太陽系第5惑星・木星の周囲を実に14年にわたり周回し、膨大な量の情報をもたらした米国の探査機「ガリレオ」が21日、全ての任務を終了した。そしてその最後は、探査機の運命としては壮絶であった。
木星に関しては70年代のパイオニア、ボイジャー計画でかなりのことがわかっていたが、これらの探査機は惑星を“通りすがる”タイプであったため、長期にわたり恒常的に観察する計画として持ち上がったのがガリレオ計画であった。
1989年、スペースシャトル「アトランティス」から放出され、95年に木星へ到達。そもそももっと早く到着する予定であったが、86年のシャトル「チャレンジャー」の爆発事故の影響を受け、度重なる打ち上げ延期の結果、地球と木星の位置関係の問題で複雑な軌道を採らざるを得ず、結局、6年もかかるロングジャーニーとなった。
しかも、打ち上げ後に地球との交信を担う大型アンテナが展開しないという致命的なトラブルも発生。だがこれを、別の小型アンテナにより交信を確立するべく注がれたエンジニア達の情熱が見事に克服、当初の目論みに反し、耐久年数を大幅に超えた探査を終えることができたのであった(予定のミッションは6年前に終了していたが、その後延長されていた)。(右は周回軌道上の想像図・大型アンテナの傘が開かない状態がよく描かれている)
史上初の試みとしてガリレオ探査機は到着直後、小型の突入機を木星大気へ投入、大気成分を直接探査。また、木星の抱える数多い衛星の精密な調査も行われ、衛星「エウロパ」の地下には莫大な水、言うならば「海」が存在する可能性が高い情報をもたらした。水の存在は、我々の直感的常識から言うならば、生命の存在可能性を示唆する。この結果を受け、将来の木星探査計画にはエウロパの直接探査も提案されている。
ガリレオを今後どうするか、という問題は早い時期から持ち上がっていた。搭載している原子力電池の能力も衰え、科学機器全てを同時に満足に働かせることは難しくなっていた。また、それ以上に、姿勢を制御するガスが底をつきかけていた。ガスが切れると、アンテナを地球に向けることが不可能になる。
当初は木星を周回させたままにしておく案が採られていた。しかしその後、そのまま放置すると将来、エウロパに激突する可能性があることが判明。生命存在の可能性があるエウロパにガリレオが衝突すると、ガリレオに付着しているかもしれない地球の細菌の類がエウロパを"汚染"してしまうかもしれない…そのような懸念が生じたのだった。ちなみに火星に着陸する探査機などは、打ち上げの前に完全殺菌が施される。ガリレオには勿論、そのような殺菌は施されていなかった。エウロパに海があるなど考えもされかったのだ。
結局、研究者達が選んだ案は、木星への“自殺ダイブ”であった。探査機を木星大気へ突っ込ませ、その巨大な重力で押しつぶしてしまうというものである。
21日、米航空宇宙局(NASA)にこれまでこのプロジェクトに関わった関係者が集合し、最後の姿を見守った。可能な観測を最後まで行い、ファイナルシグナルが米東部時間午後3時43分(日本時間22日午前4時43分)、地球に到達、通信が途絶えた。ガリレオからの電波が地球に達するまで約52分かかるため、実際のダイブはその1時間ほど前に起こったことになる。突入時の摩擦熱と圧力で完全に燃え尽き、蒸発したと考えられている。
「素晴らしい成果をあげた任務だった」と記者会見で語るのは、プロジェクトのクラウディア・アレグザンダー部長。関係者は皆、様々な想い胸に感慨にひたっていた。(右はダイブの想像図)【NASA】
※※追加情報※※
<10.20.2009 追加>
☆18日、NASAの木星周回探査機「ガリレオ」が打ち上げ20周年を迎えた。
「ガリレオ」は1989年10月18日(日)、スペースシャトル「アトランティス」(STS−34)に搭載されて、ケネディー宇宙センターから打ち上げられた。この衛星は、人類初の、木星を周回しながらそれを観測するという探査機であった。
(下・ガリレオはブーム部の独立回転が可能な構造になっている。ブーム先には磁力計が取り付けられており、回転は磁場の観測に有利。一方、固定部には突入プローブや撮像系が乗ったプラットフォームが装着されており、高解像度での撮像を可能としている。また、プローブ分離時には機体全体を回転させることでそれにスピンを加え、安定投入を実現する。)
ガリレオはアトランティスが軌道に乗ってから数時間後には貨物室より放出された(下)。打ち上げから7時間後、木星到達軌道へ投入するための固体燃料ロケットが点火され、地球を離脱。ガリレオはもともと1986年にシャトルで打ち上げられ、より強い投入ロケット(セントール)で押し出され、直接木星へ向かうはずだった。だがチャレンジャー爆発事故の影響で遅れが生じ、また、液体燃料のセントールを積むのはリスクが高まるということでそれも変更になった結果、複数の惑星フライバイを繰り返して飛行しなければならなくなった。
ガリレオは打ち上げ後、90年2月10日に金星、同年12月8日地球、92年12月8日地球、のフライバイを経て、木星を目ざした。
なお、最初の地球フライバイの直後、早速、試練に見舞われた。この時展開される予定だった大型ハイゲインアンテナが開かなかったのである。
