惑星への道は開かれた(2)

1969年は、ソ連が宇宙開発で屈辱的敗北を喫する年となった。7月20日にはアポロ11号が月面着陸を果たし、2人の米国人が月面へと降り立った。その半年前の2月と3月にはマリナー「6号」及び「7号」が火星フライバイに成功、それぞれ75フレームと126フレームの画像を送信してきた。

一方ソ連では、有人月探査計画「7K−L1」も「N1−L3」も見通しが立たず、無人月/惑星探査は失敗が成功を遙かに上回る始末。無人探査機では打ち上げロケットの不具合ばかりにババキンはついに爆発、アファナシエフに評価プログラムの変更を行うよう詰め寄っている。


M−69の失敗は非常に手痛いものであった…何せ、火星大気に関するデータが得られなかったのだ。ババキンは、1971年のロンチウィンドウにはM−69と同じ内容のミッションをもう一度行い、1973年のウィンドウに着陸を目指すことを模索していた。だが71年には着陸機と周回機を一体で打ち上げることのできるメリットがあり、これを逃すのは惜しいことでもあった。73年の場合、両者を別々に打ち上げなければならなかったのだ。

というのも、71年は15〜17年毎に訪れる“火星大接近”の年で、火星までの道のりが最小に抑えられるため、必要とされるロケットのパワーも少なくて済む。逆に言えば、強力ロケット「プロトン」のパワーを最大限に使い、着陸機と周回機を合わせたヘビー級の衛星を一気に火星まで飛ばすことも可能というわけである。

ところが73年では、プロトンとはいえ両者を同時に火星へ飛ばすのは無理になるのであった。

火星への軟着陸を成功させるためには、当然だが、その大気の状態を詳しく知り着陸フェーズを組み立てる必要がある。特に大気の厚みは重要で、この値次第で突入のタイミングや角度が大きく変わってくる。M−69の最大の目的は、これを正確に掴むことであった。

ババキンらは、米国のマリナー4号、6号、7号の観測データを詳細に吟味した。米国は殆ど全てをオープンにしていたが、しかしその中に、大気の厚さに関するものは含まれていなかった…勿論、ソ連が喉から手が出るほど欲しがっていることを百も承知だったからだ。

ソ連は非公式に、それとなく米国へ問い合わせてみたという…勿論、返答はなかったという。

結局、半ば苦肉の策で考案されたのは、3機の探査機を飛ばすことだった。69年5月末、各部局の代表がソ連科学アカデミー議長ミスチスラフ・ケルディッシュの小さな執務室に集まり、この件について検討会議を催した。

このプランは、まず1機…これは周回機となる…を“物見”として先に飛ばし、続いて着陸機を搭載した2機の周回・突入機が後を追うというものだった。物見から得られたデータを基に火星突入の角度やタイミングを計算、着陸機にアップリンクすることで、正確な突入を図るという流れである。

ケルディッシュは、ババキンを高く評価していた。何せ、短期間でルナやベネラ探査機を作り上げ、実績を作った男なのだ…この“3機編隊飛行プラン”は承認されることとなった。


ミッション「M−71」

まず、フォルムの完全なリニューアルが行われることになった。先発する周回機をロンチウィンドウのできるだけ早い時期に打ち上げ火星周回軌道へ投入するためには、燃料をあと800kgも余計に積まなければならず、M−69ベースのボディでは無理であったからだ。またそのデザインでは科学機器などの配線引き回し等が煩雑で、トラブルが見つかりいざ交換となると他の部分も外さねばならず、余計にいじり回すことで逆に故障リスクが高まるという欠点があったのだ。

新たに描かれた機体には、M−69の面影は無かった…巨大な円筒形の本体に、機材の個別脱着が容易になるよう配線と配置が工夫され、両翼に太陽電池が展開し、ラジエターの配管が走り回る。

周回機は「M−71S」とコードが付けられ、その重量は4549kg(うち、燃料2385kg)。科学機器にはカメラや磁力計、宇宙線検出センサーやスペクトロメーターなどが含まれる。また、重量削減のためプロトン上段「ブロックD」をマルスの制御下に置き、ブロックD本体の制御機器(約167kg)を外すことになった。

一方、「M−71P」とコードが付けられた後続の周回・突入機は、周回機の重量が3440kgで高さが3m、突入機の重量が1210kgで高さが1.1mであり、周回機のトップに突入機を一体化させると高さ4.1m、総重量4650kgのヘビー級探査機。太陽電池(2.3m×1.4m)を両翼広げた横幅は5.9mに達し、本体には直径2.5mのハイゲインパラボラアンテナが目立つ。地球センサーや太陽センサーといったナビゲーションセンサーは本体下部に配置され、太陽電池の裏側には着陸機とシグナルをやり取りする2個のヘリカルアンテナが備えられている。

科学観測センサーも様々なものが搭載されている。例えば温度を計測する赤外線ラジオメーターや水蒸気を検出するフォトメーター、酸素や水素を検出する紫外線フォトメーターやライマンαセンサー、撮像カメラや磁力計などである。

中でも特徴的なのは、「ステレオ」と呼ばれたフランス製の機器だ。これは太陽電池パネルに装着された八木タイプのアンテナで、太陽から放射されるVHF波を観測するものだった。

ソ連はフランスと60年代より宇宙開発分野で協力関係を結んでおり、「ステレオ」は惑星探査機に乗せられた、米ソ以外で初めての機器。だがソ連はフランスに設計を依頼するに当たり、探査機の外見など一切の情報を提供しなかったという。この辺、ルノホートのコーナーキューブの件と同様だった(開発史28参照)。

「ステレオ」は2セット作成され、それぞれ「71S」と「71P」に搭載されることになっていた。

ナビゲーションコンピュータなどのバイタルパートは底部の浮き輪のような気密コンパートメントに格納されている(補足1参照)。この浮き輪の中央には軌道修正エンジンが搭載されている。

           
(M−71Pの概観 @軌道修正エンジン A科学機器格納ケース B各種ナビゲーションセンサー C太陽電池パネル Dラジエター E突入機(耐熱シールド) Fハイゲインパラボラアンテナ Gフランス製科学機器「ステレオ」 H磁力計 Iローゲインアンテナ J姿勢制御スラスター このスケッチでは、着陸機と交信するコニカルアンテナが描かれていない(背後に2つ装着)。また、E突入機を取り去ると周回機M71Sとなる。)

