ババキンの傑作(1)

近年、各国が月の無人探査に精を出そうとしている。人間が足を踏み入れたアポロ計画から既に40年が経過し、いま再び無人探査機を送ることには“今更”という感がしないでもない。「人間も行ったことだし、月については殆ど知り尽くされた」と思っている人は圧倒的に多い。しかし、アポロはあくまで足を踏み入れることが目的で、科学調査は二の次であった。

事実、アポロ計画で初めて地質学者が月に踏み込んだのは、最後のアポロ17号においてのこと。アポロ飛行士達はたくさんの岩石を採取して持ち帰ったが、何分学者ではないため地質学的に意味のあるものは少なく、17号において初めて有益な採集が行われたのであった。アポロ11号以降、早い段階で地質学者が入っていれば、もっと多くの有益な資料が得られたのではないかと言う声も多かった。

今後繰り広げられるであろう“月探査ラッシュ”の中には、月の土壌を持ち帰ったり、探査車を走らせたりという構想もある。地球への持ち帰り、いわゆる「サンプルリターン」は非常に斬新な響きがするが、しかしそれは、37年近くも前にロシアが成功させているのだ。探査車もしかり。

次の写真、左は「ルノホート」と名付けられた月面無人探査車で、右はサンプルリターン機。どちらもロシア宇宙開発史ではよく知られた機体だ。独特のフォルムをしているが、しかし、一度見たら忘れないような造形美も感じずにはいられない。

   

「機能的なシステムはデザインも優れている」とよく言われる。ロシアの宇宙機は米国のものと異なり無骨なものばかりだが、しかし、そこに無駄なものはなく、非常に洗練されている。ルノホートは言うまでもなく、右のサンプルリターン機もどのように土壌を採取して持ち帰るのか、説明抜きでもわかる程だ。

当然だが、これを作った人間達がいる。それは、N1の際にも登場したゲオルギー・ババキン率いるチームだ。ソ連は70年〜80年代に火星・金星探査を絶え間なく実行したが、ババキンはその礎を築いた男である。

特にルノホートとサンプルリターン機は「ババキンの傑作」と賞されることもある。

今回はソ連の有人宇宙計画探訪から少し外れ、同国の月サンプルリターンおよび月面車計画を2回に分けて振り返ってみることにしよう。


まずは、ババキンにつれて簡単に触れておきたい。とにかく無人月探査機は、彼なしではあり得ないのだ。

ゲオルギー・ババキン(右)は1914年11月14日、モスクワに生まれた。多くのエンジニアが大学教育を受けて技術の基礎を身につけたのに比べると、彼の経歴は少々変わっている。

小さい頃の彼は学校へは通わず、本来学校で学ぶべき事を独学で学んだ。当時からラジオ技術に関心が高く、無線技師を養成する専門学校へ通った後、高等通信技師としてモスクワ電話局に就職したのが17歳の時。1936年、22歳の時に通信兵として赤軍に入ったが、半年後に病気のため除隊している。

そもそも学校放棄の理由が、「なぜ学校へ行かねばならぬのか」という疑問だったと伝えられている。詳細はわからないが、単なる学校嫌いという類ではなく、天才にありがちな、年相応ではないレベルの疑問であったかもしれない。

その後いくつかの研究セクションを渡り歩き、やってきたのがラボーチキン設計局だった。ここはセミョン・ラボーチキンという男をチーフ・デザイナーとする、航空機の機体設計が専門の設計局。ここで彼は、設計と製作に明け暮れた日々を過ごすことになったが、その才覚はメキメキと発揮されていったようである。

しかも、彼は技術のみならず、リーダーシップでも天才肌であったのだろう、若くしてナンバー2の座まで昇り詰めた。その傍ら、大学で再び教育を受け学位を手に入れたのが33歳だったが、それは学位取得には遅い年齢であった。もはや彼にとって学位は“おまけ”みたいなものであっただろうが、しかし、指導的立場としてインテリの学歴が必要であったのは間違いなかろう。

