宇宙戦艦…?

ソユーズ11号の事故は、ある意味、ソ連の宇宙開発にとどめを刺した。アポロで失った威信を取り戻したはずの宇宙ステーション・サリュート1号の成功が、悲劇に終わったのだ。事故原因が空気漏れにあることに上層部は神経質になった。それはそもそも、クルーが宇宙服を着ていれば未然に防げたはずだったのだ。

振り返るとソ連の宇宙飛行士は、ガガーリンからテレシコワまでの、ボストーク宇宙船に乗り込んだ最初の6人は宇宙服を着用していた。これは万一船内の空気が抜けた場合に備えての用心であったが、その後、ウォスホート2号の場合(開発史3参照)を除き着用していなかった。宇宙船の気密性に自信があったからで、わざわざ着る必要はないという思想があったからである。

ただ、宇宙服の必要性を認識させるような非常事態がかつて起こっている。ソユーズ5号で飛行したボリス・ボリノフがその例で、大気圏突入の際、宇宙船が空気漏れ寸前の事態に遭遇したのだった(開発史11参照)。

ところがそれは重要視されなかったようである。「生きて帰ったからそれでよし」とでも流されてしまったか…?

現場で宇宙開発を主導するワシーリ・ミーシンは、宇宙服を再導入することに消極的だった。宇宙船の気密性をより確実にすれば済むことと考え、また、宇宙服着用となると、3人が乗り込めなくなるという問題もあった。一般には「服」というが、勿論、ただの服ではない。クルー1人を完全密閉する「気密室」であり、着用のまま排泄もできる「個室」でもあり、それを機能させるための周辺機器も考慮に入れると、もはや「宇宙船の一部」に等しい。導入すると、定員2名とならざるを得ないのだ。

だが、上層部はミーシンに対し、「今後、宇宙服の着用なしに宇宙船を飛ばしてはならない」と命令を下した。発射時と帰還時は着用が義務づけられ、そのための服(船内用宇宙服)の開発と、宇宙船のデザイン変更が行われた。勿論、定員は2名である。

因みに、往路と帰路における宇宙服着用は現在も守られており、ロシアのみならず米国のシャトルでも、また、先頃成功した中国の有人宇宙船でも同様である(写真は現在のクルー。これからソユーズに乗り込み、国際宇宙ステーションに向かうところ)。

なお、サリュート1号は結局、ソユーズ11号の帰還から約2ヶ月後の10月11日、地上からの指令で大気圏に突入、太平洋の藻屑と消えた。11号の事故後、全てのプログラムがストップし、その後の再稼働が未定になったためであった。

ちなみに、直前で交代させられたクルー(レオーノフ、クバソフ、コローディン)だが、事故の第一報を聞いた際、レオーノフはショックにうちひしがれ、コローディンは放心状態だったという。彼は冷戦終結後この件を問われた際も、「あの時飛んでいたのは、私の筈だった…」と呟いている(なお、彼はミーシンを罵倒した(開発史13参照)のが災いしたのか、その後結局、宇宙を飛ぶことはなかった)。

クバソフは、自身の肺の異常によるクルー交代が命拾いにつながったことを信じられなかった。しかも後日、なんとそれが誤診だった事が判明している。


ところで、旧ソ連はサリュートを1971年から82年までの約10年間に、計7機打ち上げた(失敗機=「サリュート」という名を与えられなかった同型機、を除く)。ここで、それらをごく簡単にまとめておこう。

なお、7機のサリュートのうち、「アルマズ」とサブネームが付けられているものが3機ある。これらは旧ソ連時代には公表されなかった、軍用目的のサリュート。そもそもアルマズはウラジミール・チェロメイというデザイナーが軍用に設計したもので、それをミーシンらが横取りし、科学実験をメインとしたサリュートに改造してしまったという経緯がある(開発史13参照)。したがって、軍用の宇宙ステーションであれば本来の「アルマズ」と名付けられるべきであったが、米国を始めとする西側諸国に、「別のタイプのステーション?」と勘ぐられるのを嫌い、「サリュート」が踏襲されてしまったという。当然、「本家の名付け親」であるチェロメイはひどく落胆したと言われる。アルマズ、という名が彼の存命中、光を受けたことはなかった。

