ソ連宇宙飛行士1960年選抜組 (TsPK-1)

ソ連は有人宇宙飛行を実行に移すにあたり、ソ連西部方面の軍基地の若者を中心にスクリーニングを行い、ふさわしそうな男たちを選び出した。彼らは厳しい基準の下で更に絞り込まれ、1960年、最終的に以下の20名が選抜された。彼らはいわば、“ソ連版ライトスタッフ”である。

なお、訓練施設も急ピッチで設置されていったが、20人同時に訓練するのが難しくなったため、特に優れた6人をファイナリストとして優先的に訓練したのである。

アニキエフ、イワン(Anikieyev, Ivan)
生没年月日: 02.12.1933-08.20.1992
     出身: ロシア・ヴォロネジ州リスキー

略歴:1933年2月12日、鉄道関連で働く父ニコライと母ナタリーの間に生まれる。10年間の学校教育を受けた後、1952年、スターリン海軍航空学校のパイロット養成課程に進学。修了後は海軍北方艦隊の戦闘機部隊に配属されたが、宇宙飛行士選抜で候補として残り、訓練を終えた1961年4月3日、飛行士として正式登録された。62年のボストーク3号/4号ミッションでは交信担当者となることが予定されていたというが、任命を受けなかった(年初に制服を着たまま飲酒トラブルを起こしたのが原因か?)。63年3月、ネリューボフ、フィラティエフの2名と共に飲みに出かけ、宇宙飛行士訓練センターの傍の駅で警備兵とトラブルを起こし、宇宙飛行士チームを除名。同4月、元の北方艦隊に移籍、65年までパイロットを務めた。その後地上勤務となり、75年9月、退役。1992年8月22日、ガンのため死去。

フライト履歴: なし


カータショフ、アナトリー(Kartashov, Anatoly Yakovlevich)
生没年月日: 08.25.1932-12.11.2005
     出身: ロシア・ヴォロネジ州ペルボイサドボエ

略歴:1932年8月25日、父ヤコフと母エウロシニャの間に生まれるが、42年、ナチスとの戦争で父を失う。48年から52年にかけてヴォロネジ航空大学に在籍し、52年から54年の3年間をチュグエフ高等空軍学校で学んだ後、ペトロザヴォーツク近郊の基地に配属された。宇宙飛行士候補に選抜され、1960年4月28日、ファイナリスト6名の中に残った。だが同7月16日、セントリフュージュ(遠心加速器)訓練中、背骨のあたりにひどい出血を起こし、ファイナリストから外された。62年4月、宇宙飛行士チームを離れ軍へ戻り、1985年に退役するまでテストパイロットして活躍した。2005年12月11日、闘病の末に死去。疾患を起こして宇宙へ行けなかったという点では、米国のディーク・スレイトンと似ている(但し、スレイトンは75年7月、アポロ・ソユーズ・テスト計画で宇宙へ行くことができた)。

フライト履歴: なし


ガガーリン、ユーリ(Gagarin, Yuri Alekseyevich)
生没月日年: 03.09.1934-03.27.1968
     出身: ロシア・スモレンスク州グジャーツク

略歴:1934年3月9日、父アレクセイと母アンナの間に生まれる。16歳の時に、モスクワの製鉄所で見習い技師として働きながら2年間学んだ。この後、サラトフの高等技術学校に入り、飛行クラブに在籍。指導員が彼に空軍へ行くことを勧めると、55年、オレンバーグ高等空軍学校へ進学、57年に修了。北方艦隊に配属されたが、60年3月7日、宇宙飛行士候補として選ばれた。訓練開始後すぐに頭角を現し、ファイナリストに残る。1961年1月18日、飛行士に正式登録、同4月12日ボストーク1号で人類初の有人宇宙飛行を成功させると、5月には宇宙飛行士チームのリーダーに任命された。65年9月、ソユーズ宇宙船の訓練を始め、ソユーズ1号のバックアップ飛行士に任命。だが、ソユーズ1号が墜落事故を起こした5日後、飛行士リストから外された。その後も空軍軍人として訓練を続け、68年2月にはジューコフスキー空軍工科大学を修了したが、同3月27日、ミグ15飛行訓練中に墜落死した。

頭の切れが良く、スポーツも得意で、冷静で好感度の高い青年。グループでは自然とリーダーになるタイプだったと言われ、このような素質も史上初の宇宙飛行を任された背景にあると言われる。最終階級は大佐。

フライト履歴: ボストーク1号 04.12.1961 飛行時間 108分(単独飛行)


コマロフ、ウラジミール(Komarov, Vladimir Mikhailovich)
生没月日年: 03.16.1927-04.24.1967
     出身: ロシア・モスクワ

