消された男たち

“ボンダレンコ空軍大尉の遺族に対し今後、必要なものは全て供給することを命ずる”
                 … 直令・ソ連国防大臣R. マリノフスキー, 4/16, 1961, [最高機密]

開発史(8)にて、訓練中に火災で死亡したワレンティン・ボンダレンコをご紹介した。彼は米ソ合わせた宇宙開発史上、初の犠牲者であるが、彼の存在が公にされたのは、ゴルバチョフ書記長のグラスノスチ(情報公開)政策が吹き荒れようとしていた1986年の事だった。旧ソ連を支えていた社会主義体制の重要なファクターに「自画自賛」がある。栄光を成し遂げ、それに“自己陶酔”する…それが社会主義の勝利を意味し、国民と同盟国の結束を固め、と同時に、資本主義社会へ唾することでもあった。

だが反面、それは「常勝」が強いられることをも意味した。それ故、数々のミッションにおける事故等、失敗の類は全て闇へ葬り去れてきた。

だが、闇へ葬るといっても、情報は漏れてくるものである。それらは「うわさ」となり、語り継がれるうちに、どこまでが、何が真実なのか曖昧になり、多くのでたらめの中に真実が埋もれているというような、まるでネットの掲示板のごときものとして長年語り継がれてきた。そして、真実が一気に噴き出したのは、ゴルバチョフが書記長になり、改革を始めてからの80年代後半である。

今回は、そのような「消された男たち」に光を当ててみる。

ボンダレンコはソ連で最初に選抜された飛行士20人グループの1人で、最年少でもあった(写真)。酸素濃度を上げた気密室での火災で犠牲になったのであるが、実は1967年、米国のアポロ1号で同様の火災が発生し、3人が犠牲となっている。

彼の名、そして顔写真は、1986年まで一切、公になることはなかった。ただ、80年代前半、ソ連から亡命した医者などの中に「気密室の火災で死亡したボンディ(もしくはボイチェンコ)という青年がいる」「24歳の空軍将校が全身大やけどで運ばれてきた。どうしようもなかった」と証言する者がいたため、ぼんやりとではあるが、そのような出来事があったことは間違いないと見られていた。

なお、彼の存在は闇へ消されたが、遺族には手厚い保護が与えられた…冒頭の一文は、当時の国防大臣の直令によるものである(因みに、彼の息子は後に空軍兵士となり、またその息子、いうなら孫は、ワレンティンと名付けられている)。

1991年、彼の名は月のクレーターの1つとなった。

この事故が、直後に公開されていたら、米国での事故は未然に防げたかも知れない、とみる歴史家も多い。


右の写真は1961年、ガガーリンが初飛行を成し遂げた直後に撮られた有名な集合写真(開発史(8)参照)の、別のバージョンである。当時、写真は複数枚撮られ、そのうちの1枚という。前列左から2番目がガガーリン、その右隣がおなじみ、コロリョフである。

ところが、右の写真には“更に別の”バージョンが存在する。右下がそうだが、不気味な違いは直ぐにおわかり頂けるだろう。そう、男が1人、いないのだ。エアブラシで丁寧に塗りつぶされ、その上から背景を書き加えることで抹消されている。CGなどない当時、ここまで丁寧に、完璧に消し去られているのが怖い。

彼はむしろ、「最初からいなかった」ことにされたといえる。

ソ連の宇宙開発現場を最初に体系的に纏め上げたのは、ルポライターで作家の米国人、ジェームス・オバーグ氏である。氏は1981年には発表した著書「Red Star in Orbit」で、現場の裏側に流れる「うわさ」についても独自の調査に基づいた結果を報告している。

彼の知人であったアーサー・クラーク(…映画「2001年」等で知られるSF界の巨匠)はその翌年、「Red Star」を携えてモスクワを訪問、人類初の宇宙遊泳(開発史(3)参照)を成し遂げたレオーノフ飛行士と会見し、その際、書物を彼に見せたという。「Red Star」には「男」が消える前と後、2枚の写真も記載されていたが、その部分に関し、レオーノフは不快な表情を浮かべたという。勿論、触れられたくない部分を目の当たりにさせられたからだ。