当然ではあるが、アルマズには軍用の装備も施されていた。地上を高精度で撮影するカメラといった各種偵察機器、あげくには、敵国の飛行体を攻撃するための機関砲も装備されていた(サリュート3号(アルマズ2)・試験的にではあるが)。また、アルマズに向けて飛び立つ飛行士達のミッション内容も、他のサリュートと異なり、詳細は明らかにされなかった。

ここで、各サリュートの特徴を簡単に比較してみよう。科学用サリュートと、アルマズ・軍事用サリュートの違いは一目瞭然である。

< サリュート1号 >

・全長15.8m, 最大直径4.15m, 居住空間90m3
・重量18.9トン.
・ 推力417kgメインエンジン1, 411kgバックアップエンジン1, 10kg小型エンジン4(ソユーズ用を流用)
・太陽電池パネル10m×4, ドッキングポート1
・エアロック(船外へ出るための小部屋)1
・微少隕石検知パネル1
・テスト用各種新機材(イオンセンサー、姿勢制御用ジャイロ、自動ドッキング装置など)
・カセットデッキ、スケッチブック、書籍、娯楽品など
・他、食料品や水、寝袋、簡易トイレなど

飛行期間:4.19.1971 - 10.11.1971

< サリュート2号(アルマズ1) >

1973年4月3日、サリュート運行再開を懸けて打ち上げられたサリュート2号であったが、軌道に乗った直後から安定性を失い、“漂流”を始めた。結局、元の状態を取り戻すことができず、5月28日、大気圏に再突入。

事の詳細について、1992年、宇宙飛行士の1人が語っている。それによると、軌道に到達した直後、船内で火災が発生し、その後船内の空気が抜けてしまったという(壁に穴でもあいたか?)。装置の動作も不安定になり、4月14日に機能ダウンしたとされる。

サリュート2号は最初のアルマズであった。

< サリュート3号(アルマズ2) >

・全長14.55m, 最大直径4.15m, 居住空間90m3
・重量18.9トン.
・推力400kgメインエンジン2(アルマズ専用に開発されたもの)
・太陽電池パネル2, ドッキングポート1
・エアロック1
・解像度10mの地上観測用カメラ(中央に搭載・偵察や地質調査用)
 フィルム現像用のDPE機材(撮影から30分以内に視覚化)
・小型カプセル(アルマズの運用終了時に写真を積み、エアロックから放
 出され、地上に帰還する無人カプセル)
・対空機関砲Nudelmann NR-23 23mm砲 1(試射用)
・各種生活必需品(簡易シャワーも搭載)
・マグネット式のチェスや書籍、テープレコーダー、運動器具(ルームランナーなど)とトレーナー
・水還元装置(水蒸気を水分に変換、テスト用)

飛行期間:6.24.1974 - 1.24.1975

サリュート3号には、ソユーズ14号で向かったパベル・ポポビッチとユーリ・アチューキンの両飛行士のみが乗り込み、各種新装備のテストや、地上の撮影などを行った。その後、ソユーズ15号で別の2人(レフ・デメンおよびゲナジ・サラファノフの両飛行士)が向かったが、ソユーズのガイダンスシステムの故障でドッキングに失敗し、あえなく帰還。以後の運用は打ち切られた。

唯一の武装である機関砲は、勿論、敵の衛星を狙う目的で搭載されていた(宇宙戦艦?(笑))。地球に背を向ける形で試射が行われ、非常に効果的であった(ダミーの衛星に命中させることができた)という報告がある一方、船体の振動が激しく、到底使い物にならない事が判明したとも伝えられている。試射は後のアルマズでは行われていないようで、本当に“効果的”であったのか、ダミーの衛星に命中できたのか、甚だ疑問が残る。

船体の外形も長年極秘にされ、写真が公になったのも近年のことである(右写真で、船体の左底部に装着された金属棒が機関砲)。

また、運動器具がそろえてあったのも画期的だった。クルーらは1日2時間の運動をこなしたおかげで、無重力下での筋力減退を最小限に抑えることができた。大きな成果である。

< サリュート4号 >

・全長15.8m, 最大直径4.15m, 居住空間90m3
・重量18.9トン.
・エンジン:サリュート1と同型
・太陽電池パネル3(発電量4kW), ドッキングポート1
・テレプリンター(無線Fax(或いはRTTY)か?)
・小型掃除機
・25cm 太陽望遠鏡(含・X線及び赤外線望遠鏡)
・植物育成ボックス(温室)
・水還元装置(水蒸気を水分に変換、テスト用)
・微少隕石観測装置
・新型のナビゲーションシステム
・他、地上撮影用のカメラKATE140/500、上層大気観測装置など
・各種生活必需品
・各種娯楽や運動器具(ルームランナーなど)とトレーナー。自転車型運動器具には発電機を搭載。