略歴:1927年3月16日、父ミハイルと母キセーニャの間に生まれる。15歳で軍に入隊し、航空学校で学ぶ。1949年、バタイスク高等航空学校を修了し、51年11月まで北コーカサスでパイロットの任に就く。59年、ジューコフスキー空軍工科大学を修了すると、テストパイロットになった。宇宙飛行士候補として選抜を受け、61年4月3日、宇宙飛行士として正式登録。宇宙飛行士としての最初に任務はボストーク4号のバックアップで、次はボストーク5号のバックアップ。能力は高い人物であったが度々体調不良を起こしたため、なかなか正規クルーに任命されなかったと言われる。1964年10月12日、ボスホート1号の船長として地球を周回した。1967年4月、ソユーズ1号に搭乗し打ち上げられたが、片方の太陽電池パネルが展開しなかったため帰還へ。だが大気圏突入には成功したものの、パラシュートが絡まったため地上に激突、落命した。墜落現場から回収された遺骸は火葬後クレムリン壁に納められたが、墜落現場にも墓標が作られている。ガガーリンとはお互い良きライバルであり親友であった。宇宙開発史上、ミッション遂行中の事故で犠牲になった最初の飛行士。最終階級は大佐。

フライト履歴: ボスホート1号 10.12.1964-10.13.1964 飛行時間 24時間17分3秒(船長)
         ソユーズ1号  04.23.1967-04.24.1967 飛行時間 26時間47分52秒(単独飛行)


ゴルバチコ、ビクトル(Gorbatko, Viktor Vassilyevich)
生没月日年: 12.03.1934-
     出身: ロシア・クラスノダール州ヴェントシーザリャー
  最終階級:上級中尉

略歴:1934年12月3日、父ワシーリと母マトレナの間に生まれる。1952年に義務教育を終え、53年、バタイスク高等航空学校に入学。同期にはフルノフがいる。56年6月に卒業すると、戦闘機パイロットとして空軍に勤務した。60年3月7日、宇宙飛行士候補に選抜され、他のメンバーと共に訓練を受けた。61年4月3日、飛行士として正式登録。最初の任務はボスホート2号搭乗のベリャーエフのバックアップであった。1967年にはソユーズ2号のバックアップクルーとして選ばれる。また、月有人飛行クルーにも選ばれている。1969年、ソユーズ4号搭乗クルーであるフルノフのバックアップとして選ばれ、自身が初めて飛んだのは69年10月のソユーズ7号であった。71年からはアルマズ計画のサリュート3号、5号のバックアップに任命。77年2月、ソユーズ24号で2回目の飛行を経験し、サリュート5号に17日間滞在した。1980年7月、ソユーズ37号でサリュート6号に飛んだのが最後のフライトになった。82年8月、宇宙飛行士チームを退役し、ジューコフスキー空軍工科大学の教授に就任。後に政治家に転向し、89年4月には人民代議員に選出されている。根っからの宇宙切手収集が高じて、現在はロシア切手収集家連盟の会長を務めている。最終階級は少将。

フライト履歴: ソユーズ7号  10.12.1969-10.17.1969 飛行時間 4日22時間40分23秒(リサーチエンジニア)
         ソユーズ24号 02.07.1977-02.25.1977 飛行時間 17日17時間25分58秒(船長)
                                 サリュート5号第2次滞在クルー
         ソユーズ37号 07.23.1980-07.31.1980 飛行時間 7日20時間42分(船長)
                                 サリュート6号インターコスモスミッション


ザイキン、ドミトリー(Zaikin, Dmitri Alekseyevich)
生没月日年: 04.29.1932-
     出身: ロシア・ロストフ州エカテリノバ

略歴:1932年4月29日、父アレクセイと母ジナイダの間に生まれる。父は1942年、スターリングラード攻防戦で戦死、母は後に再婚。チェルニゴフ高等航空学校で学び、1951年に卒業した。この時、フルンゼ高等航空学校へ進学する50人中トップで、同学校を卒業。同期にはニコライエフがいる。1960年3月に宇宙飛行士候補に選抜、訓練を受け、61年12月に飛行士として正式登録。ボスホート2号クルーであるベリャーエフのバックアップだったゴルバチコが体調不良に陥ったため、ザイキンが代わりに任命された。その後も訓練を続けたが、ついにフライトの機会訪れず、1968年、定期検診で潰瘍が見つかり、退役を余儀なくされた。宇宙飛行士訓練センターに勤務を続け、現在も星の街に住んでいる。最終階級は大尉。

フライト履歴: なし


ショーニン、ゲオルギー(Shonin, Georgi Stepanovich)
生没月日年: 08.03.1935-04.07.1997
     出身: ウクライナ・ロベンキ

