サバイバル(3)

文化と価値観が違う上に、個性が強すぎる男達が3人、狭い空間に閉じこめられたらどうなるか…しかもミールは、乗ってみたらガタがきたポンコツの船。クルーらは、本来の実験をしている時間よりも、修理に費やす時間の方が長かった程だ。

今いるクルーは3人。米国人ジェリー・リネンジャーと、2人のロシア人サーシャ・ラズトキンとワシーリ・ツィブリエフであるが、彼らの間に広がる溝は、深まるばかりだった。

茶褐色の髪を短く刈り込んだリネンジャー(写真)は、デトロイト郊外に5人兄弟の1人として育った。彼の家庭はごく普通の、安定した生活であった。両親は子供のためには労を惜しまない人であった。

彼は小さい頃から1人で遊ぶのを好み、他の子供達には決して加わらなかったという。13歳の時、アポロ11号・アームストロング船長が月面に降り立つのを見て、自分も宇宙飛行士になりたいと思った。そんな彼だったが、ハイスクールではテニスと水泳のキャプテンを務めた。卒業する時、何気なく見た海軍士官学校のパンフに書かれていた「君にはできるか」というロゴを目にして応募してみたところ、予想外に最終合格してしまった。

士官学校での彼の成績は優秀で、4番で卒業した。目標はやはりNASAにあり、彼は航空医官課程へ進学し、取れるだけの学位を取った…人も羨む能力。やがて、海軍病院勤務となった。

彼が初めて宇宙飛行士に応募したのは1988年だったが、その時は面接にすら行き着けなかった。90年にもう一度挑戦すると、なんとか候補者リストに載ることはできたが、面接を受けられたのは92年の春だった。だがこれは確かな手応えで、病院へ戻ると、NASAから合格の電話を受け取り、派手な歓声をあげたという。

ところが。これは生来の彼の性格なのだが、頑固なところがあり、しかもそれが強すぎるのだった。同じ米国人飛行士の一人はこう語る

「彼は全くの新米、基本すらなっていなかった。なのに、人の話に耳を傾けない。謙虚でもないし、人から学ぶ力もなさそうだった。ただ、知識は人一倍ありましたがね」

彼は、自分のスキルアップに無駄と思えることは何でも拒んだ。社交の場に姿を見せることも少なく、ロシア人達との共同訓練でも、積極的に交わろうとはしなかった。彼の行動は、自分のためであった。宇宙飛行士になることすら、人生の一過程に過ぎないと考えている節があった…最終目標は、州議会議員だと囁かれたりもした。

また、不満が人一倍強かった。完璧主義の裏返しとも言えるが、これは周囲の眉をひそめさせた。ロシアでの訓練は不満だらけで、飛行士選定の際、医師団に正面から対立したのは彼が初めてだった(サバイバル(1)参照)。また、その主張は派手で一挙一動、まるで役者のようだった…ついたあだ名は「ハリウッド」だった。


2人のロシア人は、寝る時間を過ぎても修理に励む。それが何日も続く。ところがリネンジャーはそれを手伝おうともせず、一人黙々と自分の実験を続ける。彼が体を動かすことといえば、「トレッドミル」というルームランナーにまたがることだった。彼は頭脳のみならず、肉体を鍛えることへの情熱も甚だしく、その使用許可をしょっちゅう求めていた。だが、ロシア人達はそれに応じない。トレッドミルを使うとミール全体が振動する上、船内のエアが急速に汚染されるからだった。酸素発生装置も二酸化炭素除去装置も動作が不安定で、事実、火災が発生したのはその酸素発生装置だった。

手伝わないリネンジャーに苛立つロシア人達は、「彼は真っ先に体を動かすよ。トレッドミル相手ならね」と嫌みを言いあう。それは日を追うごとに大きいものになり、作業にも影響を与えるようになっていた。