飛行期間:12.26.1974 - 2.2.1977

サリュート4号は天体観測など科学観測に特化しているため、大気の影響をできるだけ受けないよう、通常よりも高い高度(地上350キロ)に投入された。乗り込んだのはソユーズ17、18号の飛行士(各2名ずつ)の計4人。ソユーズ17号のクルーらは太陽望遠鏡の主鏡が傷んでいることを発見した(姿勢制御がうまくいかず、減光板を通さず太陽光を直接受けた事が判明)が、再コーティングすることに成功した。

18号のクルーは17号クルーの実験を引き継いだ上、更に90の科学実験を行った。なお、彼らの帰還後、資材や食料などを積んだ無人のソユーズ20号が(無人状態の)サリュート4号に送られ、ドッキングテストなどが行われた。これは後に「プログレス」と呼ばれ、現在まで使われることになる無人補給船のテスト機であった。

なお、75年4月5日にヴァシーリ・ラゼーレフ、オレグ・マカロフの両飛行士を乗せて打ち上げられたソユーズは、打ち上げロケットのコア・セクション(第2段)の切り離しに失敗、そのままでは加速不十分で軌道に到達しないため、やむなく飛行打ち切りとなった。彼らは僅か20分足らずの弾道飛行(いうなら、超特大アーチ)を行っただけでカプセルを切り離し、シベリアに着地した。

失敗飛行だったため、「ソユーズ〜号」という正式名称は付与されていない。

< サリュート5号(アルマズ3) >

・全長14.55m, 最大直径4.15m, 居住空間100m3
・重量19トン.
・他、サリュート3とほぼ同様の仕様

飛行期間:6.22.1976-8.8.1977

サリュート5号は同3号とほぼ同じ仕様の、軍用目的のアルマズ・ステーション。船体中央に地上を撮影するための大型カメラ“Agat”が据えられ、撮影から30分以内に現像、焼き付けまで完了する。図はアルマズのカットアウェイであるが、中央に見える黄銅色をした筒状のものがカメラ。周辺機器まで含めるとかなりの空間占有率で、しかも、至る所に生活物資が詰め込まれており、クルーはかなり狭苦しい居住性を強いられていたのではないか。

また、右端に見える“足のないカメムシ”のようなものは地上へ写真をまとめて送り返す小型カプセル。サリュート3号から放出されたカプセルは不具合のため地上へ激突した(中の写真は無事)が、5号から放出されたそれは予定通りの帰還をした。1993年、このカプセルがオークションに出され、現在は米国にある。

余談だが、機関砲が同機にも搭載されていたのかは、わからない。

(写真はカメラコントロールパネル。「こんなに必要なのだろうか」と思わせられるほどボタンが多くて旧式の感は否めないが、整然と配置されて洗練された雰囲気はある。当時のソ連では最新だったのだろう)。


サリュート5号へ搭乗したのはソユーズ21号で向かったボリス・ボリノフ及びビタリ・ゾーロボフの両飛行士、ソユーズ24号のビクトル・ゴルバチコ及びユーリ・グラズコフ両飛行士の、計4名。なお、ソユーズ23号のヤチェスラフ・ズードフ及びワレリー・ロズデストベンスキー両飛行士は、ソユーズのドッキングがうまくいかず、地上に帰還した。

なお、ソユーズ21号に搭乗したボリノフ、ゾーロボフ両飛行士は、予定を大幅に繰り上げて帰還した。クルーらの不仲が原因では、などという憶測が飛んだが、実は燃料系に亀裂が入り、そこから気化したガスのために彼らの体調に変異が生じたためであったことが、後に明らかになった。24号のクルーらはサリュート到着後、ガスマスクを装着して移乗、エアの状態チェックを行っている(結果は良好で、ミッションの続行は可能と判断された)。他にも、現像液などの化学薬品がエアを汚染していたという話もある。