ところで、チーム・ラボーチキンにとって最大の難関は、何といっても着陸機の開発だった。大気圏突入には当初、揚力突入が検討されたが、大気のプロフィールが殆どわからない中ではどうしようもなく、やむなく弾道突入で臨むことになった。コーン型の耐熱シールドが特徴的だが、直径はフェアリング径いっぱいの3.2mで、頂角は120度。この巨大コーンによる突入は機体の安定性を維持しつつ、可能な限りの素早い減速を行う。

軟着陸の方法も様々な検討が行われた。最初は逆噴射エンジンによる着陸が提案されたが重量の問題で実現できず、その代わり、地表すれすれで着陸機を切り離して落とす方法が採用された。勿論、着陸機は耐ショック構造でなければならない。

この方式は、1996年の火星着陸機「マーズ・パスファインダー」や2004年の火星探査車で用いられたやり方と全く同じである。着陸機はエアバッグに包まれパラシュートで降下するが、地表すれすれでエアバッグに包まれた探査機が放り出され、同時にそれを吊っていた機器がロケット噴射でパラシュートもろとも遠方へ飛び去るのだ。

このエアバッグには当初、ルナ9号で用いられたゴム風船タイプが検討されたが、パラシュートを持ち去るロケットの排気がゴムを破るのではないかという懸念が浮上、開発チームを悩ませたという。だが、着陸機の外側をプラスチック発泡剤で覆うのが有効であると判明すると、それがそのまま採用されることになった。地表へのファーストインパクトで激しいショックを受けるとされる底部のそれは、厚さ20cmに達する。

ちなみにこの“梱包”を発案したのは、ババキンの主席補佐であったウラジミール・ペルミノフ。コロリョフの鋭い眼差しと共に、全てを託された1人となった彼だ(開発史27参照)。

下は突入機のカットアウェイと実機である。耐熱シールドコーンは4本の金属棒で支えられており、それぞれに姿勢制御窒素スラスターおよび小型固体燃料ロケットが搭載されている。中央底部には固体燃料ロケットが搭載されており、母船から分離後に点火、突入軌道へ向かわせる。パラシュートはドーナツ状のケースに折りたたまれており、所定の高度で展開する。

  
(突入機の概観 @耐熱シールド A着陸カプセル(中の卵形) B科学機器ボックス Cピッチ・ヨー制御スラスター Dパラシュート E突入軌道投入エンジン Fレーダー高度計アンテナ Gパラシュートコンテナ(内部にパラシュートD))

一方、着陸機は卵型をしており、着陸後、上半分を覆う4枚のペタル(花弁)が展開し、正立するようになっている。これはルナ9号と殆ど同じデザインであり(開発史21参照)、大きさが大型化しているだけだ。ペタルの合わさる頂部には撮像カメラが2個装着されており、パノラマ画像を撮影するようになっている。このカメラは、ルナ9号で用いられたものと同じものである。

科学機器の類としては、質量分析器、温度・圧力センサー、湿度計、撮像カメラが搭載されていたが、非常に興味深いのは「ローバー」が搭載されていたことだ。1992年になって広く知られることになったこのローバーは、「火星クロスカントリー観測機器」を意味する表現の頭文字を取って「PrOP−M」と呼ばれていた。「クロスカントリー」という表現がうまいが、その名の通り、このローバーは車輪でもキャタピラでもなく、2枚のスキー板で歩くのだ。

開発を担当したのはアレクサンダー・ケムルドジアンという男だったが、そう、ルノホートを開発した彼だ。サイズは25cm×20cm×4cmで、重量4.5kg。ペネトロメーターと放射カウンターを備えており、15mのワイヤーで着陸機と結ばれている。岩などの障害物にぶつかると自動で一定距離バックし、方向を変え、障害を避けるようになっている。

着陸機はペタルを展開すると、マニピュレーターでローバーを地表に降ろす。ローバーは走行を開始すると1.5m走る毎に土壌の分析を行う一方、その移動する様子を着陸機のカメラが撮影する。

着陸機のサイズは直径1.2m、重量358kgとなった。下の写真・上段左は着陸機のモックアップで、4枚のペタルが展開、周回機と交信する4本のアンテナが伸びている。上段右はローバーで、その格好は何となく「ムカデ競争」を連想させなくもない。

着陸機の頂部に大きめの黒い物体が見えるが、これがローバーである。

一方、下段の写真は着陸機の近影。ショック吸収剤であるプラスチックフォームの包み具合がわかりやすい。背後に展示してあるのは耐熱シールド。

     

着陸機には滅菌が行われた。ただしこれはパーツ単位で行われ、全体が完成してからの滅菌は行われなかったという。組み立て中の汚染を防ぐため、パーツや完成品は特製の滅菌ケースに保管されていたという。

続いて、突入・着陸フェーズについて見てみよう。

周回・突入機は火星まで7万kmの地点で突入機分離態勢に入る…この時、自身と火星との位置関係を計測する。その後、4万6000kmの地点で軌道修正を行い、突入機を分離…この時点で、突入まで6時間。突入機は分離15分後に100m/s噴射を行い、火星へのインパクトコースへ移る。分離約21分後、耐熱シールドを前方へ向け、耐熱シールド固定金属棒に装着された4個のうちの2個の小型固体燃料ロケットを点火、スピンを加えて安定飛行に入る。

一方、周回機は火星まで2万kmの地点で周回軌道投入態勢に入り、軌道修正マニューバ。その後飛行を続け火星から1500kmの最接近地点で1190m/sブレーキ噴射を行い、楕円軌道に入る。
      
(投入フェーズ @火星まで7万kmの地点 A軌道修正 B突入機分離 C突入機、軌道修正 Dスピンしながら火星突入軌道をコースティング E周回機、火星まで2万km Fブレーキ噴射、周回軌道投入)

安定飛行を続けていた突入機は、秒速5.8kmで大気上層へ突入する。機体に加わるGをセンサーが検知すると、シールド固定金属棒に装着された残り2個の小型固体燃料ロケットを吹かし、スピンを止める…この後はストリームが安定性を生み出す。

速度がマッハ3.5まで減速すると、小型ロケットに点火、補助パラシュートを引き出し展開。続いてパラシュートコンテナがオープン、中からメインシュートを引き出す。暫くすると耐熱シールドを分離し、レーダー高度計のスイッチが入る。

降下を続け、高度16〜30mを高度計が検出すると、軟着陸フェーズが始まる。パラシュート下部の小型エンジンを噴射、速度が6.5m/sまで減速すると着陸機を切り離し、地表に投下する。
       

地表に転がった着陸機は15秒後、プラスチックフォームシールドと着陸カプセルの間に挟まれたエアバッグを膨らませ、フォームを外す。続いてペタルを展開し、地表の撮影や科学観測を開始する。画像は1フレーム500×6000ピクセル。