彼らが、命がけの共同作業をやることになったら、どうなるか?そして実際、その日を4月21日に迎えた。宇宙服を着込み、ミールの外へ出て、実験資料の設置などの船外活動をしなければならなかったのだ。

ミールの外壁は突起物だらけで、足場は最悪だった。鋭利な突起物に触れようものなら、服に穴が開き、あの世行きだ。しかも、事前にリネンジャーにはそのような障害物の配置といった詳細は教えられておらず、そもそも、彼には船外活動が初めてだった。新米兵士が、いきなり地雷原を歩いていけと言われるのに等しい。

リネンジャーは明らかにビクビクしていた。命綱はつけているが、それが切れはしないか…或いは、手すりが壊れはしないか…無重力だから、綱が切れても落下することはない。だが真空ゆえ、水中のように泳ぐことはできず、船体に戻ることができない。誰かが引き戻さない限り、死が待つのみだ。実際、手すりが壊れたことが昔あったことを彼は知っていたが、それを考えまいと必死だった。

だが、ツィブリエフはそんな彼にかまうことなく、さっさと移動する。ミールは巨大構造物だが、眼下に広がる大きな地球と比べるとちっぽけなものだ。地上350キロ上空で、男が2人、それにへばりつき、必死になっている。見上げれば漆黒の宇宙が広がる。見下ろせば、猛スピードで流れる雲や海、地の風景が目に映る。しかも、気をしっかり持たないと、上下左右の感覚を失ってしまう。リネンジャーは不安と恐怖と怒りと四つに組み、ツィブリエフの後を追う。

彼の任務は、14メートルにも伸びるハシゴ状のアームの先端に掴まり、装置を取りにいくことだった。そしてそのアームを伸ばすのは、ツィブリエフである。だがこのアームがくせ者だった。アマチュア無線家が使うようなマストで、基部のクランクで伸長するものだが、クランクを回すたびにアームが大きく振動し、撓るのだった。

彼はアームにしがみつき、振り落とされないようにするのが精一杯だった(写真)。しかも、より不安だったのは、アームが折れはしないか、ということである。それが伸びるにつれ、撓りも大きくなる。「もう少し右だ」「いや、左だ」彼は指示をツィブリエフに出すが、ツィブリエフもうまく操作できない。「先端に猫がしがみついた長い竹竿を振り回している状態」とでも言えるだろうか。

リネンジャーの傍には太陽電池パネルがあった。そのパネルの縁は鋭利で、彼曰く「カミソリのエッジのようだった」という。大きく左右に振られる彼に、その“カミソリの刃”が迫ってきた!

    「ワシーリ!止めろーっ!!」

彼はついに、大声を発した。それは恐怖と怒りが混濁したものであった。ハッとしたツィブリエフはとっさに止めたが、勢いがついており、あと15センチの所までパネルが迫ったという(NASAのHP(下)にリネンジャーの活動映像がある。アームに掴まり振り回されるその姿は、見ている者をもハラハラさせる)。

(資料:リネンジャーによるレポート・(船外活動に関する報告・開始16秒付近でアームに掴まり、振り回される姿))http://spaceflight.nasa.gov/history/shuttle-mir/multimedia/video/v-043.mpg

彼が、ロシアの船外活動のずさんさを身にしみて痛感したのはだいたいこの時点だという。彼は船内へ戻る際も、ツィブリエフにルートを教えてもらえず、難儀している。なお、この活動中に2人が激しい口論を始め、殴り合い寸前になるところだったと言い伝えられている。彼がツィブリエフのヘルメットを小突いたともいわれる。だが2人ともこれを否定しており、真相はわからないままだ。


リネンジャーに、帰還の時がきた。ミールに来るまでは希望に満ちた、意気揚々とした彼であったが、そんな姿はとうに消え失せていた。ずさんなロシア人と、サポートがいい加減だったNASAの人間達に怒り心頭になっていた。「どんな報告をカマしてやろうか…」そんな事を沸々と考えていた、かもしれない。