1960年、ラボーチキンが亡くなった。だがババキンは局長に昇格せず、設計局そのものがウラジミール・チェロメイの傘下に組み込まれ、巡航ミサイルの開発に携わるようになる。チェロメイについてはこれまでの連載で度々触れたが、彼自身も航空機の設計が本来の専門で、関連部門の取り込みを続けていたのだった。言葉は悪いが、ラボーチキンの死に乗じたと言っても過言ではないだろう。

しかし、1965年に転機が訪れる。ソ連宇宙開発を主導していたセルゲイ・コロリョフは、自身の設計局が抱えていた月および惑星探査計画の全てを、ラボーチキン設計局に委譲することにしたのだ。この時、コロリョフ設計局は一連の有人宇宙開発計画で全く余裕がない状態だった。

コロリョフは、自身の考えを受け継ぎ、発展させてくれる者を探していた。そこで目を付けたのが、ラボーチキン設計局であったのだ。

実のところ、セミョン・ラボーチキンは生前、宇宙機の分野に興味を持っていた。1959年には15名ほどの若手グループを組織し、開発を始めようとしていたようである。だが、翌年の急死でそれらは頓挫し、組織そのものが解体したとされる。

コロリョフがババキンに声をかけたのは、そのような背景があったからである。ついでに、ライバルであるチェロメイから技術力を奪うことにもなり一石二鳥だ。彼はラボーチキン設計局の独立と支援を約束し、探査機開発を一任することに決めた。

ちなみに当時、コロリョフ設計局には多くの人材が集まっており、若手技術者や新人にとって“武者修行”には最高の環境だった。一方、優秀とはいえ経験の浅い者も多く、そういう意味では全てがそろったフィールドでもなかった。それ故、(巡航ミサイルや弾道ミサイルの開発を通して)厳しい重量制限下におけるペイロード開発に慣れていたラボーチキン設計局の連中には、高い期待が寄せられていた。

そしてその腕前は確かなもので、彼らは僅か数ヶ月のうちに金星・火星探査機をデザインして見せたのである。これは第1設計局の者達にとって、非常に衝撃的なことであったという。

コロリョフがラボーチキンを初めて訪問したのは1965年7月で、しかもこれが最後となった。彼はババキンの執務室に入ると、月、火星探査機の着陸フェーズを描いたポスターをじっと眺めていた。同室していた火星・金星探査機設計主任で、ババキンの主席補佐であったウラジミール・ペルミノフは、この時の事を次のように回想している。

「私は火星探査機と、その着陸フェーズを描いたポスターの前に立って待っていました。すると、コロリョフとババキンが部屋へ入ってきたのです。コロリョフは何かとても重要なことを考えているように見えました。」

「彼はポスターをじっと見つめながら、やや暗い表情であごに手をやり、他の者に聞かせたくないような雰囲気で『着陸はエンジンでやらねば。パラシュートでは駄目だ。』と呟いたのです。」

「私はおどおどしながら、火星には大気があることを告げました。すると彼はギロッと私を睨みつけ、周囲を見渡し、テーブルに近づいていきました。間もなく、会議のメンバーが呼ばれたのです。」

コロリョフが、火星に大気があることを知らなかった訳ではなく、単に疲れ切って頭が回っていなかったと考える方が自然だろう。

この会議は、月・惑星探査計画を正式に委譲することを宣言するものだった。コロリョフは、自身のメンバーが如何に困難と闘ってきたかを力説、これ以上の実行が不可能であることを告げた。そして全てを委譲することを表明したのだが、その時彼は、こう言っている。

「私は同志諸君に、私の夢の殆どをやろう。私は皆が真剣に取り組んでくれることを期待している。もし私の誠意が報われないのであるなら、タラスブルバのように振る舞うから心しておいてくれ。」(補足1参照)

ひょっとしたら、ペルミノフを睨んだあの眼差しは、夢を手放す覚悟を決めた瞬間だった、かも知れない。

「的確な指摘だ。よし、お前達に全て任せたぞ…」

この約10ヶ月後、コロリョフはこの世を去る。会議で発したあの言葉は、彼の遺言になった。現場は混乱したが、しかし、ババキンらがコロリョフの期待を裏切ることはなかった。