得られたデータは独立した2系統のチャンネルで、毎秒72キロビットで周回機へ送信される。画像の送信が最優先で行われ、1分毎にその他のデータが挟み込まれる。全ての送信に要する時間は20分前後と見積もられている。

なお、最初の交信セッション終了後、着陸機は一旦セーフモードに入る。次の交信セッションは地上からのコマンドで開始される。観測と通信は内蔵バッテリーで行われ、3〜4日間の運用が見込まれている。

(着陸フェーズをフラッシュでわかりやすく表現した作品があります(こちら)。下の謝辞もご参照下さい)


1970年2月、ババキンは具体的な設計仕様とマネジメントプランにサインし、ミッションが本格的に始動した。残り時間は僅かで、マネジメントの手法には米国のやり方も取り入れられたという。

特に時間と資源が投入されたのは、着陸機と関連機器の開発だった。パラシュートシステムの開発と動作のチェックには、機器を気象ロケットで飛ばすこと15回。着陸機のモックアップは5台製作され、パラシュート降下テストやドロップテスト、火星大気と地表を模した低圧チャンバーでの作動テスト、Gテストや振動試験など、充分な時間が費やされた。

1971年5月、火星へのロンチウィンドウが開けた。3機の探査機は完成していたが、関係者はプロトンの歩留まりのあまりの悪さに神経質になっており、M−69の悪夢の再来を恐れていたという。

今回も、米ソ・マルスレースは最高潮を迎える。

9日、米国は「マリナー8号」を打ち上げた。これも火星周回を目指していたが、不運にも上段の不具合で墜落してしまったのだ。

続く10日、ソ連は周回機・M−71Sを打ち上げた。前日のマリナー8号の失敗に、ソ連陣営は胸をなで下ろしていた、かも知れない…火星周回軌道一番乗りのチャンスが巡ってきたのだ。

打ち上げは順調で、上段・ブロックDもきちんと点火、パーキング軌道へと投入後、ブロックDは一旦停止した。

1時間後、火星遷移軌道へ入るべく、再点火のコマンドがブロックDへ送られた。だが、送られてきたテレメトリーは、着火を示していなかった…ロケットはそのままコースティングを続け、クリミアの上空を通過していった…衛星は「コスモス419」と名付けられた。

直後の調査で、再点火のコマンドを送る際、担当員がミスをしていたことが明らかになった。

正に、“M−69の悲劇”の再来だった。この周回機には、マーカーの目的もあった…これが出すシグナルを目印に後続機が火星の位置を把握し、アプローチすることになっていたのだ。これにより、突入機の分離は極めてシンプルな手続きになるはずだったのである。

実は、先述した火星へのアプローチおよび突入機の分離は、代替案として示されていたものであった。「距離7万kmで自身の位置を正確に計測し…」云々という面倒なマニューバを伴う作業は、そもそも予定されていなかったのである。だが先発機のロストにより、この手法を選ぶほか無くなったのだ。

5月19日と21日、2機の着陸機・Mー71Pが打ち上げられた。今回は全てがパーフェクトに進み、見事、火星遷移軌道への投入が成功した。

両機はそれぞれ、「マルス2号」、「マルス3号」と発表された。

一方、両機を追撃するのが、米国の「マリナー9号」。これはウィンドウが閉じるギリギリの5月30日に打ち上げられたのだが、代わりに足が速く、途中で2機のマルスを追い抜くのだ。

そんな追撃を受ける中、6月5日と8日、両マルスは軌道の修正に成功した。米ソの3機が、火星を目指す!


当時、火星は夕方から翌早朝にかけて可視範囲に入っていたため、エフパトリアの管制官達はマルスとの交信セッションを夜間に行っていた。管制官達はまずテレメトリーを受信し、機体の状態をチェックやコマンドの送信を行い、データの分析と次のセッションでの運用プランを立てる。そしてそれら一連の作業を終えると報告書をババキンに届け、就寝していた。翌朝は現場責任者とのミーティングが行われた。

このようなやや単調なルーチンワークが続く中、6月25日、トラブルが突如として訪れた。飛行は順調で到着成功への期待が高まりつつある中、不可解な不具合に、しかも2機同時に見舞われたのである。

この日の早朝、ウラジミール・ペルミノフの部屋に電話のベルがけたたましく響き渡った。それはババキンからの内線で、彼の声は高揚していた。

「すぐに来てくれ!」

慌ててババキンの執務室へ行くペルミノフ。そこには、こわばった表情で落ち着かないババキンがいたという。

「さっき受けた連絡なのだが、昨夜、両方のマルスとも交信に失敗したというのだ。すぐに人員を揃えてエフパトリアへ飛ぶぞ」

不具合は、通信系に生じていた。報告によると、UHF帯送信機の起動コマンドを送ると、メイン送信機が作動せず、サブが作動したのだという。それも最初はよかったものの、間もなく停止してしまったのだ。

そこで今度は、SHF帯送信機の起動コマンドを送信。帰ってきたテレメトリーによると送信機は完全に機能しているものの、しかし、電波が地球で全く受信できない…これ以上の悪化を防ぐため、ひとまず送信機の電源を切り、モスクワの指示を仰ぐことにしたのだという。

ペルミノフとその仲間達は、モスクワからクリミア行きの旅客機で飛ぼうとした。だがクリミアは避暑地であり、特にこの時期、一般客で座席は満杯だった。彼らは政府高官用の優先席を確保しようとしたが、それでも数が足りなかった。

あれこれ手を尽くした彼らは、高官専用機を手配することに成功、一路クリミアを目指すことになった。

ただ、専用機とはいえ、見た目は普通の旅客機と変わらない。クリミアでは、旅客機から大勢の乗客が降りて避暑地へと向かっていた。そんな中、僅かな人数しか降りてこなかったジェット機に驚いた者も多かったという。

この一連の出来事はまるで、かつてルナ3号の交信不具合でチェルトックを呼び出したコロリョフと、その後の彼らの行動にそっくりだ(開発史20参照)。奇しくもババキンとその弟子は、対象が月から火星に変わっただけで、彼らの親方が経験した緊迫した一時まで継いでしまったとも言える。

彼らが管制部に到着したのは26日早朝だった。ただちにミーティングに入り、夜はコマンドの送信が行われ、送信機のチェックが行われた。テレメトリーの解析と解釈に丸1日費やし、翌日にはUHF帯・サブ送信機での交信に問題が無いことが確かめられた。また、同・メイン送信機も限定的ではあるが機能することが判明したが、SHF帯での送信はどうしてもできなかったという。送信機は機能しているのだが、パラボラから電波が放射されていないのだった。いろいろ考えられたが、原因は結局わからず、同周波数帯での運用は断念された。