5月17日、リネンジャーと交代する飛行士、マイケル・フォールを乗せたスペースシャトル「アトランティス」がミールにドッキングした。ドッキングが完了すると、シャトルの5人がミールに移り、消耗しきった3人と堅い抱擁を交わした。

リネンジャーに至っては、何時間も話し続けた。火災、ニアミス、冷却剤の漏出や船外活動…あらゆる“体験談”を披露し続けた。「彼はとにかく話したかったんです。やっと、英語で話せる相手が身近に来たわけですからね」クルーの1人は後にそう語っている。

5月18日、リネンジャーはアトランティスへ乗り込み、ミールを離れた。「また合衆国の土を踏めて嬉しいよ」彼はそう、NASA管制部に無線で伝えている。その声は、全てから解放された安堵からか、興奮していた。

一方、シャトルは飛行士マイケル・フォールを一人、置いてきた。これから半年間、彼はリネンジャーと同様の生活を強いられることになる…。


フォールは英国空軍のパイロットの息子として生まれた、どこか茶目っ気のある笑顔を持つ男だ(写真)。母親は米国人で、英国へ移住していたが、誕生した息子を米国籍として登録した。フォールが3歳の時、父の仕事の関係でキプロスへ移ったのだが、この引っ越しの際、輸送機の操縦桿を握らせてもらうという体験をし、それがパイロットへの憧れとなった。幼少の頃、口を開けば「夢はパイロット」と飛び出した。

9歳の時、母の実家があるミネソタに行った際、彼は博覧会で、米国人として初めて地球を周回したジョン・グレン飛行士の乗っていた宇宙船を見た。それは強烈な印象を与え、これをきっかけに彼の夢は、まず戦闘機乗りになり、次に宇宙飛行士と決まったのだった。

16歳の時、軍の奨学金を得てケンブリッジ大学へ進学することを考え、軍医の検査を受けたのだが、予想外の事が起きた…視力検査に引っかかってしまったのだ。メガネを必要とする程ではなかったが、パイロットになれないのは確かだった。

ケンブリッジへ進学し、物理学を専攻したフォールだったが、気持ちは明らかに行き場を失っていた。地質か地球物理で何かをしようと考えてはいたが、それは彼にとってパイロット程の魅力があるものではなく、学業もおろそかになり、いつしかパーティやボートレースなどに興じ、外を遊び歩く、普通の大学生になっていた。

大学生活が最後になる年、ふと思い立った彼は再び空軍の視力検査を受けたところ、今度はなんと、パスしてしまった。だが彼は、考え抜いたあげく、入隊を拒否した。NASAの宇宙飛行士になるのに、必ずしもパイロットの資格は必要なくなっていたからである。

彼の夢は息を吹き返した。それまでの姿とは異なり、勉強に打ち込み、物理学修士を取得、更に博士課程へと進んだ。ただ彼のアウトドアな面は相変わらずで、ギリシャ沖に沈む古代遺跡の調査などに参加している。

1981年、NASA派遣団がケンブリッジに立ち寄ったとき、フォールは彼らの何人かと話をし、コネクションを作った。博士課程を修了したらNASAに電話するように言われた彼は、1年後、NASAに現れたが、当時はレーガン政権時代で宇宙開発に吹く風は冷たく(サバイバル(1)参照)、新規採用は停止していた。仕方なく彼はダグラス社でシャトル関連の職を得、それはNASAへの距離を近づけたものの、1983年に受けた飛行士試験の面接では、若すぎるということで不合格になった。2年後、彼は再び臨んだが、またしても不合格となった。

彼の行く手に追い打ちをかけたのは、1986年のチャレンジャー爆発事故だった。当時彼は29歳だったが、その熱い夢はだいぶ冷めていた。混乱し、行き場を失ったNASAを間近で見たのである。