そう、彼らは“夢を継ぐ者”として、最高の働きを見せたのだ。


月面車およびサンプルリターン機はそれぞれ「Ye−8」、「Ye−8−5」とプロジェクト名が付けられたミッションであり、それらが有人月計画と深く関わっていることは先述した(開発史25参照)。「Ye−8−5」は「Ye−8」の派生型として位置づけられているが、それは機体のエンジンシステムなどが殆ど同じだからだ。ただ、車とサンプル収集では任務が別であるのは言うまでもない。したがって以下では、それらを分けて見てみることにしよう。

サンプルリターン「Ye−8−5」

既に述べてきた通り、無人機により月の土壌を収集して地球に持ち帰るミッションである。月の土壌を米国よりも早く手に入れることを目論み、N1−L3計画と並行して進められていたが、1969年6月の第1号機は打ち上げに失敗、続く2号機「ルナ15号」は月周回軌道へ到達したものの、山腹に激突するという結果に終わった(開発史26参照)。

ルナ15号の運用では、開発チームは多くの困難に直面した。飛行軌道は予定よりも大きくずれたものであり、レーダーにも問題があった上、降下時の噴射の正確さも確証が得られないものだった。ただ、基本設計は完璧だったため、担当するラボーチキン設計局のエンジニアらは、次回こそは成功させようという意気込みで問題点の解決にあたったという。

その機体を少し詳しく眺めてみよう。機体は大きく「下降段」(T)と「上昇段」(U)に分かれている。

    

(1)サンプル格納・回収カプセル (2)上昇段制御機部 (3)上昇段燃料タンク (4)マニューバスラスター (5)下降段制御部 (6)上昇段エンジン(内部中央) (7)下降段エンジン (8)下降段燃料タンク (9)カメラ (10)ドリルアーム (11)ドリル (12)通信アンテナ

全体の高さは約4m、うち上昇段が2m。総重量は5.75トン(燃料込)で、下降段には1基の「KTDU417」(推力750kg〜1920kgで可変)を搭載している。このエンジンは軌道修正、月周回軌道投入、降下の各クリティカルなフェーズで使用されるもので、フルスラストで比推力310秒、10分50秒間の燃焼を維持可能である。他、小型スラスターを搭載し、着陸の最終局面における姿勢制御を担う。

一方、上昇段のみの重量は520kgで、うち燃料が245kgを占める。エンジンは「KRD61」で、比推力313秒、燃焼時間53秒で、脱出速度2.7kmを実現する。

土壌の採集は極めてわかりやすい。注意したいのは、土壌をスコップですくうのではなく、ドリルで掘削し容器に格納するという点だ。容器はチューブ状になっており、掘り進むままにチューブの中に土が詰まるようになっていた。

月面へ着陸後、地球からの指令によりドリルアームがゆっくりと倒れ(6)、ドリル(2)を突き立てる。

ドリルは直径2.6cmで、38cmの深さまで掘り下げることができる。140Wのモーターにより駆動し、回転数は毎分508回転で、毎分5.6cmずつ掘り進む。

アームは駆動モーター(7)により、左右にも動かすことができる。ドリルを突き立てるにあたり、カメラの映像を参考に適切な場所を選定することができる。なお、付近を照らすためのランプもついている。

掘削が終わると、アームを持ち上げ(3)、帰還カプセル(1)の中に土壌入りの容器を格納する。

一連の土壌採集を終えると、地上からの指令で帰還フェーズを開始する(下図・左)。ドリルアームを再び倒し、所定の時刻にメインエンジンを点火し、月面を離陸する。下降段は発射スタンドの役割を果たす。

上昇段は道中、適切なスラスター噴射を行いながら軌道を維持し、予定されたタイミングでカプセルを縛っている金属ベルトを開放、カプセルを切り離す(右)。上昇段はカプセルの大気圏突入と共に突入、燃え尽きる。

  