彼らは徹夜で丸2日過ごし、ようやく一眠りすることができた。ちょうどその頃アファナシエフが管制部に訪れており、翌日、経過報告が行われた。

報告は管制部で行われたが、ババキンの報告が終わるやいなや、スピーカーから管制部いっぱいに声が響き渡った。

「船内で火事発生!」

それは、宇宙ステーション「サリュート1号」に滞在中の飛行士、ボルコフの切迫した声だった。直後に管制部は緊迫した空気に包まれ、船長・ドブロボルスキーとのやり取りなどが続いた。この一部始終とその後の彼らの運命は、開発史14で記した通りである。

悪いことは、なぜか続く。ソユーズ11号の悲劇が癒されない中の8月3日、今度はババキンが心臓発作で他界した。57歳という若すぎる死は、現場に大きな衝撃を与えたのであった。突然地上からいなくなったことといい、享年といい、これまたコロリョフのそれに近い…偶然とはいえ、まるで親方と同じ道を辿るように去っていったように見えなくもない。

卓越した才能とカリスマを失ったことで現場は沈み込んだと伝えられる。


マルス2号と3号の飛行は順調に続いた。11月には火星を間近に控え軌道修正に成功したが、この時、別の懸念も生じつつあった。それは火星で大規模な砂嵐が発生しているという報告で、過去最高レベルに達しているというものだった。

一方、マリナー9号の飛行も順調で、11月14日、ついに火星周回軌道に入った。火星を初めて周回する衛星の座をマリナーに奪われてしまったソ連だったが、しかし、技術陣は一発逆転に賭けていた。

そう、マルスには着陸機が搭載されているのだ!

11月21日、マルス2号の自動位置把握システムが最後の軌道修正を試みたが、正確な軌道投入に失敗した。明らかに前回の軌道修正が深過ぎ、その上コンピュータが更に噴射を行ったため、突入角が深くなる軌道に入ったのだ。

その一週間後の27日、マルス2号から切り離された突入機は角度が深すぎ、パラシュートを開く間もなく火星面へ激突した(激突以前に燃え尽きたという説もあり)。だが、初めて他の惑星へ命中した人工物となったのも間違いなかった。一方母機は予定通りの軌道投入マニューバを実行し、周期18時間の周回軌道へ入ることに成功した。

12月2日、続くマルス3号が火星到着フェーズに入った。全ては順調に進み、火星到達4時間半前の午前9時14分(世界時)、突入機が切り離された。

分離の15分後、エンジンを点火、耐熱シールドを前面に向けてコースティングを開始した。午後1時47分(同)、秒速5.7kmの速さで大気圏突入を開始すると、減速降下を続け、亜音速に達した段階でメインシュートを展開。耐熱シールドを分離すると高度計を作動し、地表までの距離を測定しながら降下を続けた。

高度20ないし30mで、吊り下げられていた着陸カプセルが落とされ、吊っていた機器に仕込まれていた小型ロケットが噴射、パラシュート共々遠方へと飛び去っていった。大気圏突入からここまで、僅か3分足らずの出来事であった。

着陸機は地表に角度45度、秒速20m程で突っ込んだと考えられている。場所は南極域に近い南緯44.9度、西経160.08度付近と見られ、時刻は午後1時50分35秒(同)。

何とも荒々しい着陸…だがその強い衝撃に耐え、システムは正常に稼働していた。

…ついに、史上初の火星軟着陸に成功したのだ!

それは静かに座っている…まもなく外側を覆っていた衝撃緩衝材を吹き飛ばすと、おもむろに4枚のペタルを展開、アンテナを伸ばした。筆者のカンだが、ローバーもマニピュレーターで降ろされたことだろう…カメラのすぐ脇に配置されていたので、これが伸びないと邪魔で撮影できないはずだ。

赤い土の上に、静かに佇むマルス。

人間の作ったものが、火星の大地に鎮座しているのだ。

着陸から90秒後の午後1時52分5秒(同)、2系統のチャンネルで画像の伝送が始まった。このシグナルは母機で受信・記憶され、後に地球へ送信されることになっている。

深宇宙通信基地・エフパトリア。この時火星は、日中の空高く位置していた。

管制部では、誰もが画像をまだかまだかと待っていた。送信には周回機の3軸制御の確立を要したが、やや手間取り、パラボラを地球に向けたのは周回軌道投入から2時間近くが経過してからだった。

テープレコーダーの再生コマンドが送信された。管制部には画像を描き出すペンプロッターが準備され、誰もが固唾を飲んで待っていた。

やがて、シグナルの受信が始まった。「シャーッ…シャーッ…」プロッターが音を立てて、映像を描き始める…。

しかし。20秒ほど経過したところでシグナルが停止してしまった…しかも、2系統同時に!

その後、何度かリプレイが行われたが…結果は同じだった。シグナルが20秒以上来ることは無かった。

これはどう考えてもおかしいことだった。2つの独立した送信機が同時に壊れたとは考えにくい。様々な検討が行われた…受信側である周回機に問題があったのか?それとも着陸機に何らかの物理的な力が?当時、火星面は大規模な砂嵐に覆われていた…それが関係しているのか?結局、はっきりとした結論には至らなかった。

その上、僅かに取得された画像は、皆を失望させるには充分なものだった。取得ラインは僅か79本で、一目でこれとわかる特徴が何も映し出されていなかったのだ!曇天の明るさに相当する50〜70ルクス程度のぼんやりとした画像は、その後精力的な解析が行われたというが、どうしても特徴を判別することができなかったという。

一方、周回機の軌道プロフィールは想定よりも大幅にずれた、周期12日と19時間という長大な楕円軌道になってしまった。元々火星の1日と同じ25時間のはずだったが…原因はいくつか考えられたが、これも特定には至らなかった。

モスクワ放送は、マルス3号の軟着陸成功と着陸機からの画像受信に成功したと報じたが、はっきりとした映像を得ることができなかったと伝えた。しかも、取得されたという画像が公表されることはついになかった(補足2参照)。

「送信機の故障では?」「周回機の故障では?」そのような憶測が飛んだが、「画像の取得に成功したなどと言うが、あれはウソじゃないのか?」と言うものも多かった…。


マルス2号及び3号の周回機は周回軌道に入り、多くの観測データをもたらした。通信セッションは毎日実行され、特に有益な情報は軌道投入の12月から翌72年3月までに取得された。ただし、マルス2号は機器の不具合で正常なデータを殆ど送信してこなかったと言われる。