ヒマを利用して彼が打ち込んだのは、ウィンドサーフィンだった。一流のサーファーを目指し、国内外のコンテストに出まくった。日焼けした、引き締まった若々しい肉体と、時に見せるチャーミングな笑顔と青い瞳、英国紳士風のアクセントのおかげで、彼がちょっとしたプレーボーイになるまでそう時間はかからなかった。だが、地元バンドの女性ボーカル、ロンダ・バトラーに出会うと、女の子をチェイスする日々に終止符が打たれた。

初め、彼女は彼に目もくれなかった。だが数週間後、ヒューストンの音楽祭で再び出会ったときは、意気投合した。フォールはバトラーにサーフィンを教え、彼女は彼に、NASAで職を得るきっかけを手伝った。その後すぐ、二人は結婚した。

だが、1987年には、彼はNASAを去る気であった。嫌気がさしたのだろうか…?最後の記念(?)にもう一度、飛行士選抜面接を受けた。そこで、永遠にNASAを去るつもりであり、飛行士になりたいという気持ちもさほど強くないことを語った。普通の会社の入社試験なら、こんな“冷やかし”をしに来た人間をまあ、相手にしないだろう。ところがNASAは、彼こそ欲しかった人材であり、一発で合格を出してしまったのだ!

そのNASAの心は?NASAは早い段階で、宇宙に夢中な志願者に限って、ろくなやつがいないことに気づいていたという…。


彼は飛行士として採用されて程なく、有能で頭のキレがよく、船外活動が大好きな男として評判になっていた。1992年から95年の間に3度もシャトルで飛び、地上勤務の間はサポート関係の部署で精力的に働いた。93年にはミールに乗る飛行士を募集しているという話を耳にしていたが、彼は無視した。ミールに乗る、いや、“住む”ためにはロシアへ行き、訓練を受けねばならない。2人の子供も小さく、家族で移住するのは難しいと考えていたからだった。

だがやがて、彼が選ばれるのではないかという噂が広まり、そのころには彼も観念していた。自身の知らぬところで選考が進んでおり、予想通り、ロシア行きを告げられた…95年10月のことだった。

ロシアでは、彼はリネンジャーと共に訓練を受けていたが、リネンジャーがロシア人相手に苦戦しているのを注意深く観察した。そこで彼が悟ったのは、科学も大切だが、それよりもまず、人間関係を根本的に改めるべきだということだった。つまり、友情を築くべきだと。それまで、ロシア人とうち解けた米国人は、いなかった。

その友情を築く上で最大の壁となったのは、言語だった。彼は米国人が、膨大なロシア語のレッスンを終えた後は、身内の人間と話すのに英語に戻ってしまっていることに気づいた。だがこれでは、折角の苦労が水の泡だ。語学留学しても、母国人とつるんでいたら意味が無いのと同じである。

それで彼は、場所を問わず、できるだけロシア語を操ろうと苦心した。完全なるロシア語漬けを目指し、実践した。また、ロシア人と交流も積極的に行い、ウォッカを共に傾け、ついにはロシア語でジョークも飛び出すようになった。ジョークで笑いが取れるというのは、たいしたものである。母国語でさえ、ジョークのつもりが相手を怒らせたり、傷つけたりするのは我々も経験する。

フォールはまた、ロシアの文化・歴史も学習した。だが、ロシア文化に溶け込もうとした彼が最も嫌いだったのは、皮肉にも、その文化自体だった。学ぶほどに嫌になったという。それは、「男性独裁主義」だった。

この言葉には、幅広い意味が含まれる。ロシアでは、帝政ロシア時代から、脈々と「主従関係」が支配している。簡単に言えば、少数の男性が全てを支配する、という構図だ。農奴封建体制が19世紀まで支配し、20世紀の共産主義も結局、本質は変わらなかった。そしてその“名残”が、宇宙開発にも染み渡っていた。

