敵のフィルムで撮ったウラの顔

「月の裏に広がるのは、どんな世界なのか?」

前回も著したが、古代から人々は、月の裏側に別世界を描いてきた。地球からは絶対に見ることのできない月の反対側…そこにあるものは、何なのか…。

月に最初に踏み入った先兵は、ソ連のルナ2号だった。そのインパクトは一気に人間と月との距離を近づけたのだったが、当然ながら次の目標は、その裏の顔を拝むことだった。

これは、人工衛星による最初の本格的な他天体の調査とも言える。米国のパイオニアやソ連のルナは、イオンセンサー(ガイガーカウンター)などを搭載し、それなりに大きな成果を挙げてはいたが、地球以外の天体の、まだ見ぬ姿を暴くという意味の仕事はまだどこの国も行っていなかった。

当然といえば当然か…この時、ロケット自体持っている国は世界で2つしかなかったのだ。

1959年9月、ソ連はルナ2号による史上初の月面到達の栄光に輝いたが、“チーフ・デザイナー”こと、セルゲイ・コロリョフはその余韻に浸るまもなく、次のプランへギアを入れていた。それは“Ye-2A”とコードされたミッションで、後に「ルナ3号」と呼ばれることになる、月の裏を撮影する衛星の開発だった(開発史19参照)。


ところで、「月の裏の撮影」とは、言うのは簡単だが、冷静に考えると極めて複雑であり、それまた当然だが、どこの国もやったことのないプロセスだった。

これは単に月面に物体をぶつけるのとは訳が違う。まず、月の傍をかすめ、裏側に回り込まねばならない。続いてカメラを月面に向けるのだが、これには高度な“姿勢制御”が要求される。そして、写真撮影を行うのだが…その画像を地球へ電送し、またそれを地上できちんと受信しなければならないのだ。

逆にこの衛星開発を通じて、正確な打ち上げと姿勢制御、高信頼度のカメラ開発と超長距離間の通信システムの構築を自ずと習得することになる。

勿論、ミッションが成功すれば、月の裏を初めて撮影したというだけでなく、これらの技術を初めて運用したという“おまけ”もついてくることになる。写真はこの計画のために開発された衛星であるが、これも参照しながら、システムの特徴を簡単にまとめてみよう。工夫が満載されており、非常に興味深い。

姿勢制御

これはそもそも、航空部門傘下のロケット研究所NII-1で、偵察衛星用に行われていた研究に源流がある。この研究は1955年に開始されていたもので、当然ながらコロリョフの第一設計局と共同で行われていたもの。NII-1はこの研究をYe-2A計画用に行う方針で、第一設計局と改めて協定を結んだのであった。

システムで議論が分かれたのは、センサーの目標をどうするかということ、つまり、カメラをどうやって月の方へ向けるのか、ということだった。

天体の光を感じるセンサーを用いるのだが、当初、センサーとカメラを一体化させ、センサーが月を感じる方向へ姿勢を向ければ、そのままカメラの視野には月がはいると考えられた。「月は明るい天体であり、センサーも見逃すことはないだろう」という発想もあり、確かに有効なやり方だったが、1つだけ懸念があった。それは、「太陽を月と誤認することはないのか?」ということだった。太陽は一番明るい天体だ、それは大いにあり得る…。

そこで、太陽光を感じる「太陽センサー」を取り付け、月光を感じる「月センサー」と併用することになった。仕組みは、こうだ。

「まず、地球から見て月の向こう側に太陽が来る時、すなわち新月付近で、衛星を打ち上げる。衛星が月に近づくと、太陽センサーが太陽を捉え、衛星の底部が太陽側を向くように窒素ガスを噴射し姿勢制御する。そうすると、頭部が月の方を向くことになるが、頭部にカメラが搭載されているので、レンズは月の方を向くことになる。」

太陽センサーは8つ搭載されており、それらを元に太陽に対する機体の向きを把握しつつ、適宜、窒素ガスを小型ノズルから噴射するというシステムになっていた。

ちなみに、飛行中の機体にはゆっくりとしたスピン(野外で豚の丸焼きをするような)が加えられていた。これは姿勢を一定に保つためで、コマは回転しているときが安定に立っているのと同じ原理。ただ、写真撮影の間はスピンを止め、撮影後に再びスピンを起こさねばならず、それらもガス噴射で制御された。