当時既に、レオーノフ以外にも、ロシアの宇宙関係者たちはネリューボフやボンダレンコといった男たちの運命は知っていたが、公の場で語ることは決して許されなかった。ガガーリンを始めとして、多くの飛行士たちは、宇宙を飛べなかった仲間のことを胸の奥深くに抱いたまま、数々のミッションに携わってきたのだという。

勝利の栄光を優先する国家の意思の下では、個人の行動は厳しく制限された…これが、社会主義体制の怖しいところである。


消えた男の名を、グリゴリー・ネリューボフという(既にこの男が誰なのかを言い当てていた方は、過去の連載の隅々まで目を通していますね(笑))。開発史(8)でもご紹介したが、彼は非常に優秀なパイロットだった。ここで、内容が一部重複するが、なぜ彼は消されてしまったのか、簡潔にまとめてみよう。

現在のウクライナ・クリミヤ地方に育った彼は高等空軍学校を卒業後、ミグ戦闘機のパイロットとして黒海艦隊と共に行動していた。頭脳も運動能力も非常に優秀で、最初に選抜された20人の中でもトップを争っていたと言われる。当然ながら、人類初の宇宙飛行士へ一番近い男だった訳だが、彼には1つだけ問題点があった。

それは、性格だった。

彼は自身の能力を得意げに語り、自慢するクセがあった。まあ、そのような気持ちは誰にでもあるとは思うが、度が過ぎたようである。事あるごとに、自分が如何に優れているか、飛行士として適切であるか、ということを"宣伝"していた。また、いわゆる「ゴーイング・マイ・ウェイ」であったという…とにかく、自分がトップで、自分が中心でないと気が済まない人間であったようだ。

コロリョフや、訓練を監督していたカマーニンは、彼のその能力を認めつつも、態度が気に入らなかったようである。「誰を一番手にするか?」ガガーリン、チトフ、ネリューボフ…選抜最後の、いわゆるファイナリストに残った彼だったが、カマーニンはまだしも、コロリョフには始めから、彼は眼中になかったと私は思う。コロリョフは、横柄な態度の人物は特に好まなかった。しかし、彼の能力は間違いないものであった故、「近いうちに宇宙を飛ぶことになろう」と見る関係者も多かったようである。

ところが。その性格が災いとなり、ついに、チャンスを自分で潰してしまうような騒動を起こしてしまったのである。


1963年3月27日夕刻。ネリューボフは、トレーニングチーム同期のアニキエフ及びフィラテフの3人で、モスクワで夕食の後、訓練センターへ戻ろうとしていた。彼らは週末の休暇から帰るところだったが、駅のプラットホームで憲兵とケンカをしてしまったのだ。当時彼らは酔った状態で、身分証明書を持たずに、兵士らをダマして検問所を通り抜けようとしたという。ひょっとしたら、パンチも飛んだ、かもしれない。

  「オレたちを誰だと思っている!宇宙飛行士だぞ!」

そんなことを叫んだ、かもしれない。特にネリューボフ、彼の自負心は容赦なかったろう。だが、憲兵たちは信じようとはしなかった。

  「ワハハ、何バカなことを言ってやがる、酔っぱらい野郎!」

そんな応酬があった、かもしれない。暫し後、3人はねじ伏せられ、取り押さえられた。

しかし、当然だが、彼らの主張は正しかった。上層部への照会で3人が確かに訓練中の飛行士だとわかると、憲兵たちは態度を変えた。これ以上面倒なことにならないことを望んだか?何せ、国家の英雄となろうとしている連中だ。

  「この一件は、なかったことにしてやる。全て忘れてやる。」

だが、憲兵の1人が、飛行士側の謝罪を要求した(このことから、先に手を出したのは3人だということが伺える)。この要求に対し、アニキエフとフィラテフは素直に応じた。だが…ネリューボフは拒否したのだった!