彼の目には、ロシアの宇宙飛行士達は、管制官に操られる奴隷のように映った。飛行士達は、“ご主人様”である管制官達の指示や許可を得ないと、動くことができない。「自分で考える」という発想が脱落しているように思えた。そこで彼はミール到着後、彼らの思考回路も変えてやろうと思った。ツィブリエフとラズトキンが、自分の頭で考え、行動できるように変わらないか、試そうと思ったのである。ちょっとした“革命”を起こそうかと。

要は、フォールは、リネンジャーとは全く正反対の男だった。


ツィブリエフとラズトキンは、リネンジャーが去ったことで大喜びをしていた。新たにやってきたフォールをどう思っていたかであるが、彼らはフォールがリネンジャーとは異なることに早くから気づいていた。フォールがミールに到着した初日、彼はこう言ったという…「僕がここへ来たのは、僕と一緒にいて楽しい、とみんなに思ってもらうためだ」と。このような性格だったから、彼がロシア人達に受け入れられるようになるまでに、そう時間はかからなかった。

ところで。米国人飛行士の交代とは関係なく、この2人のロシア人を悩ませていたのは、相変わらず続く冷却剤の漏出だった。どこから漏れているのかわからない。ツィブリエフは、知らずに、バスケットボールほどに溜まった冷却剤の中に頭を突っ込んでしまったこともあった。極限まで追い込まれた彼は、地上と交信するたびに怒鳴りつけるようになっていた。関係者の一人は言う…「彼の変わりようにはちょっと驚きましたよ。というのも、ツィブリエフは元々ひどいゴマすり野郎でしたからね。」

無情なことに、この哀れなロシア人達には、更なる任務が与えられていた。それは、ドッキングテストだった。これは、ミールに接舷しているプログレス貨物船を一旦引き離し、“手動で”ミールに近づけ、ドッキングさせるというものだった。

そもそも基本的にロシアの宇宙船は、自動誘導装置でドッキングを行う仕様になっていた。そのドッキング装置を「クールス」システムというのだが、問題は、これを製造しているのがウクライナの企業ということだった。ソ連崩壊後、別国となったウクライナは、クールスの値段をつり上げてきた。だが、ロシアには金がない。

そこで、高価な自動誘導装置に頼らず、手動制御に切り替えようとした。その手動制御装置を「TORU」という(写真)。これは元々クールスが壊れた時のために常備されてはいたが、今後メインに据えることになったのだ。そして、そのテストが、ツィブリエフらに与えられていたのである。

だが、いま彼らに必要なのは、テストではなく休養だった。火災、ニアミス、冷却剤漏洩、徹夜の修理と寝不足、汚染された空気、船外活動、そしてリネンジャーとの軋轢…この半年で押し寄せたストレスを癒す時間が必要だった。

勿論、地上の管制官達も、彼らには休養が必要なことは十分承知していた。しかし、ミッション全体が政治的なものであり、国家としてのポイント稼ぎには何としても完遂する必要がある…管制官達はゴーサインだけを出して、目をつぶった。ミールの2人のロシア人達も、絶望の中で、覚悟を決めるほかなかった。命令には、逆らえない。

しかも驚くことに、NASAは、このドッキングテストの全体像をつかんでいなかった。フォールでさえ、ツィブリエフらがTORUを組み立てるのを見て、何をするのかと問うた程だった。

…そう、大惨事は、約束されたようなものだったのである。(続)

【Reference】 どの資料も詳しくわかりやすく、推薦です!

“Star-Crossed Orbits” by James Oberg, McGraw-Hill, 2002
「ドラゴンフライ」(上)(下)ブライアン・バロウ 著 小林等 訳, 筑摩書房, 2000 (かなりオススメ!)
S.P. Korolev Rocket and Space corporation Energia http://www.energia.ru/english/index.html
NASA Human Spaceflight http://spaceflight.nasa.gov/home/index.html