通信器機

かつてない長距離間でのデータ通信を行うために、それなりの工夫や技術が施されている。まず、通信周波数には超短波VHF帯の電波が用いられた。具体的には183.6MHzで、これはテレビの5ch付近の周波数。もう少し詳しく言うと、この周波数は衛星から地球へデータを送る(ダウンリンク)際のもので、地球から衛星へコマンドを送る(アップリンク)周波数は100〜115MHz帯が用いられた。

出力だが、およそ10ワット程度と思われる。ワット数だけで言えば、蛍光灯よりも小さい。「果たしてこれで大丈夫なのか?」と思うところだが…実は大丈夫。VHF電波を用い、なおかつデジタル信号なので、雑音に埋もれてしまいそうな微弱な電波でも拾い上げることができるのだ。

その“デジタル信号”であるが、「PDM」(Pulse Duration Modulation)という方式で、「パルス幅変調」とも呼ばれる。複雑になるので立ち入った詳細は割愛するが、これは現在でもあらゆる分野、例えば携帯電話など、に用いられているデータ通信方式。やや乱暴な言い方だが、ルナの通信方式は携帯電話の“ご先祖様”ともいえる。

ついでに、ルナとは関係ないトリビアだが、パルス幅変調は車やバイクの(改造)LEDテールランプキットにも使われているのだとか(笑)。あの点減パターンでもコントロールしているのですかねぇ…?

最後に、アンテナについて。衛星には6本のアンテナが装着されており、各種データを送信するようになっていた。一方、地球ではこれを受信する設備が構築されたが、それは突貫工事に近いものであったと言われる。受信サイトはロシア南部・黒海沿岸のクリミア半島と、極東のカムチャッカ半島の2ヶ所に設営された。カムチャッカは、サブ受信所だった。

写真はクリミアに建てられたアンテナで、「ヘリカルアンテナ」と呼ばれる螺旋アンテナを16本植え並べたもの。面積は100m2であるというから、四角形の1辺は10mを越える(photo: thanks to Mr. Grahn)。

余談だが、ソ連の宇宙開発シーンでは、このヘリカルアンテナが随所に目立つ…ロシア連邦となった現在でもそうだ。昔から無線や長距離受信に興味のある筆者の注目の1つでもある。

このアンテナは線材を螺旋階段状に巻いたもので、超短波帯でよく用いられる。アマチュア無線家が用いるトランシーバーからタクシーなどといった業務無線に至るまで、身近でも幅広く利用されている。このアンテナの利点は、構造が簡単でゲイン(利得)が程よく稼げること、衛星の姿勢に関係なく安定した受信が得られること、などが挙げられる。電波には「位相」という要素があり、これがなかなか厄介なのだが、これを気にしなくてもよくなるのだ。

普通、衛星からの電波を受信するには“中華鍋”とよく言われる「パラボラアンテナ」が用いられる。ジョドレルバンク電波天文台は当時、世界最大のパラボラを有した。だが、ソ連がそれを用いなかったのはたぶん、彼らの大型パラボラ建設技術が未熟だったこと、そして、とにかく急いでいたことが事情だろう。

また、パラボラはハイゲインが稼げ、指向性もヘリカルより遙かに鋭いのだが、それが鋭すぎるというのも理由だったかもしれない。例えば、自身で衛星放送用のパラボラをベランダなどへ取り付けた経験のある方は、難儀した方が殆どではなかろうか。なかなかキレイな映像が映らず、家族と「右」「いや左」と皿を上下左右に振りながら調節する。相手である放送衛星は静止衛星で、方角は定まっているのだが、これはプロでもしばしば頭を抱える難作業…。

ところが彼らが狙う衛星は月へ向けて移動するのだ。それをパラボラで追尾するには、アンテナだけでなく、全体を動かす稼働システムにも技術が求められる。ヘリカルはそこまでシビアでなくてもまあまあのゲインが稼げるし、月までの距離であればそれでもなんとかなる。上の写真の台座を見ると、さほど精密とは思えない。

ただ、間に合わせの技術とはいえ、できる限りの努力が払われたのは間違いない。衛星からの電波を受信する際は、付近の施設や、あげくには黒海艦隊の無線設備まで電源をオフにさせられたという。勿論、ノイズを極力減らすためであった。

…これは考えてみれば面白い。あくまで軍用優先だったソ連宇宙開発が、軍用とは無縁の(そのような意味で“民間の”)ミッションに優先的につきあわされることになったのだ。

「無線を封鎖しろだと!?もし敵の攻撃があったらどうするのだ!」

提督が渋ったとしてもおかしくはないような気もするが…(?)