どのような拒否の仕方をしたのかはわからないが、つまらない強情とはこのことだろう。憲兵側は一部始終をまとめ、ファイリングしてしまったのだ。わかりやすく言うなら、「書類送検」である。

事態はすぐさま、カマーニンへも伝わった。ことの始終を知った彼は憤り、3人を訓練グループから外してしまった。「あまりにも公に対して無責任」というのが理由だった。彼らは、シベリアの空軍基地へ配置換えさせられた。

ちなみに、他のメンバーたちも憤慨したという…ネリューボフのあまりの「うぬぼれ」に対してである。

ネリューボフは、極東・ウラジオストク市近郊の空軍基地へ移された。ウラジオストクは日本海に面した軍港都市。冷戦時代は日本・米国を睨んだ極東アジアの最前線であったが、モスクワから見ると遙か東の田舎町。何せウラジオストクで子供が学校へ通う頃、モスクワっ子は夕焼けを見ながら家へ帰るのだ。戦略上の重要拠点とはいえ、モスクワ人から見れば田舎者は間違いない。

そこで彼は、自分がかつては宇宙飛行士の1人であったことを自慢したと言われる。しかし哀しいことに、先の憲兵たちのように、にわかに信じる者はいなかった。第一、ネリューボフが飛行士だったということを証明してくれる者がいない。飛行士グループのメンバーはソ連国内でも公にはされておらず、宇宙船に乗り、打ち上げられて初めて、公になるようなものだった。

自尊心過剰のネリューボフにとって、これほど苦しく、悔しいことはなかっただろう。かつて、ガガーリンやチトフと、「史上初の飛行士の座」を争ったのだ。そのことも兵士たちに語った、かもしれない。しかし、誰も信じない。

そして、それに追い打ちをかけたのが、かつて一緒に訓練をしていた仲間たちが、続々と宇宙を飛び始めたということだった。自分よりも成績が悪かった者たちが喝采を浴び、更に、自分の知らない、新たに選抜された「後輩」たちの名前もある。極東の片田舎で、報道を通して彼らの名前を聞く度に、深い絶望に陥るのだった。飲む酒の量も、次第に増えていった。

晩年、彼は完全に酒に溺れ、ひどい鬱の状態だった。1966年2月18日、日もまだ出ぬ早朝、酩酊した状態で彼が立っていたのは、ウラジオストクの北西にある、イポリトフカという駅の傍の線路だった。

  「オレは…宇宙飛行士だぞーっ!」

そう叫んだかどうかはわからない。間もなく、列車が全てを消し去った…それが事故だったのか、或いは、自殺だったのか、正確なところは誰も知らない。

冷戦時代、「消えた飛行士」に関して、オランダのジャーナリストがレオーノフに電話インタビューをした際、「1962もしくは63年…正確には覚えていないが…彼は遠心加速訓練中に胃に障害が生じたため、チームを外れた」という返事が返ってきたという。レオーノフのいう「彼」は勿論、ネリューボフのことだ。また同時に、アニキエフに関する説明として「体調の問題でチームを外れた」とレオーノフは語った。

…だがこれらは結局、でっち上げだったということになる。

なお、他にも突如消えてしまった飛行士達がいるが、彼らは訓練中のけが等でチームを外れたり、また、訓練とは関係のない事故や病気でこの世を去っていたことが、冷戦後明らかになっている。


ところで、「命を落とした影の飛行士」達のうわさも多かった。ガガーリンが飛行する前に実は、人間を宇宙船に乗せて打ち上げていた、というものも多い。いくつかご紹介すると…

  ・レドフスキーという飛行士が1957年、弾道飛行の際に死亡

  ・シボーリンという飛行士が翌年、同様の飛行で死亡

  ・ミトコフという飛行士が1959年、同様の飛行で死亡

  ・1960年5月、飛行士を乗せた宇宙船が軌道を外れ帰れなくなった

  ・1961年2月4日、謎のソ連宇宙船から、心臓の拍動を傍受

  ・1961年4月、イリュージン飛行士が地球を周回するも、大気圏突入に失敗、重傷

…などなど。史上初の女性宇宙飛行士はテレシコワだが(開発史(1)参照)、それ以外に、宇宙から帰れなくなって命を落とした女性飛行士がいる、というものもある。彼女が発信するSOSコールを傍受し、録音したものという音声記録もある。

先にご紹介したジェームス・オバーグ氏はこれらについても根拠や痕跡を徹底的に追及したというが、結局、どれもフェイクと結論づけた。上のリストの最後にあるイリュージンという人物は、実は今も存命の、実在の人物。当時重傷を負ったのは間違いなかったが、それは宇宙船事故などではなく、単なる自動車事故だったという。