略歴:1935年8月3日、父ステパンと母ソフィアの間に生まれる。父はナチスとの戦闘で戦死。義務教育を終えた1952年、オデッサの空軍学校で2年間の飛行訓練を受ける。その後、レニングラードとエイスクの海軍航空学校へ通い、57年に卒業、北方艦隊のガガーリンが所属している部隊と同じ部隊に配属された。60年3月7日、宇宙飛行士候補に選抜される。61年4月3日に飛行士正式登録され、最初の任務はボストーク4号に搭乗したポポビッチのバックアップであった。だがこの時はセントリフュージュ加速訓練に耐えられず任務を解かれている。1966年2月、ボスホート3号クルーに選抜されたものの、フライト自体がキャンセル。1969年10月、ソユーズ6号で飛行したが、この後品行が荒れ、更には深酒で訓練をすっぽかすなど重大な問題を犯した。しばらく後、TKS宇宙船での飛行を割り当てられ訓練を続けていたが、79年、身体テストをクリアできず、そのまま飛行士チームを退役した。1990年、ソ連国防省の中央科学研究所所長に就き、97年4月7日、心臓発作で死去した。最終階級は中将。

フライト履歴: ソユーズ6号 10.11.1969-10.16.1969 飛行時間 4日22時間42分47秒(船長)


チトフ、ゲルマン(Titov, Gherman Stepanovich)
生没月日年: 09.11.1935-09.20.2000
     出身: ロシア・アルタイ地方ヴェルフジリノ
  最終階級:上級中尉

略歴:1935年9月11日、父ステパンと母アレクサンドラの間に生まれる。義務教育を終えた1953年、軍隊に入隊、2年後にスターリングラード高等航空学校に入学した。1957年、同学校をトップクラスで修了後、レニングラード軍管区でパイロットとして3年間を過ごす。60年3月7日に宇宙飛行士候補に選抜されるとすぐに頭角を発揮し、ファイナリストに残る。61年1月18日に飛行士として正式登録され、彼の最初の任務はガガーリンのバックアップ。初フライトはガガーリンの次、ボストーク2号であったが、この時25歳11ヵ月。これは宇宙飛行の最年少記録であり、今なお更新されていない。その後ジューコフスキー空軍工科大学に在学、並行してテストパイロットの訓練も受けた。この間、宇宙飛行の機会を得ることは無く、1970年7月、飛行士チームを退役。ソ連国防省勤務を続け、92年に引退。95年、ロシア下院議員に選出されたが、2000年9月21日、サウナで心臓発作のため死去。負けん気の強い人物だったが上層部には生意気な印象を与えたようで、それが人類初の宇宙飛行をガガーリンに譲るきっかけのひとつになったようである。選抜試験でも、いくつかの内容に「ばかげている」と反抗的だったとされる。最終階級は上級大将。

フライト履歴: ボストーク2号 08.06.1961-08.07.1961 飛行時間 25時間18分(単独飛行)


ニコライエフ、アンドリアン(Nikolayev, Andrian Grigoryevich)
生没月日年: 09.05.1929-07.03.2004
     出身: ロシア・チュヴァシ共和国ショルシェリー

略歴:1929年9月5日、父グレゴリーと母アンナの間に生まれる。義務教育を終えると職業訓練校に通い、47年に修了後、3年間にわたり森林伐採に従事した。しかし戦闘機乗りになりたいと目覚め、空軍に入隊、複数の学校を渡りながら目標を目ざした。ミグで単独飛行訓練の際、エンジンが停止するというトラブルが発生した。再起動をかけたがかからず、脱出するという選択肢があったものの、彼は機体を操り、見事胴体着陸。その冷静沈着な判断は高い評価を受け、後に宇宙飛行士候補に選抜される際のきっかけのひとつになったと言われる。学校を修了するとモスクワ軍管区に配属された。60年3月7日、飛行士候補に選抜されるとその能力はすぐに発揮され、ファイナリストに残る。飛行士への正式登録は61年1月18日で、最初の任務はチトフのバックアップ。自身は62年8月、ボストーク3号で宇宙飛行を行った。この飛行では、船内からのテレビ中継が初めて行われた。63年11月3日、女性初の宇宙飛行を行ったワレンティナ・テレシコワと結婚、1女を授かったが82年離婚。ソユーズ2号とソユーズ8号のバックアップクルーを務めた後、1970年6月、ソユーズ9号で17日半の飛行を行った。これは当時の最長飛行記録であった。82年1月に飛行士チームを引退すると、宇宙飛行士訓練センターの第1副所長に就任、10年間勤務した。2004年7月3日、スポーツ大会での審判中、心臓発作に見舞われ病院へかつぎ込まれた後、死去した。最終階級は少将。

フライト履歴: ボストーク3号 08.11.1962-08.15.1962 飛行時間 3日22時間22分(単独飛行)
         ソユーズ9号 06.01.1970-06.19.1970 飛行時間17日16時間58分55秒(船長)