カプセルは直径50cmの金属球で、内部機器も備えた総重量は約39kg。表面には耐熱コーティングが施してあり、内側にはグラスファイバーが何層にも重ねられ、内部を熱から守る。耐熱コーティングの厚さは底部(8)が厚く、厚みは35mm。一方上部は僅か7mmしかない。

ドリルで採取された資料は専用の容器に入り、カプセルへ押し込められる(1)。完全に格納すると蓋(10)が閉じられる。

大気圏突入後に展開するパラシュートは(3)の部分に小さく折りたたまれている。底部を下に向けて突入を開始、やがてGセンサーからのシグナルでカバー(2)が外れ、まず小型のブレーキパラシュートおよび4本のアンテナが展開する。このアンテナからはビーコンが発せられており、追跡チームに場所を知らせる。発信器は(6)。

続いて高度11kmまで降下したことを気圧計が検出すると、メインシュートを展開、同時に2本の長いソーセージ状の風船をふくらませる。これは地上に落下した際、カプセルがきちんと上を向くように仕向けるためのもの。

ちなみにパラシュートの広さは、ブレーキシュートが1.5平方mで、メインが10平方m。発信器などを駆動するバッテリーは底部に仕込んであり(9)、おもりの役割も果たしている。


ルナ15号の後、3機のサンプルリターン機が打ち上げられた。それぞれ1969年9月23日、同10月22日、及び70年2月6日であったが、共に失敗であった。しかも全て打ち上げロケット「プロトン」の不具合によるものであり、前2つはプロトン上段「ブロックD」の不具合により地球周回軌道を離脱できず、「コスモス300」、「コスモス305」と命名されて終わった。最後のものは、初段の燃焼が127秒で停止し、墜落している。

大体、半年遡った69年春には、本格的な火星探査機「M−69」の打ち上げに失敗している。しかも立て続けに2機もだ!その上このことが、その後の火星探査を大型化させる一因となったのだった(詳細を別号にて)。

ババキンを始めとするラボーチキン設計局の面々は、イライラの頂点にあった。ルナ15号以降、同型機を一度も運用することなく在庫が尽きてしまったのだ。月も、そして火星も、ミッションの失敗が自分たちとは直接関係のない、プロトンロケットの不具合に集中していたのだ。

勿論、最も苦しかったのはロケット部門だろう。しかし、運用すらできないうちにマシンを潰されていくラボーチキン・チームのフラストレーションは、想像を超えるものであったに違いない。

新たなサンプルリターン機の製作に暫く時間がかかることで、計画全体の遅れがはっきりした。勿論この間、ロケットチームはプロトンの不具合を改善することに全力を尽くしていた…。

(最終チェックを受けている機体。右隅にパネルを操作するエンジニアの姿が見えるが、その比較から機体の大きさがよくわかる。)


1970年9月12日、満を持して打ち上げられた。全ては順調に進み、国営タス通信は、月探査機「ルナ16号」の打ち上げを発表した。

「我が国の宇宙開発計画に則り、モスクワ時間9月12日16時26分、無人探査機「ルナ16号」を打ち上げた。この探査機の目的は、科学的な月およびその周辺空間の調査である。同機から送られてくるテレメトリーでは、全てが順調に機能している。」

この時には、目的が土壌採取であることを明らかにしていない。もはや改めて言うまでもないことだが、これがソ連のやり方だった。

機体は月まで4日のコースへ投入され、17日、月周回軌道へ入ることに成功した。

有人宇宙開発現場では“宇宙飛行士の監督”という重要なポストを占めるニコライ・カマーニンも、この間のことを「日記」に書きとどめている。

「9月18日。今月12日に打ち上げられたルナ16号は、順調に飛行を続けている。これまでに26回のコンタクトが行われた。13日には軌道修正が行われ、機体は計算通りのコースへ入った。17日には機体の回転が行われ、月を周回する軌道へ投入すべく逆噴射操作が実行された。その結果、高度110kmの円軌道への投入に成功した。」