コンタクトは72年8月22日まで実行され、この日にミッション終了が宣言された。

約8ヶ月間において、マルス2号は火星を362周、3号は12周した。3号が12周しかできなかったのは非常に残念なことであったが、これは勿論、長円な楕円軌道のためだった…遠火点は最大で21万kmに達していたという推測もある。

撮像カメラは480フレームほどの取得が可能なものであったが、両機合計で取得されたのは低解像度で60フレーム、しかも上述の理由で殆どが3号により撮影されたものであった。低解像度で枚数が少なくなったのは、大量送信が可能なSHF帯送信機が使用不能だったからである。

ちなみにソ連の月・惑星探査ミッションでは、画像の撮影と送信が常に優先事項であった。これは勿論、世界をアッと言わせるには画像しかないというのが理由だが、それ以外に、機器の耐久性に自信が持てなかったことも理由とされている。

ただ、両機が到着した時は大規模な砂嵐に覆われており、地表の特徴を殆ど掴むことができなかった。それ故撮影もだいぶ遅れて行うことになり、ソ連のメディアが画像を最初にリリースしたのは、軌道投入から約1ヶ月半も経過した72年1月22日であった。

左下の映像は12月中旬に撮影された一枚で、地表の特徴らしきものが殆ど伺えない。一方右下は砂嵐が落ち着き始めた2月下旬に撮影されたもので、極冠や地表の特徴が比較的よく見えている。撮像は2月28日と3月12日に集中して(計40フレーム)行われ、右下はその一枚と思われる。

     

(非常に印象深い、美しいショットだが、デジタル処理が行われていることに注意。オリジナルはもっとざらついたものであった。謝辞参照)

(左下は大気の垂直断面がよくわかる一枚で、12月に撮影されたもの。砂嵐で大気が霞んでいるのがわかる。右下はクレーターの1つで、近火点付近を飛行した2月に取得されたものであろう。)

      

科学観測で得られた成果は米のマリナーに引けを取らないものであったが、詳細は割愛しよう。その一部を以下に記すと;

・南極域(当時、晩夏)の気温変化は+13℃〜−93℃。
・北極冠は厳冬期に−110℃まで降下。
・地表温度は日中は変化無しだが、夜間は急速に冷える。土壌は極めて乾燥していると推測される。
・大気圧は5.5〜6ヘクトパスカル。水蒸気は地球の5000分の1。
・砂嵐は3ヶ月継続し、大気に舞い上がったダストが降下するまで数ヶ月かかった。
・ダストは高度8〜10kmまで舞い上がった。成分は酸化ケイ素でサイズは1ミリ程度。
・画像に写っていた最も高い山は22km。

ただ、それらは殆どマリナーの影に隠れてしまった。なにせ火星の全球をカバーする7000フレームという桁違いの画像を取得した上、マルスを圧倒する高画質だったからである。


ミッション「M−73」

M−71ミッションは成功とも失敗とも言い難いものだった…周回機から得られた科学的成果は価値の高いものであったがマリナーの物量に圧倒され、軟着陸は何とも後味の悪い結果に終わったからだ。

勿論だが、政府上層部も満足しなかった。次の火星ロンチウィンドウは1973年であったが、M−71の最終結果報告が行われる前に、M−73ミッションにゴーサインを出したのである。

一方、米国は73年のウィンドウをパスし、代わりにミッション「バイキング」を始動、75年のウィンドウを目指すことを表明した。バイキング計画は単なる軟着陸と画像の送信ではなく、土壌をすくって化学分析を行い、生命の有無を直接確かめるという極めて野心的な挑戦である。

つまり1973年は、ソ連にとって世界をアッと言わせる最大そして最後のチャンスとなったのである。

ただし。当時、政治シーンではいわゆる「デタント」と呼ばれた冷戦緩和を迎え、東西歩み寄りムードが漂っていた。72年5月には「アポロ・ソユーズテスト計画」が調印された…これは、アポロとソユーズが軌道上でドッキングし、乗員の握手が行われるというものである。このミッションは、技術的に真新しいものはもたらさなかったが、情報交換という点では互いに大きい収穫を得るものとなった。

軌道上でのドッキングは1975年に実行されることになる。そこに至るまで、米ソで様々な情報交換が行われたが、その中には火星大気に関するものも含まれていた。ソ連はM−71およびベネラ8号で得られた成果を米国に渡し、その見返りとして火星大気の詳細モデルとマリナー9号で得られた画像を受け取ることになったのである。

さて。

先述したが、この73年ウィンドウでは着陸機と周回機を別々に飛ばさねばならなかった。そこで着陸機を2機、周回機を2機、計4機で挑むことになった。

着陸機は「M−73S」、周回機は「M−73P」とコードが付けられ、外見は「M−71S」「M−71P」と殆ど変わりない。詳細は割愛するが、観測機器などにかなりの改良と追加が施され、特に撮像系は大幅に強化されている。ただし着陸機「73S」には撮像系は積まれていない。

M−71に引き続き、フランス製観測装置「ステレオ」も搭載されることになった(同装置はM−71ミッションできちんと作動し、有益なデータを取得している。補足3参照)。これは「73S」の母船に装着された。

重量は「73S」が燃料込みで3440kg、「73P」が3890kg(母船3260kg、着陸機635kg)。縦横のサイズはM−71と殆ど同じである。

M−71との最大の相違点は、着陸機が降下中も観測を行い、データを母船に送信することだった。これは既に金星探査ミッション「ベネラ」で実現されており難しいことではなかったが、火星大気の垂直組成を実測する初めてかつ貴重な機会となるものであった。


準備は比較的スムーズに進められたが、これはM−71の経験が大いに生きていたためと言えるだろう。モックアップも含めほぼ同型の衛星を何機も手がけてきたのである。開発チームの練度は自然と高まっていたのだ。

だが、M−73もやっぱり、トラブルと無縁では終わらなかった。それは、母船に制御コンピュータや科学機器を据え付ける段階になって露見した、非常に厄介な問題だった。各機器は据え付けられる前に様々なチェックを受けるのだが、その時、4機全機で故障が発生したのだ!