撮像装置

このミッションで最も肝心なパートである。月の裏を撮影するのみならず、超長距離から画像を送信するのも史上初なのだ。

ところで、画像を送る方法であるが、フィルムの上に撮影し、ネガの現像・定着・乾燥を行い、そうして得られた画像をスキャナ(光電管)で読み取り、地球に電送するというやり方が採用された。画像を送るのであればテレビカメラのように動画を送る方法もあるが、当時は受光素子の感度がフィルムよりも悪く、印画紙に焼き付けた写真をファクシミリのように読み取った方が確実だったのだ。

写真は、衛星に搭載された撮像装置で、「エニセイ」と名付けられたもの。これは500mm f/9.5と200mm f/5.6の2本のレンズを搭載し、両者は同時に撮影することができる。シャッタースピードは200分の1から800分の1秒までの4段階があり、連続的に切り替えながら撮影が行われる。

この装置はレニングラードのテレビジョン研究所(NII-380)で開発されたばかりの最新型で、撮影後に現像・定着、乾燥まで全自動でこなすスグレモノだった。

フィルムに関しては、面白い逸話が残っている。この装置に必要とされるフィルムは35mmの耐放射線フィルムであったが、性能の良いフィルムの開発に手こずっていたという。ある日、皆が頭を抱えているところへなかなかグッドなフィルムが持ち込まれたのだが、それは…米国の“スパイバルーン”が搭載していたものだったのだ!

米国は当時、西ヨーロッパからカメラを積んだ気球を打ち上げ、それで東ヨーロッパ〜ソ連領を空撮していた。気球は偏西風に乗って飛行し、タイマー起動で自動撮影を行い、後に回収されていた。回収場所はアラスカかカナダだったのだろうか?その辺はわからないが、やはりというか、ソ連領に不時着したものも多かったようである。当然ソ連は回収し、分析、保管していたのだった。

気球は高空を飛行していた訳だが、高空は放射線量が高い。それを意識して作られていたのかはわからないが、フィルムは放射線に対する耐久力に優れていたという。その特性を買ったソ連技術陣は、押収したこのフィルムをエニセイに搭載することにしたという。

米国が敵の領土を撮影しようとしたフィルムが、月に飛ばされ、その裏の撮影に使われようとしているとは!米国は想像すらしなかったに違いない。ソ連はソ連で、自分たちを隠し撮りしようとしていた敵国製のフィルムに全幅の信頼を置こうとしている…こんな滑稽な話はない。

この話は2000年8月、かつてコロリョフの側近の一人で、今なお「ソ連宇宙開発の生き証人」であるボリス・チェルトック氏が明らかにしたものという。

余談だが、この時、フィルム1つとはいえ、米国の技術力に見えない脅威と将来への不安を抱いたものがいなかったのか、筆者は興味がある…。

さて、撮影された画像は光電管でスキャンされ、デジタル信号に変換されて地球へ電送されるのだが、それを再現する装置が写真のものだ。この大型装置はやはり「エニセイ」と呼ばれていたが、電送モードに応じて「エニセイT」と「エニセイU」の2タイプから成る(ほぼ同型の装置が2セット並んでいるが、それぞれがTとUだろうか…?)。

これは再現された画像をフィルムに焼き付け、更に、その場での確認のために感熱紙に受信画像を再現することができた。ラックの上にはフィルムリールのようなものも見える。因みにエニセイTは高速モードで、解像度1000pix/lineでスキャンされたデータを毎秒50ラインで取得し、エニセイUは低速モードで、毎秒1.25ラインで取得できた。なお、1フレームあたりのスキャンは1000ライン。

この装置はアンテナの傍に仮設されたバラック小屋の中に持ち込まれたという。それは本当に小さな小屋で、技術者達は付近にテントを張ってそこで寝泊まりしたという。

半導体デバイス

写真を見ても明らかだが、衛星の全面に小さい太陽電池がびっしりと貼り付けられている。飛行中は機体に回転が与えられているためで、常に太陽光を受け発電を行うためである。生成された電力は搭載されたバッテリーに蓄電される仕組みにもなっていた。