ネリューボフ、グリゴリー(Nelyubov, Grigori Grigoyevich)
生没月日年: 03.31.1934-02.18.1966
     出身: ウクライナ・ポルフィリェフク

略歴:1934年3月31日、父グリゴリーと母ダーリャの間に生まれる。54年に義務教育を終えると57年2月までスターリン海軍航空学校に在籍。修了後は戦闘機パイロットとして黒海艦隊に配属された。1960年3月7日、宇宙飛行士候補に選抜され訓練を開始。6ヵ月後、ガガーリンらと共にファイナリストに選抜される。61年1月18日、飛行士として正式登録された。最初の任務はガガーリンの2ndバックアップ。その後、遠心加速器訓練中に不調を起こし、しばし訓練生活から離れる。1963年3月27日、フィラテフおよびアニキエフらと飲酒、帰宅途中、訓練センター傍の駅で警備兵とトラブルを起こす。事は重大で、彼らは飛行士チームを追放された。同5月4日、空軍極東方面軍に配属され、自分が飛行士候補だったことを語ったとされるが誰も信じなかった。ひどい鬱と深酒に陥り、66年2月18日、ウラジオストク近郊の駅で列車事故死。2007年、彼の妻だったジナイダ夫人に行われたインタビューによると、63年のある時、ポポビッチがネリューボフの元を訪れ、謝罪をすれば飛行士として戻るチャンスがあるということを告げたという。この言葉に彼はモスクワへ出向いたが、飛行士の管理を一手に受けていたカマーニン監督はこの時飛行士選抜で多忙で、ついに面会することができなかったという。この2年後、コロリョフに書簡を送り、面会を求めたという。これは実現化への運びとなったが、66年1月、コロリョフの急逝で絶たれた。ネリューボフは自殺したと考えられているが、レオーノフの2007年の証言によると、事故として処理されているという。あの日はひどい吹雪で、ネリューボフは襟を立てていたので列車の近づく音を認識できなかったとされる。プラットフォームの傍に板が落ちており、接近した列車がそれを飛ばし、彼に命中。これが命取りとなったわけで、列車が彼にぶつかったわけでも、故意に身を投げたわけでもないという。だが、ジナイダ夫人はこれを否定し、遺書めいたメモが残されていたと証言する。非常に能力が高い人物だったがそれを鼻にかけることも多く、そんな態度がなければ、恐らく最初に宇宙を飛行していたかも知れないとも言われる。最終階級は中尉。

フライト履歴: なし


バーラモフ、ワレンチン(Varlamov, Valentin Stepanovich)
生没月日年: 08.15.1934-10.02.1980
     出身: ロシア・ペンサ

略歴:1934年8月15日、父ステパンと母クラフディアの間に生まれる。1952年まで義務教育を受けると、徴兵され、飛行訓練を受けた。55年11月、レニングラード高等航空学校を修了。1960年4月28日、宇宙飛行士訓練を開始したが、同7月24日、他のメンバーとピクニック先で池に飛び込んだが底が浅く首を負傷。1ヵ月の入院を余儀なくされ、医師団は飛行士不適格と判断した。61年3月6日、宇宙飛行士チームを退役したが、職員として訓練センターに残った。1980年11月2日、脳内出血のため死去した。

フライト履歴: なし


ビコフスキー、ワレリ(Bykovsky, Valery Fyodorovich)
生没月日年: 08.02.1934-
     出身: ロシア・モスクワ州パヴロフスキー・ポサド

略歴:1934年8月2日、父フョドールと母クラフディアの間に生まれる。大戦の勃発でクイビシェフに移り住むなど引っ越しを繰り返した後、モスクワに戻る。父は職をいくつも経験した人物であったが、モスクワに戻ったのは政府関連の高収入な仕事を得たからだと言われる(これは秘密警察がらみではないかと噂されるが真相はわからない)。1941年、父の仕事の関係でイランの首都テヘランに移り住み、そこで7年を過ごす。その間、ソ連人学校へ通った。48年夏、モスクワへ戻ると、ビコフスキーは海軍学校へ進学を希望したが、父は当初乗り気でなかったという。51年、たまたま参加した飛行体験会で魅力に取り憑かれ、モスクワ飛行クラブに入部。翌年、飛行ライセンスを取得している。その後カチンスク航空大学へ進学し、55年に修了するまでに様々な訓練を受け、戦闘機乗りとして部隊に配属された。そこは退役軍人も目立つ部隊であったが、彼らは若者に自分の経験を教えたがるものばかりで、ビコフスキーは正規の訓練以外に彼らから指導を受けるという幸運に恵まれた。60年3月7日、宇宙飛行士候補に選抜され訓練を開始。同11月、ファイナリスト6名に選抜され、翌1月18日、飛行士に正式登録された。最初の任務はニコライエフのバックアップで、自身は63年6月、ボストーク5号で飛行した。この飛行は、単独飛行では現在も破られていない最長記録。次の任務はソユーズ2号の船長であったが、ソユーズ1号のトラブルでキャンセル。続いて有人月飛行計画の飛行士に任命され、訓練を受けた。1976年9月、ソユーズ22号で2度目の飛行を果たし、2年後にはソユーズ31号でサリュート6号へ飛んだ。1988年4月2日、軍および宇宙飛行士チームを退役した。最終階級は少将。