様々なテストが行われたが、軍用としてのステーションは結局、コストパフォーマンスが悪いと結論付けられた。その後、軍事用の有人ステーションは投入されていない。

< サリュート6号 >

・全長15.8m, 最大直径4.15m, 居住空間90m3
・重量19.8トン.
・推力300kgメインエンジン2、推力14kg小型姿勢制御エンジン14
・太陽電池パネル3(発電量4〜5kW), ドッキングポート2
・ジャイロ、イオンセンサー、太陽センサー、六分儀など、各種姿勢制御用装置を搭載し、集中制御(略称
 “SOUD”システム)
・各種天体観測装置(含、X線・ガンマ線望遠鏡)
・各種科学実験設備
・生活必需品などは、これまでのサリュートを踏襲
・外観はサリュート4とほぼ同様

飛行期間:9.29.1977 - 7.29.1982

サリュート1,3号が「第一世代」のステーションとすると、6号(及び7号)は「第二世代」のステーション。最大の相違点は、ドッキングポートが2つになったことで、つまり、クルーらの“車”であるソユーズ宇宙船以外に、別にもう一隻接舷することができる。この一隻は別のソユーズでもよいが、彼らが選んだのは“補給トラック”であった。新開発の補給宇宙船「プログレス」が定期的に送られることで、同一のクルーらが極めて長期にわたり生活可能となった。

電力供給パートも大きく改良されている…太陽電池にはモーターと太陽センサーが取り付けられ、常にパネルを太陽へ向けておける。セル自体の効率もあがり、結果、電力の大幅増と安定供給が可能となった。これが、多種多様な科学実験の同時遂行を実現した。

長期宇宙滞在を行ったロシア人クルーは6組。1978年からは「インターコスモス」ミッションが始まり、ソ連以外の東欧諸国の飛行士達も搭乗(短期の、いわば“ホームステイ”)するようになった。6号のミッションは長く複雑なので、詳細をここでは記さない。

なお、1980年11月27日に打ち上げられたソユーズT-3号には、3人が搭乗していた。“ソユーズT”シリーズの宇宙船はそれまでのソユーズの改良型で、1971年のソユーズ11号事故以来、初の3人乗りソユーズ。このT-3号以降、3人乗りが復活した(勿論、3人とも宇宙服を着用している)。

< サリュート7号 >

殆どのスペックがサリュート6号と同じ。相違点は、

・居住環境が6号より改善されている。例えば調理用のホットプレートなどが備わった、などである。
・バクテリアや細菌などを殺菌するための、太陽光線(紫外線)を取り入れる窓が備えられた。使用しない時は
 微少隕石の衝突・貫通を防ぐためのシールドが被せられている。
・改良型運動器具の設置
・改良型X線望遠鏡を搭載
…など。

飛行期間:4.19.1982 - 2.7.1991

サリュート7号は6号の後継機であり、仕様に殆ど変化はない。約9年間にわたり運用されたステーション。有人飛行は「ミール」がうち上がる1986年まで行われ、その後、大気圏へ再突入する91年まで飛行を続けた。長期滞在クルーは6組で、多くの実験と経験を積み、それらは後のミール運用の礎となった(ミールで問題となった機器の老朽化と故障、エアの汚染などは既に、サリュートで経験されていた)。7号は6号と同様、多くのミッションがあるので詳細は記さないが、いくつかのエピソードを拾ってみよう。

1982年6月15日、サリュート7号第1次クルーとして滞在していたワレンティン・レベーデフ飛行士は就寝中、尿意をもよおし目が覚めたためトイレへ向かったところ、尿を溜めておくタンクが「満杯」を示すランプが点灯しているのに気付いた。「これが自分の家だったら、庭先にでるのだが」と彼は日記に残しているが、ここは宇宙船。仕方なく、タンクを抜き取る作業が完了するまでの約1時間、ガマンするハメとなった。

彼はまた、同日、思い違いで500リットルの水を捨ててしまうというミスを犯している。

6月30日、レベーデフと同乗者のアナトリー・ベレゼボイ飛行士は2時間半にわたる船外活動を行い、船外に取り付けてあった試料を交換したり、また、地球の美しさに見とれたりした。

船内に戻って宇宙服をチェックしていた際、レベーデフは自身のヘルメットに、長さ2センチに達する凹みと、金属の切れ端が引っかかっているのを見つけた。本人は気付かなかったようだが、何かがぶつかったために生じたものであった。

ヘルメットは2重メタル層構造になっており、日記に「2重層になっていて助かったぜ…」と安堵の意を記している。これが貫通、もしくは亀裂を生じていたら、彼の命は無かったに違いない。