「これは、Ye−8−5プログラムにおける6機目の探査機である。この第1号機は米国の宇宙飛行士より早く月の土を手に入れるはずのものだった。前5機のうち4機はプロトンロケットの不具合により失敗し、1機は月面にインパクトしている。私は今回のミッションに自信が持てない。克服されるべき問題点がまだまだ多いからだ。だがもしこれがうまくいったら、我々の偉大な勝利となろう。史上初めて、月面から無人で土壌を持ち帰ったことになるからだ。(月周回軌道からの帰還では、3機が成功している)」

上のうち、第1文はタスのリリースをそのまま記したようである。第2文は彼の独白で、この時点では成功に対して懐疑的であったことがわかる。ただこれが成功すれば、それは大勝利であるとも記しており、淡いながらも成功への期待感を露わにしている。

19日、月を周回していたルナ16号はエンジンを噴射、軌道を遠月点106km・近月点15.1kmの楕円軌道へと入った。近月点は勿論、着陸予定地点上空である。この後更に高度を落とし、近月点9kmに達したが、これは山々のピークの僅かに上を通過するという、すれすれ飛行。この時、下降段のメインエンジン用燃料タンク(4基)が切り離され、身軽になった。

翌20日、いよいよ降下が始まった。まず、267秒間にわたるメインエンジンの前方噴射で速度をゼロにし、自由落下態勢に入った。これは残存燃料の約75%を消費するクリティカルなフェーズである。

続いて、レーダーによる地上の高速スキャンが始まった。このレーダーにより地上までの距離と、落下速度が算出される。探査機は高度約600mのところまでこのまま自由落下を続けるのだ。

高度600mの地点で、メインエンジンを再度点火、降下速度を落としながら月面に迫る。高度20mの地点でエンジンを停止し、スラスターエンジンを点火、ゆっくりと降下を続ける。

その後、地上2mでエンジンを停止、タッチダウン。この時の速度は9km/時である。

ルナ16号は、バウンスして停止した。着陸地点は「豊かの海」と呼ばれる盆地で、月の模様をうさぎに例えると、ちょうど右耳(地球から見たら左側)に相当する部分である。時刻は午前5時18分(世界時)であった。

ルナ16号は、暗黒の世界に、静かに立っている。“暗黒”というのも、その時が月齢19で、「豊かの海」は夜の域に入っていたからだ。勿論これは想定されていたことであり、カメラ用の照明ランプが備えられたのもそのためであった。

ちなみに、言うまでもなく、全ては西側に傍受されていた。月面からの強いシグナルは、ルナ16号が着陸に成功したことを意味していた。数時間後、タス通信は着陸成功を報じたが、しかし、なお土壌収集のことには触れなかった。

間もなく、地上からの指令でドリルが稼働した。ドリルを先端に付けたアームが倒れ、月面を探る…アームが長いのは、真下の、エンジン噴射の直撃を受けた部分を避けるためだ。

月には大気がないから、ドリルの音が響き渡ることはない。ランプに照らされた月面で、静かに、ゴリゴリと進む…やがて岩盤に突き当たったようで、掘削は停止された。アームが持ち上げられ、サンプルを詰めた容器は帰還カプセルへと押し込まれる。全ては滞りなく進み、後は離陸を待つのみとなった。

なお、この時、カメラで撮影されたであろう月面は、今日まで一切公表されていない。恐らくランプかカメラが機能せず、画像は取得できなかった可能性が高い。もしそうであるなら、このドリリングは、“目隠し”をされた状態で全く手探りに行われたことになる。

21日、ルナ16号は静かにコマンドを待っていた。バッテリーもまだ充分で、いつでも離陸の指令を受けることができる。例のジョドレルバンク天文台も、強いシグナルを傍受していた。

この時、地上では帰還コースの計算が行われていた。無事にカプセルを回収するために、離陸のタイミングと帰還軌道のシークが続く…エキスパート達が、計算を続ける…。

着陸から26時間後、上段と下段を接続するボルトに爆破コマンドが送られた。この時、通信基地のあるクリミアからは月が可視範囲に無かったため、キューバ沖に浮かぶソ連科学アカデミーの通信船を経由して送信されている。