太陽電池を備えた衛星は史上初であった。ただ、当時の太陽電池は低利得であった。

なお、全ての器機の総トランジスター化も図られた。これは画期的であったが、しかし、当時の半導体は生産における歩留まりも悪く動作も不安定であったため、先の太陽電池も含め、不安の一要素であったという。

最終テストに関しても、これまた面白い逸話が残っている。センサーと姿勢制御装置がきちんと連動するかをチェックするため、衛星がクレーンでつるされ、強力なサーチライトが当てられたという…その姿はさながら、ディスコのライトボールのようだったと関係者は語る(ちなみにソ連にはディスコが多く存在し、ロシアンディスコは娯楽の1つだったという)。

彼らは勿論、ライトの光をセンサーが拾うことを期待したが、当初うまくいかなかったという。「光が弱いんじゃないか?」ということで、衛星に近づけて照射しても、機体がホカホカする以外、何の反応もなかったという。

しばしの議論と調査の結果、「センサーの取り付けに問題があるのでは」ということで、それを修正したところ、ガスが吹き出したという…(その後、センサーがライトの波長には低感度であったことなども明らかになったが、現実の太陽光には問題なく作動することになる)。
 
以上のように新開発盛りだくさんの衛星は、最初の写真で示されたような円筒形に落ち着き、サイズは直径95cm、長さ1.3mで、重量は278.5キロ。直径は最も大きい部分は1.2mに達する。内部には0.2気圧の窒素ガスが封入されている。


1959年10月4日早朝、衛星を積んだR−7ロケットは轟音と共に上昇を始めた。バイコヌール宇宙基地を吹き抜ける秋風は凍えるように冷たい。そんな中、歴史的なミッションが始まった。

 「目標、月の裏側の撮影!米国の度肝を抜く!」

     

衛星は打ち上げ後、「ルナ3号」と名付けられた。この軌道はやや変わっている。上図はそれを示したもので、地球を固定した視点で、月は右下から左上へ向けて移動(地球の周囲を公転)していくように描かれている。そしてちょうど、月が右上へ来たときに衛星が接近する。

地球から月を見た先の方(図で言えば右上の先)に太陽があることに注意。

バイコヌールから打ち上げられたルナ3号は北極上空を通過し、月の南極側を目指す軌道に入る。月の南極を通過し、軌道を大きく曲げながら北極側へ抜け、打ち上げから3日後の10月7日、月面から約65000キロの地点で衛星のスピンを止め、写真撮影を開始する。撮影終了後、再びスピンを開始、衛星が地球に近づいたときに画像が電送される。

当然だが、英国のジョドレルバンク天文台にも軌道データが連絡され、追跡が依頼された。

打ち上げにはコロリョフや先述したチェルトックら技術首脳陣も立ち会い、無事に軌道に乗ったことが確認されると彼等はモスクワへの帰途についた。


歴史的な瞬間まで後1日と迫った6日早朝、チェルトックは金星探査機の製作プランを巡る会議の途中だったが、内線のベルに呼び出された。それはコロリョフからのもので、受話器の向こうの声は緊迫していた。

「チェルトック君、ちょっと来てくれ。書類は何もいらない。しかし今日は帰れないと思ってくれ…」

彼がコロリョフの執務室へ飛び込むと、コロリョフはジェット機を手配したところだった。そこでチェルトックは詳細を聞く。

「ルナとのコンタクトが非常に悪いのだ。信号がよく受け取れず、こちらからのシグナルも届いていないようなのだ。次の交信予定時間(モスクワ時間16時)までに、クリミアへ飛ぼうと思う。2台の車が玄関に待っている。そのうち1台に君が乗りたまえ。自宅へ帰り、宿泊の用意をして空港へ来るように。直ぐに。ジェットは12時(モスクワ時間)に離陸の予定だ。」

コロリョフは早朝、前日の交信記録をチェックしていた。前日は5回のコンタクトが図られたが、そのどれもが弱い信号だったのだ…送信機が設計出力を出していないのは明らかだった。しかも悪いことに、世界最大のパラボラを備えたジョドレルバンクが受信に失敗したのである!ジョドレルバンクはクリミアのにわか仕立てのアンテナより10倍以上の感度を持つ…コロリョフが焦ったのは当然のことだった。

彼はこの“強行軍”に全てを動員した。空軍、アエロフロート、クリミアの共産党支部それにソビエト幹部会、全てのつながりを駆使した。ジェットは当時ソ連で最新のツポレフ104が用意された。
 
…この時既に、彼の権力は強大だった!