原因は、半導体にあった。使用されているトランジスタはリードにアルミ線が使用されており、1〜2年で腐食を起こしてしまうのだった。そもそも金線を使用すべきであったものが、予算の問題でアルミが使用されていたのである。

トランジスタが製造されたのはほぼ1年前であった。当時は出来たてホヤホヤであったが、既に1年が経過し、機能しないものが出てきたというわけである。これでは火星に到着するまでに、かなりのトランジスタが壊れてしまうのは明白だった。

この事実は大問題になったが、今から4機分を作り直す時間はない…最速でも半年はかかる。そんなことをしていたら、ミッション自体が成立しなくなってしまう。

振り返るにこれまでの失敗原因は、打ち上げロケットの不具合を別にすれば、どれも探査機に搭載された電子機器に集中していた。火星に到着する前にコンタクトが途絶えたり、到着しても軌道投入が不完全であったり、などである。ライバルである米国のマリナーには、そのものが途中で壊れるということはなかったのだ。

これには、半導体の品質が大きく関係していた。当時のソ連の半導体技術はまだまだ高品質とは言い難いレベルで、耐放射線特性や耐食性の優れた特注品でさえも同様であった。それ故トランジスタを大量に組み合わせて作るコンピュータの故障率が上がるのは無理もないことだった。

結局、このまま進める以外の選択肢がなかった。トランジスタの故障率が注意深く見積もられたが、出た結論はフィフティ・フィフティ…確率2分の1という厳しいものだったが、アファナシエフはゴーサインを出した。もはやそうする他なかったのだ。


4機は無事に打ち上げられ、それぞれ「マルス4号」〜「同7号」と発表された。4号と5号が1973年7月21日と同25日、6号と7号が同8月5日と9日に打ち上げられた。モスクワ放送は8月9日夕刻、「4号は640万km、5号500万km、6号150万km、7号10万2000kmの地点をそれぞれ飛行している」と高々と伝えた。

4機のプロトンの連続打ち上げに成功したのは初めて。ここに、ソ連艦隊が火星へ向けて出撃したのだ!(下・上段が4号・5号で下段が6号・7号)

  
                           

この出来事、さすがに米国も驚きを隠せなかったという。

ただ筆者の雑感なのだが、もはやこのソ連艦隊は、どうしても色あせて見えてしまう。米国は71年のマリナー後、バイキング計画を発表し、そこで斬新なスタイルの着陸機と複雑な科学ミッションを打ち立てた。着陸機は、ソ連では技術的に無理として却下された逆噴射エンジンによる軟着陸を目指すのである。

それが成功するか否かはその時点では未知だったが、しかし一連のマリナーの成功と、73年ウィンドウの敬遠は、開発への意欲と成功への期待を持たせるもの。その上マルスと比べると非常に軽量だ…その小型ぶりは、基幹エレクトロニクス技術の優秀さも象徴している。

大体、マルスに搭載されたコンピュータユニットは、1つの重量が170kgに達するものだったのだ。これは、マリナー4号の重量に匹敵する!

もちろん、国に関係なく、僅か2年でガラリと異なった探査機を繰り出すのはもちろん無理…ソ連がM−71を引き継いだのはむしろ当然だ。ただ、米国が次世代型火星探査機の開発へ前進を始めた中、今だ変わらぬマルス艦隊には、宇宙機版“大艦巨砲主義”っぽさをどことなく感じてしまうのだ。

そうまでして打たねばならなかったのは、勿論、マシな火星軟着陸を米国に先んじるためであった。しかし結論から言えば、今回も散々たる敗北…いや、米国不在の中のいわば“独り負け”…を喫したのであった。


順調に飛行を続けるかのように見えた4機であったが、やっぱり、機器の不具合と無縁ではなかった。9月下旬、6号は送信機が故障し、地球へのテレメトリー送信が不能に陥った。搭載された各機器の状態を全く把握できなくなったのである。

管制部は、壊れたのは送信機のみであり、その他は正常に機能していると信じた。どうなっているかはわからないが、送信したコマンドにはきちんと反応するものと信じていた…いや、信じるほか無かった。機体のリスポンスが皆無の中で、彼らはコマンドの送信を続けたのである。

また、7号は1台を残して他の送信機がダウン、4号は3系統のコンピュータのうち2系統がダウンに見舞われたのであった。

打ち上げ直後は高らかに宣言されたミッションも、時間の経過と共にトーンダウンし、ソ連艦隊の姿は西側に殆ど見えなくなってしまった。数々のトラブル…ここで記すその詳細が表に出たのは、80年代後半にグラスノスチが始まってからである。

結局、マルス4号は軌道修正を行うことができず周回軌道への投入は不可能になったが、地上管制部は最接近の際に写真撮影を行うことを決定した。

74年2月10日、4号は約6分間の火星最接近において12フレームの拡大ショットと2フレームのパノラマショットを行った後、周期570日弱の太陽周回軌道へ入った。最接近距離は火星から2000km前後だったと言われている(下はパノラマショットと思われる1枚。処理後のもので、オリジナルはだいぶ荒い)。

   

一方、マルス7号は3月9日、突入機を分離した。この時のプロセスは全て順調であったが、あろう事か、分離15分後に予定されていた突入機のエンジンが噴射せず、突入軌道への投入に失敗したのである。突入機は火星から1300km程度のところをかすめて通り、太陽系空間の藻くずと消えた。

ただ、母船は「掩蔽電波実験」(地球から見て火星の向こう側を通過する際に電波を地球へ向けて発信し、それを受信することで大気の特徴などを掴む)を行い、意義のあるデータの取得に成功している。また、搭載されていた「ステレオ」は順調にデータを取得し続けた。

母船からのシグナルは少なくとも74年9月までは受信されたが、これは4機の中で最長であった。

マルス5号は、火星周回軌道への投入に成功した。74年2月12日のことで、近火点5154km・遠火点35980kmの楕円軌道で、周期は24時間52分。

得られた科学データは非常に有益なものばかりだった。大気中の水蒸気量を詳細に観測し、高度毎の違いを明らかにした。また、水蒸気が予想されていた以上に存在することも判明し、それは後のバイキング計画でも裏付けられるものとなった。また、アルゴンが含まれることも明らかとなった…など、多岐にわたる。

画像は計108フレームが取得されたが、画質がよかったのは43フレーム。5フレームのパノラマが作成された(下はそのうちの1枚)。

   

5号は火星周回22周目の2月28日、コンタクトが途絶えた。これは軌道投入から僅か3週間後であったが、実は投入直後に気密部のリークが発見されており、機器の停止は時間の問題だったのだ…。


さて、マルス6号である。火星突入は3月12日が予定されていたが、管制部は殆ど絶望視していたと言われる…テレメトリーが9月以降、全く取得されていないのだ。目をつぶって操縦しているようなものである。

しかし。6号の機能は正常で、地上からのコマンドに反応し、きちんと軌道修正も行い、今まさに突入を控えていたのである!(補足4参照)

マルス6号は姿勢制御を正しく行い、突入機を分離すると、シグナルの受信態勢に入った。一方、エンジンを噴射し、突入軌道へ入った突入機。火星まで残り4800kmの地点で、母機へ向けてシグナルを送信を始めた。

母船はそのシグナルを地球へ中継するのだが、これは壊れている送信機とは別系統で行われるのが幸いだった。母船は、地球へ向けて中継を開始した。

エフパトリア・地上管制部。半ば絶望的に待っていた運用チームは、ハッとした。突如、シグナルが入感したのだ。そのドップラー偏移は正に、マルス6号から発されていることを示していたのだ!