フライト履歴: ボストーク5号 06.14.1963-06.19.1963 飛行時間 4日23時間6分(単独飛行)
         ソユーズ22号 09.15.1976-09.23.1976 飛行時間 7日21時間52分17秒(船長)
         ソユーズ31号 08.26.1978-09.03.1978 飛行時間 7日20時間49分4秒(船長)
                                 サリュート6号インターコスモスミッション


フィラティエフ、ワレンチン(Filatyev, Valentin Ignatyevich)
生没月日年: 01.21.1930-09.15.1990
     出身: ロシア・チューメン地区マリノフカ

略歴:幼少の頃のことはよくわかっていない。父イグノチスと母(名不詳)の間に5番目の子供として生まれた。父は大戦の前線で戦死。1945年に義務教育を終え、母は彼を教員学校へと進学させた。51年、教員資格を取得。翌年、スターリングラード高等航空学校へ入り、パイロット訓練を受けた。55年に修了し、56年、オリョール市防衛部隊へと配属。1960年5月9日、宇宙飛行士候補となり訓練を開始し、61年12月16日、飛行士に正式登録された。63年4月、ネリューボフらと共にトラブルを起こし、飛行士チームを追放。その後6年間を各地の空軍基地で過ごし、69年11月に退役。オリョール市に戻り、77年から10年間教師を務めた後、ペンションを経営。1990年9月15日、肺ガンのため死去した。

フライト履歴: なし


フルノフ、イェフゲニー(Khrunov, Yevgeny Vassilyevich)
生没月日年: 09.10.1933-05.19.2000
     出身: ロシア・ツーラ地区プルーディ

略歴:1943年9月10日、父ワシーリと母アグラフェナの間に生まれる。義務教育を終えた後、農業学校に進み、52年に修了。翌年徴兵され、空を飛ぶ事への関心から航空学校へと進み、バタイスク高等航空学校を56年に修了。その後オデッサ軍管区で戦闘機パイロットを務め、60年3月9日、宇宙飛行士候補に選抜された。訓練後、飛行士に正式登録されたのは61年3月6日で、最初の任務はガガーリン飛行のカプコン(交信担当)であった。その後、ボスホート2号のレオーノフのバックアップとして船外活動訓練を受ける。ソユーズ2号のクルーに選ばれるが、ソユーズ1号のトラブルで飛行キャンセル。1969年1月、ソユーズ5号で飛行士、ドッキングしたソユーズ4号に乗り移り、地上へ帰還。1980年、ソユーズ38号のバックアップ船長として訓練を受け、後のソユーズ40号では船長を務める予定だったが、80年12月に飛行士チームを退役。89年まで対外経済関係委員会の委員長を務めると、その後はチェルノブイリ事故処理関連の仕事に従事した。2000年5月19日、モスクワで死去。最終階級は大佐。

フライト履歴: ソユーズ5号 01.15.1969-01.17.1969 飛行時間 2日23時間20分47秒(リサーチエンジニア)
                                帰還はソユーズ4号にて


ベリャーエフ、パベル(Belyayev, Pavel Ivanovich)
生没月日年: 06.26.1925-01.10.1970
     出身: ロシア・ヴォログダ州チェリスチェボ

略歴:1925年6月26日、父イワンと母アグラフィナの間に生まれる。義務教育を1942年に終えると旋盤工として働き、43年、軍に入隊。大戦末期の45年にイェイスク高等航空学校を修了すると、戦闘機パイロットとして極東へ配属され、日本軍と対峙。56年にモスクワへ戻り赤軍空軍大学に入学、59年に修了すると黒海艦隊に配属された。宇宙飛行士候補に選ばれたときは35歳で、最年長。訓練を受け飛行士に正式登録されたのは61年4月5日であった。1964年4月、ボスホート2号の船長に任命され、65年3月、レオーノフと共に宇宙を飛んだ。その後は新人らの訓練に関わる地上勤務に就き、アルマズやゾンド計画で選抜された飛行士達の指導に当たった。1969年11月、アルマズの船長に任命されたが、ひどい胃潰瘍のため入院。手術を受けたが腹膜炎を併発、症状は回復せず、70年1月10日死去した。

フライト履歴: ボスホート2号 03.18.1965-03.19.1965 飛行時間 26時間2分17秒(船長)