間もなく上段のエンジンが作動、スムーズに上昇を開始した。それが飛び去った後、「豊の海」には何事も無かったかのように静けさが戻った。ただ、残った下降段は数日間、テレメトリーを発信し続けた…バッテリーが切れるまで。

飛行中、全ての機能は順調であった。軌道修正は一切必要なく、そのまま地球に直進するコースを辿り続けていた。

離陸から約3日後の24日、帰還カプセルが切り離された…この時、地球まで残り4万8000km。間もなく大気圏へ弾道突入、外側が超高温になった。温度は最高で10000℃に達し、重力は350Gに達したとされる。

想像を絶する高温とGに耐えたカプセルは高度14km程でメインシュートを展開し、ゆっくりと降下を続けた。間もなく、カザフスタンのステップの上に着地…傍にはパラシュートが舞い降り、カプセルはビーコンを発しながら回収部隊の到着を待っていた。


そこは、初秋の風なびく、草原の真っ直中だった。

カプセルは放射線測定が行われ、安全であることが確認されると直ちにチャンバーへ格納、モスクワの地質調査科学研究所へ空輸された。チャンバー内は真空が保たれていたが、後にヘリウムで満たされ、開封が行われた。

焼けた表面は溶けており、担当チームは最初、どのように開けるか考え込んだと伝えられる。だが間もなく蓋が開けられ、中に入っている資料を見ると…喜びの声に包まれた!

土は容器に入っていた状態を崩さないようにトレイの中に移し替えられた。全部で101gで、掘削開始時の粒子は小さく、徐々に大きくなり、最終段階では岩に当たったことがはっきりしていた。

     

同日、タス通信はサンプルリターンが成功したことを報じた。

「モスクワ時間24日午前8時26分、ルナ16号の帰還カプセルはカザフ共和国のジャズカズガン市の南東80kmの予定地点に着陸した。帰還カプセルには月の土を格納した密封容器が入っている。カプセルは回収後ヘリに載せられ、モスクワへ運ばれる予定。中のサンプルはソ連科学アカデミーへ引き渡され、分析が行われ、成果は発表されることになっている。無人装置による月の土壌回収は、史上初のことである。」

全ての成功が確認されたこの時、初めてサンプルリターンミッションであったことが公にされたのだ。米国を始めとした西側は、前年のルナ15号でも同じことが目論まれたものと改めて確信を持った。

当然だが、「無人で土壌を採取できるのに、莫大な費用と危険を冒して人間が行く必要はない」とうそぶいたのは言うまでもない。

カマーニンは、24日付「日記」に、次のように記している。

「ソ連の宇宙開発で輝かしい成功だ。ルナ16号はジャズカズガンの南東80kmの地点に着陸したが、これは予定されていた着地ポイントの僅か30km離れたところなのだ!帰るべきものは全て帰ってきた…ビーコンはきちんと作動し、回収地点の天候も理想的であった。カプセルの着地から何分も経たぬうちに回収ヘリが到着した。」

「これで、現在までに2機の無人宇宙船(ゾンド6とゾンド7)とこの1機のサンプルリターン機が、月から極めて正確にソ連領内に帰還したことになる。これらの有益な成果により、ゾンド5号のケースのようにインド洋に着水させるという帰還スタイル案は却下することができると言えよう…」

カマーニンは日記の中で、この成功を喜んでいることがわかる。彼はソ連領内への帰還技術が確立したと確信を持ったようであり、日記の続きではインド洋に回収艦隊を派遣しておくことへの批判が続いている。


サンプルリターン機は全部で7機打ち上げられ、16号を含む3機が成功した。以下、ルナ15号および16号以外について簡単にまとめておくことにしよう。

1971年9月2日・ルナ18号 失敗
モスクワ時間午後4時40分、バイコヌール宇宙基地よりプロトンロケットで打ち上げられた。重量は5.7トン。

途中、軌道修正が6日に行われ、月周回軌道投入は7日に行われた。だが、エラーのため15秒早く噴射を開始、予定より大幅にずれた軌道へ投入。月面着陸を果たすには2回の軌道修正を行わねばならなかった。