ただ、まだ公に出ていない、“訓練中に”命を落とした飛行士達がいる可能性は、高いという…。(この号、完)


  ☆この連載について☆

アメリカの宇宙開発は原則、公開されてきましたから各ミッションの背景は広く知られていますが、旧ソ連に関しては、彼らは数々の「世界初」を成し遂げたにもかかわらず、その秘密主義の故、計画の裏側は殆ど謎のベールに包まれてきました。


この連載では著者の私がいろいろ調べた結果を、簡潔にまとめています。これまでの連載を振り返ってみますと、

(1)「ヤー・チャイカ!」
   史上初の女性宇宙飛行士テレシコワの物語


(2)「サーカス・サーカス」
   ソ連指導部の、現場を無視した無茶な命令


(3)「どこまでも運のいい男」
   史上初の宇宙遊泳と、隠されてきた大惨事寸前の数々


(4)「メチータ・男の夢(上)」
   宇宙開発を主導したセルゲイ・コロリョフの物語


(5)「メチータ・男の夢(下)」
   コロリョフの生涯と、彼の追った、果てしない夢


(6)「男の友情」
   計画優先が引き起こした悲劇と彼らの人間模様


(7)「ブラック・マンデー」
   宇宙飛行士は如何に選抜されたのか?


(8)「癒し系の男」
   史上初の宇宙飛行士・ガガーリンが選ばれた理由


(9)「親父の背中」
   初めて人間が宇宙を飛んだ日


連載(6)でコロリョフ亡き後の物語がスタートしていますが、(7)〜(9)にて、それまでの区切りという意味で、そもそも飛行士達がどのように選抜されたのか、そして史上初の宇宙飛行はどのように達成されたのかをまとめ、(10)にて、ディープな裏側をご紹介しました。

今後の展開は、実質、(6)の続きと考えて頂ければ結構です。予定を少しご紹介しますと、

・ソユーズ1号の悲劇のあと、ソユーズ宇宙船は改良が重ねられ、やっと成功に結びつきます。次の回ではその背景をご紹介する予定です。


・旧ソ連は、「宇宙ステーション」に力を入れていました。その宇宙ステーション開発の背景と困難をご紹介します。

・ソユーズ宇宙船がステーションに向けて数多く送られましたが、トラブルも少なくありませんでした。いくつかご紹介します。

・旧ソ連版「アポロ計画」の全容をご紹介。ソ連は計画自体の存在をひた隠しにしてきました。

・旧ソ連版スペースシャトルの開発から初飛行までを描きます。

…と、この辺までを考えています。実のところ、コロリョフ死後の開発史は、例えるなら、諸葛公明亡き後の三国志、のような感じで、興味が急速に薄れてくるのが正直なところです。物語としてみるならば、宇宙開発史は「竜頭蛇尾」ということでしょうか。

90年代には宇宙ステーション「ミール」の活躍(そしてトラブル)がありますが、これはまた別の連載でまとめる予定です。


連載でトラブルや事故の話の類が多いのは、やはり、旧ソ連の発表する「栄光」を支えてきた影、冷戦時代には決して知ることのできなかった部分である故、強い興味を惹かれるからです。

なお、各連載は全体として1つの流れを作っていますが、原則「一話完結」も目指したため、連載をまたいで同じような説明が何度も登場し、くどい部分もあります。「どこから読んでも理解できるように」ということも重視したためそのような格好になってしまいました。この辺、将来は少し纏め直す必要があるかもしれません。これからもよろしくお楽しみ下さい。

【Reference】 どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

Lostcosmonauts.com http://www.lostcosmonauts.com
Encyclopedia Astronautica (C)Mark Wade  http://www.astronautix.com/
Chapter 10: Dead Cosmonauts, “Uncovering Soviet Disasters”, by James Oberg, Random house, New York, 1988
“Sputnik and the Soviet Space Challenge”by Asif A. Siddiqi, University Press of Florida, 2003
“Disasters and Accidents in Manned Spaceflight” by David J. Shayler, Springer Praxis, 2000