駅や幹線道路など、交通の要衝には検問所があった。だがコロリョフらにとっては邪魔者以外、何者でもなかったはず…それを全て“顔パス”させるよう、手配したのか…?

彼らはクリミアに到着後、更にヘリ、車を乗り継いで現地入りした。党支部の幹部がちょっとした歓迎式を催そうとしたが、それらは全てキャンセルし、受信小屋へと一直線!彼の焦りは尋常ではなかったことが伺える。結局、モスクワから2時間半でバラックに到着したのだったが、これは驚異と言ってもいいだろう。

時は流れていく…焦るほどに遅くなる時の流れ…やがて、緊張の中で交信時間が来た。しかしそれは、皆の緊張を一気に解きほぐすものだった!

衛星からの信号は問題なく受信されたのだ。内部の器機にも問題がないことが確認されたといい、場は大きなため息に包まれただろう…コロリョフの笑みが思い浮かぶ。この間、ルナ3号は月の南極上空7900キロの地点を通過し、裏側へと回り込んだ。

一方、ジョドレルバンクも信号をキャッチしており、これもコロリョフらを安心させた。彼等は一連の交信が終了すると小屋を出て、煙草に火をつけたという…。その夜、コロリョフらは地元のホテルで1泊することになったが、チェックインは日が変わろうとする頃だった。彼は部下に、一切のアルコールを禁じた。翌朝6時出発厳守だったからである。各自が取った睡眠は、4時間程度だった。

だが、コロリョフは一睡もできなかった、かもしれない…。


翌7日未明、ルナ3号は写真の撮影を開始した。担当者が衛星からの「撮影開始」のシグナルを受信すると、その後は電力温存のため衛星の送信機のスイッチがスタンバイモードにセットされた。ルナは約40分間に渡る一連の撮影を終えると、月の北極上空を通過し、地球へ向かう軌道を辿り始めた。地球への送信は衛星が充分に近づいてからとされていた。

早朝、関係者達は興奮と緊張に包まれていた。何せ、初めて見る月の裏なのだ…誰もが歴史の瞬間に立ち会おうとしていたのだ。もう、焦るあまり待ちきれなくなったエンジニアの1人は、ルナに「画像送信」のコマンドを送った。感熱紙の上で機織り機の“飛びひ”のように左右に走るペンが音を立てる…しかし、なにも現れなかった。「何度も何度も、目をこらして眺めるがわからなかった」という証言が残っている。コロリョフはこの頃、まだホテルを出発していなかった。彼はそわそわと歩き回り、明らかにナーバスになっていたという。

ただ、どこの世界にも言ってはいけないことを言うヤツはいるもので、「画像は1枚も得られないですよ。放射線がフィルムをダメにしていると思います」と言い放った者がいた。コロリョフはしかし、冷静に堪えていたという…。


ついに、彼のイライラに終止符が打たれる時が来た。4度目のコンタクトで、感熱紙の上に現れた姿…それはノイズが多いものの、間違いなく月面、しかも裏側の姿だった!居合わせた関係者は皆、大騒ぎになった。人類史上、誰も見たことのない姿を、誰よりも早く、その場に居合わせた人間だけが見た瞬間だった。それは、史上どんな偉大な指導者も見たことのない姿だったのだ!

画像は40枚撮影されていたが、そのうち地上で受信されたのは12枚(一説には17枚)だった。そのうち35枚目に写っていたのが左の画像である。ただ、左側4分の1は普段見える表側の面であることに注意したい。これは裏側から表側に出現しようとしているときに撮影されたショットで、右4分の3が裏側ということになる。この時、月の裏側全面に太陽光が当たっていたため陰影が際だたず、全体としてのっぺりした感じになっているが、大きな特徴は確認できる。

ジョドレルバンクでも183.6MHzシグナルは受信されていたが、画像信号を取得することができなかった。これは後に、電波のバンド幅の設定が適切でなかったためということがわかったが、設定を間違えていなかったら、彼等も初めて月の裏を拝む人間になっていたはずだった…惜しい。

ところで、クリミアでお祭り騒ぎが起こっているとき、サブステーションだったカムチャッカ受信所はどうだったのであろうか?