ポポビッチ、パベル(Popovich, Pavel Romanovich)
生没月日年: 10.05.1930-09.30.2009
     出身: ウクライナ・キエフ州ウジン

略歴:1930年10月5日、父ロマンと母フェオドシアの間に生まれる。母フェオドシアは彼を29年に生んだと主張していたが、周りのものが30年だと主張し、これが公式の生年となった。空軍基地の傍で育ったためそれに対する興味は早くから目覚めたと伝えられる。1945年に義務教育を終えると商業学校へ進み、木工品貿易を学ぶ。47年、マグニトゴロスク工業工科大学へ進学し、飛行クラブに入部。51年に同大学を卒業すると、軍に入隊。ミャスニコフ空軍航空学校で訓練を受け、54年、戦闘機パイロットとして極東へ配属。1960年3月7日、宇宙飛行士候補として選抜されたときはモスクワで任務に当たっていた。訓練開始後、ファイナリストに選抜され、61年1月25日、飛行士として正式登録された。最初の任務はボストーク4号で飛ぶことであり、62年8月に打ち上げ。その後、有人月計画のクルーに選抜され、3年間の訓練を受けた。1974年7月3日、ソユーズ14号で飛び、サリュート3号に滞在。その後宇宙を飛ぶことはなく、82年1月26日に飛行士チームを退役、訓練センターの副所長に就任した。なお、彼の妻はテストパイロットで有名なマリナ・ワシリエバで、2女を授かったが後に離婚(ワシリエバはUFOの熱心な信者としても有名)。76年に少将に進級すると再婚し、後にソ連・ウクライナ共和国最高会議のメンバーも務めた。2009年9月29日午後11時頃(現地時)、脳内出血のためクリミアで死去。最終階級は少将。

フライト履歴: ボストーク4号 08.12.1962-08.15.1962 飛行時間 2日22時間57分(単独飛行)
         ソユーズ14号 07.03.1974-07.19.1974 飛行時間 15日17時間30分28秒(船長)
                                 サリュート3号(アルマズ2)に滞在


ボリノフ、ボリス(Volynov, Boris Valentinovich)
生没月日年: 12.18.1934-
     出身: ロシア・イルクーツク

略歴:1934年12月18日、父ワレンティンと母イェンゲニアの間に生まれる。3歳の時に父が亡くなると、母と共にケメロボ地区プロコピエフスクに移り、そこで学校に通う。義務教育を終えた52年、空軍学校へ入学するが、更に高度なトレーニングを受けるためスターリングラード高等航空学校へ移籍、そこでチトフと出会う。56年、戦闘機パイロットとして中央ロシア北部の基地に配属される。1960年3月7日、宇宙飛行士候補に選抜され、訓練を開始。61年4月5日、飛行士に正式登録された。飛行士としての最初の任務は1962年のボストーク3号および4号の2ndバックアップ、続いて5号ビコフスキーのバックアップと、補欠が続いた。この扱いはボスホート計画に移行してもそうであったが、一因には母がユダヤ人であったことがあるという(ユダヤ人に対する偏見があった)。66年にはボスホート計画で船長を割り当てられる話があったが、これは計画そのものがなくなってしまう。ソユーズ3号でバックアップを経験した後、ソユーズ5号の正規クルーとして任命された。ソユーズ5号は1969年1月15日に打ち上げられ、軌道上で4号とドッキング、ボリノフと同乗していた2名が4号に乗り移り、彼は単独で地上へ帰還した。しかしその帰還の際、大気圏突入時に宇宙船にトラブルが発生し、命の危機を感じたが、無事に着陸。ただその着陸は激しいもので、重傷を負った。その後アルマズ計画クルーに選ばれ、74年にはソユーズ14号のバックアップクルーに任命される。彼の2度目の飛行は76年7月6日に打ち上げられたソユーズ21号で、サリュート5号に滞在した。1990年3月17日、宇宙飛行士チームと空軍を退役した。最終階級は大佐。

フライト履歴: ソユーズ5号  01.15.1969-01.18.1969 飛行時間 3日54分15秒(船長)
         ソユーズ21号 07.06.1976-08.24.1976 飛行時間49日6時間23分32秒(船長)
                                 サリュート5号(アルマズ3)第1次滞在クルー


ボンダレンコ、ワレンチン(Bondarenko, Valentin Vasiliyevich)
生没月日年: 02.16.1937-03.23.1961
     出身:ウクライナ・ハルコフ

