガガーリン少佐である!宇宙船は多段ロケットで打ち上げられ、軌道周回速度まで加速、軌道飛行を行っている…」

一報はガガーリンにも伝えられた。彼は中尉であったが、この時、2階級特進し少佐になったことを知った。彼は喜んだとされているが、そもそも通常は殉職者に与えられる2階級特進を聞いて、内心複雑だったかもしれない。(周回軌道上を飛行中のボストーク(画・謝辞参照))

           

10時00分〜23分
ガガーリンは何度かレポートを報告している。しかしこれは、地上局では受信できなかった。10時10分、夜の域を抜けた。船は南大西洋からアフリカ東岸・ギニア湾へと進んでいった。

10時25分
姿勢を設定したボストークは、逆噴射を開始した。これは42秒間続き、軌道速度を落とし、船は大気圏突入モードに入った。噴射停止10秒後、カプセルと機械部を接続するワイヤーを切断するコマンドが発せられたが、完全には切れず、この後更に10分間、カプセルと機械部は繋がったまま降下を続けていった。

船は激しく揺れている。そのままでは非常に危険な状態に陥るところだったが、幸い、ワイヤーが焼き切れた。10時35分、ガガーリンは「異常なし」を意味するシグナルを発した…この時のことを「地上管制部に余計な心配をさせたくなかったのと、このまま落下すればソ連領の何処かに着陸することは確かだろうと思ったからだ」と、後年語っている。

10時35分〜
カプセルは自由落下を続けた。最大で10Gほどを感じたと、帰還後に報告している。高度7kmに達するとハッチが外れ、2秒後、ガガーリンは座席ごと射出され、パラシュートが展開した。一方、カプセルの方は高度2.5kmの地点でパラシュートを広げ、降下していった。

10時55分
カプセル、着地。着陸地点は北緯51度東経46度、打ち上げより1時間48分が経過。カプセルの降下を目撃した者が、次の言葉を残している。

「とても大きなボールで、2ないし3メートルはありました。地上に落下するとバウンドし、転がったのです。」

11時05分
ガガーリン、着地。そばで農作業をしていた女性とその娘は、赤いスーツと白いヘルメットに身を包んだ奇怪な男を目の当たりにした。ガガーリンは後に、当時のことを次のように回想している。

「宇宙服にパラシュートという私が彼女らに近づこうとしたとき、彼女らは顔に恐怖感を浮かべ後ずさりを始めました。『怖がらないでください、私はあなた方と同じソ連人です。宇宙から帰ってきたんです。電話を探しているのですが…モスクワへ報告しないといけないんです!』」

最高高度は約302km、飛行距離は約38620km。公式飛行時間は、カプセルの1時間48分。人類初の宇宙飛行はこうして終わった。文句なしの、完全成功であった。

コロリョフは帰還報告をするガガーリンに感動し、言葉も出なかったという。


ソ連政府は国際航空連盟(FAI)に対し、飛行記録樹立の申請を行ったが、1つ問題があった。それは「パイロットは離陸から着陸までの間中、搭乗していなければならない」という認定ルールに抵触することだった。そのためソ連は、「ガガーリンはカプセルの中に入って着陸した」と一貫して主張を続けた。ガガーリン本人も会見でそう言うように仕向けられていたが、その曖昧さを感じさせる挙動は疑惑を生んだ。

結局、FAIは飛行記録認定を行っている(補足4参照)。

ガガーリンの成功はその後一週間、世界中を興奮の渦に巻き込んだ。日本でも大きく報じられ、世間もさることながら、政治家も釘付けになった。続いて当時の報道を辿りながら、その衝撃を振り返ってみたい。


※謝辞
本文中のボストークイラストは「妄想設計局」管理人・有明さんにいただきました。ありがとうございました。

※補足1
コロリョフは当初、先端に装着したエスケープロケット方式の緊急脱出システムを考えており、戦術ミサイル関連技術を担当していた第81設計局に開発を依頼していた。この設計局は一応エスケープロケットシステムをデザインしたが、それはあまりに重く、実用化は困難なものであった。コロリョフの圧力は相当強かったようであるが、耐久性の面からも軽量化は無理だと拒み続けたと言われている。

※補足2
コロリョフはヘリコプター設計の専門家ミハイル・L・ミルというデザイナーに相談しているが、ミルは難色を示したという。彼は部下に「人間が地球の周りをグルリと回るのだ。全世界は喝采するだろうよ。しかし、スーパースターが御帰還の時…バーンだ!誰が責任を取ると思う?責められるのは我々だよ…」と愚痴ったそうである。

※補足3
話が前後してややこしいが、この変更は1958年下半期には検討されていたようである。そもそも有人宇宙飛行に対する政府上層部の支持は低く、単体での実現は困難であった。フェオクチストフの進言を58年夏とする資料もあるが、両者は日常会話の中で検討を繰り返していたに違いない。コロリョフは、両者を融合させれば承認が得やすくなると考えたようである。

※補足4
FAIによる認定http://records.fai.org/pilot.asp?from=astronautics&id=4791

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
S.P. Korolev Rocket and Space corporation Energia  http://www.energia.ru/english/index.html
Encyclopedia Astronautica (C)Mark Wade  http://www.astronautix.com/
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Rocket Men Vostok & Voskhod, The First Soviet Manned Spaceflights”
                        by Rex Hall and David J. Shayler, Springer Praxis, 2001
“Russian Spacesuits” by Isaak P. Abramov and A. Ingemar Skoog, Springer Praxis, 2003
≪Известия ЦК КПСС≫ 1991 год 5 “ЗВЕЗДНЫЙ РЕЙС ЮРИЯ ГАГАРИНА” http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/i_tsk/zv-reis.html
Computing in the Soviet Space Program http://web.mit.edu/slava/space/index.htm