そこはクリミアから何千キロも離れた、極東の果てだった。やはり即席のバラック小屋に受信設備が持ち込まれて、エンジニア達が陣取っていたのだったが、クリミアで最初の画像が受信される頃、まだカムチャッカではシグナルを捉えることはできなかった。ルナとの位置関係のためで、受信可能になるのは暫く後であった。

また、カムチャッカではルナ3号からの画像を視覚化するTV受像装置が備えられていた。

やがて、受信が開始された。だが、画面の上に浮かぶ映像はノイズ混じりのざらざらしたもので、月の形などなかった。だが、ルナが地球に近づき、シグナルが強くなるにつれ徐々に形を帯びてくる、シグナルを記録する磁気テープのリールがうなりを上げる。そしてそれを、固唾を呑んで見守るエンジニア達…。

エニセイは無骨な大型の装置で、現代のファックスやプリンタと比べたら性能も知れているし、見劣りするのは仕方がない。しかしその稼働シーンは、我々がお手軽に画像をやりとりする姿よりも遙かに格調高かったに違いない。

小屋には担当者以外立ち入り禁止だったが、そんな規則はどうでもよかった。なにせここには、口うるさいコロリョフ親方はいないのだ!我も我もと狭い小屋に押し寄せ、機械を取り囲む。誰もが、歴史の目撃者となるのだ…この瞬間を逃したら、一生悔いが残る。シャンパンやウォッカを準備していた者もいた、かもしれない。

と、そのとき、傍におかれたラウドスピーカーがブーンと音を立てた。マイクのスイッチが入ったのはわかったが、次の瞬間、そこから大声が発せられた。それはクリミアからの指示だった。

 「エニセイを高速モードに切り替えよ!」

一瞬、ギョッとしたものもいただろうか。「おぉう、怒られるかと思った!」などと呟いた者も、いただろうか?担当者は慌ててエニセイTへの切り替え作業に入った。

だがそれは、装置の底部に潜り込んで行わねばならないものだった。部屋は人で溢れ、非常にやりにくかったといわれている。

それからやや暫く…突然、感熱紙に、丸い形の映像が浮かび上がった…大きいもの…小さいもの…次々とはき出されるその画像は、紛れもなく月の裏だった!ノイズも少ない…沈黙が漂う…次の瞬間、人々は顔を見合わせ、部屋の中で大歓声があがった!肩をたたき合って喜ぶエンジニア達…興奮の中、涙を流す者、ウォッカを、シャンパンを回し飲みする者もいた、かもしれない。

やがてルナは交信可能範囲から外れた。地球の影に入ったのだったが、再び可能時間になっても受信することはできなかった。

その後二度と、ルナ3号からのシグナルが受信されることはなかった(脚の「補足」参照)。

ソ連政府は10月27日、月の裏側の写真を公式に発表した。世界中の新聞の一面を飾ったのはいうまでもない。そして、相変わらず得意げだったのは、ニキータ・フルシチョフだった…。

※補足

ルナ3号はその後、交信が回復し、10月18日まで画像の受信が可能で、同22日にコンタクトが途絶えたという情報もある。これはNASAのNSSDCマスターカタログに記載のものだが…この情報の出所は?米国やジョドレルバンクはその後も受信を続けおり、それに基づくものだろうか?

カムチャッカ受信所の出来事も資料によって異なるので、ここでは多少の推測を交えて表現してある(最後の18日に受信したのはカムチャッカ、と記す資料があり)。

右は2004年にカザフスタンで発行された切手。ルナ3号をモチーフにしたもので、現在バイコヌール宇宙基地を保有する同国では旧ソ連時代の宇宙開発は誇りの一部。



【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
Sven's Space Place  http://www.svengrahn.pp.se/
NASA NSSDC Space Science Data Center Master Catalog http://nssdc.gsfc.nasa.gov/
Jodrell Bank Observatory http://www.jb.man.ac.uk/
The Soviet Exploration of Venus http://www.mentallandscape.com/V_Venus.htm
Keldysh Institute of Applied Mathematics, Russian Academy of Sciences. http://www.kiam1.rssi.ru/
KAZPOST, Kazakhstan Postal service http://www.kazpost.kz/en/
“Как были получены первые фотографии обратной стороны Луны”,  НОВОСТИ КОСМОНАВТИКИ, 10, 2000.
“Anniversary of the Space Television”, Telesputnik Magazine, No.3(5) March, 1996.
“Lunar Exploration” by Paolo Ulivi, Springer Praxis, 2004
“Sputnik and the Soviet Space Challenge” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003