略歴:1937年2月16日、父ワシーリと母オレガの間に生まれる。小さいときより空軍ヒーローに憧れ、自分もいつか戦闘機乗りになりたいと夢を持っていたとされる。1954年に義務教育を終えるとソ連軍に志願、複数の空軍学校を渡り歩いた後、アルマビル高等空軍学校に入学。57年に修了すると、黒海艦隊の戦闘機パイロットとして配属。1960年3月25日、ベリャーエフやフィラティエフらと共に宇宙飛行士候補として訓練を開始した。ガガーリンの飛行まで残り3週間を切った61年3月23日、隔離室の中に入り無音響孤立訓練の最中、火災が発生。全身に深いやけどを負い、近くの病院へ運び込まれたが、数時間後に死亡した。事故の原因は、心電図などを取る電極を体から外し、その跡を拭いたアルコール綿を放り投げた際、電源が入っていた調理用オーブンの上にそれが落ちたことであった。しかも室内は酸素濃度が大気よりも高めになっていたため(50%)、火はあっという間に広がった。すぐに気付いて駆け寄った係員達はハッチを開けようとしたが、大気圧との差のためすぐに開くことができなかった。この事故は極秘事項として処理されたが、ボンダレンコを診察した医師が1984年に西側へ亡命、事が明るみになった。この医師の証言では、当時ガガーリンが傍にいたとされた。しかしこの時、ガガーリンは「コラブル・スプートニク5号」の打ち上げを見学するためチトフらとバイコヌール入りしていたのが濃厚であり、2007年、この矛盾を突かれた医師は、「当時いた若者がガガーリンかどうか断言できない」と翻した。それによると、その若者は名乗らず、また、とてもバタバタしていたので顔もはっきり覚えていないという。だが、それから暫くして新聞で見た若者(ガガーリン)と同じ印象だったため、そのような“刷り込み”が入ったようである。ボンダレンコは温厚で愉快な性格で、歌やテニスがうまかったという。彼の息子は現在も星の街に住んでおり、その子すなわち孫はワレンチンと名付けられている。最終階級は少尉。

フライト履歴: なし


ラフィコフ、マルス(Rafikov, Mars Zakirovich)
生没月日年: 09.29.1933-07.23.2000
     出身: キルギスタン・ジャラルアバド

略歴:1933年9月29日、父ザキルと母マルジヤの間に生まれる。48年に義務教育を終えると、初級飛行訓練を受け、クィビシェフの空軍学校へと進学した。54年に修了すると、フィラティエフとバーラモフがいる部隊へと配属された。1960年4月28日、バーラモフ、カータショフと共に宇宙飛行士訓練を開始。だが暫くすると、悪い噂が立ち始めたという。それは妻へのDVがひどいというものや、酒ばかり飲んでいるというもの、派手なプレイボーイぶり、などであったが、そもそも彼の最初の結婚は長続きせず離婚し、その直後再婚するなど、真実あってもおかしくないような噂ばかりであった(彼は3度結婚している)。62年3月12日、アニキエフと共にモスクワホテルで(禁止されていた)制服を着用したままの飲酒を行い、お咎めを受けた。アニキエフは厳重注意で終わったが、ラフィコフはそれまでの品行の悪さも災いし、宇宙飛行士チームを追放された。その後は戦闘機パイロットとして各地を転々とし、最後の赴任地であるアフガニスタンで退役を迎えた。2000年7月3日、カザフスタンのアルマアタで死去。

フライト履歴: なし


レオーノフ、アレクセイ(Leonov, Alexei Arkhipovich)
生没月日年: 05.30.1934-
     出身: ロシア・ケメロボ州リストビアンカ

略歴:1934年5月30日、父アルヒープと母イェフドキアの間に生まれる。小さい頃から絵画の才能を発揮していたという。1953年、リガの絵画学校で学び始めるが、後にチュグエフ高等空軍学校に進学。57年に修了すると、戦闘機パイロットとして部隊をいくつか渡り歩いた。1960年3月7日、宇宙飛行士候補として選抜されたときには東ドイツで任務に就いていた。訓練を終え、61年4月5日、宇宙飛行士として正式登録。最初の任務はガガーリンとの交信担当で、63年にはボストーク5号の2ndバックアップに任命。ボスホート計画では宇宙遊泳の任を与えられ、65年3月18日、ボスホート2号でベリャーエフと共に宇宙へ飛び、史上初の宇宙遊泳を成功させた。後にサリュート1号の滞在クルーに選定され、ソユーズ11号で飛ぶことになったが、一緒に飛ぶ予定だった一人の身体に異常が見つかり、レオーノフ含むクルー全員(計3名)が丸ごと交代させられた。だがソユーズ11号はその帰還中、空気漏れ事故を起こしてクルー全員が死亡。この出来事にレオーノフは声が出なかったという。その後、「アポロ・ソユーズ・テスト計画」(ASTP)のクルーに選ばれ、1975年、ソユーズ19号で宇宙へ飛び、米アポロ宇宙船とドッキングを成功。82年、宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任。92年に引退すると投資ファンドの理事長に就任、89年に退職している。絵画はプロ級で、宇宙にまつわる絵を数多く描いている。特に、ボスホート2号での宇宙遊泳では宇宙船を写真撮影する予定であったが、宇宙服のトラブルでそれができなかった。だが帰還後、彼がこれを見事に絵画で表現、それは記念切手のデザインにもなっている。非常に気さくな人物で、メディアのインタビューにも気持ちよく応じてくれるという。ソ連時代には飛行士の代表として西側を訪問、取材を受けることも多々あったが、ソ連の有人月計画について“喋りすぎた”時は問題になった。アポロ・ソユーズ・テスト計画では米国の飛行士らに好印象を与えた。ソ連宇宙開発の裏側を自由に語る数少ない証人で、彼の口から得られた真相は多い。ただ、物事を少々大袈裟に語ることもあるようで、それを困る向きもあったとか。ガガーリンと共にコロリョフから特に可愛がられていた飛行士であり、コロリョフから収容所体験を直接聞かされた。レオーノフは後にこれを証言、コロリョフ史の空白を埋めた。