燃料節約のため軌道修正を1回に限り、代わりにエンジン噴射を、通信不能域を飛行中に行うことになった。そしてそれは実行されたが、しかし、予定されていた軌道とは大きくずれたものだった。テレメトリーを解析した結果、スラスターエンジンの1基が不具合を起こしていることが判明した(酸化剤が燃焼室に入らず、燃料だけを噴射している状態であった)。

11日、通信可能域を飛行中に更なる軌道修正が決行された。だがやはり同じエンジンの不具合のため燃料を過剰に消費した上、姿勢も安定しなかった。その結果、バンク角が予定よりも小さくなり、軟着陸は絶望的であった。

同日、通信が途絶えた。計算によると「豊の海」に墜落したと見られる。

1972年2月14日・ルナ20号 成功
モスクワ時間午前6時27分、バイコヌール宇宙基地よりプロトンロケットで打ち上げられた。重量は5.7トンで、うち上昇段が512kg。

途中、軌道修正が15日に行われ、月周回軌道投入は18日だった。周回軌道は遠月点100kmで傾斜角は月の赤道に対して65度。19日に微調整が行われ、最終確定軌道は遠月点100km、近月点21kmの楕円軌道。

21日午後10時13分、降下フェーズを開始。全ては滞りなく行われ、同19分、ルナ16号が着陸した地点から160km離れた「アポロニウス高地」に着陸した。標高約1000m・傾斜8度で、ルナ18号の墜落地点から2kmほどの場所とも言われている。

着陸後、カメラが起動し周辺の様子の撮影、電送してきたが、それは足下を含むパノラマ写真だった(下)。続いて地球からの指令によりドリル装置が起動、掘削を開始した。途中、モーターのブレーカーが2度ダウンしたが、指令で回復、掘削を継続した。全てが終了すると資料は帰還カプセルへと収められた。

 

23日、上昇段に離陸のコマンドが送信され、月面を飛び立った。カプセルが予定された地点に帰還したのは25日で、持ち帰った資料は55g(30gという数値もあり)であった。

(右・回収部隊によって撮影されたカプセル。着陸地点は積雪しており、カプセル周辺の雪は溶けたように見える。雪のために難航したのであろう、回収は翌26日であった。)

(時折、風船の中にサンプルが入っているという解説を見かけるが、それは誤解。この風船は、アンテナが上に伸びるよう、上下正しく着地するために備えられたものである。)

1974年10月28日・ルナ23号 失敗
モスクワ時間17時30分にプロトンロケットで打ち上げられた。重量は約5.8トン。ルナ16号と異なり、2.5mの深さまで掘削できるタイプだった。

途中、軌道修正が31日に行われ、月周回軌道へと入ったのは11月2日だった。軌道は遠月点105km・近月点16kmの楕円軌道。

6日、それまでと同様の着陸フェーズに入った。エンジンのブレーキ噴射と降下は順調に進んだが、しかし、高度400ないし600mの付近でレーダー系にエラー発生、130mの地点でエンジンをカットしたと見られる。早いエンジン停止で月面に予定の倍の速度(11m/秒)で落下した。

着陸地点は「危機の海」で、ルナ15号が消息を絶った域。シグナルが受信されたので機体の生存は確認されたが、ダメージは大きく、地上からの指令には全く反応しなかった。上昇段も無反応だったと言われる。

その後も電波を発信続けたが、数日後バッテリー切れで途絶えた。

1976年8月9日・ルナ24号 成功
モスクワ時間午後6時4分、バイコヌール宇宙基地よりプロトンロケットで打ち上げられた。重量は5.8トンで、上昇段は515kg。この機もルナ23号と同様、深さ2.5mまで掘削できるタイプだった。

掘削装置は、それまでのものと仕様が異なるものだった。ドリルロッドは中が空洞になっており、内側にはチューブが入っている。掘削された土は順にチューブの中に入っていくようになっており、掘削が完了するとリールでそのチューブを巻き取りながら抜いていき、最後に密封されるという、よくできた仕組みだ(恐らくルナ23号も同型であっただろう)。カプセルの扉がそれまでの7cmから10cmに拡大している。