「おぉぉぉぉう!」「マルスだ!生きてる!着陸機が突入を開始したぞ!」

…歓声は、筆者の想像である。しかし誰もが驚愕と興奮に包まれたのは間違いないだろう。

管制部は、緊張の瞬間を迎えた。コンソールに着席した職員らが、固唾を飲んで画面を見つめる…。

3月12日午前9時5分53秒(世界時)、大気圏突入を開始。しばしのブラックアウトの後、再びシグナルが受信され、高度20kmでパラシュートを展開した。

パラシュートの展開後、大気の計測が始まり、それはリアルタイムで地球へ送信された。刻々と続くデータ送信…エフパトリアでは、それが巨大なオープンリールに記録されていく…。

だが、開始から149秒後、シグナルはぶっつりと途絶えてしまった…時刻は午前9時11分5秒(同)だった。

様々な検討が行われた結果、地表に到達したのは間違いなく、激突のショックで壊れたのだろうという結論に至った。軟着陸に失敗したのは残念なことではあったが、見込みの無いと思われていた6号がきちんと作動し、大気圏突入を果たし、そして何より、連続計測での大気垂直データの取得に成功したのは喜ばしいことであった。

ただ、機器の不具合により、いくつかの科学データは信憑性の低いことも明らかになった。例えば大気組成として、アルゴンが45%というとんでもない数値が出たのである(実際は1.6%)。

(下は、火星周回探査機「マーズ・リコネッサンス・オービター」が2007年5月26日に撮影した「Samara Vallis」。ここはソ連の「マルス6号」がクラッシュした場所と考えられている…ここのどこかに、今もマルス6号着陸機が…?大きいサイズはこちらへ)

          


火星艦隊の終焉

一応の科学的成果は得られたとはいえ、政府上層部は非常に失望していた。何せ4機も飛ばして、完全成功は一機も無かったのだ。

一般工業機械省大臣セルゲイ・アファナシエフは、火星へこれ以上の同型機を飛ばさないことを決定した。その後、今後の探査機のコンセプトについて検討が続けられたが、翌1975年、政府は米国と正面から競争することを諦め、成功を続けている金星探査ミッション「ベネラ」に資源を集中すべきと決定を下した。

この時、今後10年間は金星探査に集中すると、惑星探査に関する方向性も定められた(補足5参照)。

米国は火星だけを追っていたのではない。1972年にパイオニア10号を打ち上げ、翌73年には木星フライバイを成功させている。この時点で、ソ連の技術(それに資金)レベルでは競っても意味がないことは明白だったのだ…。

次回から数回に分けて、ベネラ計画を追ってみよう。ベネラ計画はソ連が大成功を収めた唯一の惑星探査ミッション。1967年のベネラ4号の成功以来、1983年の16号まで継続され、その技術は84年の金星・ハレー彗星探査ミッション「ベガ」へと継承されたのであった。


※謝辞
マルス3号および5号が取得した画像には、Ted Stryk氏のご厚意を頂きました。画像処理を専門にされる氏のサイトには素晴らしい画像が記載されています。http://www.strykfoto.org/
Many thanks to Mr. Ted Stryk, for information and permission to quote pictures.

※謝辞
マルスの着陸フェーズに関するフラッシュの参照については、「ソビエト宇宙征服」管理人・じゅんじ氏のご厚意を頂きました。氏のサイトには興味深く面白いコンテンツが記載されています。

※補足1
この浮き輪スタイルは80年代末の火星探査機「フォボス」とそっくりだが、マルスの設計思想が「フォボス」でも生かされているからである(設計者が同じ)。

※補足2
ソ連がグラスノスチで情報公開を始めた頃、マルス3着陸機の撮影した画像も明るみに出た。それはぼんやりとした、何となく地平線のようなものが写っているもので、確かに一般公開に耐える質ではなかったが、しかし、着陸機からのシグナルを受信したというのはウソではなかったのである。

下はオリジナルにノイズ処理などが施されたもの(Ted氏による)。なるほど、地表と地平線を映し出しているように見える。

             

ところが実は、着陸機に搭載されていたカメラは“垂直スキャン”するタイプのもので、上の画像を90度起こしたものが正立像となるのだ。そのため「着陸機は横倒しで撮影を行ったのではないか」という説もあり、現在でも正確な解釈は定まっていない。

送信が20秒足らずで停止したことについて、ペルミノフは後に、火星の砂嵐により生じた静電気が原因ではないかと推測している。高速で吹く砂嵐で静電気が帯電し、その高電圧が機器を破壊した可能性が考えられるといい、この仮説は、第二次大戦でレバノンの砂漠に駐留していた英国軍が似たような現象を経験していたことを知ったことに基づくという。

極端に乾燥した火星での静電気は実際大きな問題で、火星探査車「ソジャナー」や「オポチュニティ」、「スピリット」には、車体に溜まった静電気を逃がすための放電ヒゲが取り付けられている(右・ソジャナーに取り付けられたヒゲ)。我々日常からの類推で言えば“アース”として地表に伝導ゴムでも垂らすことが考えられるのだが、火星では大気の方が伝導度が高いのだ。

なお、マルス3号着陸機の活動時間がトータル約2分間であったことは、強調しておいてもよいだろう。資料の中には「僅か20秒の活動」と、恐らく誤解しているものも見受けられる。

ところで、火星の砂嵐がどの程度のものか、それを火星面で実測した貴重な資料がある。それは2007年6月から8月にかけて発生した大規模な砂嵐で、活動中の火星探査車が一時は危機的状況に陥った出来事であった。

下は、探査車「オポチュニティ」が6月の一ヶ月間で取得した画像で、日が経つにつれ程度がひどくなっていく様子がわかる。撮影時刻は昼間であったが、右端は微かに地平線が見える程度まで減光している。

           

マルス3号の時もやはり、この程度まで減光していたのだろうか。これでは仮に壊れなかったとしても、非常に暗い映像しか取得できなかったに違いない。

※補足3
M−71ミッションでフランスから提供された2台の「ステレオ」であるが、1台は周回機「71S」に搭載されていた。これは打ち上げに失敗して失われたが、もちろんこのことはフランスに伏せられたままだった。一方、2台目のステレオはマルス3号に搭載された。