恐ろしく運のいい男である。ある時、妻を乗せて乗用車を運転中、凍結した路面でスリップ、池に落ちてしまった。彼はまず妻を助け、そして自身が岸にはい上がった。またある時は、銃弾が脇をかすめた。1969年1月21日、ソユーズ4号および5号で飛行した飛行士達の祝賀会出席のため、車でクレムリンへと向かっていた。関係一同は車列をなし、レオーノフは先頭から2番目に、ニコライエフ、テレシコワそれにゲオルギー・ベレゴボイと共に乗っていた。このうちベレゴボイは助手席に座っていたのだが、彼は書記長ブレジネフに顔が似ている。ブレジネフの暗殺を企てていたビクトル・イリューインという男がこの車に向けて発砲、銃弾がレオーノフをかすめた。弾は飛行士達には当たらなかったが運転手に命中、レオーノフは憤血を浴びたという。ボスホート2号の宇宙遊泳では危機一髪、帰還の際はエンジントラブルでヒヤリとし、着陸はコースを外れ厳冬のタイガにハードランディング。オオカミを警戒しながら夜を明かした。ソユーズ11号については上述の通りだが、クルー入れ替えの理由となった仲間の身体異常、実は誤診だった。有人月周回計画では、テスト宇宙船の失敗が続く中、「行かせてくれ」と直訴したが却下された。この無人宇宙船は月の裏側をまわり見事に帰還したが、もし乗っていれば、最初に月まで行った人間として名を残しただろう。高齢となった近年は何度も心臓発作で倒れるが、その度に応急処置で立ち直っている。医師らには、「次に倒れたら入院ですぞ」と脅されている。ダイ・ハード。彼は、自身の武運のよさをわかっているようである。最終階級は大将。

フライト履歴: ボスホート2号 03.18.1965-03.19.1965 飛行時間 26時間2分17秒(パイロット)
         ソユーズ19号 07.15.1975-09.21.1975 飛行時間 5日22時間30分51秒(船長)


◇宇宙飛行士候補正式決定(訓練開始)日

1960年 3月07日 アニキエフ、ビコフスキー、ガガーリン、ゴルバチコ、コマロフ、レオーノフ、ネリューボフ、
           ニコライエフ、ポポビッチ、ショーニン、チトフ、ボリノフ
      3月09日 フルノフ
      3月25日 ザイキン、フィラティエフ
      4月28日 カータショフ、バーラモフ、ベリャーエフ、ボンダレンコ、ラフィコフ

◇最終試験合格日(宇宙飛行士正式登録)

1961年 1月18日 ガガーリン、チトフ、ニコライエフ、ネリューボフ、ビコフスキー、ポポビッチ (ファイナリスト6名)
      4月03日 アニキエフ、コマロフ、ゴルバチコ、ショーニン、フルノフ、ベリャーエフ、ボリノフ、レオーノフ
    12月16日 ザイキン、フィラティエフ、ラフィコフ

(最終試験はまずファイナリストが、続いて残りのメンバーが受けた。だがザイキン、フィラティエフ、ラフィコフの3名は基準に満たなかったため再試を受け、12月に合格した。)


※謝辞 Acknowledgement
飛行士のポートレイトは“SPACEFACTS”http://www.spacefacts.de/さんより使用させてもらいました。
Thanks to "SPACEFACTS"http://www.spacefacts.de/ for each portrait. Do not quote them on this page. If you need them, please contact the webmaster of SPACEFACTS.


【Reference】

Encyclopedia Astronautica http://www.astronautix.com/
SPACEFACTS http://www.spacefacts.de/
"The first soviet cosmonaut team" by Colin Burgess and Rex Hall, Springer Praxis, 2009
"Praxis Manned Spaceflight Log 1961-2006", Tim Furniss and David D. Shayler, Springer Praxis, 2007