これは深刻な問題となった。ガリレオにはローゲインアンテナも搭載されているが、地球から離れるにつれ通信レートが低下し、大量のデータが取得できなくのだ。ハイゲインアンテナでは134キロビットでの交信レートに対し、ローゲインではわずか8〜16ビット。これでは十分な観測はできず、失敗同然となってしまう。最悪、交信そのものが不通になってしまうかもしれない。
管制部は探査機のスピンレートをマックスにあげたり、モータのオンオフを繰り返してぶるぶる震わせたり…その数は1万3千を超えたという…を繰り返したが、どうしても開かなかった。この間、展開しない原因が探られ、傘の3本の骨が固着している可能性が高いことが判明した。(下図、左・本来の姿、右・大型アンテナが開かないままの姿)
だが、ここであきらめないのが、エンジニアでありサイエンティストである。交信施設である深宇宙ネットワーク(DSN)のパラボラや受信機の増強が直ちに行われた。通信レートを160ビットまで上げることに成功し、ソフトウェアも変更され、データを圧縮して送るよう仕向けられた。運用の段取りも再構築され、観測と通信のタイミングに工夫が計られた。こうした努力の結果、当初の予定ほどではないにしても、科学的に十分なデータを得ることが可能になったのである。
その旅路の途中にありながら、ガリレオはいくつもの大成果を揚げた。91年10月29日、小惑星「ガスプラ」の横を通過し、そのクローズアップ画像を送ってきた。また93年8月28日には小惑星「イダ」(大きさ15.2キロ)を通過したが、その際撮影された画像には、なんと、衛星が写っていたのだ。これは、小惑星が衛星を持つ事例として初めて確認されたものだった。この衛星は差し渡し1.6キロの大きさで「ダクティル」と名付けられた(下)。
94年7月には、「シューメーカー・レビー彗星」の木星衝突を観測した。この彗星は93年3月に発見されたもので、その後の観測と軌道決定で、木星に捕獲されその周囲を周回する彗星であること、前年7月に潮汐力でバラバラになったことが判明。しかもそれらが、7月16日から22日に木星へ立て続けに激突することが明らかとなった(これに最初に気づいたのが中野主一氏であることは有名)。突入ポイントが地球からみて木星の背中側であったのだが、幸運にもガリレオが、これを直接見ることのできる場所を飛行していたのである。
下がそのインパクトの瞬間を捉えた歴史的なフレームで、2.3秒毎に撮影されたもの。左端の22日午後5時6分12秒(日本時)撮影時はまだ何も見えていないが、次のフレームでは夜側にインパクトが、その次では最大を迎え、最後は弱まっていくのがわかる。
ガリレオは95年12月7日に木星へ到着した。このミッションの最大のハイライトは、木星大気へプローブを投下することだった。切り離されたプローブは秒速48キロで突入し、パラシュートを展開、大気中を降下しながら観測データを送り続けた。必ずしも狙った場所にプローブが投下できたわけではなかったが、木星大気の組成に関するデータを直接取得した、貴重な機会となった。
ガリレオは木星の磁気圏などを観測しつつ、4大衛星も詳しく調査した。イオの活火山は地球の100倍ものスケールで活動していること、それに、表面を氷で覆われた「エウロパ」の地下に海が存在する可能性を示す強い根拠を見出したのは最大の発見だった。この海は表面から100キロの深さのところにあると考えられており、全水量は地球のそれのほぼ倍に匹敵すると予測されている。その上「ガニメデ」や「カリスト」にも、地下海の存在をほのめかすデータが取得された。(下は、イオのTvashtar火山クローズアップ)
加えて、ガニメデに関する最大の発見は、それが磁場を持つということだった。磁場を持つ衛星は、他には存在しない。
ガリレオは木星系に関する膨大な資料を集め、人々を驚愕させる発見を続けた。始めの頃の通信系トラブルはどこへいったやら、当初の予定より6年も長い期間、探査を続けたのである(下・想像図)。
だが、姿勢制御用燃料が残り僅かとなり、その後どうするか検討が行われることになった。ハードウェアは木星の強烈な磁場環境によく耐え、まだまだ元気だったが、燃料がなくなるとアンテナを地球に向けておくことができず、ミッションは終了となる。これをそのまま木星周回軌道に残しておく案もあったが、シミュレーションでそれが将来、4大衛星に衝突する確率がゼロではないことが判明。万一衝突したら、海、ひいては生命体の存在も考えられる環境を汚染しかねない。上層部はガリレオを木星へダイブさせ、圧壊させることを決断した。
打ち上げから14年、2003年9月21日、ガリレオは最後を迎えた。この日はジェット推進研究所(JPL)にそれまでに関係した人々も招かれ、その最後が見届けられた。米太平洋夏時午前11時57分(日本時22日午前3時57分)、ガリレオは秒速48.2キロのスピードで、赤道のやや南側の、地球からは見えないところへ突入していった。
JPLでは最後の信号を、46分後の午後0時43分14秒に受信。詰めかけていた数百の人々が、それに立ち会った。拍手と共に、涙ぐむ人もいた。ガリレオミッションに携わっていた研究員トーレンス・ジョンソン氏は当時、「我々はひとつのスペースクラフトを失ったわけではない。将来へ向けた宇宙探査の足がかりを得たのである」と語った。そして実際、いまも惑星探査は発展を続けている。
詳しくはこちらやこちらへ。ガリレオミッションをまとめたウェブ本はこちら。ミッション終了の特番アーカイブをこちらで見ることができます。【NASA 10.16】