     

一方、右上のイラストでわかるように、ドリル全体がカバーで覆われている。これは着陸後、直射日光でドリルが高温になるのを防ぐためだったと言われている(補足2参照)。この時、ほぼ満月に近く、着陸地点は太陽光にさらされていたためである(ルナ23号の時もやはり満月に近かったので、カバーが取り付けられていたものと考えられる)。

なお、これ以前の掘削・格納については詳細がよくわからないが、恐らく地面から抜き取ったドリルをそのままカプセルに差し込むタイプであったかも知れない(カプセルの直径から考えると可能)。

軌道修正が11日に行われ、周回軌道へは14日に入った。16日と17日の両日、軌道修正が行われ、遠月点120km・近月点12kmの楕円軌道へと投入された。

ルナ24号は18日、「危機の海」に着陸したが、そこはルナ23号の墜落地点からさほど離れていない場所(数百メートルとも)と言われている。

着陸15分後、コマンドが送信され、サンプリングフェーズに入った。掘削は深さ120cmまでは通常のドリリングで、その後は“インパクト・ドリリング”が行われた(衝撃を加えながらドリルを回転させたのか?)。最終的に225cmまで掘り進んだが、斜めに掘ったことも考慮すると、深さは2m程度だったとされている。

19日、上昇段が予定通り月面を離陸し、22日、カプセルが大気圏に突入、地上へ帰還した。採集されていた土壌は170g程であったが、これは実質160cmの長さに相当する量であった。

下は着地直後のカプセルとしてリリースされている一枚。パラシュートの広がり方が不自然に整っているが…手を加えられたか?それはともかく、非常にアングルのよい一枚だ。カプセルの大きさから見て、アンテナの長さは50〜60cmといったところか。2本のソーセージ風船が目立つ。

   

ちなみにこれが、“ムーン・レース”の最後を飾る月探査となった。次に月へ探査機が送られるのは18年後の1990年1月のことで、米でもソ連でもない、我が国の「ひてん」である。


ソ連が入手した土壌は全部で320gちょっとであり、分析結果は論文で発表されている。それによると、月の表面は「レゴリス」と呼ばれる岩石粉砕土で覆われており、その50〜70%が微細粒子であるという。また、ルナ16号の採取した土壌はダークグレイ色をしたイルメナイトの玄武岩で、ルナ24号のそれは低チタニウムの玄武岩である。地球の玄武岩と比較すると、月のそれはアルカリ分が非常に少なく、水を含んでいない。

一方、高地に着陸したルナ20号の土壌は、約70%を白色の斜長石からなる。これらは月の高地が明るく、低地が暗く見えることに関連しているといえると、論文では結論づけられている。それらは広く公開され、アポロの採集した岩石との比較も盛んに行われた。

続いて、ルノホートに関してまとめてみよう。

※補足1
「タラスブルバ」とは、ゴーゴリーの小説「隊長ブリーバ」に登場する主人公。彼は自分の息子を、国を裏切ったとして殺してしまう。

※補足2
ドリルのカバーは、それ以前の運用結果から、あった方がいいという判断で追加されたものであろう。ルナ20号も日中における掘削であったし、そもそも飛行中に太陽光が当たらないとも限らない。


【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
Lunar and Planetary Department, Moscow University http://selena.sai.msu.ru/Home/MoonE.htm
Исследование Солнечной системы http://galspace.spb.ru/
Научно-производственное объединение имени С.А. Лавочкина http://www.laspace.ru/rus/
"ЛУНА-16": КОСМИЧЕСКИЙ ГЕОЛОГ http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/l-16/obl.html
Институт геохимии и аналитической химии им. В.И. Вернадского Лунный грунт
"Курс на Марс" http://www.epizodsspace.narod.ru/bibl/markov/obl.html
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Soviet and Russian Lunar Exploration” by Brian Harvey, Springer Praxis, 2007