マルス2号が打ち上げられた際、ステレオの観測データが一切リリースされないことを不審に思ったフランス当局はソ連に問い合わせたが、当然だが、明確な返答はなかったという。だがマルス3号が軌道投入されると、取得された観測データがリリースされ、フランスは満足いく成果に大変喜んだと言われている。

なおこの成功を受け、M−73ではステレオに加え、「VPM−73」と呼ばれる可視偏光計も提供された。

※補足4
M−73ミッションで使用されたコンピュータは改良されており、予定マニューバが予めプログラムされており、地球からのコマンドが無くてもそれに従って飛行できるようにはなっていた。したがって、マルス6号が地球からのコマンドに反応して軌道修正を行っていたのか、オンボードプログラムのみに従って修正を行っていたのか、正確なところはわからない。

※補足5
ソ連が外惑星探査に目を向けるのは、1986年〜87年頃である。この時、宇宙科学研究所(IKI)では次のような探査プランが提案されていた。

・一旦木星へ飛び、フライバイ後太陽へ戻り観測を行う「コロナ計画」。1995年を予定。
・木星・土星探査ミッションで、1999年を予定。土星では衛星「タイタン」へ着陸機およびバルーンを投下し、地
 表と大気を調査する。
・水星探査ミッション。2001〜3年頃、金星フライバイ経由で水星に接近し、水星周回軌道へ入る。また、着陸
 機で地表の観測を行う。
・小惑星「ベスタ」の観測

…など。このうち土星探査計画は、その後NASAと欧州宇宙機構(ESA)が打ち出した「カッシーニ・ホイヘンス計画」と完全に被るためキャンセルされた。また、太陽観測計画は「ツィオルコフスキー計画」と名称が変更され、1990年までには基本設計が出来上がっていた。

ツィオルコフスキー計画は1994年、米国との共同プロジェクトに形を変え、この時、冥王星へ探査機を送る構想も追加された。冥王星探査は米国の探査機にロシアの小型プローブが相乗りする格好で、プローブは冥王星へのインパクトも検討されていた。

ただ、この共同計画は合意以上に進展することはなかった。太陽観測は内容が被るNASA/ESAの共同ミッション「ユリシーズ」の成功で、また冥王星は米国が構想を断念したことによる。ロシアはその後も木星探査など模索するが、財政難のため幻と化してしまっている。


[追加情報 04.12.2013]

1971年12月2日、火星へ着陸し火星面から初めて地球へ信号を送り返すことに成功したソ連のマルス3号着陸機および関連物と思われる物体が発見された。これは、NASAの火星周回探査機「マーズ・リコネッサンス・オービター」(MRO)の望遠カメラ「HiRISE」で撮影された画像の中で見いだされた。

ソ連は1971年5月19日と同21日、マルス2号とマルス3号を打ちあげた。共に史上初の火星軟着陸を目指していたもので、同年11月27日、マルス2号の着陸機が火星へ突入したが、突入角が深すぎ大気中で燃え尽きた(ないしは地表へ激突)したと考えられている。一方、3号の着陸機は12月2日、火星面への軟着陸に成功し、信号を地球へ送信してきた。火星面からの史上初のシグナルであったが、しかし、送信開始から15〜20秒足らずで途絶えてしまっている(当時火星大気で生じていた大規模な砂嵐が原因と考えられている)。

着陸地点は南緯45度、東経202度の、プトレメウス・クレーター内と考えられてきた。MROのHiRISEカメラは2007年11月にこの地域の高解像度撮影を行いデータを取得、公開している。この画像をロシアの火星ファンらが解析し、今回の発見にこぎ着けたのであった。

NASA火星探査車「キュリオシティ」の、ネット上のロシア人ファン(Twitter的に言えばクラスター?・・笑)を束ね、SNSで記事を発信しているサンクトペテルブルグのヴィタリー・エゴロフ氏の読者らが捜索を行っていたのである。これに先立ちエゴロフ氏は、「こう見えるのではないか」という推定図を作成し公開している。

彼らは実にほぼ5年にわたる丁寧で根気強い調査の結果、2012年12月31日、それらしい物体を見つけ出した。エゴロフ氏のグループに助言をしているモスクワのベルナドスキー地球化学研究所はHiRISEカメラ部門責任者のアルフレッド・マクエヴェン氏にこのことを伝え、同地域の再撮影が今年3月に実施された。この撮影ではこの地域のカラー画像が取得された。また、71年当時マルス3号計画に携わっていた研究者達にコンタクトを取り、意見を求めたりもした。

下の画像が、2007年および今年3月に撮影された画像を並べたもの。最も特徴的なのはパラシュートと思われる円状の物体。直径7.5メートルで、もし最大に展開していたら11メートルになるものであったため、サイズの合い具合は悪くない。火星というと砂嵐が一般的で、このような膜状のものは砂に埋もれてしまうと考えるのが自然だが、これまでの年月の中で、砂が取っ払われたタイミングに出くわしていたのかも知れない。

 

マルス3号のパラシュートの先には逆噴射ロケットを備えた降下ステージがぶら下がり、更にその下に着陸カプセルがチェーンで宙づりになっていた。画像では、降下ステージと着陸カプセルらしきものが確認されている。降下ステージには一筋の線状のものが見えるが、これはチェーンと解釈することもできる。また、カプセルには4枚のペタル(花弁状カバー)がついているのだが、目を凝らすと、それが見えるような気もする(?)。(下はマルスの着陸シーケンス)

 

降下ステージから伸びるのは、チェーン(?)。右下の着陸カプセル、目を凝らしてみると、4枚のペタルのうち2枚、上と左にそれっぽいものが見えなくもない。
       

現段階ではまだ「候補」としか言えない段階であり、今後さらに詳しく検討する必要性があるとのこと。詳細や大きい画像はこちらこちらへ【NASA 04.11.2013】

…まだ候補の段階ですが、かなりそれっぽいものが見つかり、ロシア宇宙ファンにはたまりませんね^^!ついに見つかったか、マルス3!笑

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
StrykFoto http://www.strykfoto.org/
NASA/JPL http://www.jpl.nasa.gov/
“On Mars: Exploration of the Red Planet. 1958-1978” Chapter 6, NASA SP4212, History Division, 2004
                               http://history.nasa.gov/SP-4212/on-mars.html
Научно-производственное объединение имени С.А. Лавочкина http://www.laspace.ru/rus/
“Russian Planetary Exploration” by Brian Harvey, Springer Praxis, 2007
“The Difficult Road to Mars” by V.G. Priminov, NASA NP1999-06-251-HQ, 1999