1983年6月27日、第2次クルーらは窓ガラスに衝撃を感じ、跡に4ミリ径の小さな窪みが生じているのを見つけた。かろうじて貫通は免れていた。この時期は毎年、みずがめ座流星群が活発なことから、降り注ぐ微少隕石の1つ、あるいは、軌道上のデブリ(宇宙ゴミ)が衝突したのだろうという結論がなされた。スプートニク1号が打ち上げられてからまもなく30年という当時、衛星やロケットの残骸は既に相当量、軌道上に散らばっていたに違いない(先のレベーデフのヘルメットにぶつかったのも、デブリ?)。


1983年9月26日、サリュートへ向かうべくソユーズT-10号へ乗り込んでいたのは、ウラジミール・チトフ及びゲンナージ・ストレカロフの両飛行士であった。彼らは発射台に設置された宇宙船に乗り込み、音楽などを聴きながら発射を待っていた。

打ち上げがいよいよ間近になり、ロケットへ燃料を充填するパイプが切り離された。ところがその際、こぼれだした燃料が発射台にまき散らされ、何らかの火花が引火、火災が発生した。ロケットの爆発は決定的になった時、先端に装着されていた緊急脱出ロケットが起動、2人の乗った宇宙船だけを抱えて猛スピードで飛び上がった。直後、大爆発が起こったが、間一髪で助かった。


1985年2月、無人状態で飛行していた7号とのコンタクトが突然、途絶えた。3月2日、共産党機関紙『プラウダ』は「サリュート7号における全てのミッションは完遂された。現在ステーションは機能を休止し、自動モードで飛行を続けている」と記事を載せた。

だがこの「完遂された」という声明とは裏腹に、当局は7号の復旧を決定していた。サリュートを甦らせるべく向かったのはウラジミール・ドゥザニベコフ及びビクトル・サビニュークの両飛行士で、ソユーズT-13号で6月6日に打ち上げられた。

サリュートへ近づくと、太陽電池パネルが勝手な方向を向いているのが目に入った。耐熱シートは太陽光で色あせ、傷んでいた。その姿は難破船か、はたまた幽霊船か…

ドッキング後、中に入る前、サリュート内にまだエアが存在することを確認、そのサンプルを注意深く採取、検査した。その結果、船内は非常に冷え切っているものの、呼吸には差し支えないことがわかった(写真:防寒着を着込んで作業に励む2人)。

着込んだ彼らが中に入ると、まるで冷蔵庫のようにびっしりと霜がはった状態だった(写真右下)。寒さと戦いながら最初に行なわれたのは、電力の回復だった。備えられた蓄電池は全てアガっており、充電が必要だった。

彼らはソユーズの姿勢制御エンジンでサリュート全体を回転させ、太陽電池パネルを太陽の方へ向けた。それからゆっくりと、ステーション全体のリカバリーを行った…。

数度の船外活動を含む、何日にも渡る、気の遠くなるような作業の結果、サリュート7号は機能を回復した。この活動は、死んだ船を見事に生き返らせた偉業として、今なお称えられている。

1986年6月25日、第6次クルーとしてサリュート7号に搭乗していたレオニード・キジム及びウラジミール・ソロビヨフ両飛行士は、ソユーズT-15宇宙船に乗り込み、サリュートを離れた。彼らが最後にサリュートに住んだ人間となった。期間は51日間。

ただ、両名はまっすぐ地上へ帰らなかった。同年2月19日に打ち上げられていた新型宇宙ステーション「ミール」に乗り込んだのである。この“寄り道”は51日間に及び、彼らの宇宙滞在は移動時間も含め、通算124日に上った(なお、ミールが打ち上がると、サリュートとミールの間を何度か往復することがあった)。

サリュートに搭乗した飛行士達の勇敢な姿はキリがない。知れば知るほど、宇宙長期滞在に関するロシア人のノウハウが米国を圧倒しているのを痛感させられる。中にはハラハラさせるものもあるのだが、次号ではそれらのいくつかをより詳しくご紹介しよう。

【Reference】どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Encyclopedia Astronautica (c)Mark Wade http://www.astronautix.com/
“Soyuz” by Rex D. Hall & David J. Shayler, Springer Praxis, 2003
“The Soviet Space Race with Apollo” by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Disasters and Accident in Manned Spaceflight” by David J. Shayler, Springer Praxis, 2000
“Mir Hardware Heritage” by David S.F. Portree, NASA Reference Publication 1357, 1995